寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
  曙町より(九)

   しらきや
 白木屋の七階食堂で、天ぷらの昼食を食っていた。
 
 隣の席に、七十余りのおばあさんが、これは皿の中のビーフカツ
                                           はし
レツらしいものを、両手に一つずつ持った箸の先で、しきりにつっ
 
ついているが、なかなか思うようにちぎれない。
 
 肉がかたくて、歯のない口では噛めないらしい。
 
 通りがかりの女給を呼んで何か言っている。
 
 そうして、箸で僕の膳の上の天ぷらを指ざし、また自分の皿の上
 
の肉を指ざし、そうして皿をたたきながら何かしら不平を言ってい
 
るようである。
 
 女給は困った顔をして、もじもじしている。
                                                                   え
 僕はすっかり気の毒になって、よっぼど自分の皿の上の一尾の海

老を取ってこの老人の皿の上に献じたいという力強い衝動を感じた
 
が、さてどうもいよいよとなる
 
と、周囲の人に気兼ねして、つい実行の勇気を出しかねた。
                    つえ
 やがて老人は長い杖をついて立ち上がったが、腰は海老のように
 
曲がっていた。
 
 僕はその時なんとなく亡き祖母や母のことを思い出すと同時に、
                                                         いちまつ
食堂の広い窓から流れ込む明るい初夏の空の光の中に、一抹の透明
 
な感傷のただようのを感じた。
 
 食卓の島々の中をくぐつて遠ざかる老人の後ろ姿をながめていた
        き
ら、「樹静かならんとすれど風やまず……」という、あの小学読本
 
で教わった対句がふいと想い出された。
       おわ
   参らせん親は在さぬ新茶哉
 
(昭和七年七月、渋柿)


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