寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
  曙町より(十)

                                              そ ば
 プラタヌスの樹蔭で電車を待っていると、蕎麦の出前を持った若
 
い娘が、電柱に寄せかけてあった自転車を車道へ引き出した。
 
 右の手は出前の盆を高くさし上げたまま、左の手をハンドルにか
 
け、左の足をペダルに掛けて、つっと車を乗り出すと同時にからだ
 
を宙に浮かせ、右脚を軽く上げてサドルに腰をかけようとしたが、
                     ゆかた  すそ
軽い風が水色模様の浴衣の裾を吹いて、その端が危うくサドルに引
 
っかかりそうになった。
           はぎ
 まっ白な脛がちらりと見えた。
 
 女は少しも騒がないで、巧みに車のつりあいを取りながら、静か
 
に右脚をもう一遍地面に下ろした。
 
 そうして、二度目には、ひらりと軽く乗り移ると同時に、車輪は
 
静かにすべるように動きだした。
 
 そうして、電車線路を横切って遠ざかって行った。
 
 ちょっと歌麿の絵を現代化した光景であった。
 
 朱塗りの出前の荷と、浴衣の水色模様は、この木版画を生かすで
 
あろうと思った。
 
 これとは関係のないことであるが、「風流」という言葉の字音が
 
free, frei, francなどと相通ずるのはおもしろいと思う。
 
 実際、風流とは心の自由を意味すると思われるからである。
 
(昭和七年九月、渋柿)


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