寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
  曙町より(十一)

 
 「墨流し」の現象を、分子物理学的の方面から、少しばかり調べ
 
てみていたら、だんだんいろいろのおもしろいことがわかって来た。
                                                         せんぎ
 それで、墨の製法を詳しく知りたくなって、製造元を詮議してみ
 
ると、日本の墨の製造所は、ほとんど全部奈良にあることがわかっ
 
た。
                ちぬ
 一方で、鐘に釁るというシナの故事に、何か物理的の意味はない
 
かという考えから、実験をしてみたいと思って、半鐘の製造所を詮
 
議すると、それがやはり奈良県だということがわかった。
 
 こんなことがわかったころに、ちょうど君は奈良ホテルに泊まっ
 
て鹿の声を開いていたのである。
 
 今年今月は不思議に奈良に縁のある月であった。
 
 奈良へ出かけなければならないことになるかもしれない。
 
(昭和七年十二月、渋柿)


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