寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
  曙町より(十二)

              さんせいどう
 今日神田の三省堂へ立ち寄って、ひやかしているうちに、「性的
 
犯罪考」という本が見当たったので、気まぐれの好奇心から一本を
 
求めた。
 
 それから、暇つぶしに、あの脊の高い書架の長城の城壁の前をぶ
 
らぶら歩いているうちに、「随筆」と札のかかった区劃の前に出た。
                                                                さつま
 脊の低い、丸顔の、かわいい高等学校の生徒が一人、古風な薩摩
がすり
絣の羽織に、同じ絣の着物を着たのが、ひょいと右手を伸ばしたと
 
思って、その指先の行くえを追跡すると、それが一直線に安倍君著
 
「山中雑記」の頭の上に到達した。
 
 おやと思っているうちに、手早く書架からそれを引っこ抜いてか
 
ら、しばらく内容を点検していたが、やがて、それをそっと元の穴
                                             やぶこうじしゅう
へ返した、と思うと、今度は、すぐ左隣の「薮柑子集」を柚き出し
                                                                くうげき
て、これもしばらくページをめくっていたが、やがてまた元の空隙
 
へ押しこんだ。
 
 そうして、次にはそれから少しはなれて、十四、五冊くらいおい
 
た左のほうへと移って行った。
                                            おやじ
 正月の休みに郷里帰省中であったのが、親父からいくらかもらっ
 
て、ややふところを暖かくして出京したばかりらしいから、どちら
 
か一冊ぐらいは買うかな、と思って見ていたが、とうとう失敬して
 
行き過ぎてしまった。
 
 もっとも、あるいはそれからまたもう一遍立ち帰ったかどうか、
 
そこまでは見届けないからわからない。
 
 それはどうでもいいが、とにかく安倍君というものと、自分とい
                                                                  しょう
うものとが、このかわいい学生の謙譲なる購買力の前で、立派な商
ばいがたき
売敵となって対立していた瞬間の光景に、偶然にもめぐり合わせた
 
のであった。
 
 それよりも、もしあの学生が「薮柑子集」を読んだとしたら、そ
 
の内容から自然に想像するであろうと思われる若い昔の薮柑子君の
 
面影と、今ここで、水ばなをすすりながら「性的犯罪考」などをあ
 
さっている年取った現在の自分の姿との対照を考えると、はなはだ
 
滑稽でもあり、また少しさびしくもあった。
                         くさめ
   哲学も科学も寒き嚔哉
 
(昭和八年二月、渋柿)


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