寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
   曙町より(十四)

                                                           ばこ
 三越新館に熱帯魚の展覧会があった。水を入れたガラス函がいく
                                                        も
つも並んでいる。底に少しばかり砂を入れていろいろ藻が植えてあ
                                             しょうよう            めのう
る。よく見ると小さな魚がその藻草の林間を逍遥している。瑪瑙で
                 ぶ                     へき る り
作ったような三分ぐらいの魚もある。碧瑠璃で刻んだようなのもい
 
る。紫水晶でこしらえたようなのもある。それらの小さな魚を注意
      しさい
して仔細に観察していると魚がとりどりに大きく見えて来る。同時
 
にその容器のガラス函の中の空間が大きくなって来て、深い海底の
 
景色が展開される。見ている自分が小さくなってしまって潜水衣を
 
着て水底にもぐっているような気がして来る。
 エンゼルフィッシュ         ひれ
 天使魚という長い鰭をつけた美しい魚がある。これは他の魚に比
                                                           とら
べて大きいので容器が狭すぎて窮屈そうで気の毒である。囚われた
 
天使は悲しそうにしてじっとして動かない。
 
 水槽に鼻をさしつけてのぞいている人間の顔を魚が見たらどんな
 
に見えるであろう。さだめて恐ろしい醜悪な化け物のように見える
 
事であろう。見物人の中には美人もいた。人間の美人の顔が美人の
 
顔が魚の眼にはどう見えるかが問題である。
 
(昭和八年六月、渋柿)


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