寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
  曙町より(十八)

 
 このごろ朝が寒いので床の中で寝たままメリヤスのズボン下をは
 
き、それから、すでに夜じゅう着たきりのシャツの上にもう一枚の
 
シャツを、これも寝たままで着ることを発明して実行している。
 
 今朝はよほど頭が悪かったと見えて、手さぐりで見当をつけてお
 
いたにかかわらず突っ込んだ右の脚はまちがいなくズボン下の左脚
 
にはいっていた。それからシャツを頭から引っかぶってみるとどう
                                ねまき
もぐあいが変である。左の腕は寝衣を脱いでいるが右の腕のほうは
    そで
まだ袖の中にはいっていたのである。
 
 出勤前に洋服に着換えるとき、チョッキのボタンを上から順にか
 
けて行くとおしまいのボタンには相手が見つからなかった。
 
 そんなことでよくお役目がつとまるとある人が感心する。自分も
 
感心する。
 
 しかし、こののろまのおかげで三十年の学窓生活をつづけて来た。
                                       どろぼう     こじき
ものぐさのおかげで大臣にも富豪にも泥坊にも乞食にもならずにす
 
んだのかもしれない。
                                かか
 自分は冬じゅうは半分肺炎に罹りかけている。ちょっとどうかす
 
れば肺炎になりそうである。たった一晩泥坊かせぎに出たらただそ
 
れだけでまいってしまうであろうと思う。泥坊のできる泥坊の健康
 
がうらやましく、大臣になって刑務所へはいるほどの精力がうらや
 
ましく、富豪になって首を釣るほどの活力がうらやましい。
 
(昭和九年二月、渋柿)


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