寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
  曙町より(十九)

 
 映画「カンチェンジュンガ」を見た。芝居気の交じらないきまじ
 
めな実写の編輯は気持ちのいいものである。
 
 インドの山中の山家が日本のによく似ているのをおもしろくもな
 
つかしく思った。それから、目的の山に近づく前に一度深い谷へ降
 
りて行く光景の映写されるのもおもしろかった。
 
 人間の世界を離れた高山に思いがけなく一寸法師の夫婦が子供を
 
一人養っているのを発見して撮影している。これを見たとき「人生
 
の意義」などというものが文明国の人間などになかなかそう簡単に
 
わかるものではないという気がした。
                                                         としょう
 数十頭のヤク牛が重い荷を負わされて雪解けの谿流を徒渉するの
 
を見ていたら妙に悲しくなって来た。牛もクリーも探検隊の人々自
                       しんさん
身もなんのためにこの辛酸を嘗めているかは知らないのである。
 
 まっ自な雪原を横切る隊列の遠望写真を見たときは、人間も虫も
                                                       なだれ
こんな大自然の前にはあまり同等なものと思われた。雪崩の実写は
 
驚嘆すべき見ものであるが山の神様の手からただひとつまみの雪が
 
こぼれただけである。
          かたまり
大きな雲の塊が登山者に追って来るのを見ていたら、その雲が何か
 
ものを言っているような気がして来た。その言っていることがはっ
 
きりわかったような気がしたが、しかし、それはやはり人間の言葉
 
ではどうしても言い現わせないものであった。
 
 ぜひ一遍見て来たまえ。そうしてこの「雲の言葉」を句にしてく
 
れたまえ。
 
(昭和九年四月、渋柿)


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