上田敏「海潮音」
とけい 時鐘 エミイル・ヴェルハアレン
やかた よる いぶか 館の闇の静かなる夜にもなれば訝しや、 かせづゑ おと 廊下のあなた、かたことゝ、鹿杖のおと、杖の音、 はしご こまた きざ おと 「時」の階のあがりおり、小股に刻む音なひは とけい しのびあし これや時鐘の忍足。 がらす ふた うしろ しろめ おもて 硝子の葢の後には、白鑞の面飾なく、 さ 花形模様色褪めて、時の数字もさらぼひぬ。 け た わたどの ろうげつ 人の気絶えし渡殿の影ほのぐらき朧月よ、 とけい これや時鐘の眼の光。 しかけ おと うち沈みたるねび声に機のおもり、音ひねて、 つち やすり ね き はこ 槌に鑢の音もかすれ、言葉悲しき木の函よ、 ほそみ かたこと 細身の秒の指のおと、片言まじりおぼつかな、 とけい これや時鐘の針の声。 かく はこ かし こげちや わく 角なる函は樫づくり、焦茶の色の框はめて、 ひつぎ 冷たき壁に封じたる棺のなかに隠れすむ ろうこつ かずか おと は 「時」の老骨、きしきしと、数噛む音の歯ぎしりや、 とけい これぞ時鐘の恐ろしさ。 とけい げに時鐘こそ不思議なれ。 きぐつ ひ はだし ね ぬす あるは、木履を曳き悩み、あるは徒跣に音を窃み、 まめまめ め 忠々しくも、いそしみて、古く仕ふるはした女か。 はしらどけい み つ はり み しめぎ 柱時鐘を見詰むれば、針のコムパス、身の搾木。 |
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