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第四章 述懐
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不思議なほどに静かさの深かったこの秋の一夜、何かに誘(いざ)われ突き動かされるかのように、母は語り続け、私はそれを聞き続けた。
少し前、妹の祥子(しょうこ)たち夫婦に連れられて神奈川県相模原市の私の宿舎に来た母は、杖をついている自分をもどかしがるように、脚をもつれさせながら、玄関に出迎えた私の手につがりついてきた。
ああ、また生きて来れたんだねえ、また会えたんだねえ、と、私の手を強く握りしめ、胸の底から吐き出すように言った。
その日から、私と母との二人きりの生活、……いや、猫の「マモ」との「三人暮らし」が始まった。
私は、縁あって、相模原市内の百二十床ほどの小さい病院を託されて、病院長として着任していた。
一日の仕事が終わって疲れた身体で宿舎に帰り、母のために大急ぎで夕食の支度はするものの、何の料理を作るという腕があるわけでもなく、ただ、母の好きだったものを思い起こしながら、そしてますます歯のだめになった母の口に合うようにと考えながら、何かしらを作って食べさせるだけだった。
この夜は、何の具も入らない茶碗蒸しを作ったのだが、それがおいしいと言って、めずらしくお代わりをして食べ、少し眠くなったのか、ソファーに横になっていた。そっと掛けてやったタオルケットの足元に、猫の「マモ」が一緒にもぐり込んでいた。
男所帯にオス猫一匹では、まるで絵にもならないのだが、「マモ」という名のこの猫が私の家族になったについては、奇妙な因縁があった。
この三年ほど前、まだ私が埼玉県戸田市の病院に勤務していたある雨の日の夕刻、帰りの車を走らせていた私の耳に、かすかに、猫の鳴き声のようなものが聞こえた。気になって、路傍に車を寄せ、車内を見たり、車の下をのぞきこんで見たが、どこにも猫の姿などは無かった。
やはりそら耳だったかのかなと思って走り出すと、また同じ声が聞こえた。ブレーキでもこすれているのかと、ペダルを踏んだり離したりしてみても、そういう運転の操作とは無関係に、その声は断続的に聞こえ続けた。何となく気になりながらも雨の中を走り通して、一人暮らしをしていたワンルーム・マンションの駐車場に着いた。
車を降りて、玄関の方へ向かおうとした時に、今度は、雨の音にまじりながらもはっきりと、まぎれもなく猫の声がした。やはり車の方からだった。車を見ながら考えていた私は、ふと、一瞬の直感から、ボンネットを上げてみた。そして、エンジン・ルームのわずかなすきまに、泥水にずぶぬれになりながら必死にしがみついている子猫の姿を見出した。まだ生まれてまもないその生命(いのち)は、救い上げた私の手の中で、鳴きながら、寒さと飢えと恐怖で震えていた。
私は、あと先のことは考えもせず、それを部屋に抱いていき、弱々しい力で逆(さか)らうのをおさえながらともかくも浴室のシャワーで体を洗い、ドライヤーで乾かしてから、小皿で牛乳を与えた。
口先をつけてやると、はじめは(おび)えたが、やがてピチャピチャと牛乳をなめ始めた。
ああ、これなら生きられるかもしれないと思って見守りつつ、それにしても、すべり落ちれば間違いなく私の車の車輪にひかれたか、後続の車にひかれたであろうし、そうでなくとも、ファン・べルトにでも巻きこまれれば、一瞬のうちに散ったであろう小さな生命が、奇跡のように今、牛乳を飲んでいるということに、胸を衝(つ)かれる思いがし、その生命を尊く、愛(いと)おしいと思った。
マンションで犬、猫を飼うことは禁じられていたし、私自身、犬、猫を飼った経験も無かったが、牛乳を飲み終え、足温器を底に敷いてやったダンボール箱の中で、バスタオルにくるまって丸くなって眠っているその細く小さな姿を見ていると、不思議な縁によって私に託されたこの生命を、捨てることはできない、と思った。
「マモ」という名を付けたのは、まるで気まぐれからだった。今にも消え入りそうなその小さい生きものを見ているうちに、対照的に巨大な生きものであるマンモスのことを何となく考えたのだった。
マンモスのように大きくなられては困るけれども、生命としては限りなく強くたくましくあれ、と思って私はこの子猫に、「マモ」という名を与えた。「マモ」は元気に育ち、私の「家族」となった。浴室の隅に定めた場所で用を足して他は汚さず、私の帰る足音がすると必ずドアの内側に迎えに出ていて、お帰り、とでも言うように鳴いた。私が手慰みに買ったエレクトーンを弾くと、必ず膝の上に乗ってきて、まるで音楽が好きだとでもいうように、ゴロゴロと喉を鳴らした。言葉は通じても心の通じない人間というものもあるが、言葉は通じなくとも心の通じる動物というものもあるのだな、と私は思った。
その「マモ」は今、一緒に相模原に引っ越してきて、ガランとした院長宿舎の中の小さな生命のぬくもりとなり、朝夕に、玄関で私を送り迎えする家族となっていた。
他人(ひと)が来るとすばやく隠れてしまうのが、母にだけは妙に最初から気を許してなついていた。
昼間、私が出勤すれば一人きりになってしまう母にとっても、「マモ」は気晴らしの相手、そして、他愛のない喧嘩相手にもなっているようだった。今日は、「マモ」が寝ている私の胸の上に乗ったので、苦しいと言ってふるい落としたら、怒って、わざわざ助走して勢いを付けてまたとび乗った、とか、入浴していたら、どうしても開けろと言うので、開けてやったら、入ってきて浴槽の蓋の上にうずくまって、私のしわくちゃのおっぱいをじっと見ていた、などと私に言うのだった。その猫も今、母の足元にもぐりこんで丸くなって寝ていた。
母の姿は、細く、小さかった。もともとは背の低い人ではなく、母の時代にすればむしろ背の高い方だったろう。やや面長の顔立ちに、切れ長の涼しい目もとをしていて、すらりと伸びた首筋の美しい、着物のよく似合う人だった。母の若いころの写真を見ると、自分の母親である身びいきを割り引いても、本当にきれいな人だったのだな、と思えた。
今でも母は、不思議な美しさを感じさせた。それは、腰も曲がった八十六歳という肉体のどこが、というのではなく、母の内なる世界のふくよかさ、みずみずしさが、現れて見える、ということなのかもしれなかった。
今、胎児のように背を丸くしてうたたねをしている母の姿は、静かに安らいでいるようでもあり、また、見る私の心を反映してか、どこか淋しげにも見えた。だが、思いみれば、このかぼそげな肉体が、私たち男には遂にわかりえぬ根源的な生の神秘な力に促されて、その性を真摯に担って生き、七人の子を生み、育てたのだった。
長男の修一郎は、わずかに残った佐々木家の土蔵裏の空き地に、小さな日当たりの悪い家を建てて、一人で暮らしていた。自ら生命を絶った長女を除いて、義姉、知恵子の置いていった二人の男の子たちも、みんなひとり立ちして出ていっていた。修一郎は、数年前に上顎部の腫瘍で大手術をし、顔の左半分をほとんど失って、昔の端正な面立ちを知る者はつい心に痛みを感じるほどに、ゆがんだ顔になっていた。それでも、年とともに穏やかな心を取り戻し、代々縁の深かった長福寺の宗務の手伝いをしたり、近辺の曹洞宗の教区の世話係をしたりしていた。
次男の修二郎は、東京の小平市で、すでに明治商事を定年退職して暮らしていた。子供らも自立していたし、年金を貯えては、義姉とふたりで仲むつまじく年に一、二度の旅行を楽しんだりしていた。
長女の桂子は、郷里の水原町の隣りの安田町の嫁ぎ先で、夫と息子がガソリン・スタンドを営むかたわらで、自分は小さな雑貨屋をやっていた。その昔、祥子が、小学校、中学校と子守りにいった子供たちは、みんなつつがなく成人し、それぞれに家庭を持っていた。
私たち、松井のきょうだい四人も、それぞれに、それぞれの道を歩んでいた。
ただ、私だけは、兄、英夫との絶縁を通して、故郷への思いも絶ち切っていたし、新しく伴侶を求めて生きる生活ももはやないものと思い定めて生きていた。私は、その後の歳月の中で、少しずつ、英夫を「裁く」気持からは遠のいてきていた。それは、決して、許す、ということではなかった。兄はなしたことに対して、決して許されるべきではなかったし、今なお、裁かれるべき者だった。ただ、この私がどんなに深く傷ついたにしても、許す、許さないを言う人、裁く人は、私ではなかった。それは、死んでいった姪のあの子であり、また、かつてともに大学の闘争を闘い、ともに生きてくれたあの人であるべきだった。
もはや、身を寄せあって生きる歳でもお互いになかった。多少の反発や、小さな争いをきずなまじえながらも、七人のきょうだいたちは、ただ一点、母との絆だけは失わないでいた。
子供らがそれを保ち続けた、とは言いがたい。しかし、母は、どの子への愛も決して失うことが無かった。どの子をも、差別なく愛し続けてきた。
ただひとり、この家族の最後の絆をも捨てて去った者がいた。父、史郎だった。史郎は、母を捨てて、「第二の」人生を思うように生きる、と宣言して水原の家を出ていった。埼玉県蕨市のマンションで暮らしていた。経済的には、教職にあった期間が極めて長かったから、公務員共済の高額の年金を得ていて、部屋代を払っても楽に暮らしていけるはずではあった。
数ケ月前、父、史郎は、私の所を訪れていた。自分が、今回、家を出るに至った経緯の説明にきたのだった。自分が、英夫からどのように暴力的迫害を受け、「母とともに」苦しんできたかということだけを縷縷(るる)説明した。そして、とってつけたように、母にも、自分が居なくなっては嫁の佳代子にどんな迫害を受けるかもしれないから一緒に出ようと「説得した」が、母にはためらいがあって、やむをえず自分ひとりが出たのだ、と涙ながらに言った。
これが彼の常套(じょうとう)の弁論だった。どこにも自分の非は無かった。そもそもの今回の騒ぎの発端にあった、露見(ろけん)した自分の女性関係のことにはみじんも触れなかった。何も知らぬ他人なら、ほろりとさせられるかもしれなかった。しかし、私はすべてを知っていた。他人の暴力を責めるなら、自分が母や子供に加えてきた暴力への反省がなければならないはずであった。「母とともに」苦しんできたの、母を「説得した」のとは、よくも言える。そんな、そら涙なんか人を侮辱するものだ、という憤りの方がむしろ私の中では強まった。
私は、しかし、どうしても言わなければならないと思うことだけを言った。……
なるほど、英夫とは「喧嘩」したかもしれない。しかし、私とは別に喧嘩はしていない。長男に出ていけと言われて、途方にくれたというのであれば、家をでる前に私に相談にくるべきだろうし、たとえ身ひとつででも、私の所を頼ってくるのが自然ではないか。それもせず、手ぎわよく先に蕨にマンションを借りておいてから、その事後報告にきたということは、初めから私の所へ来るという考えは無かったということだ。
あなたは、はるか昔から母さんを捨て続けてきていた。好き放題のことをしたいあなたにとって、母さんの持っていた「物」に用はあっても、母さんそのものは、重荷であり、桎梏(しっこく)だった。いつでも、母さんから逃れる道はないかと考えていた。母さんだけではない、家族のすべてが、自分の欲望を制約するしがらみだったのだろう。
今、英夫を怒らせて、出ていけと言わせた。こう言われる日を、あなたは待っていたはずだ。そして母さんに、ほんの義理の口先だけの誘いをかけて、断らせる「形」を作った。これも計算ずみだったはずだ。 こうしてあなたは、長男には出ていけと言われた、女房はついてこなかった、それに私のことまでおまけに付けて、次男にも理解されず寄せてもらえない、悲しい孤独な老人でございます、という虚飾を身にまとって、世間の同情や憐れみを引き出し、利用しつつ生きていこうというのだろう。
しかし、私は知っている、あなたが、「この時を待っていた」ということを。……私は、かならずしも、もうそのことを責めもしない。ただ、正直になれ、と言っているのだ。九つも歳上の身体も不自由になった女房を持って、男として満たされぬものもあったかもしれないと、私は医者だから、思いやることもできる。そうしたことも含めて、つかのまでも一人で生きたいというのであれば、認めてやることもできる。親ではあるのだから、骨も拾いもしよう。しかし、……意に反してこうなった、私は泣き泣きこんな生活を強いられているなどという嘘を言うことは断じて許さない。
あなたは、一人になりたかったはずだ。その一点だけは正直に言うべきだ、と私は迫った。
彼は答えた。すべて、お前の考えている通りだ、と。……
この「正直な告白」を、私は喜ぶことも、悲しむこともできなかった。これもまた、ひとつの居直りでしかなかった。「段取り」としてすまさなければならなかった私との面談を「無事に」すませて、軽い表情で帰っていく彼の姿を、奇妙に疎遠(そえん)な見知らぬ人間、遂に私の心では理解しきれなかった得体(えたい)の知れぬ何ものかであるように、寒々とした気持で私は見送ったのだった。
そして今、その男を夫として五十余年を添うてきた女性、母が、そこに寝ていた。どうしても今一度、利夫の所へ行くのだと言って、妹夫婦に車に乗せてもらい、横になりながら、四百キロの道を耐えて、私の所にたどりついたのだった。
伴侶も無く、あたたかく包んでやれる家庭も無く、昼間は置き去りにして出ていく私の、所へ、それでもいいと来てくれて、武骨な男が作った具も入らぬ茶碗蒸しを喜んで食べてくれて、今、ひたいに白い髪をほつれさせ、左手の親指の爪をかむように口にくわえながら、うとうとと眠っているのだった。
私がもの心ついた頃から、母は、いつでもこの爪をかんでいた。それは、言葉として吐き出せない心の葛藤(かっとう)のしるしだった。親指の爪は、まともに生えていたことが無かった。
それは、母の苦しみや悲しみの絶える時が無かったということに他ならなかった。今、うとうとと眠りながらもまた指をくわえている母に、私は、心の中で呼びかけた。――母さん、まだ吐き出し切れぬ心の苦しみがありますか。何か言いたいことがありますか。こんな私でもよかったら、何でも話して下さい。何時間でも、何日でも、聞き続けましょう。あなたの苦しみや悲しみのすべてをわかち持つには、私自身が、あなたとともに、あなたの八十六年の人生を生き直してみるほかありません。けれども、それはしたくてもできません。ただ、私にできることは、あなたが与えてくれた、この、あなたに共鳴する心において、あなたの言葉を聞き、それが意味するものを考えながら生きていくことだけです。あなたの生命を分け与えられて生まれた私には、あなたの歩んだ生の是非も善悪も美醜も、論ずることはできません。ただ私は、ひと言だけは言いたい。母さん、私を生んでくれてありがとう、と。……
幼い時から、不思議に思うほどいろいろのことを、あなたは私に語ってきてくれました。けれども、もっともっと、聞いて置かなくてはならないことがあるような気がします。それは、あなたのすべてを自分の中に引き継ぎ、とどめたい、という私の身勝手で欲張りな願いなのかもしれません。母さん、それとも、あなたはもう疲れて、眠りたいだけですか。眠る場所を求めて、四百キロの旅をして、私のもとへ来たのですか。それならば、どうぞ、私の腕の中で安らかに眠って下さい。あなたの、いつかは来る最後の眠りを、私の腕の中に抱き止めて上げるためにも私は医者になり、医者であり続けてきたのですから。……
私は、小声で呼んだ、母さん、と。
母は目覚め、細い、静脈の浮き出た腕で身を支えて起き上がり、私を見て、微笑んだ。
私は、母の湯のみをあけ、新しい焙(ほう)じ茶を入れながら、言った。母さん、何か、お話しますか、と。母は、そうだねえ、と微笑みながら答えた。
この夜、母は、不思議な生命の力をどこからか汲み上げながら、多くのことを語った。
時折、言葉をとぎれさせて、心の中をまさぐるような遠い目をしながら、近い過去、遠い過去、そして現在へと、時の旅人の如くに、また語り部(かたりべ)の如くに、たゆたい流れながら語った。
母は、未明近くまで話し、さすがに横になったりもしたが、信じがたいほどに明晰(めいせき)で深い思念(しねん)を保ち続けた。初めは、数週前に訪ねて来た父、史郎のことを語り始めた私だったが、次第に、ただひたすらに、聞く者となった。長い沈黙が時々あったが、私はその沈黙にも身をゆだねていた。何の焦りも苛立ちも無かった。私もまた、その沈黙の静寂の中で、私自身の思いの歩みを続けていた。合流しては分流し、また合流しつつ流れていく川のように、私の思いと母の思いとは、やわらかにもつれあいながら、長い生の川をともに流れ下っていった。
この夜の母の言葉と心のすべてを書き尽くす力は、もとより私には無い。ただ、思い起こすままに、思い起こせる限りのことを、ここに書き綴ろうと思う。私の心の中に建てられた。母の墓への、墓碑銘として……。
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あの人のことでは、心配かけて申し訳なかったねえ。蕨で家を借りたその足でここへ来たそうだけど、私は、あの人には、お前の所には行くなど、言って置いたんだよ。
あの人は、何ごとについても、人さまに言う時は、自分に都合のいいようにしか言わない人で、自分の立場を良くするためなら、そして、自分に同情や憐れみをかけてもらうためなら、いくらでも人の悪口は言うし、上手にそら涙も流す人なんだ。
お前だって長年見てきて、それはようわかっているだろうけれども、お前が優しい子だけに、あの人が来て、英夫にこうされた、こう言われたとだけ言えば、お前がまた英夫に腹を立てることになる。今でも、きょうだいでありながら、行ききの無いような状態になっているのに、この上、お前さんの言葉で、きょうだいの中を裂くようなことを言ったら、私は死んでも許さんからね、と釘(くぎ)を刺して送り出したんだよ。それでもやっぱり来て、自分にいいことだけしか言っていかなかったわけだねえ。……
だけど、私は安心した。お前はよう真実を見抜いて、条理を正して言うてくれた。父親を子供が信じなくて良かったなんて、母親の言うことではない。けれども、あの人のことは、もう私にはいいの。ただ私は、お前と英夫がこれ以上遠くならず、私の生きているうちに、また会って笑える日のくるようにと、朝にも晩にも、神様、仏様にお祈りしてきていた。
私は、何としても、もう一度お前の所に来るつもりだった。そのために、まだ死んではならんと思ったし、石にかじりついてでも、動ける身体にならなければ、と思ってきた。
お前の優しさやまじめさが、お前を幸せにすることにつながらないで、淋しそうに生きていることが、私の心に懸かり、心残りになっていた。
修一郎もまあ淋しかろうけれども、結局は知恵子さんの籍も離さずにきて、時々は会ってもいる様子だし、これはお前とは違う。お前は決して淋しいとは口にしないできたし、器用でまめな子だから、食事ひとつ、洗濯ひとつ、縫いものひとつでも、別に女手が無くたってやっていける子だ。だけど、心の中は、どんなだろうと思うとね、寝ていても胸が苦しくなって、手紙でも書こうかと便菱を取り出しても、手も震えるばかりだし、何をどう書いていいかもわからない。結局は、またいつ会えるかとそれだけを励みにして生きている、なんて書いて、かえってお前に責任を感じさせてしまっていた。
ただ、歳をとるとね。何だか明日という日が本当にあるのかどうか、心もとなくなってしまってね、まして、一週間、一ケ月、一年先なんてものは、まるで自信がない。だから、どうしてもすぐにもお前に会いたいって、思いつめていたんだよ。
でも不思議なもので、今は、ああ本当に利夫の所に来ているんだと思うと、それまで遠くにいて胸を苦しくして考え悩んでいたことが、何でもないことだったような気がしてね、何も話さなくとも、二人で一緒にテレビの時代劇を見ているだけで、ああこれでいいんだって思ってしまう。
昼間だって淋しくはないよ。マモがおなかをすかして帰ってくれば、何か作ってやりながら、何かしらしゃべっているのも楽しみのうちだし、たまには、「マモ」と一緒に外にも出てみるの。今日なんか、そこのスーパーの見える角まで杖をついて、ゆっくりゆっくり散歩に行ってこれた。マモがおともについてきて、おばあちゃま、足元に気をつけなさい、って言うみたいに私の顔をみて、ニャー、ニャーと言う。本当にいい子だね、この子は。寝てる私のおなかの上に乗ってくるのだけは困るけど……。
あの人は、女のことは何も言わなかったそうだけれど、そんな話は、祥子からでも聞いて知っているだろうし、私ももう、そんなことはどうでもよくなってきてはいる。昼でも夜でも、その女の家のまわりをうろついて、裏へまわって窓ガラスを叩いて名を呼んだりして、下条(げじょう)あたりの衆は、みんなとうに知っていたらしいが、私も、英夫も、家の者だけは誰も知らなかったねえ。
あの人が家を出てから、誰かれが私の見舞いにきてくれては、いや、お前さまはとうに承知していなさるものだとばかり思っていた、と言われるんだが、本当に何も知らなかった。
知っていると思っていた、と言われるのも妙なものだったわねえ。知っていれば普通は止めさせるでしょう。それを知っていて止めさせないということは、……だって、そういうことになるでしょう、……私が歳をとって、もうあの人の相手もできない負い目から黙認していたということになるのかねえ。
私は、あの人がどうであろうといいけれども、また、私がどう思われ笑われてもいいけれども、ただ、他人(ひと)さまの迷惑になり、家の若い者たちが笑いものになることだけはしてもらいたくなかった。それをやったんだもの、英夫が怒るのも当たり前なんだよ。
英夫にしたってね、ただ自分たちが恥をかいたというので怒ったんではない。お前さんに本当に思う人ができ、またその人も思うてくれて、忍びあっていたとしても、そこ本当の情愛が見えるならば、何も言わない。けれどもこんなふうに、相手がいやがって隠れたり逃げたりしているものを、追いかけまわして、やれ車の中だの、倉庫の中たので関係を持って、あげくの果てには、病気を感染(うつ)されたの何のと情けない投書をされるはめになる。この、何とも言えない、薄汚(うすぎたな)さがいやなんだ。愛情のあたたかみが感じられないで、「関係」だけがあるから、救われないんだ。そう言って怒ったんだよ。
それを素直に、人間として間違っていたと反省するでもなく、話をすりかえて、六百万円出せば出ていく、ってなったのには、私も驚いたねえ。出ていきたくないための屁理屈(へりくつ)かと思っていたら違う、それだけくれるんなら出ていく、って言うんだもの。
私は、ああ、そうだったのか、これは本当にもう駄目だな、と思った。この人にとっては、この歳になっても、色と金と欲がすべてだ、私らの心とはあまりにも違う、と思った。
英夫は、自分だけで出ていけ、母さんを連れていくことは許さん、と言ったけれども、私も、もう沢山だ、言われるまでもなく、この人にはもう付いていくことは無い、と思っていた。
何も今度の女のことだけではないの。あまりにも人のことを利用し、踏みにじっておきながら、何も考えない心もいやだし、恩ある人たちに、今、自分が何がしかのゆとりある立場になったからといって見下す態度もいや、私に対する態度でも、犬、猫に対する態度でも、他人が見ている時と見ていない時とではまるで違う、この裏表てを使いわける心もいや、嘘に嘘を平気で重ねて結局は立ちゆかなくなれば、反省するどころか居直る根性もいや、……みんなみんな、私はもういやなの。
私は、今になって思いだす。死んだ父様(ととさま)が私に、おりょう、お前は誰と一緒になってもいいが、この男だけはやめてくれ、と言いなさったこと。……父様(ととさま)には、見えていたんだ。私にも、もう見えてはいた。けれども、私はもう深い関係になっていて、房子をみごもっていた。……
それでも私は、悔いているんではないよ。父様(ととさま)や母様(かかさま)、そして修一郎たち三人の子供にも、佐々木の家にも、申し訳ないことをしたとは思い続けているけれども、それでも、この道を歩いてきて、お前たち四人の子供の生命(いのち)というものを授かった。どの子もみんな一度は死にかけたけれども、人さまの助け、そして神仏の助けで生きさせていただいた。このことを私は天に感謝しているし、お前たち一人一人に対しても大きな誇りを持っている。このために、私のこのかぼそい身体(からだ)というものの役目があったんだと思っている。だから、自分の定めというものを恨(うら)んだりしては罰(ばち)があたる。
私はね、今、悲しかったことは全部忘れようとしているんだよ。つらいつらいと思って生きてきたけれど、私は、本当は幸せだったんだ、と思おうとしている。
あの人が私を置いて出ていった日、私は自分の心の置き所を変えたんだよ。そうしたら、それまで見えなかったものが見えてきた。見えてきたのは幸せだけじゃない、隠れていた不幸せも一緒に見えてきた。ただ違うのは、今まで見えていたのは自分の不幸せだけだったけれど、今度は他人(ひと)さまの不幸せも一緒に見えるようになってきた、ということかねえ。
考えてみれば、私の心の中では、あの人との最後の絆も、もう五、六年も前に切れていた気がする。
あれは……お前と蕨で暮らして、もう一度やり直してみようということで水原へ帰ってまもなくのことだった。台所で食事をしていて、何かの拍子に私の椅子がドーンとうしろへ倒れて、息が止まるほど強く腰を打った。さあそれからは、息をしても痛いほどで、這うことさえままならず、足はぶらぶらになり、便所へ行くこともできなくなってしまった。
英夫は、打ち身だから湿布して寝てろとしか言わないけれど、それでもお前が、祥子を通して、入院してレントゲンの検査を受けさせる、きっと腰の骨が折れているって言ってくれて、英夫の知り合いが勤めている村松の病院の整形外科に入院させてもらった。結局、診断はお前の言う通りで、腰の骨が二つ、つぶれてしまっている。手術はできない、歳だから仕方がない、と医者は言う。仕方がないといって寝かされているだけなら、病院にいても意味がないと思って、私は、寝台車で運んでもらって水原に帰ってきた。
寝ている部屋のすぐ外の廊下に便器を置いてもらったんだけれど、ベッドから起き上がることが、あまりの痛さに思わず悲鳴が出るほどで、これができない。それであの人に、すみませんが起こして下さい、頼みます、って言うんだけれど、まあそのたびに鬼のような顔になって、「こんなに起こされてばっかりでは、俺の方が先に死んじまう!」って怒鳴(どな)るんだ。私は悲しくて、あの人が寝たあと、薄明かりの中で、障子戸の上の梁(はり)を見ながら、ああ、あそこに腰ひもをかければ首をくくって楽になれる、って思った。
でもそうしたくても、それすらできるような身体じゃない。死ぬこともままならない。医者は治らないと言う。あの人は、自分の方が先に死にそうだって言う。それは裏返せば、お前の方が先に死ぬべきだ、と言っていることだ。ああ、どこにも何の助けも無い、、と、そう思った時に、何だか訳も知らず、無性にお前に会いたくなった。そうだ、もう一度あの子に会おう、会うまでは死んでなるものか、と思った。
それからだった。私は考えた。誰の助けも無いと思えばいい、どんなに痛くても、人間は痛みだけで死にはしないだろう、今日、ただ今から、私は、誰の助けも借りず、石にかじりついてでも、歩いてみせる、ってね。
そしてその日から、私はそうした。あまりの痛さに、だらだらと冷や汗が出て、思わず呻(うめ)いてしまうのを、歯をくいしばって耐えて、自分で起き、杖にすがって歩いた。気絶しそうにつらかった。どんな形相(ぎょうそう)をしていたことだろうね。
あの人は、そうなれば、自分がちゃんと看病していないっていうことになって、英夫らの手前、具合が悪い。そういう裏表てのある人だから、昼間の人目(ひとめ)のある時は、母ちゃん大丈夫か、なんて猫なで声を出していて、夜になれば、俺のことを殺す気かって怒鳴る人なんだ。そんな手前の都合なんか知ったことかと思って、私は、昼間でも、あの人の手を振り払って歩いた。毎日、昼も夜も、そうやって必死に歩いた。それでやっと、何とか便所まで歩けるようになり、とうとう誰の助けも借りずに風呂にも入れるようになった。
あの時、私は、改めてあの人の心の底の底まで見てしまって、私の生きていることがもう邪魔ではあっても、何も他には無いんだと思って、それからは、髪の毛ひとすじでも頼りにはすまいと思って生きてきた。
だから、今度出ていく時でも、まるでお義理みたいに、お前も行くか、と言われたことに対して、行かない、とはっきり言ったし、それだけじゃない、私もお前と同じことを言ったんだ。
「お前さんは、私という人間と一緒になって生きてきた人生を、大損(おおぞん)したように思っているんでしょう。これからは、自分ひとりで、座布団の上にあぐらをかいて、誰からも干渉されず好きなようにしたいと思っているんでしょう」ってね。そうしたら、そうだ、その通りだ、って言ったよ。だからね、私も、心ではもうとうに終わっていたんだろうが、今度こそは本当の別れなんだな、ってはっきりと思い定めた。
引っ越しの時も、修一郎が、日が決まったらいつでも手伝うからね、っそ言っていたのに、何にも言わず、もう出るばかりになったから、私が修一郎に電話して、ほら父ちゃんが出立(しゅったつ)するよって言ったら、びっくりしてとんできた。恥ずかしげもなくみんなから餞別(せんべつ)なんかもらって、その上、もらうものさえもらえば、もう用はない、別れの挨拶もしないで行こうとする人間なんだ。
それでも出る時に、私に三万円よこしたね。ほら、これ、ってね。私は言ったの、ふうん、これは手切れ金かねえ、って。……手切れ金、たしかに三万円もらいましたよ、って言った。
修一郎には、ほらこれをお前に、って何か新聞紙に包んだものをくれて出ていった。あとで開けてみたら……何とね、さんざん着古して色の変わった半袖シャツ二枚と、はき古しのパンツ三枚。新しいのじゃないの、自分が捨てようと思ったのを修一郎にくれてやる、って置いていったの。……何にも置いていかない方が、まだ人間の心があるっていうものだね。
しかし、女の業(ごう)と言うんだろうか、あの人が、蕨で暮らすって言った時に、私はあんまりいい気持がしなかった。この男はもう自分には縁のない人問だ、どこで暮らそうと、誰とどうなろうと、もう私にはかかわりの無いことだ、そう思っているはずなのに、いい気がしなかった。
お前と蕨で暮らしたわずかの間なんだけど、あの人と、近くの八百屋の衆というのには、何だか異様に思えるような関係があった。ともかくあの人は、八百屋、八百屋と言って、毎日毎日、朝から晩まで入りびたりだったんだ。お前が帰ってくる頃合いには帰ってきていて、一日中私のお守りをしていたような顔をしていたけれどね。
八百屋のおかみのことを、まあ、ほめるほめる、まったく変な気がしてくるほど、気に入ってほめていたね。一度なんか、いやあのおかみはともかく器用で、座布団の洗濯なんか、見ているまにするから、この俺の座布団、洗ってもらってくる、なんて言うから、私もさすがに腹が立って、どこに自分の座布団を他人の女房に洗わせる者があろう、私にしろと言えば私がする、それは昔のようには身体がきかないから、見ているまになんかにはできないかもしれないけれど、よそへ持っていくなんてことはやめてくれ、とそう言っているのに、さっさと持っていってしまった。そうして、それをはがして、洗って、乾かして、また綿を入れて、できあがるまでそこの家にいて帰ってきたんだよ。それで、いや本当に手が早い、器用なもんだ、ってほめちぎっているから、目の前にいる古女房は、もう、ぶっこわれた人形みたいなものかもしれないが、それでもまだ女の心のかけらを持っている、それもわからないんだなあ、って悲しかったけれど、何も言わなかった。そうしたら何と、今度は、お前の座布団も洗ってもらってきてやる、って言うから、とんでもない、やめてくれ、って言うのに、私の見ていぬすきに持ち出して、洗わせてきたんだよ。あの時は、腹が立って、あきれて、……二度と、その座布団には座らなかった。
それに、やっぱり蕨にいる時に、一度、修二郎が迎えにきてくれて、私たち二人を小平(こだいら)の家に連れていったことがあったでしょう。あの時、あの人が、ああ、ちょっと停めてくれ、って言ったの。見たら、そこが八百屋だ。ああ、ここがいつも来ている八百屋なんだな、と思って見ていたら、あの人が、窓を開けて、おーい、おーい、って呼んでいるの。
何で呼んでいるんだろ、って思って見ていたら、出てきた八百屋の主人に、俺たちはこれから小平へ行ってくるから、なんて言っている。別に、家の留守番を頼む必要があるわけでもなし、何をわざわざ呼び出して余計なことを言っているんだろうと思ったけれど、私は、いつもお世話になっていまして、と頭を下げたよ。そうしたら、挨拶も返さないで、私のことをじろじろと見て、あの人に、おい、喧嘩しねえでいけばいいぜ、喧嘩しねえで、って言った。それで私は、むかっと腹が立ったの。礼儀知らずはさておいても、いきなり、喧嘩しないでいけ、とは何ごとだ、と思ってね。何も今、喧嘩しているわけでもなし、何なんだ、ってね。これは、あの人がいつも来ては、私のことを悪く言って、いや喧嘩が絶えないの何のって言っているんだなあ、と思って、本当によそへ行っては家族や身内のことを良く言わない人なんだって、勿論あの人には腹が立ったけど、八百屋にも腹が立ったの。
そんなふうに私たちのことを悪く言いながら、あの頃からべたべたと出入りしていた家だし、私には何とも肌が合わない人たちだったから、八百屋の建てたマンションに入るって言われた時に、あまりいい気持はしなかったんだよ。
しかしまあ、もう関係ない、と自分に言い聞かせて、それについては何も言わなかった。ただね、座布団の上にあぐらをかいて暮らしていくって、居直って言うからね、今まで人のふところばっかり当てにして暮らしてきたくせに、と私は思ってね、どこまでそうやって暮らしていけるもんかね、見ているよ、とは言った。
房子は、今度のことでも、何かとあの人をかばうようなことを最後まで言っていたね。
あの人に出ていかれたら一番困るのは私のはずだ、本当にそれでいいのか、止めないのか、ってまあしつこいほど繰り返し聞いていたね。まるで、私の心ひとつであのひとの出ていく、いかないが決まる、出ていかせるのは私だ、みたいな言い方だったね。でも、何度聞かれても、私は、困らない、出ていっていい、と答えたよ、助けだの、困るだのというのは、もう五、六年も前の、あの動けなくなっていた日々の苦しみの中で終わった話だよ。
実際、あの人が出ていってから、私は、心の中が本当にさっぱりとしてしまった。どこへ行ってきたの、って何の気もなく聞いても怒り声を出す人だった。もうその怒り声も聞かなくていいし、風呂もゆっくり入れるし、本当に胸のつかえがすうっと取れて、私は、さっぱりとした気持になったんだよ。実際、あの人のいる時は、風呂ひとつゆっくり入っていられなかった。風呂に入っていても、いつ英夫とのいさかいの声が聞こえてくるかと思って外の音が気になって、びくびくしながらいたんだよ。英夫もまた、私が席をはずした時に限って始めるんだもの。……
その英夫も、あの人がいなくなってからは、段々に気持もしずまって、穏やかになってね、私の部屋にふらっと来ては、何やかやと話をするようになった。
「母さんは、本当に、何十年もの間、おやじの盾として利用されて来たんだね。あの男はいつでも母さんを楯(たて)にしておいて、その蔭(かげ)で、母さんをも家族をも裏切るようなことばかりしてきたんだ。でも、もうこれっきり利用されちゃいけないよ」
って言ってね。
佳代子さんも気持が変わったね。まあ、あの人も佳代子さんのことは、本当に悪く言い続けてきたし、英夫とあの人の争いになれば、佳代子さんも亭主の見方に立って見るのは当たり前だ。私は、別に、あの人が正しいなんて思うことは無かったけれども、英夫が暴力をふるうことは、やっぱり人間としていやだったし、それに、追いつめられれば、あの人は、刃物でも金槌(かなづち)でも振りまわす人だ。私は、どうしても、止めに入る。それが、あの人の味方をするように見えていたのかねえ。あの人をは憎かったんだろうし、私にも冷たかった。ご飯ができても言ってもこず、お風呂にどうぞとも言わず、自分たちだけでさっさと風呂にも入り、……ひとつ屋根の下で暮らしていながら、家族どころか、敵みたいな気持になっていたね。
それが、あの人がいなくなってからは、食事にも呼んでくれるし、一緒にお茶でもどうですか、とも言ってくれるし、その上、何よりもうれしいことに、私の部屋の床の間(とこのま)に、花を活(い)けてくれるようになった。私が花好きなのは知っていても、何年も、花を活けてくれることなんて無くなっていたんだよ。
私はね、佳代子さんに何も害を為した覚えは無い。それなのに、あの人を憎むのはわからんでもないけれど、何で私にまでこんなに冷たくするんだろうと、悲しかったことは沢山あるね。親たちがそういう気持で、そういう態度で接していれば、子供もそういう心になる。英夫の子らに「婆(ばば)あは、早く死んでしまえばいいんだ」って言われた時には、ああ、この子らは深い考えもなしに親の心を真似して言っているだけなんだ、こだわるまいぞ、と自分に言い聞かせたけれど、そういう言葉を子供にまで口にさせるようになってしまった親たちの心のありようが悲しかったね。
でも、私は、毎日毎日、自分で自分に言い聞かせていた。愛されないのは、自分の愛し方が足りないからなんだ。愛されたいと思うのなら、まず自分が愛さなくては駄目なんだ、ってね。
だから私は、どんなに冷たくされても、朝、目が覚めると、昨日のことはみんな忘れて、今日は今日の新しい気持で生きなくてはいけない、と思って、顔を合わせれば、お早ようと、笑顔で挨拶していた。返事をしてくれなくてもいい、私は、挨拶することをやめなかった。そうしていれば、いつかまた、心の通じ合う日も来るだろうと思い続けていた。
でも、時々、ふうっと淋しくなってね、その日のこないままに私の生命(いのち)は終わるのかもしれない、と思うこともあったよ。
私はね、この頃、不思議なほど、たびたび母様(かかさま)の姿を見るの。それがねえ、とってもはっきりしていてねえ。特に、ここのお前の所へ来てからは、毎日のように、母様の夢を見たり、昼間でも、ふっとその辺に座っていなさる姿が見えたりする。でもね、とっても穏やかな笑顔をしていなさるからね、私もうれしくて、姿の消えた後も、座っていなさったあたりに向かって手を合わせたりしているんだよ。
考えてみると、昔、母様が亡くなられた歳に自分がなった時には、ああ、今の私の歳で亡くなられたんだなあ、私よりも、もっと腰も曲がり、目も見えなくなっておられたが、話し相手もいない下条(げじょう)の家でひっそりと、どんなことを考えて生きていなさったんだろうか、としみじみ考えた。それからは何か、親の歳以上に生きる歳月というものは、おまけのような気がしていたが、それでも、こうしてまた朝の光の中で目が開くということは、お前にはまだ生きる今日という一日の意味と役目があるのだぞ、って父様や母様が言うていなさるのかなあと思って、もうこっちへ来てもいいぞ、ってお迎えのくるまでは、一所懸命に生きようと思ってきた。
お前がどこへ行っても送り続けてくれたお薬のおかげもあった。お前の行く先々を訪ねていっては、それまで張りつめていた糸が切れたみたいになって、お前の勤める病院に必ずのように一回は入院するはめになって迷惑をかけたが、お前の親思いの気持を汲んでくれたように、どの病院でも、皆様が親切にして下された。ただ、腰の骨を折ったあの時だけは、本当に淋しく、つらかったけどね。……
今、母様の亡くなられた歳よりも、十以上も余計に生きて、言ってみれば、母様よりも歳上になってしまった。それでも不思議なもので、夢に見る母様は、いつでもまだ元気なころの母様で、私は娘の頃の私なの。ふっとそこに見える母様もまだ元気そうで、そして、ああ母様、って甘えたくなる私は、もう八十六にもなるのに、甘えていた娘の頃の気持に戻っているの。不思議なものだねえ。
もう一つ不思議なのはね、父様の夢は見ないっていうこと。夢も見ないし、幻のお姿も見ない。どうしてかねえ。父様は、私を勘当なさったが、まだ怒っていなさるのかなあ、って思ったりする。
父様の言うことに背(そむ)いて、松井史郎という人間と一緒になって、……それでも私がその後、見るからに幸せそうな、誇れる内容の夫婦生活、家庭生活を送れていたならば、父様に言い訳も立とうし、父様も、ああ今度も私の眼鏡違いであったか、と笑って言って下されたかもしれない。でも、実際は、父様が案じておられた以上のあの人の不実な仕打ちにあいながら生きてきたんだものねえ。
最後に水原でお会いした時には、ああもう父様は許してくれていなさったんだと思ったけれども、しかし、その後もあの人の不実は続いたから、やっぱりまだ今でも、悲しんだり、怒ったりしていなさるのかもしれないと思う。……修一郎がね、俺もお祖父ちゃまの夢は見ないが、佐々木の家をこんなにしてしまって、お祖父ちゃまは、きっと俺にも腹を立てているんだろうねえ、と苦笑いしていたが、どうなのかねえ。
あの人の不実は、もう私と結ばれてすぐに始まっていたね。あいまい宿に行って病気を感染(うつ)されて入院したりしたこともそうだったが、私が勘当されて、自分が佐々木の家を乗っ取ることができないとなったあの日に、心の中ではもう私のことは厄介者(やっかいもの)になっていて、捨てたかったのかもしれないね。
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