|
第四章 述懐
|
|
|
|
|
|
戦争が終わった時は、もう味噌屋としては事実上つぶれていたし、更に、農地改革だ何だって、次々に土地も無くなってしまって、それでも細々(ほそぼそ)と味噌を作ったり、仕入れて売ったりしていたんだけれども、そんなことも続くわけがない、結局、味噌屋をやめてしまった。
あの、最後の時期に、たった一人、働いてくれていた若い衆があった。小泉功(いさお)っていう人だったが、お前は可愛がってもらったから、覚えているでしょう。一緒にオート三輪に乗って味噌の仕入れによくついていっていたねえ。功さんの兄は、「鉄砲小泉」というあだなでね。鉄砲撃ちの遊び人だった。
うちの人は、あの戦後の苦しい時期にも、口ではあれこれ偉そうに評論はしても、自分は肉体労働はしない。「鉄砲小泉」と一緒になって、鉄砲撃ちだの、魚釣りだの、かすみ網だのって、やはり殺生しながら遊ぶことばかり考えていた。
そうしては、お前のいない間は俺が家を守ってやっていたんだって、しきりに修一郎に言う。何を守っていたと言うの。何もかも自分の都合のために使ってしまっただけではないの。そのあげくには、修一郎を無能呼ばわりする。しまいには、修一郎には財産の管理能力がないから法的に「禁治産者」という指定を受けさせて、自分が管理する、と言い出す。……修一郎だって、さすがに腹にすえかねて喧嘩にもなるよ。修一郎は、一番あの人を憎んで当たり前の子だ。それが一番早くから、あの人を認めてくれて、父さん、父さん、と言って立ててくれた。それを小馬鹿にしてあしらい続けていたんだよ。
修二郎は、復員してすぐに明治商事に戻り、嫁ももらった。
桂子も、何とか安田の家に嫁がせることができた。あとは修一郎の身を固めさせなくてはならない。そのためにも、私たちは佐々木の家を出なくては、けじめがつかない。そう思って、私は、あの人の尻を叩いて、南新町(みなみしんまち)に豆腐屋を始めたんだ。それだって、あの人に金なんてありはしない。みんな母様と私が整えたんだ。
あの時、私は、お前と祥子の二人を、佐々木の家に残して出た。修一郎が、そうしろと言ってくれた。また実際、四人の子を育てる力は無く、母様(かかさま)たちにお願いするしか無かった。その方がお前も祥子も少なくとも飢えずにすむ、と思った。
親の理屈はそうだ。けれども、それで幼いお前たちがどんなに淋しかっただろうかと思うと、……そして、それを決して口にすまいとしていたお前たちの気持を考えると、私には心に苛責(かしゃく)しか無い。でもお前はそうやって、祥子を可愛がりながら、また一緒に暮らせるようになるまでの五年を、耐えてくれた。
親子が二つに分かれて暮らすその悲しさも、心さえ離れずに寄り添っていれば、いつかはきっとまた親子六人が揃って暮らせるようになる、と思って私は手をあかぎれだらけにしながら豆腐屋をしていたんだけれど、豆腐屋の頃のことを言えば、あまりにもひどいあの人の仕打ちが続いた。それですっかり夫婦としての情愛を見失ってしまって、そのために、南町の家でともに暮らすようになってからも、お前たちに、あたたかい家庭というものを与えてやることができず、くる日もくる日も、争っている姿しか見せられなかった。
貧乏は悲しいものだ。たしかに、貧乏は悲しい。……けれども、何度でも言うが、どんなに貧乏をしていても、夫婦、親子、心が寄り添ってさえいれば、生きていける。一合の米でも、粥にしてすすり合って生きていける。それが無かった。夫婦の間で根本になるその情愛が無かった。貧乏が不幸だったんではない。情愛の欠け落ちた生活が不幸だったんだ。私とあの人は、夫婦とは名ばかりの、子供からさえ「別れろ」と言われてしまうような親でしかなかったんだ。
房子にしても、英夫にしても、豆腐屋をしている頃から、痛ましく思うほどに早く大人になった。もっともっと子供でいて、その歳なりの、子供らしい甘えもしたかっただろうと思う。でも、あの子たちにはそれができなかった。女として、妻として傷つくことで、私は母親としての情愛まで忘れて過ごしていた。あの子たちは、毎日毎日、傷つきながら、その傷を癒す道さえも無くて、ただ小さい自分の胸にしまい込み、目を閉ざし、耳を閉ざし、心を閉ざして生きるしか道が無かったんだ。それがあの子たちの、大人になる、悲しい道すじ、強いられたつらい道すじだったんだ。
お前も、祥子も、またそれぞれに淋しさに耐えて大人になってくれた。どの一人が、ぐれてしまっても不思議は無かったのに、みんな、まっすぐに生きてくれた。それを誇りに思う、としか言わなければ、親はあまりにも身勝手だ。私らは、お前たちに対して与えてやれなかったもののことを思えば、身をすくませて、申し訳ないと思わなければならないのだよ。
それをあの人は、昔から、何かと言えばお前たちに、誰に生んでもらった、誰のおかげで大きくなった、親に向かって何だ、と言って来た。……私はね、そういう言葉を聞くたびに腹が立った。私たちは、どの子を、どんな状況で生んだと言うんだね、誰の情けに助けられて子供らを大きくすることができたんだね、親に向かって、と言う前に、どれだけ親らしい親であったと言うんだね、って聞いてみたくなるの。
親が、子供に乳を飲ませ、食べさせて育てるのは、当たり前のことだ。教育を与えるのだって、当たり前だ。それは、子供に、親から自立して生きていく道を与え、生きる力を与えてやる、当たり前の義務だ。
あの人は、恩と思うべきものを、当たり前だと思い、当たり前のことをして、それを恩に着せる。そういう生き方、そういう考え方を続けてきた。
私は、いつの頃からか、考えるようになった。私たちは、親から与えてもらって、親に返せないものを、子供に返しているんだ、って。……そうやって人は、子供に返し、子供に返ししながら生きていくものなんだ、って。
だから私は、子供に対して何をしてやったとか、何をしてもらわなければ、と言うようなことは何も考えない。それよりも、子供が、孫たちに冷たく当たっているのを見たりするのが、何よりつらい。
親は、子供を生んでやったんではない。生ましてもらったんだよ。さあ、お前の生命(いのち)の根(ね)を与えてやろう、これによって、もっともっと、深い人間の真実を見るように、と天から授けてもらったものなんだよ。
子供というものは、親が正しい愛情さえ持って育てていけば、黙っていたって、与えたものの何倍も、何十倍もの幸福というものを親に与えてくれるものだ。
子供が本当にうれしそうに、にっこりと笑う、それだけで親というものは胸が痛くなるほど幸せになれるものだ。子供の安らかな寝顔を見る、それがどんな薬にもまして、親の一日の労働の疲れを取ってくれるものだ。
他所(よそ)でおいしいものを食べれば、ああ、これを子供たちに食べさせてやりたいと思い、かわいい服をみれば、ああ、あの子に着せてやりたいと思う。自分はぼろを着て、子供らの食べ残したものを粥にしてすすっていても、子供らが元気に生き、育っていってくれれば、それが親の生きがいだ。
私たちは、子供を育てているんではない。育てさせてもらっているんだ。これは大切な私の生命の根なんだ、そう思って生きなくてはならないんだ。
しかし、あの人は違ったね。今でも違っているね。あの人にとって、亡くなられたあの人の母親のことも含めて、親子というものが、どういうものとしてあるのか、今でも、私は理解できないんだよ。
あの人には、先妻があった。女の子も一人いた。私は、その人たちからあの人を奪った人間だ。立場を変えて見れば、どんなに私が憎かろう。それに対して私は、ただ許してもらうしか無い。
人間の関係は、決してお金に置きかえることはできない。けれども、その人、その子の生活が成り立つために必要だというのであれば、そしてそれを、私に出してくれ、というのであれば、何としてでも出しもしただろう。
でもあの人は、ただただ隠れての関係を、うじうじと続けてきたし、問うても、私に嘘ばかり言い続けてきた。自分では、一人で苦しんできたんだと言うだろう。でも、それを仮に認めるとしたところで、そこにこそ問題があるんだ。それでは、私は、何なのだろうということになってしまう。一緒に生きることを選んだ二人だ。それならば、なぜ私に一緒に苦しませてくれないのか。なぜ一緒にその荷を背負わせてくれないのか。私が、一番悲しかったのは、そのことだ。
私に、何から何まで隠しごとをして、それが明るみに出れば、問う私を、人間の心を持たぬ「鬼」だって言う。
そうだろうか、私は、鬼なんだろうか。あるいは、言われる通り、私は知らず知らずのうちに、鬼になっていたのかもしれない。でも、この世の誰が、鬼になりたがるものか。 鬼になれ、鬼になれと、くり返し傷つけ、汚し続けてきたのは、誰だと言うんだろう。
あの人のお母さんは、終戦後に、一度、水原に訪ねてこられた。それは、私という女を、何よりもまず見てみるためだったのだろう。そして、史郎のことを、よろしくお願いしますと、私や母様に言って帰られた。
あの人は、そのお母さんを捨ててしまった。私のために、妻子のみか、親をも故郷をも捨てたと言えば、何も知らないお方は、あの人に同情するかもしれない。
けれども、なるほど妻子とは別れてもらわなければ、私たちが生きていかれないが、故郷を捨て、母親を捨てることを求めたことなど、ただの一度も無い。
父様(ととさま)が、松井という男は駄目だ、と言ったその一番の理由は、故郷や、親や、妻子やに対する情愛が無く、自分一人の立場の正当化をしか考えない人間だと見たからだ。自分の娘と縁を持った男が、前の妻子に対して情愛を残していたら、普通の親なら怒るかもしれない。しかし、父様は、それだけの方ではなかった。妻子や故郷に、思いを残し、苦しんでてこそ、人間であり、自分の娘に対する愛情も真実のものだと、考えるお人だった。
そして、私も、母様も、そう思ってきた。私は、岐阜に行くなど妨げたことは無いし、母様(かかさま)にしても、私以上に気持よく切符を買ってやり、そのたびに大枚の見舞いのお金の包みを持たせ、自分の着物や母親の着物の良い物を選んで、お母さんに、と言って持たせてやっておられた。
向こうのお母さんが、私たちを、自分の息子を奪い、息子に自分を捨てさせた憎い者たちだと思っておられたかどうか、それは、あの人自身が良く知っているはずだ。そして、私が最後の看病に行った時の、お母さんの喜びようが示しているはずだ。
私がいやだったのは、ただ、岐阜へ行っては、ずるずると先妻の人と関係を持ち続けているということだった。
それにしたところで、私とは一緒になってみたものの、やはり先妻の、しま子さんの方を愛していることがわかった、というのであれば、これは仕方がない、お前たちを父無し子にしてでも、私は別れるしかない。
でも、あの人は、そうでさえもなかった。私の身体も、しま子さんの身体も、あいまい宿の女性の身体も、高等学校の井関と言う人の身体も、今度の家を出るきっかけになった投書の女性の身体も、……みんな、自分の欲の対象として求めていただけなんだ。
どこにあの人の本当の心というものがあるのかわからない、と言ってやれば、まだ私は優しいのかもしれない。だけど私は、思う、どこにも、あの人の心の根は、無いんだって。根無し草、……欲望だけで流れて生きてきた、根無し草だったんだってね。
でも、そう言ってみたところで、私の心が楽になるものでもない。
どこにも心を繋(つな)ぎ止められなかったのだとすれば、本当にあの人は可哀相な人だが、しま子さんたち、みんなもあまりに可哀相だ。私も可哀相ではあるが、あの人の心を繋(つな)ぎ止められなかったがために、多くの人たちに悲しい思いをさせたということであれば、私に一番罪がある。
でも、……私は、どうすればよかったんだろう。私は、私なりにすべてを与えてきたつもりだ。そして私は、そんなに多くのものをあの人に求めたのでは無かった。
私が怒ったり、悲しんだりしている時に、いったい何を怒り、何に悲しんでいるのかが、あの人には結局わからなかった。
お前は、鬼だ、と言ってあの人は、よく泣いて見せた。いくらでも泣いて見せることのできる人だった。けれども、本当に泣いていたのは、どっちだったんだろうか。
なるほど私は、鬼にもなれば、蛇(じゃ)にもなる。女だもの、鬼にも蛇にもなる。けれども、同じように、優しい女にも、可愛い女房にもなれただろう。
私の心の中には、玉もあれば、ガラクタもある。なぜ、その玉を選び取って磨いてくれないか、なぜ、ガラクタばかりをわざわざ引き出しておいて、お前は鬼だなんて言うの、って私は悲しかった。
房子は、年頃になると、あの人が泣いたりすると、あの人の味方をして、私に反抗していた。女の子は、父親につく、と言う。私は、そう思って耐えていたが、今になってもなお、あの子には、まだ少しわかってもらえない所がある。
あの子は、愛し愛されて幸せな結婚をした。その伴侶に早くに亡くなられて、その幸せは壊(こわ)れたが、あの子は再婚もせず、その幸せだった愛情の思い出を大切に守って生きてきた。淋しく、つらくはあったろう。でも、裏切られ、汚される悲しみは、知らないで生きてきた。そのために、あの子には、最後の所での女としての私の悲しみがわからないのかなあと思う。でもね、私は、それをわかってもらいたいとは、もう思わないの。それがわかるような悲しい生き方を、あの子がしないで生きこれたのなら、それが一番いいことなんだもの。
私は、精一杯に生きてきた。けれども、精一杯に生きた、ということで人はすべてを許されるわけではない。
私が、妻子ある人と一緒になった罪、そのくせ、この心をもってしても、身体をもってしても、物やお金や何をもってしても、あの人の心を満たし繋(つな)ぎ止められなかった罪、そのためにいろいろの人を悲しませた罪は、私がどんなに精一杯生きたんだといっても、許されることではない。
それを許すのは、私ではない。お前たち子供であり、しま子さんであり、しま子さんの子供であり、そして、あの人が関係を持ったすべての人たちだ。その人たち、みんなに許されて、初めて私の生きてきたことが許されるんだ、ってこの頃しきりに思うんだよ。
井関と言う人は、水原高等学校の女事務員だった人だ。父親が警察官でね、苦しい時期には、よく佐々木の家に寄って味噌をもらっていったりもしていた。
南新町で何とか豆腐屋をして頑張っているうちに、それでも、下条の母様の努力だの、母様の実家の柄沢さんの助力だので、やっとあの人が、水原高等学校の定時制夜間部の、それも非常勤講師だけれど、何とか教職につくことができた。
勿論、そんな給料でやっていけはしない。でも私は、豆腐屋の仕事を一所懸命続けながら、喜んで学校に送り出していた。
それがある時、高等学校の小使いさんが、……たしか、前川さんと言う方だったが、夜、店先に来て、入るような、入らないような様子で行ったり来たりしている。
それで、どうしました、主人なら、今、学校に行っておりますが、と言ったら、いや、先生にではなく、奥さんに用が、と言うから、まあ上がりなさい、って上げて話を聞いたら、こう言った。
私は学校の小使いだ、先生方というものを尊敬しなければ、仕事はできない。私は、何も自分が人に誇れるような生き方をしてきたとも思っていない。単純な脳みそしか持っていない。それでも何かを見れば、そのことの善し悪しは、やはり考えてしまう。…と、いろいろ言い訳めいたことばかり言っていて、本題に入らない。
それで私が、どうぞ、何でも、はっきりと言って下さい、と言ったら、実は、おたくの先生の当直の夜になると、事務の井関というのが忍んでくる。先生が当直室の窓を中から開けてやって、履物を外にぬいで当直室に入り、夜中過ぎにまたその窓から出ていく。私などが何も余計なことを言って波風を立てる必要も無いのかもしれないが、いずれは人の目にもつくことになろうし、そうなれば先生にも傷がつく、そう思って、私は首になってもいい、奥さんには言わなくてはならない、と今日は決心して言いにきた、とそう言われた。
言われてみると、私にもいろいろと思い当たるふしがある。それで、あの人の帰るのを待って、さる人からこういうことを聞いたが、とはっきり言ってみた。そうしたら、根も葉も無いことだの、でっち上げたの、お前のやきもちだの、って否定した。
それでは、お前さんは、学校の誰かに恨みでもかって、あらぬことを言われるようなすじでもあるのか、って言ったら、そんなものはこれっぼっちも無い、と言う。
私は、それ以上言い合っても、何にもならないと思って、その時は、それでやめた。しかし、気をつけて見ていると、変なのは、泊りの時だけではない。夜の講義をしての帰りも遅すぎる。
それである時、幾晩か、学校の前の家の軒下の植え込みの陰に、しゃがんで隠れて、あの人の帰りを待っていた。
そうすると、生徒さんたちがみんな帰って、次々に明かりも消えて、学校の門灯まで消えても出てこない。どうしたんだろう、裏門からでも出たんだろうか、と思う頃になってからやっと出てきたが、いつもその井関という女と一緒で、その肩を抱いたり、腕を組んだり、自分の食べたパンを井関にかじらせて、それをまた自分がかじったり、自分の首に巻いた首巻きを、一緒に井関の首にもまわして頼すり寄せて歩いたり、ただならずべたべたしながら、私の見ている前を通っていった。
それでとうとうある晩、我慢がならなくなって、井関の家の近くまで送っていくのを見届けて、私の方が先に帰り、あの人の帰ってくるのを待って、たった今、目の前で、お前さんたちのこういう姿を見たが、それでも否定する気か、って言ったら、やにわに私のことを殴る、蹴る、髪の毛をつかんで引きずりまわす、……暴力の限りを尽くした。鼻血は出る、鼓膜は破れる、歯は折れる、顔はとてももう店には出られないほど腫れ上がる、……とにかく、言うに言われぬ、ひどい暴力だった。
私も、あの時は、もうこれまでだ、こんな汚れた勤めなんか、もうどうなってもいい、と思って、飯山校長、山村事務長にお会いして、すべてをお話し申し上げた。
それで結局、井関と言う人は、転勤という形で去らされたのだが、あの人そのものが、神聖であるべき学校で、そういうふしだらで汚していたのだから、即刻辞(や)めさせられて当然だったんだ。
しかし、それを、飯山校長は、残して下された。今、辞めさせれば、私たち一家が路頭に迷う、と思われたのか、それとも、今度こそもっとひどい暴力をふるいかねない、と思われたのか、ともかく何ひとつあの人には言わないで、辞めさせずに置いて下さり、逆に、
昼間部の全日制の正規の教員に取り立てて下さった。そのお陰で、私たちは、やっと、豆腐屋をやめて、南町のあの家にみんな揃って移り住むことができたんだよ。
修一郎は、あの家を、お金に換えて自分の生活の足しにすることもできた。修一郎自身が、食うや食わずやの生活をしていたんだ。それなのに、何も細々(こまごま)したことも言わず、みんなで一緒に暮らせるようになった祝いに、この家は母さんの名義にしておいたよ、と、さらりと言ってくれた。母様も、ああ、これでやっと、親子そろって暮らすというあるべき姿になった、と言って自分のことのように喜んでおられた。
飯山校長と山村事務長は、その後も、私たちを遠ざけるどころか、南町の家によく訪ねてきて下されて、あの人が席をはずしたりすると、どうしていますか、何とかやっていますか、今はつらいでしょうけれども、子供たちはみんな優秀なのだから、きっと幸せになれるから、頑張って下さいよ、って言って、いつも励まして下された。
ああ、ありがたいことだ、本当に私も前向きに生きていかなくてはならない、と思ってそれからは、井関という人のことも忘れるようにし、二度と触れもしないで暮らしたが、あの人は、何も知らないで、飯山校長にしても山村事務長にしても、そして道文先生にしても、みんな自分の「人徳」を慕って来ているみたいに思い上がり、正規の職員になったのも自分の力量で当然になるべくしてなったぐらいに思っていたんだよ。
昔、勘当された私たちをかくまってくれた母様の実家の柄沢家の人たち、満州からの帰りの船の船長さんたち、小見川の田村屋の御夫妻、吉川(きっかわ)和尚、室蘭の渋谷校長、岐阜の准尉、そして、飯山校長、山村事務長、道文先生、……すべての方々が、あの人の行状というものを知っている。知っていて、どの方も、あの人に向かって直接には苦(にが)いことは何も言わず、むしろあの人と私たちとの生活が成り立つように、壊(こわ)れないようにと、守ってきて下された。
あの人は、俺は誰からも批判を受けたことは無い、だからそれが、自分がまちがったことなどしてこなかった何よりの証拠だ、と言う。すべて、自分の人徳なんだ、と思い上がった言い方をする。
そうだろうか、人徳とは、向こうの方々にこそあるのではないだろうか、あの人の傲慢な居直りの言葉を、あの方々がもし聞かれたら、何と思われるだろうか。腹を立てられるだろうか、軽蔑されるだろうか。自分たちが苦(にが)いことを言わなかったその沈黙が、この男をむしろ駄目にし続けることになったのかもしれないと、苦しまれるだろうか。
私には、ただ、感謝しか無い。くり返し言うが、不思議に、私はいつも、他人さまの大きく深い愛情に包まれ、助けられて、生きてきた。めぐりあいがたい人の情け、人の仏心(ぶっしん)というべきものに、私は、生きる先々でめぐり会ってこれた。なぜなのだろうと思う。
父様のような深い道心(どうしん)も無く、業(ごう)に生きる女だった私なのに、なぜ、皆様は救って下されたのだろう。
私には、わからない。そして、その御恩もその方々に返せない。ただ、精一杯に生き、お前たちを育て上げ、そしてお前たちの心の中に、私が皆様から分けていただいた慈悲の種子(たね)を、一粒ずつ蒔(ま)くことで、お前たち、そして、お前たちの子供たちへと、その種子を蒔き継いでいってもらうことによって、わずかに御恩に報いることができることを祈って生きてきただけだ。
岐阜のお母さんは、昭和二十七年に亡くなられた。
それまで、幾度か、病気だという電報があり、母様は、汽車賃の他に、五千円という大金を見舞い金としてその都度出して下されていた。あの時分でのそのお金は、本当に大きいお金だった。私は、豆腐屋をしなければ食べていかれないし、房子も英夫もいたから、行くこともならず、あの人だけを送り出していた。
けれども、あの時は、今度こそ最後になられるか、という予感がしたのと、そうならばなおのこと、せめて最後ぐらいは、付いていて差し上げなければ、私の人の道も立たない、と思って、今回は私も一緒に行く、と言った。
さあ、そうしたら、とたんにあの人の機嫌が悪くなった。それを見て、私は思い当たった。これはまたきっと、先妻との関係があるんだな、と。
それで、何か私が行ってはいけない訳でもあるのか、先妻のしま子さんは、とうにあんたの家を出て、どこかを借りて暮らしていると、言っていたはずだ。それとも、また、しま子さんが戻っていてお母さんの看病をしているのか、と言ったら、そんなことは無い、って怒って言う。じゃあ、誰がお母さんの面倒を見ているんだ、って聞いたら、妹だ、って言う。しかし、妹さんは嫁いでいって、汽車で幾つか先の町へ行かれたはずだ、それを毎日来て、三食の面倒を見て上げているということか、って聞いたら、いや、三食というわけでもないが、と言葉を濁す。三食というわけでもない、とは何という言い方だ、誰がお世話しているのかもわからない、ご飯をどうして食べているのかもわからない、それでよく子供だ、親だと言えるものだ。それでは、あまりにお母さんが可哀相だ、何としても今回は私も行く、って言ったら、怒って怒って、……何と、一人で駅に行って、先に汽車に乗って行ってしまった。しかし、あの頃は、私もまだ汽車なんかいくらでも一人で乗れたから、当座のお金を工面して、その次の汽車で岐阜に行った。
行ってみたら何のことはない、やはり先妻はそこに戻って住みついている。
あとで、あの人に聞いたら、それまで先妻の人たちの借りていた家は、しま子さんがあまりに不精で不潔な人で、掃除もせず、洗いものも溜めっぱなしで、荒れ放題で、異様な臭いがするようになってしまい、二階を借りていたんだが、大家さんが出ていってもらいたいと言って、二階へ上がるはしごをはずしてしまったのだそうだ。出ていくために荷物を取りに上がるのなら、一回だけは、はしごをかけてやるが、それが最後だ、って言われて仕方なく荷物を取って、また松井の家へ転がりこんできたんだ、って言っていた。
あの人は、他人(ひと)ごとみたいな言い方をしていたが、仮にもまだ籍のある先妻と自分の子供だよ、そんなふうに暮らしていることは知っていたはずだ。私は、家に入っているのが悪いなどと、ひと言も言っていない。ただ、そうやって、嘘ばっかり言って私をだまし続ける、そういうあの人の心に腹が立つんだよ。
なあに、まだ嫁なんだもの、お母さんの看病に入っているのは当たり前だ、と私も自分に言い聞かせて、しま子さんに挨拶もし、さてお母さんの所へ行こうと思って庭にでたら、
……あそこは、小さい庭をはさんで離れのような部屋があってそこに寝ていると言われたんだが、庭に出たとたんに異様な臭気だ。いったい何の臭いだろう、と思いながらお母さんの部屋を開けてみたら、驚いた。
お母さんは、動けなくなっているのに、下(しも)の世話をしてやらないものだから、うんこ、小便、全部垂れ流しで、それを手でまわりに塗りたくっていて、もう畳の目が無いようになってしまっている。……
私もまあびっくりして、来ていたあの人の妹に、大急ぎでリゾールを買いにいかせて、それから三日問というもの、畳拭きだった。リゾールを、ひと瓶使ってしまって、もう手の感覚が無くなり、指が馬鹿になってしまった。それでも何とか三日で臭気も無くなった。
お母さんが、水原のねえちゃんが来てくれた、水原のねえちゃんが来てくれた、って喜んでくれて、しま子は、飯だけは作ってくれたが、部屋には入ってこず、お盆に飯と佃煮だけを乗せて敷居の所から差し入れていくだけだ、私はもう歯も何も無いから、佃煮は何としても食べられない、何でもいいから、野菜を柔らかく煮て食べさせてくれないか、と言われるから、そんなことは造作も無い、野菜を買ってきて煮て上げたり、鮎の取れる時期だったから、家の前を通りかかった釣り人を呼びとめて鮎を買って塩焼きにして、身をほぐして上げたりしたら、まあ本当に喜んで食べておられた。
行った時はもう心臓も弱って、呼吸困難で、ぜいぜいと肩で息をするような状態になっていたのだが、私は、室蘭で注射を習っていたから、こんなことのためにと思って、町の薬局に取り寄せてもらっていたビタカンファーと、脚気の時に使うビタミン剤を持ってきていたから、それを注射してやりながら、いろいろ食べさせていたら、三日目には、何とか起き上がれるようになった。
そうしたら、近所の人たちが、今までは行ってやりたくても臭くて寄り付けなかったんだが、水原のねえちゃんが来てからは臭く無くなった、婆さんも、口がきけるようになったらしい、と言って揃って見舞いにきてくれた。
それが、どんなにか、お母さんにはうれしかったんだろうねえ、お前さんにもう一度会ってから死にたかった、お前さんの顔が見たかったって、あの人、この人の手を握りしめておられた。
そのわずかの、起き上がれるようになった時に、私に、押し入れの隅(すみ)の風呂敷包みを取ってくれ、と言われるから、取って上げたら、そこに入っていた足袋(たび)二足を出して、これを形見にあんたにやる、って言う。しま子には、何もやりたくないんだ、って言うから、いや、そういうわけにはいかない、私の方はいいから、どうか、しま子さんにあげてくれ、って言うのに、いや、やらない、絶対やらない、って頑張るの。だから私は、わかりました、いただきます、って言ってもらったよ。履(は)いて洗ってもいない汚れた足袋だったけれど、お母さんにいただいた、たったひとつの形見だ、私は、水原へ持って帰ってきたよ。
しかし、起きられたのは、ほんの二、三日だったね。もともとが癌で手遅れだったらしいし、それに喘息はある、心臓は弱っているで、医者にももう診(み)せていなかったし、また最後に診た医者も匙(さじ)を投げて帰ったというから仕方なかった。まあ、私の注射が、最後の一時(いっとき)だけの治療で、……それでもね、わずか二、三日でも起き上がれるようにもなり、食べたいものも食べ、会いたい人たちにも会えたのだから、よかったよね。
文学館案内に戻る
| |||
|