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第四章 述懐
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けれども、あの時に、初めて、しま子さんという人に会ったわけだが、不思議な人だったねえ。岐阜の人たちというものを、松井の一族や、しま子さんという人をもって判断しては悪いとは思うけれども、しかし何とも私には、理解できない人たちだった。
初めての晩はね、私の寝ている所へ入ってきて、布団を引っぱがして、敷き布団を持ち上げて私を撚り投げた。帰れ、今すぐ帰れ、って言ってね。だけど、私も強かった。お母さんが帰れって言うなら仕方がないが、そのお母さんは喜んでくれている、私は、お母さんの看病にきたのだから、看取とり切るまでは帰らない、そういう覚悟だったからね。
私が逃げ出さないと見ると、次の日からは、俺がこれまで看病してきたんだから、その分の日当くれ、って言う。それは、あなたが、自分は嫁だって主張してきているのだから、当たり前のことをしただけでしょう、と私は言った。
そうしたら今度は、俺にも飯を一緒に食わせろ、と言う。私は、御飯が無いなら分けてはやるが、一緒には食べたくない、と言った。
次には、俺たちにも鮎を食わせろ、と言う。いや、これは、お母さんに上げるためにと、買ったのだから、あなたたちには上げない、と言った。そうすると、今度は、父ちゃんを使ってねだらせるの。……あの人はまた、愚かに、そら涙なんか流して、おりょう、どうか、頭を下げてこうして頼むから、鮎、二匹、何とか、めぐんでやってくれ、なんて言う。めぐんで?……って私は、あきれはてて問い返したよ。めぐんで、とは何というみじめったらしいもの言いだ、そんな言い方が、人を動かすものと思っているのか、情けない、と思いながらも、もう何も言う気になれなくて、私は鮎を焼いて分けてやった。
鮎なんて、一度買ってやったら、あそこの家へ持っていけば鮎を買ってくれる、と言って釣り人が次々に鮎を持ってくる。分けてあげても別に困りはしないが、ただね、来た日からの私に対する仕打ちと、お母さんへの世話の冷たさに腹が立ってね、それと何よりもあの人のあんまりにあいまいな態度、そして、鮎ごときにそら涙を流したり、めぐんでやってくれ、なんていう人を辱(はずかし)めるような言い方をする根性に腹が立ったの。
そしてまた、それを平気で食べる、しま子さんという人の、「我(が)」はあっても、人間としての、また、女としての、意地も誇りも無いようなあり方に、何ともやりきれなくなったの。
考えてみれば、しま子さんたちも、あの人に置いていかれて、生活は苦しかったのでしょう、そのために、心も荒(すさ)んではいたのでしょう。けれども、それだけとは言えない、本来の性格というものもあった気がするね。
あの人の不潔さっていうものは、貧しいからどうこうというものでは無かった。何かが、違っていたね。
一度なんか、母屋(おもや)の台所で変にいやな臭いの煙りが立っている。行って見たら、塩マスの筒切りにしたのを、七輪の上で焼いていて、しま子さんの姿が無い。ああ焦げそうだ、と思って、ひょいと見たら、何と魚に蛆虫(うじむし)が一杯に涌いていて、熱がかかったものだから、中から這い出してウニャウニャしている。私はもう、背すじがゾッとなってしまって、しま子さん! この魚、魚! って叫んでしまった。この魚、虫が涌いている、捨てなさい、当たると悪いから、って言ったら、……どうしたと思うね、その魚を持って、道端(みちばた)に出ていって、パッ、パッと手で払い落として、……なんと、そのまま、また焼いて食べてしまった。私はもう胸が悪くなって、しばらく何も食べられなくなってしまった。
その後、お母さんはまた日ごとに悪くなられて、それからの亡くなられるまでの四晩というもの、私は、帯も解かずに、唐紙(からかみ)に寄りかかって、お母さんを見守っていた。横になれば、私も眠くなる。眠ってしまえば、お母さんが息を引き取られても、わからないかもしれない。そんな可哀相なことがあってはならないって思ってね。……私も、まだ若かったんだろうね、脇に水を置いて、それを飲みながら、お母さんを見守っていた。ぜいぜい、ぜいぜい、って今にも痰(たん)がつまって息が止まりそうでね、苦しげだった。
私がそうやっているのに、あの人は、いいかえ、夜でも昼でも近所隣りを遊び歩いて、碁打ちなんかばかりして、まず一時間としてまともに母親のそばに座っていてやるということが無かったんだよ。親が危篤(きとく)になっていることを知っていて、遊び相手になっている人間たちも人間たちだよね。
それをのちになって、知らない人には何と説明していたか。……自分が母親の看病にいった時には、もう母親は意識が無くて、何もわからなかった、なんて悲しげなふりをして言っている。何がわからなかったもんかね。一旦は、起き上がれるようにもなり、見舞ってくれた人の手を握り、私の作った煮物や鮎の塩焼きを喜んで食べてくれ、そうして、私に形見だと言って足袋(たび)をくれて、……そうして亡くなられたんだ。それを、意識の無いままに死んだなどとは、いったいどういうことなのか。……遊び歩いていた自分の不実さをごまかすためなのか。
もし、お母さんには、お前さんがわからなかったと言うのであれば、それは、お母さんがもう、お前さんを我が子とは思っていず、言葉を交わすべき人間だとは思っていなかった、ということになろうね、と私は言ったことがあるよ。
何かと言えば、私が親を捨てさせたようなことを言う。違うね。親を捨てたのは、他でもない、自分自身じゃないの。
しま子さんとだって、それはどうしてもお互いに対立してしまう所はあるけれど、私は、何があっても挨拶はするし、あの人も少しずつ話をするようになってくれていた。……しま子さんの母親も癌で亡くなったのだそうだが、父親は、台湾の方へ木材を切り出す仕事に行っていて、向こうで女の人ができて帰ってこなくなり、母親も、自分たちも、いわば捨てられたようなものになってしまい、それで自分が母親を看病するしかなく、新潟で松井が入院した時も岐阜を離れることができなかった、と言っていたね。
そうだとすれば、あの人も可哀相な定めの人だ。その、看病にこれなかったあいだに、私と松井は出会ったんだものね。……
しま子さんには、兄さんが一人いたんだが、結核にかかってしまい、頭のいい人だったらしいが、好きな勉学もできないまま死んでしまった、と言っていた。兄さんのことが好きで、また、誇りにも、頼りにも思っていたんだろうね。
松井の妹というのは、女学校を出てから、どこかの下駄屋に奉公し、年とってから結婚したのだそうだ。その下駄屋に奉公したのは、史郎を援助するためだったんだ、その前借金(ぜんしゃくきん)が二十七円あるから返せ、って室蘭に私たちがいる時に、この妹が言ってきた。私も苦しかったが、すぐに返してやったよ。
何がどうだったのかは知らないけれど、この妹というのは、まるで姉みたいに威張っている人でね、父ちゃんは全く妹に頭が上がらないの。……まあ、あの人は、あの心でお母さんを見捨てていたわけだし、いろいろと、うしろめたいことが多くあったんだろうね。
お母さんがさあ亡くなって、なるほど親類衆はいろいろ来たが、飲み食いはしていても、どうやって葬式を出すかっていう話は全然進まない。私は、出しゃばる立場ではないから、黙って下働きをしていたのだけれど、一日過ぎても、お母さんの遺体はそのまま放置されている。要するに、誰もお金を出したくない訳なんだ。
あの人は金は無い。妹も出すとは言わない。親類衆も出そうとも、分担しようとも、貸そうとも言わない。私には、もう帰りの汽車賃しか残っていない。鮎釣りをしているような暑い盛りだと言うのに、お母さんの身体は、生のままで放置されている。
とうとう私は見かねて、妹を呼んで、水原へ頼んでお金を送ってもらって葬式は私が出してやる、と言った。出してはやるが、たった一つ条件がある。あなたが責任を持って、しま子さんに離婚届けの判を押してもらってくれ、この家はしま子さんにやる、家の中の物も全部やる、その代わりに、私は判を押してもらった離婚届けをもらって水原へ帰る、それでいいか、と言ったら、あっさりと、金さえ出してくれれば、しま子には何とでも因果を含める、とそう言った。
それで水原の家へ電報を打って、いよいよお母さんが亡くなられて葬式をしなければならない、と言ってやったら、修一郎が五千円、修二郎が五千円、合わせて一万円というお金を、何も言わずに送ってくれた。あの頃の二人にとって、それは大きなお金だったはずだよ。
そのお金をもらって、さて火葬にしようと思ったら、火葬は三千円だと言う。三千円というのは、あまりに破格の高さだが、この辺はみんなどうしているのか、と聞いたら、この辺はみんな土葬だって言う。土葬の方が安いから土葬だって言う。安いから土葬、というのも変な土地柄だが、まあそうしていると言うのなら土葬でお願いします、って言って、山をだいぶ登った所にあった墓に穴を掘ってお棺を埋めた。五輪の塔なんてどこにも無い、淋しげな、荒れた墓だった。
そして七日間、私は、すべて手料理で作ってみんなをもてなして、法要をすませ、離婚届けと位牌(いはい)と、それに形見の足袋を持って、水原へ帰ってきた。
妹は、金さえ出してくれるんなら、しま子には何とでも因果を含める、と言い、実際、離婚届けはもらって帰ってきたのだが、しま子さんは、どんなふうに言われ、どんな気持で判を押したのだろうかねえ。……
しま子さんに家の中の物は全部やる、とは言ったが、見てみると、母様(かかさま)が何回も届けさせた立派な着物類は、一枚も、どこにも、無かった。しま子さんがもう売ってしまっていたのかもしれない。
私は、別段、それで悪いとは思わないよ。汚物(おぶつ)まみれにしていたのは、あんまりだ、と思ったけれども、佃煮(つくだに)のおかずだけであれ何であれ、ともかくもお母さんに食べさせてはいたのだから、それなりにやってくれていたことにはなる。
瀕死の母親を放り出して、最後の最後まで遊び歩いていたあの人よりは、よっぽど尽くしていたことになる。
その最後の看取る仕事を、夫を奪った私という女に出しゃばられて、いかにも自分のそれまでの看病というものが至らないものであったかのように見せつけられ、あげくの果てに、金の力で、葬式を出してもらうのと引きかえに自分が離婚届けに判を押させられた。 自分の、妻という座を、松井の一族に、金で売りとばされたようなものだ。そういうことになるでしょう。同じ女として考えれば、どんなに口惜しかったことだろうか、と私は思ったけれども、心を鬼にして、離婚届けをもらってきた。
それでも、その後も、しま子さんと子供のことが気になってねえ、妹に、その後どうされたんでしょう、って聞いたことがあったけれど、何とか子供も大きくなって、縁づいて、その嫁ぎ先に自分も付いていって、孫も生まれ、その孫の面倒を見ながら、そこで暮らしている、って言っていた。家も何もみんな売ってしまったんだろうね。
戸籍のことを言えば、そうやって、やっともらってきた離婚届けなのに、二年近くたって英夫が高等学校に入る時になっても、まだあの人は戸籍を直していなかった。
英夫が、よその子は、長い男、長い男って書いてあるのに、何で俺のは変な字が書いてあるんだろう、って言う。「長男」という字のことを言っている。自分のには「庶子」と書いてある。
私もさすがに腹が立って、あの人に、英夫もこういうことを言う歳になってきているのに、まだ私を籍に入れない気なのか、って言ったら、離婚届けも受け取ってきて渡してあるんだし、言い逃れのしようも無くて、やっと籍を入れた。
その日に、私は、父様(ととさま)の作ってくれた「佐々木りょう」という実印を持って、下条(げじょう)の家の仏間(ぶつま)に行って、仏壇の父様(ととさま)に、こういう訳でやっと今日からこの判こが要らなくなりました、と報告をして、仏間の裏の椿の木の根元にそれを埋めた。
その離婚届けのことだって、あとになって、何ですぐに戸籍を直さなかったか、って改めて子供に聞かれたりした時に、いや、離婚届けを「郵便で」先妻に送ってもらうのに時間がかかっただの、いや、そうじゃない、届けはすぐに出したんだけど、役場の方の手違いで直っていなかったんだ、なんて、まるで支離滅裂な嘘八百を言っている。そのことひとつを聞いても、やっぱり思ってしまう、この人は、しま子さんという人のことを、本当に何だと思っていたのだろう、って。
女が離婚を承諾して判を押すというのは、一生の大事だ。それを、私の金の力に負けたような形で判を押させられて、私によこしたわけでしょう。何ほど口惜しかっただろう、と私は思うのだよ。それを、「郵便で」送らせたの何のって、馬鹿なことを言うものじゃない、いったいどこの世界に二度も離婚届けに判を押す人間があるものか。
そういうでたらめを、自分を弁護するためなら平気で言う人なんだ。そんなことを言うことで、改めてまた、しま子さんという人を汚していることになるなんて、これっぼっちも考えはしない。
あの人は、しま子さんをも、私をも、本当に愛したのでは無かった。あの人は、人を愛するということを、結局、しないで生きてきたんだ。利用できるものが身体であれ、お金であれ、相手にある限りにおいては、利用はしてきたよ。しかし、本当に人を慈しむということは、無かったのではないかと思う。
このたび、水原の町を捨てて出る時に、何を考えたのか、あの人は突然に、俺は、桂子には何の借りも無いからな」
と言った。私は、驚いたが、そうかね、何の借りも無いかね、と言った。そうしたら、ああ、なにも無い! ってまた力んで言う。もう狂っていると思って、私はそれ以上何にも言わなかった。
修一郎、修二郎、桂子、みんな為さぬ仲だとは言っても、自分の子でしょう。いや、あの人は自分の、権利を主張する時だけは、俺は親の立場だ、と言いはしたが、情(じょう)としてあの子たちを、「子供」と思ってくれたことは無かったんだね。
でも、あの子たちは、たった一人の母親を自分たちから奪っていったあの人を、何も言わず、父さん、父さんと言って受け入れ、ともに生きてきてくれた。
金銭や物は、本質ではない。しかし、そういうものしか、あの人には見えないんだとするなら言うが、自分自身の食うこと、自分の子供を育てること、自分の親の葬式を出すこと、……どのひとつを取ったって、どれだけあの子たちに助けてもらってきたことか。あの子たちのものを、奪ってきたことか。
それを、下条(げじょう)の家が没落してからは、急に自分の方が偉くなったように思い上がって、修一郎たちを見下して、母様(かかさま)にも冷たくして、私が母様にリンゴひとつ持っていってやろうとしても、目をとがらせる人だった。
お前が、大晦日(おおみそか)の鮭のひと切れを食べないで、母様に持っていってくれたことがあったねえ。私は、本当にうれしかった。お前の気持がうれしかった。二人で、手をつないで帰ってきたんだっけ。
それを次の年に、あの人が鮭の切り身をくれてやるから持っていけ、と言ったけれど、私は受け取らなかった。くれてやる、という言葉が私を傷つけた。物乞いに投げ与えるような、そんな気持のものを、誰が受け取るものか、と思った。結局、自分が持っていったのだけれど、どういう言い方で渡したものか、母様は何も言わないがああいう方だ、何か感じたんだろうね、結局は食べなかった、と言っておられた。
物は物でしかなく、金は金でしかない。人は人に物もやるし、金もやる。でも、本当に渡しているものは、物に託した心、金に託した心でしょう。物をもらって喜ぶのも、金をもらって喜ぶのも、何よりもその贈られた心がうれしいからでしょう。与える心が腐っていれば、与えた物も腐る。母様はね、その腐った物を食べたく無かったんだよ。そして、お前の鮭も、私の鮭も、修一郎たちと分けあって、喜んで元日に食べて下さった。
母様は、甘いものがお好きでねえ。それで糖尿病にもなられたのかもしれないが、知恵子さんが出ていった後はもう、食べたくとも菓子のひとかけらも無かった。母様も、孫たちも、どんなにか、気持では食べたかっただろうに……。
それでも、私が行くと、何かお茶菓子になるものは無いかと思って茶箪笥の中を探しなさる。でも、何にもあろうはずがないわねえ。そうすると、何も無(の)うてのう、と悲しそうに言いなさる。だから私は、リンゴひとつ、椿餅(つばきもち)ひと切れでも、ある時は、持っていって、分けあって食べていたの。それさえも、知っているくせに、どこへ持っていく、とあの人はとがめる人だった。
母様は、よう言うていなさった。利夫が来ると不思議とすぐわかる、ってね。それを、英夫はからかって、入っていくと、母様が、おや、利夫かえ、って言いなさるから、ああそうだよ、って言うんだって。ほんに、すぐわかるものを、ああ利夫だよ、って言うんだもの、って母様はくどいていなさった。あんまり利夫、利夫って言うから、からかいたくなるんだ、と英夫は言っていたけどね。
お前が行くと、山へ友達と行って柴栗(しばぐり)を取ってきたから食べろの、裏から無花果(いちじく)をもいできたから食べろの、って皮をむいてくれるって、……そのわずかのことが、何ほどかうれしかったんだろうね、最後まで、利夫、利夫って言っておられた。
何不自由の無い柄沢の家で育ちなさって、嫁いできても、父様に愛されて、大事にされて暮らしてこられたのに、私が道ならぬ道を歩いたばかりに、あとは苦労ばかりだった。 お金も何も、全部、私のために使ってしまわれた。それを、しかし、決して嘆いたり、愚痴(ぐち)を言ったりはなさらなかった。何ひとつも愚痴を言わないで、お前のむいてくれた無花果(いちじく)の実ひとつを、うれしいと言って生きておられた。
人はたしかに、心の置き所だ。心の置き所によって、無花果の実ひとつで心豊かになることもできれば、あの人のように、何百万の金を持っても心の安らがないことにもなる。
あの人は、なぜか昔から修二郎の所へは寄りつかなかったね。修二郎は、潔癖な子だむ修一郎と違って、悪いことは悪いとはっきり言う。それがあの人には煙たかったんだろうね。
修一郎、お前の役目は、兄を補佐し、守ることだぞ、って父様にいつも言われていたが、あの子は、本当にそうやって生きてきたと思う。佐々木の家の物は全部、跡取りの兄の物だ、自分はその兄の物を何ひとつかすめ取ってはならん、って思い定めているような所があったし、早くに一人立ちして、自分の道を一所懸命に歩いてきたんだよ。修一郎の方が、結局は何となくいつまでも私に甘えるような所があったけれども、修二郎は、早くから甘えたい気持を乗り越えて生きていた。それが一見、冷たく見える所であったかもしれないけれど、本当は、優しい、思いやりのある子だったんだよ。
明治商事に勤めていたから、戦後の何にも甘い物が手に入らない時期に、あの子は、明治製菓の菓子をいつでも何かとお前たちに持ってきてくれた。お前たちが、はしゃいで食べるのを見るのが楽しいって言ってね。……いい女性(ひと)にめぐり会って、ともにあたたかい家庭を作って、その家庭こそ何にもまさる自分の財産としてあの子は生きてきた。 その修二郎とは逆に、私は、佐々木の家の物を全部奪ってきた。佐々木の家が、今のようになった一番の原因は、私にある。母様は、御時世だよ、と言ってくれ、新松は、自分が力及ばなかった、と言いながら死んでいった。けれども、やはり、一番の責任は私にあるんだ。
父ちゃんは、修一郎のことを、目先が利かないの、無能だの、禁治産者だのと、罵ってきたけれど、あの子はあの子なりに、一所懸命にやってきたのだよ。祖父(じじ)様、父様(ととさま)の渡してくれなさったものを、すべて自分の代で無くしてしまったと、誰よりも、あの子自身が一番自分を裁いているよ。私のかすめ取った物に対しては、何ひとつ言わずに……。
あの子は、自分を責めているが、私は、この頃、よく考えるんだよ。父様は、何と思うていなさるだろうか、ってね。
私はね、何だか、怒ってはいないような気がするの。父様は、几帳面な方だったけれど、根本においては、物欲というものを持ってはおられなかった。何ごとも人さまのおかげ、何ものも人さまからの預かりもの、というそういう気持で生きておられた。
父様が怒りなさるとすれば、それは、私たちが、人の心、人間らしい心というものを無くした時、これはお許しにならない。
修一郎も、優しい子だ。目先が利かなくても、無能でも、人の心というものは、失わないで生きてきたと、私は思っている。だから、父様は、決して怒ってはおられないと、私は思うんだよ。
桂子も可哀相な子だった。私に置いていかれた時は、まだ十歳にもなっていなかった。戦争の中で娘時代を過ごして、やっと母と娘としてわずかの時を持つ間も無く、安田へ嫁にいった。その間、たったひとりの姉として、どれだけお前たち四人の、父親の違うきょうだいを可愛がってくれたか知れない。
嫁にいく時にはもう、満足に嫁入り道具も揃えてやれないような家の事情だった。そして、嫁いでのちに、安田のおっ母様に随分いじめられた時期もあった。それでも、あの子は耐えて生きてきた。
私が、「桂子や、真心(まごころ)だよ、真心だよ、真心さえ持って仕えていれば、きっとわかってもらえる日がくるからの」
と言うと、涙をこらえてまた頑張る子だった。今は、そのおっ母様だって、桂子なしでは生きていかれないようになっていなさる。祥子は、小さい時から、お桂ちゃま、お桂ちゃまと言って慕っていた。私に置き去りにされて、お前も淋しかっただろうが、それでもお前には、お祖母ちゃまがいた。しかし、小さい祥子には、甘える相手さえいなかった。あの子の心の寄り所は、たったひとりの兄であるお前と、安田の桂子だったんだよ。小さい時は、ともかくもう、金魚の何とかみたいにお前にくっついて歩いていた。少し大きくなってからは、安田の桂子の所だった。あの子は、母親に求められない愛情を求めて、桂子の所へ行っていたのだろう。桂子も、その淋しさを、自分のことのようにわかってくれていたのだと私は思う。無条件の愛情を与え続けてくれた。
その桂子のことを、あの人は、俺は桂子には何の借りも無いからな、と言って出ていった。何を言いたかったのか、今でも私にはわからない。何か自分の期待した物かお金かをもらえなかった、そんなことだったのかも知れない。……
私は、人間の恩愛のことを、貸し借りとは言わない。しかし、あの人がそれをあえて、「借り」が無い、と言うのであれば、私は、とんでもない、お前さんの「借り」は無限にあるでしょ、と言わなければならないね。「たむばっぱ」も亡くなられた。吉川さんも、渋谷校長も、みんな亡くなられた。父様も、母様も、亡くなられた。今度は、私の番でしょう。
あの人は、この歳になって、私をも捨てて出ていったが、数限りなく皆様に与えてもらった恩愛というものを、どこにどう返しながら生きていこうというのだろう。
「借りが無い」とすべての恩愛を否定することが、あの人の「自由」、あの人の「第二の人生」だと言うのなら、それは、人間としては、からっぼの人生だ。
恩愛の絆も、たしかに時には人にとって投げ捨てたい重い荷ではあるかもしれない。けれども、返す、返さないは、いい。ただそれを否定したり忘れたりしては、これは人の道にもとる。少なくとも、私たちは、そういう考えで生きてきた。あの人は結局、そういう意味では、私たちの世界と融けあうことなく終わった人だった。
私は、もうすぐ、父様や母様の所へ行くだろう。どこで息を引き取ろうと、行く所はひとつだ。どの子の所で死のうと、それは私の意志での選択ではなく、私の生命がそこで、たまたま燃え尽きたに過ぎない。
どの子をも、私は、母様に言われたように、差別なく愛してきたつもりだ。限りなく愛してきた、と言えるかどうかはわからない。精一杯愛してきた、としか私には言えない。
正芳という子の生命は守ってやることができなかったが、それでも七人の子を宿して、そしてそれぞれの子が、糸を紡ぐように、みんなそれぞれに生命(いのち)を生み、育ててきている。私は、それがすべて、この腹から出たことを知っている。
私は、ひとりっ子だった。しかし、私というひとつの生命をこの世にもたらすために、どれだけ沢山の生命の繋(つな)がりがあったんだろうかと思えば、気の遠くなるような長い長い時の流れというものがあり、その長い流れの果てに、明治のある年に、私の生命恥というものが生み落とされたのだということに考えいたる。
その時の流れと、そして私の生命に物言わず託されたものとを、私は次の生命を生み落とし、育てることによって、引き継いで渡す責務というものがあった。徳次郎という人と史郎という人と、この二人の人によって、私はその努めの半ばを果たすことができた。何がどうであったにしても、そのことにおいて、私は二人に、ありがとう、と言わなければならない。
努めの残りの半ばとは、私が父様や母様から与えていただいた心の一番良い部分を、七人の子供たちに、そして孫たちに、そして生きてきた時間の中で触れ合ってきた人々に、種子として、分け与えることだった。
これは、できたかどうか、私にはわからない。私自身が、迷いの道を歩き続けてきた。子供たち一人一人に対しても、何か良いものどころか、どの子にも、淋しさ、苦しさしか与えることができなかった気もする。
けれども今、私は、その迷いの道を、今からでも、少しでも、抜けだす努力をしたいと思っているし、それができそうな気もしてきている。と言うのは、心の置き所を変えて見た時に、今まで見えなかった幸せが沢山見えてきたからだ。私は、自分の不幸せをしばしば口にしてきた。裏切られた、だまされた、汚された、奪われた、と言ってきた。でも今は、何と沢山のものにめぐまれて生きてこれたのだろう、と思う。
手許にありながら、与えられていながら、見えていなかった幸せが、今、いろいろと見えてきている。けれどもまた、見えなかった幸せが見えてきたと同時に、見えなかった不幸せも一緒に見えてきた。
しかもそれは、私の不幸せではなく、私が他人に与えた不幸せなのだ。
私は、自分の悲しみだけを見て生きてきたが、私を悲しませた人の中にもやはり悲しみがあったんだろうな、と思えるようになってきた。
私は、苦しみながら生きてきた。しかし、同時に、人を苦しめながら生きてきたのでもある。人を苦しめなければならなかった理由が、私の小ささ、愚かさ、浅い分別や嫉妬や、心の驕(おご)り、高ぶりなどにあったのだとすれば、私は、所詮(しょせん)は他の人々を自分の迷いの世界に引きずり込んだのであって、その私の罪業(ざいごう)は、限りなく重い。
父様は、よく私に申されていた。――人にとって大切なものの一つに「慚愧(ざんぎ)」というものがある。「慚(ざん)」とは、心に自らの罪を恥じることであり、「愧(ぎ)」とは、他の人に教えて罪を作らせないようにすることだ。どちらも罪を恥じるということではあるが、人はただ自分が罪を犯さないということだけでは足りない。自分のために人にも罪を犯させないような生き方をしなければならないということだ、ってね。
私は、自分も罪を犯し、人さまにも罪を犯させてきた。「無慚(むざん)」な生き方をしてきたということになる。それを「懺悔(ざんげ)」として語るという意味においてだけ、私は自分の過去を語ることが許されるのだろうと思う。そういう語り方をしてこれたかどうか、何とも言えないが、ただ、いろいろのことを語ってきて、今、不思議なほど、昔、争ったり、厭(いと)うたりした人々が、むしろ、同じ迷いの海を渡ってきた道連れとして、懐かしくさえ思えてならない。
そんな自分の心のありようが、今は、うれしく、ありがたく思えるのだよ。
生命を生み繋ぎ、そして魂の核心を引き継ぐ、ということが生きるということの根幹だ。その他のことは、枝葉(えだは)のことと言えるかも知れない。
しかし、人間にとっては、その枝葉の中に、幸福の思いもあれば、不幸の思いもある。だから私も、苦しみもし、悲しみもし、また喜びもしてきた。そしてその枝葉の悲しみの中で、自分の生命を断ちかけたこともあった。でも、いつでも何かの力が、生きる根幹へと私を引き戻してくれた。
お前が、英夫から受けた苦しみの中で、死に場所を求めて外国への旅をしたと言ったことがあったが、それは、ずうっと私の心の中で悲しい言葉として残っている。
英夫を捨て、故郷(ふるさと)を捨て、そして私を捨ててもいい。どこにでも、どんな形ででも、生きる道を、私はお前に見つけて欲しかった。でも、私には、ただそれを祈ることしかできなかった。
だから、これは、私の遺言(ゆいごん)だと思って聞いておくれ。
生命の流れは、決して自分で断ち切ってはならないんだ。それはただ単に、子供を生む、生まないということではない。人は、生きている限り、人さまから何かを受け取り続け、また同時に、人さまにも与え続けていくものだ。私も生命の流れ、人さまも生命の流れ、ひとつひとつの流れは、かぼそく、頼りの無いものだ。誤って断ち切られることもあろう。
けれども、決して、自分で齢ち切ってはならないものなのだ。その、かぽそいものを撚り合わせて、人は生きていかなければいけないのだよ。
生き死にの意味の大きさ、小ささが、いったいどうして、誰にわかるだろう。自分の生命を自分のものと思うのは思い上がりだ。本当に謙虚に考えて見れば、自分の指一本たりと、自分で作ったものではない。それは与えられたもの、託されたものだ。
自分は小さい、自分は無だ、と思うのも思い上がりだ。何にもできなかったと思っても、どこかでお前白身が思いもよらないものを、お前からもらったと言って、生きている人がいるのかも知れないんだよ。
生きるということの不思議、そして生きている者同志が触れ合い、交わり合うことの不思議、この不思議というものに対して、素直に、謙虚になりなさい。
人を愛して傷つけ、傷ついたからといって、愛することをやめてはいけないよ。
苦しめた人が救われない限り、自分も救われてはならない、と言うお前の心は立派だ。その心のひとかけらでも持ってもらいたかった人もいる。
けれどもね、人は、立派だけでもいけないの。その立派さが、どこかでまた人を傷つけ。悲しませ、淋しがらせているかも知れないでしょう。
もう一度、素直になりなさい。柔らかい心になりなさい。そして、こわがらずに、また人を愛し、人の愛を受け入れて生きなさい。人を信じなさい。生きている、っていいことだな、と私はお前にもう一度思ってもらいたいのだよ。いいね、私は、それをお前に言ってやりたくて、今日まで生き、ここまで来たのかも知れないのだよ。
お前は、小さい時から、歌の好きな子だった。私も、そうだった。でも、私はいつかしら歌うことを忘れ、お前も、歌わない子になっていった。二人とも、いつのまにか、歌を忘れたカナリアになっていた。
あの、窓際(まどぎわ)にあるの、あれは、エレクトーンっていうのでしょう。一人暮らしのお前の部屋の淋しさを想像しながら来た私は、猫の「マモ」がいたことと、あのエレクトーンがあったことで心が救われた。
ああ、この子は、生命を慈しむ心を失っていない、と思った。そして、この子は、失った歌を思い出しつつあるのかも知れない、と思った。
明日は、日曜日で、お休みでしょう。
明日、あのエレクトーンを弾いておくれ。お前の歌が聞きたい。お前が小さい頃に歌っていた「とべとべトンビ」の歌が聞きたい。そうしたら、私もまた、歌を思い出せるかも知れない。
ね、一緒に歌いましょう。……
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