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第四章 述懐
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満州へ行く、ということは私にとっては、本当に心細いことだった。それが、前にも話したように、行ってみたら話が違って、何にも働き口なんか無いの。頼っていった先輩の高桑さんという家でも、はじめは、よう来たなんて言ってくれたが、あの人が本気で仕事を探す気もないようにぶらぶらして、毎日のようにあちらこちらの同級生の家ヘマージャンに出かけていくんだもの、それで四十日も居候(そうろう)されれば、いい顔もできなくなるわねえ。私は、奥さんには、言うに言われぬ意地悪をされたよ。
まあ、高桑さんだって、お世話になっていて言うのは申し訳ないが、いくらでも仕事はあるなんて言って、はるばる日本から呼び寄せておいて、本気で仕事を心配してくれもせず、長逗留(ながとうりゅう)が悪いと言って、腹の大きい私に意地悪して、出ていくようにしむけるだけでは、ひどいと思うよ。
しかし勿論、一番悪いのは、あの人だ。肉体労働を始めとして、さまざまの労働を軽蔑して、見ばえのいい、楽な仕事だけしかする気のない人だ。いくら日本人がはばをきかせていた満州だって、そうそう楽な仕事なんかあるはずがない。
母様(かかさま)が集めて持たせて下されたわずかのお金も、あの人が、毎日、小遣いだといって少しずつ持ち出すし、高桑さんには、ただもう出るように仕向けられるし、ああ、このままでは、この異郷の地で腹の子と一緒にのたれ死にすることになる、と思って、同じ死ぬなら、日本の地で死にたいと思ってね、何とかして残りのお金で日本への船の切符を買うしかない、と覚悟を決めた時に、二晩続けてあの人は帰ってこなかった。
迎えにいこうにも、心当たりは新京では同級生の枝川さんという方の苗字と、おおざっぱな町名、そして、その方が満鉄に勤めておられるということしかわからない。
それでも私は、朝早く高桑さんの家を出て、新京の街の中を探し歩いた。町の名前と苗字だけを頼りに、日本人と見れば尋ねながら、昼御飯も食べずにただもう歩き続けた。途中から雨が降りだして、傘も持っていないから、頭からずぶ濡れで、裾(すそ)は泥だらけ、まあ、気違い女のような姿だったろうね。それでもようやく、夕方になって、その枝川さんという方の家を探し当てた。
奥さんが出てこられて、びっくりして御主人にとりついだが、その人も出てはきたけど、あきれはてたような顔をして私を見ている。松井はきておりませんでしょうか、って再度言ったら、まあそこでは話もできんから上がれ、と言って入れて下さった。そして、私の話を静かにすべて聞いて、……事情はよくわかった、松井はここにはいないし、今いる場所もわからない、しかし松井という男は何という男だ、あいつは、あなたという人のことを、われわれには、日本でうっかりちょっかいを出してはらませてしまった「カフェの女給」がしつこい女で満州までついてきて往生している、何とか助けてくれ、と言ってまわっていたのだ、……許せない、あなたのために、なんとしてでも探し出して上げよう、と言われて、それからは、電話などというものもそんなにはない時に、もうあちらこちらと電話し、仕事も休んで歩き回って、とうとう、あの人が奉天に隠れているということを突き止めて下さった。その間、私は、お宅に泊めて頂いていた。
居場所はわかりました、奉天にいます、明日、私と一緒に行きましょう、とおっしゃって、翌日、奉天まで私を連れて行って下さった。そして、友達の家でマージャンしていたあの人のところへ連れて行かれたが、まあ、タバコの煙がもうもうとしていて、あの人は血走った目をし、垢(あか)まみれ、すえた異臭を放っている、話に聞くアヘン窟(くつ)というのはこんなものかと思うようなひどい部屋の様子だった。
枝川さんは、合わせて、同級生たちを呼び集めて下さって、私たち二人の身の振り方まで、皆様と一緒に考えて下さった。皆様は、あの人にそれまで「カフェの女給うんぬん」と聞かされていたので、それが嘘とわかって怒りなさったが、まずは日本に帰り今々にも生まれそうなこのおなかの赤ちゃんを無事に産ませて差し上げろ、それが人間としてのお前のまずやるべきことだ、すべてのことは、それを果たした上で聞く、と言って下さった。あの人はブツブツと言い訳をしていたが、どなたにも厳しい態度をとられ、因果をふくめられた形で奉天から追い出された。
新京の枝川さんのお宅にひとたびはより、そして、高桑さんの所に帰ってきたのだが、お別れする時に、枝川さんの奥様が、やはり大きなおなかをしておられたのだが、見送って下さって、別れ際に、ちょっと、と言って私を引き止められ、私のたもとにそっとお金を入れて下さった。
どうぞ頑張って元気な赤ちゃんを生んで下さい、元気を出して下さい、って何度も言って、いつまでも見送って立っておられた。淋しく悲しいばかりだった異国の地で、初めて、人様(ひとさま)の情けをかけられて、私は心の中で手を合わせながら帰ってきたよ。
あの人は、いつもの逆恨(さかうら)みで、ようも俺に赤恥(あかはじ)をかかせてくれたな、って罵(ののし)っていたが、私は何と言われようと、もう覚悟は決めていたから、その足で船の切符も手配し、大きなおなかで全部の荷造りをした。あの人はふてくされて荷造りも手伝わず、ウジウジ言い続けていたが、私が、お前さんがなおもこの満州に残りたいというのなら、好きにすればいい、私は日本へ帰ってこの子供を産むんだって言ったら、私から離れれば自分では一円の金もなく、すぐにも路頭(ろとう)に迷う身だ、何だかんだと言いながら、結局、次の日の船に乗ったよ。私は、最後のお金で、母様(かかさま)にあてて電報を打った。
帰りの海が荒れてねえ。お金も無く、一番安い船室で、いろいろの人が乗っていた。
夜になっても、うねりが強くて、あの人はいびきをかいて寝ているが、私は、いろいろのことを考えて眠れず、そのうちに、ひどく息苦しくなってきてしまい、新鮮な空気が吸いたくなって、揺れる廊下を伝い歩いて、甲板に出る扉を夢中で開けた。
真っ暗な闇の底にすうっと吸いこまれるように船が沈んでいったかと思うと、今度は波の力で高く高く押し上げられていく。船縁(ふなべり)にどどーんと波が当たって砕けて、そのしぶきが飛んでくる。ああ、いい気持だ、と思ったと同時に頭の中が白くなって、何の音も聞こえなくなって、もう苦しみも何も無く、引き込まれるように、手を離して、ふらふらっと船縁(ふなべり)へ歩きだした。
そうしたら、突然、ぐいっと襟首(えりくび)を捕まえられて、うしろへずるずると引きずられ、扉の中へ引き倒されるみたいに入れられて、やにわにパンパーンと両頬に平手打ちをくわされた。それで私は、ハッと正気に返ったんだが、そのままその人にぐいぐい引っ張られて、連れていかれたのが、船長さんの部屋だった。
私を船縁(ふなべり)から引き戻したのが、何と言うのか、船の事務長さんみたいな人で、その人が、私を船長室の椅子に腰掛けさせて、……何か昼間からうつろな目をしていて様子が変だと思い、それとなく注意して見ていたんだが、夜中に廊下を歩く音がするんで、もしやと思って駆けていって見たら、あなたが手を離して、ふらふらっと海の方へ歩きだしたから、思わずとびかかり、正気に戻そうと平手打ちをくらわせたが、痛かっただろう、申し訳ないことをした、って詫(わ)びられた上で、どうも何か事情のある様子だし、見れば身重(みおも)の身体のようだ、何か思いつめることでもあったのか、私たちはこの船からあなたを送り出してしまえば赤の他人だ、何を聞いても、きれいさっぱり忘れてしまう、だから、差しつかえ無かったら訳を話してはくれまいか、と言われた。
私は、いや決してこの身をどうこうしようと思った訳ではないんだが、いい空気を吸いたいと思ってデッキに出たら急にふわりとなってしまった、御心配をおかけして申し訳ないことをした、もう大丈夫だし、二度と御迷惑はおかけしないから、部屋に帰らせてくれ、としか言わなかった。
そうしたら、船長さんが、じいっと私の顔を見ていたが、言いたくないことは何も言わなくていい、だが、今、縁あってこの船の上に乗っている人たちの生命(いのち)は、特等の人だろうが、三等の人だろうが、そしておなかの赤ちゃんだろうが、すべて、私たちには自分の生命に代えても守らなければならない責任というものがある。だから、何としてでもあなの生命は私たちが守るし、もし今日、明日にでも赤ちゃんが生まれても、この船には船医というものも乗っているし、何の心配も無い。私たちが名付け親になってあげてもいい。みんなでお祝いしてあげるから、何にも案ずることは無い。だから、今日はもうお休みなさい、って言って、事務長さんの部屋を空けさせて、そこに私を休ませ、それからは新潟の港に着くまでその部屋に食事も運ばせて、戸の外にはいつも誰かれが監視に付いていた。
たぶん、私がまた馬鹿なことをしないかとご心配だったのだろう。あの人には何と言ったのか、ともかくそうやって隔離されたまま、新潟の港に着いた。あの人は、ふてくされた顔をして口もきかないし、私もあえて何も言わなかった。
ただ、デッキの所におられた船長さんと事務長さんがやってきて、天気も回復したし、無事に着いてよかった、しかし、船の上におられた限りはあなたを守ってやれたが、ひとたび降りて陸の上にあなたが立てば、もう私たちには何もしてやることはできない、あとは、あなたが自分の力で生きていくしかないんだから、元気を出して頑張りなさいよ、立派な赤ちゃんを生みなさいよ、って励まして下された。
船乗りは気が荒い、と言うけれど、本当に情けの深い方々だった。
考えて見るとね、この時もそうだし、その後の生活の中でも、なぜか、ぎりぎりのどん底になると、不思議と他人(ひと)さまが助けてくれなさったし、それにいつもどこか目には見えないけれども、父様(ととさま)や母様(かかさま)、御先祖様の愛情というものがあって、おりょう、死ぬなよ、おりょう、頑張れよって、この世に引き戻して下された気がする。
しかし、そうやって新潟の港には帰り着き、新松と一緒に迎えに出てくれていた母様(かかさま)が、よう帰ってきた、よう帰ってきた、とは言ってくれなさったが、父様(ととさま)の勘当(かんどう)が解けてはいないから水原の家に寄せてやることはできない、下(しも)の柄沢の家も、今日、明日にも祝言だから世話になることもできない、それでお前の子守りをしていた千葉の「たむばっぱ」のところへ行っておくれ、お前からの帰るという連絡を受けてすぐ電報で頼んでおいたし、今日また電報を重ねて打っておくから迎えてくれるはずだ、疲れてはおろうが、この足で向こうへ行っておくれ、と言われて、当座のお金をもらって、そのまま新潟駅から見送られて汽車に乗った。
私はもう、海の上で一度は死にかけた身だ、それを助け上げて頂いた、そのためにも今は、このおなかの子を、どんな小屋の中ででも生んで育てなければならない、と思っていたから泣かなかったが、新松が泣くのねえ、それを叱りながら、母様も涙ぐんでいなさった。それでも、米や味噌は何としても送るからな、やけを起こすんでないぞ、わかったな、って言い言い送ってくれなさった。
*
千葉の小見川(おみがわ)までの道のりも、遠かったねえ。乗り換え、乗り換えでねえ。 それに、変なおなかの張りと、痛みが汽車の中で来てね、いざとなれば汽車を降りてそのへんの宿ででも生むしかないと思っていたが、何だかまともなお産にならないような痛み方でね、私は、自分と一緒に海で葬りかけた腹の子が怒っているような気がしてね、……私が悪かった、勘弁しておくれ、私の生命(いのち)に代えてでも、きっとお前を生むから、許しておくれ、どうか、小見川(おみがわ)へ着くまで待っておくれ、って心で腹の子に誓ったり、願ったりしながら耐えていた。
「たむばっぱ」のことは、お前は覚えているかえ。……
そうねえ、終戦当時、房子のことを養子にもらいたいって水原の家に来られたこともあったけど、お前はまだ小さかったからよく覚えていないかもしれないねえ。
この人は、私の子守りだった人なの。家が貧乏でね、まだ小学校の四年になるかならぬかにもう学校へやれなくなって、おろされてしまって、それで私の家に子守りとして入った人なの。あの頃は、そういう家の子供は多かった。みんな田畑を耕す手伝いをしたり、子守りや丁稚奉公(でっちぼうこう)に出たりしていんだねえ。だから「たむばっぱ」は私とは、十歳ぐらい歳が違う。
祖父様(じじさま)も、父様(ととさま)も、遠縁(とおえん)でも他人でも、貧乏な家の子らは誰かれとなく世話していなさったから、私はひとりっ子だったけれど、「たむばっぱ」もいたし、武者さんへ嫁いで行ったおばちゃまや、津川へ嫁いでいったおばちゃまや、みんなすこし歳は上だけど、一緒にいて育ったようなものだから、淋しくはなかった。
そうそう、一時は、横町(よこちょう)の三平(さんぺい)もいたしたね。……私は、この人を、小さい時は、兄のように思っていた。……悪さばっかりして、いつでも父様(ととさま)あの頃に怒られている人だったけれど、私をは、かわいがってくれた。
祖父様(じじさま)が学校の学務委員とか何とかをやっておられて、たむばっぱみたいに小学校も卒業できないで子守りをしたりして働いている子が大勢いる、可哀相だ、と言って、提案して、学校の教室を使って「子守り学校」というものを開かれた。みんな子供をおんぶして行くのね。
泣く子もいれば、おしっこをする子もいる。それをあやしたり、うしろの方でおしめを替えたりしながら、読み書きを習うのね。みんな一所懸命に来て勉強していたんだって。私はもちろん、おんぶされて行っている時のことはわからないけれども、歩けるようになっても連れていかれていたから、ぼんやりとだけれど教室の様子は覚えている。
それがまたね、当時は、紙というものがとても貴重なものだったから、手のひらにね、字を指でなぞって書いて覚えていたんだって。
武者さんのおばちゃまや、津川のおばちゃまは、「たむばっぱ」とほとんど同じ歳だけど、ちゃんとした学級に入っていたから、夜になるとこの二人からまた、「たむばっぱ」は字を習うのね。それもやはり、手のひらでだった。だから、たむばっぱはよく、俺は、「手のひら学校」を卒業したんだって、笑って言っていた。
そんなふうに三人とも仲がいいんだけれども、子供だから、毎日、喧嘩して追いかけまわしあっているの、よく覚えているよ。私は、自分の子守りだから、どうしても、「たむばっぱ」のことを応援する。あの頃は、「あば」って呼んでいたもんだが、「あば、負んな、あば、負けんな」って言って加勢していたものだよ。
本当にまあ、家の中だけでは足りなくて、庭の隅から隅まで追いあって……。それがね、津川のおばちゃまは、旗色(はたいろ)が悪くなると、言うのね、「晩(ばん)げ、字、教えねどー!」ってね。夜、字を教えてやらないからな、って脅(おど)かすわけ……。そうすると「ばっぱ」は困ってね、降参するの。あの人は、うん、本当に向学心のある人だった。
下(しも)の家が母様(かかさま)の実家だったものだから、「ばっぱ」は母様のお供をしながらよく私のことを連れていったが、退屈すると、近くの本家柄沢さんの裏の川へ行って自分は泳ぐわけね。そのあいだ私は、ひもで木にしばりつけられているの。そうすると私がいやがって泣くって……。泣くと、「ばっぱ」は、川の水を手で掬(すく)ってきて、私の頭に、いい子、いい子、って言いながらピチャピチャかける。すると私が喜んで泣きやむんだって。そんなことをしておいてね、あとになって私に言うの、お前さんの髪が縮(ちぢ)れっ毛になったのも無理はねえ、俺がさんざん川の水をかけたからなあ、なんて。河童みたいに禿げなかっただけ、いいようなもんだ、なんて。……
本当にねえ、考えて見れば、十ばかりの子守りで、さぞ遊びたい盛りだったろうに、と思うよ。
「ばっぱ」の母親も、私を可愛がってくれた。毎朝、早くから新聞配達に出て、ずうっと在(ざい)の方までまわってくる。朝ご飯も食べず、昼近くになってようやくに帰り着く。雨の日もあれば、勿論、雪の日もあるわねえ。それを一日も欠かさず働き通していた。
旦那は病弱だったし、「ばっぱ」の下に男の子と、女の子がいて、せめてこの男の子には教育だけはきちんと受けさせたい、という母親の気持があったんだろうね。
あの時代の、小学校を終えた後の高等教育というものには、二つの意味があったような気がするね。一つは、恵まれた家庭の子が、より一層の教養を身に付けようという意味、もう一つは、貧しい家の子供たちが何とか高等教育を終えたという肩書によって世に出て、出世をはかり、貧しさから抜けだそうという意味と、この二つがね。
さだめし私なんかは、お嬢様教育で、花嫁学校なんて言われながら行っていたわけだし、たしかに、学歴をもって更に世に出て活躍しようというような意志を持っている人は、いないことはなかったけれども、少なかった。
「たむばっぱ」の弟なんかは、どちらかと言えば、現在の生活のくびきから抜け出すために勉強する、というものだったように思うし、考えてみれば、家のあの人なんかも、生い立ちの貧しかったことを聞けば、同じような「脱出組」という方だったかもしれないね。
ただ、その後の、何とも言いようのない自堕落(じだらく)な生き方を見てくると、同じ貧乏というものの中でも、考え、学んだことが、少し違っていたのではないかと思ってしまうけれどね。
「たむばっぱ」の母親は、くたくたに疲れながらも、在(ざい)からの帰り道で、あの酸っぱいの、……何と言ったっけ、そう、今では「いたどり」って言うけど、当時は「どんごろ」って言っていた、あれを取ってきて食べさせてくれたり、なつめの実をたもとに一杯入れてきて食べさせてくれたり、あけびを取ってきてくれたりした。何だか、子供心にも、その人のあったかい気持がうれしくて、どんな菓子より、そういう物の方がおいしく思えたよ。
小見川の「田村屋」と言うのは、「たむばっぱ」の叔母さんがやっていた小料理屋だったんだけど、後継ぎの子が無かったので、「ばっぱ」たちが夫婦で養子に入ったのね。「ばっぱ」はその時はもう、新潟の靴職人と結婚をして、新潟の裏通りに所帯を持っていた。
この「たむばっぱ」の旦那さんという人は、新潟の古町の角(かど)に昔からあった「深津(ふかつ)」という靴屋で見習い奉公をした人で、一人前になっても、公休の日には、仲通りの角の道端に腰をおろして、損得抜きで、通りがかりの人の靴の修理をさせてもらって勉強を続けて腕を磨いた人だったんだ。本当の、職人気質(かたぎ)の人だったね。でも、厳しいけれど、「ばっぱ」と同じで、心根は本当に優しい人だった。
「ばっぱ」たちが養子になって行った当初は、田村屋はもうすっかりおちぶれていて、つぶれる寸前だったらしい。不景気なご時勢のためもあったかもしれないけれど、一番の原因は、この叔母さんという人が、女ながらに男気(おとこぎ)があるというのか、親族をはじめとして、すがってくる人の面倒を見すぎて、全部財産を無くしてしまっていたんだよ。
その、つぶれかかっていた小料理屋を、「ばっぱ」は身を粉にして働いて働いて、まあ口のききようは男っぼかったが、情の深い人だったから、お客も段々に増えてきた。
「ばっぱ」の旦那さんは、それを手伝いながら、田村屋の店のすぐ脇に小さな靴屋を出していて、靴を作ったり、修理したりしながら、「ばっぱ」を助けていた。
当時、小見川には、肉というものが乏しくて、「ばっぱ」の旦那さんは、大きいブリキの箱を作って、それを背負って東京まで肉を仕入れに行き、それを町の人に買ってもらったり、料理に使ったりして、力を合わせて、田村屋を立て直して、小見川一の料理屋にしたんだよ。
でも、世の中は不公平なものでね、あんなに仲むつまじい夫婦なのに「ばっぱ」たちにはとうとう子供ができなかった。そのためもあって、私は、「ばっぱ」には、歳の離れた妹か、子供のように可愛がってもらった。
私たちの住まわせてもらった所は、田村屋から少し離れた家の、離れのようになっている所だった。小さいながらも台所も付いていて、台所のたたきを下りると、裏の掘割で汚れ物などは洗えるようになっていた。
勘当されて、しかも、満州帰りで、着のみ着のままで転(ころ)がりこんだのだけれど、茶箪笥(ちゃだんす)や火鉢は勿論のこと、茶碗や箸の小物に至るまで、みんな、田村屋のお古を貸してくれたり、買ってくれていたりして、何とかその日からもう生活できるようになっていた。米、味噌も、母様がすぐに送ってくれなさったし、お金も送ってもらえて、それでまもなく無事に子を生むことができた。房総で生まれたから、房子という名を付けたのだよ。
子供も生まれたからには、いよいよあの人にも、本気で働くことを考えてもらわなければならない。だけどあの人は、朝から晩まで魚釣りや、碁打ちばっかりで、働き口を自分で必死で探すという気は無い。そして、母様(かかさま)の送ってくれる物を平気で食べながら、おかずが悪いの何のって言っている。このままでは、どうにもならない、と思って、房子を抱いて、「たむばっぱ」と一緒に町長を訪ねて、何とか助けると思って使ってもらいたい、と願うた。それでやっと、まあ代用教員でしか使えないがと言って、なんとか採用してもらえた。
勿論、二十円なんてお金で暮らせるわけは無いが、水原から送ってくれる米、味噌、醤油と、田村屋からの差し入れで何とか飢えずにはいられた。
それがある時、母様(かかさま)から手紙が来て、父様(ととさま)の見回りが今月は厳しくて、どうしても予定の日に米を送り出せない、何とか少し待ってくれ、と言ってきた。困ったな、と思ったけれど、仕方がない。あの人の勤めに支障をきたさせてはいけない、何としても、あの人の弁当だけは欠かすことはできないと、あの人の米だけはわずかに残して、朝、晩に食べさせ、弁当も詰めて出して、残りの飯粒(めしつぶ)で重湯を作って私はすすりながら耐えていたけれど、最後には、忘れもしないが、二日というもの私は、水だけしか飲んでいなかった。米屋の前を、房子をおぶって、行ったり来たりするけれども、どうしても、入っていって、米を貸して売ってくれ、ということが言えない。房子は、乳の飲み盛りだ、私は水しか飲んでいない、とうとう歩くこともできなくなって、台所の壁に寄りかかって、房子に乳をふくませるんだけれども、もう乳も出ないものだから、房子は火がついたように泣く。私は、ひたいから、脇の下から、冷汗がだらだら流れて、ますます立てなくなって、もう、水を飲みにいく力も無くなってしまった。
その時に、大家さんが、あんまり房子の泣き方がひどいもんだから、田村屋へ行って、どうもこのところ、聞こえてくる房子ちゃんの泣きようがただごとでないが、どこか具合でも悪くないのか、奥さんのぞいてやってくれ、と告げなさった。それで「ばっぱ」が心配してとんで来てみたら、……私は壁に寄りかかって、痩(や)せこけて、立つ力も無くなっている、房子は、胸で出ない乳にすがって火のついたように泣いている。
いったいどうしたんだ、松井と喧嘩でもしたんか、と言うから、いや、喧嘩なんかしていない、と言う。じゃあどうしたんだ、二人して病気にでもなったんか、と言うから、いや、病気っていうわけではない、と言う。それじゃあ、この有様は何なんだ、って問い詰められて、仕方なく、いや、実は、米が来なくて、金も無くなって、この二日、水だけ飲んでいたんだ、……と、そう言ったら、いやもう「ばっぱ」が怒った、怒った、泣き泣き怒って、何でそんなことを目の前にいる俺に言うてこないか、俺の気持を何だと思っている、この大馬鹿もんが!って言って、走って帰って、家の者に、お鉢(はち)に御飯を一杯に詰めて持ってこさせた。
それを私は食べさせてもらったんだが、震える手で茶碗持って餓鬼(がき)みたいになって食べる、……のどにつかえて、苦しいやら、切ないやら、ありがたいやらで、涙がこぼれて、いっしょくたにすすりながら食べたんだよ。
あの時だけは「ばっぱ」も、あの人のことを怒ったね。女房、子供が飢え死にしかけているのもわからんで、こんな時間まで遊び呆気(ほうけ)ている馬鹿があるか!って怒鳴りつけたもの。……
でも、あの人はね、自分が何かを言われて反省するってことは無い人なんだ。見栄と自尊心だけが強い人だからね。苦(にが)いことを言う人からは、ただ遠ざかるだけ、そして、逆恨(さかうら)みをする人なんだよ。もうそれからは、ぴったりと「ばっぱ」の所へは行かなくなる、あれこれと悪く言う。……
それで私は、ああ、これでは大恩(だいおん)ある田村屋に対して申し訳ないばかりだって、心苦しく思っていたところに、吉川(きっかわ)和尚と会内(えない)和尚の口ききで、室蘭商業に働き口があって、それで思い切って北海道に渡っていったんだよ。
あの人は、そんなふうにして、田村屋から受けた恩も忘れて、逆恨(さかうら)みの冷たい心しか持たず、のちに田村屋のおじさんが亡くなった時でも、「たむばっぱ」が亡くなった時でも、一度も悔(く)やみに行かなかったね。
しかし、「ばっぱ」も、おじさんも、私たちが室蘭に行ってからも、房子のことを思ってくれていて、英夫が室蘭に行ってから生まれたわけなんだが、こんどは男の子が生まれたからその子ばかりを可愛がって、房子を粗末にしているんではないか、房子に淋しい思いをさせたら承知しない、なんて手紙を書いてよこしたりしていた。
そして結局、おじさんが室蘭まで出てきたのには驚いたねえ。あの時は、十日ばかり滞在していかれたんだが、来てみると、今度は英夫も可愛い。すっかり気に入って、英夫のことばっかりかまっているものだから、房子が、やきもち焼くのね。あの子は、すねたり、淋しくなったりすると、歌を歌いだす子だったんだが、庭で、一人で、ブランコに乗って歌を歌っているのね、ああ、やきもち焼いて淋しいんだな、って思って、かえって可哀相だった。それでも、房子のことは、やっぱり一番可愛いと思ってくれていたんだろうね。いるあいだに登別(のぼりべつ)温泉へ連れていってくれたり、後になって、房子を養子にもらいたいって言ってこられたもの。……
房子をもらいにきた終戦の頃は、私ももう水原の家にもどって厄介になっていたんだが、余計者でもあり、房子の立場も可哀相なようなような時があったんだよ。そんな時に、「たむばっぱ」が房子を養子に、と言ってきた。普通ならすぐにも断るところだが、あの頃はもう、いろいろのことが切なくてね、この子は、可愛がってくれる「ばっぱ」たちにもらわれていった方が幸せかなあ、って私も本気で思ったの。
そう、あれはね、今は焼けてしまった善照寺の正面の石段、あの山門の所にあった石段に私と、「たむばっぱ」と房子の三人で腰かけて、その話をしていたの。
当の房子が何と言うかなあ、って思って、心を痛めながら二人のやりとりを聞いていたら、……あの子はまず、一番最初に、小見川(おみがわ)へもらわれていったら女学校に入れてくれるか、って聞いた。ああ、入れる入れる、女学校でも大学校でもどこでも入れる、と「ばっぱ」がそう言った。そうしたら今度は、小見川の家は、畳はきれいか、ってこれを聞いた。ああ、畳はみんなきれいだが、来てくれるんなら、また全部、表(おも)て替えしてもっときれいにする、と答える。すると今度は、便所はタイルか、ってきた。いやもう、私もあきれはしたが、子供の言うことだ、黙って聞いていた。ああ、タイルだとも、ピカピカのタイルだ、と「ばっぱ」が言った。そうしたら、それなら行く、って房子が言う。……私はびっくりしたが、さあ、「ばっぱ」は喜んだ、喜んだ。まだしばらくいる予定のはずが、俺は小見川(おみがわ)へ帰る、今すぐ帰って支度をしなくてはならん、となってしまった。
そこで私が、なるほど房子は行くとは言った、けれども、小見川に帰れば親類衆もいるんだから、ともかく親族みんなで集まってよく相談をしてみてもらいたい、一人でも反対者があれば私はやらないのだから、その結果をすぐに手紙で知らせてくれ、と言って送り出したの。
さあしかし、それからというもの、手紙が来ない。……ははあ、これは身代(しんだい)にからむことで反対者があるな、ってわかったから、これはもう養子にはやるまいと思って、房子に、小見川の「ばっぱ」の所、子供が生まれたから、もうお前は行かなくてよくなったんだよ、って言ったら、いつ生まれたの、って言うから、帰ってまもなくだよ、と言ったら、あの子はまたあっさりしてる、ふうん、なんて言って、それっきりになってしまった。
本当にあの時はねえ、やった方が房子も可愛がられて、幸せになるかなあ、って思いもしたんだけど、代々に田村屋の身代(しんだい)というものを当てにしている親類衆が沢山いた、行けば、房子もうんと苦労しただろうと思う。養子にはやらないで良かったんだろうね。
「ばっぱ」たちの気持を考えれば、可哀相だったけれど……。誰がどう反対したかってことは、「ばっぱ」も言わなかったし、私も聞くことはなかった。
「たむばっぱ」は、その後、きょうだいの子供を夫婦養子にして、孫が生まれたと言って、本当に喜んで私の所へ手紙をよこした。今度はその孫が可愛くてもう、朝から晩までおんぶして子守りをしていたようだね。どこまでも、子供というものを可愛がる人だった。
ところがあの人は、タバコを、かた時も口から離さない人だった。それで、肺癌になってしまった。おじさんは、それに先立って亡くなっておられたんだが、「ばっぱ」が病気になったら、その夫婦養子が、まあ人情の無いもんだねえ、「ばっぱ」を捨ててどこかへ行ってしまったんだよ。それで、「ばっぱ」はいっぺんに気落ちして、病気も悪くなり、千葉の大学病院へ入院をして、もう手おくれだったようなんだけど、手術を受けた。
その便りを受けて、私は大急ぎで水原から見舞いに行ったの。親類衆があれだけいても、そうなると誰も看病に付かないで、雇いの付き添いが付いていた。痛みもあるし、肺が片方無くなったんだもの、苦しがっていたねえ。
私が着く、まもなくに、ちょうど部屋へお医者さんが回診で回ってこられたから、私が外へ出ようとしたら、ぱっぱが、お前さんここにいろ、って言う。私は、傷なんか見るのは、つらくていやだったんだけれど、離れないでいてくれ、って言うから、仕方なくそこにいたの。
一面に巻きつけてある包帯を取ったら、まあ、何と言うんだろうねえ、背中から胸まで断(た)ち割ったような傷でねえ、私は貧血を起こして倒れそうだった。そしてそのあいだも、苦しんで苦しんで、血痰がどんどん出て、それが切れなくて咳をして、それでまた傷も痛めば、呼吸も苦しくなってね、何とも慰めようも無くて、ただ黙って手を握っていることしかできなかった。
それでもねえ、苦しい息をしながら、私に、こう言った。……お前さんも、小さい子を残してきたんだし、上の子らの学校もあろう。もう帰れ、帰ってもいい。……帰ってもいいんだが、帰る時に「さよなら」を言うな、「さよなら」を言われれば、俺はどうしても泣いてしまうから、それだけは言わないで、俺の知らんうちに帰れ、って言う。そう言い終わってから、力尽きたようになって、ほとんど昏睡のようになってしまった。
ああ、これが別れだな、と私は思って、せめて房子にひと目、会わせてやりたいと思って、汽車の時刻を見計らって、眠っている「ばっぱ」に手を合わせて、心の中で別れを言って、郵便局から水原へ電報打って、房子にすぐ出立の用意させておくように言って、私が帰る、入れかわりに房子を千葉にやったの。
あの子はまだ小学生だったけれど、しっかりしていてね、上野駅に勤めていた知り合いの人に乗り換えを手伝ってもらったが、一人で、千葉の大学病院まで行ってきたんだよ。
「ばっぱ」は、房子を見て、泣いてばかりいたらしい。そして、房子が帰ってきた翌日か、翌々日に亡くなったんだね。「ばっぱ」の最後の心の中は、はかりしれないけれど、言葉にならない思いは、一杯、あっただろうね。房子をやったことが、かえって泣かせることになったようにも思うし、あれでよかったのかなあ、とも思うしねえ。
私たちだけではない、修二郎もね、習志野の兵舎にいた頃には、幾度も面会に来てもらい、差し入れをしてもらったりして、どんなに慰められたかわからないんだよ。血のつながりのある、無し、は、父様(ととさま)の言われるようにすべてではない。あの人は、私にとっては、並の身内以上の深い縁のあった人だった。……うちの父ちゃんかね、あの人は行かなかったね。おじさんの最後の時も、「ばっぱ」の最後の時も、行かなかった。私も、房子を送ることは考えたけれど、あの人をどうこうするなんてまるで考えなかった。あの人は、「ばっぱ」たちのことは、利用はしたが、結局、心の絆というものは持たないままで終ったんだもの。……
「たむばっぱ」たちに、これ以上迷惑をかけては、という気持もあって、室蘭に渡ったんだが、手当は本給七十五円、それに寒冷地手当が十円だった。内地にくらべれば、ややよかったんだろうが、寒い所だから、暖房費のケタが違う。賞与もみんな暖房費になって消えてしまっていた。しかし、あの、北海道の冬の外気の寒さというものは、私も新潟生まれだからいいかげんの寒さにはへこたれないつもりだったが、本当に肌を突き刺すというか、骨の髄までしみとおってくる寒さだったね。
東室蘭の教員住宅で暮らしたんだけど、隣りの奥さんのように、私が入籍の適(かな)わない身だと知ると、とたんに態度も変わり、住宅中にわざわざ触れてまわるような心の冷たい人もいた。それなのに、あの人は何だかその人のごきげんとりをして、私に対しては、お前は好ききらいが強くて困る、俺の立場も考えろ、なんて筋違いのことを言って私を責めていたね。女としての私の悔(くや)しさとか、つらさなんて何にも思いやってくれず、一緒に悲しさを担(にな)ってくれる気持というものは無い人だった。
でも、心のあたたかい人たちにもたくさんめぐり会ったね。
英夫は、着任してすぐの冬に生まれたんだが、産気づいたのが夜だった。そうしたら近所に住む生徒さんたちが、橇(そり)を持ってきてくれて、ゴザを敷いて私を乗せてね、ワッショ、ワッショ、と産婆さんの所へ連れていってくれたんだよ。
渋谷校長という方も、奥様ともども日陰者の私に何かと恩情をかけてくださって、英夫のこともとても可愛がって下さった。その英夫も無事に生まれ、房子も元気に育ってくれて、その夏には、小見川(おみがわ)のおじさんも訪ねて見えられたりして、まあこれを幸せと思わなければいけないなあ、と思って暮らしていたんだが、その次の冬に、英夫が小児結核にかかってしまった。
英夫は、よく扁桃腺をばらして熱を出す子だったんだが、この時の熱はともかく四十度以上で、ただごとでなく、それに、ひどい咳が続いた。隣り町の、輪西(わにし)という所に、軍医さんで、西越という方がおられてね、いつも英夫を診ていただいていた。汽車では不便な所で、バスで行って診てもらっていたのだが、この時は、診られるなり、この咳(せき)はおかしい、と言って、レントゲンを撮り、これは小児結核だ、とおっしゃった。あなたも、そこの小ちゃいお姉ちゃんも念のために、と言って撮ってみて、幸い坊やの他は大丈夫だと言う。
それはよかったが、さあ、英夫の生命を救わなければならない。万に一つの望みだが、あなた、一日おきに注射にこれるか、と言われる。
あれが何と言ったかねえ、……そうだ、「ヤトコニン」って言ったね、そんな注射、今でもあるもんかね、その「ヤトコニン」と言う注射を何十本とか続けてみる他にない、奥さん続きますか、と言いなさる。私は、あとさきのことは考えられもしないが、お願い申します、って言った。
しかしさあ、一日おきに医者に行って、一回五円ずつかかる。あの人の給料なんかではどうにもならない。それで、水原の母様(かかさま)に訳を話したら、味噌と米を送ってくれなさった。それをみんな、教員住宅やご近所の方々に買っていただいてお金にして、それを全部、英夫の治療費にあてた。結局、味噌が十貫目樽で十回、ということは百貫目だものねえ。それに米が十五俵、……大変な援助だったんだよ。
この時のことひとつ思っても、それで我が子が生命(いのち)を拾ったんだもの、あの人は母様に対して恩はあっても恨む筋合いなんかない訳なんだが、それがのちに、下条(げじょう)の家で一緒に暮らした時に、母様に対して火箸を振り上げたんだよ。……それはね、どこで暮らしてもあんまりにもあの人の女癖(おんなぐせ)が悪いんで、母様が意見なさったの。そうしたら、何をっ、て言って火箸を振りかざした。
しかしあの時、私は母親を改めて見直したんだが、びくともしなかったね。じっと座ったままで「お前さん、それで私を叩いたり、刺したり、できるもんだと思うなら、なじょも(なんとでも)やってみるがいい。さあ、できるかね」って、小さい身体で毅然として座っていなさった。そうしたらあの人は、腰砕けになって、火箸を下ろしたよ。当たり前だよ。あとにも先にも、どれだけ、佐々木の家というものに助けられてきたかわからないんだもの。
それでもあの人はね、今日に至るまで遂に、佐々木の家に対しても、亡くなられた母様に対しても、修一郎に対しても、感謝したり大事に思う気持は無いままできたね。
あの人にとっては、跡取り娘と一緒になったんだから、本来、佐々木のものはすべて自分のものになるべきものだった、それを、勘当という名で奪ったのは佐々木の方なんだから、これぐらいのことはするのが当たり前だ、それに、受け取ったのは、おりょうであって俺じゃない、俺は借りは無い、ってそういう考えだからね。なるほどね、たしかに母様に願うていろいろ送ってもらったのは、私だ。そしてそれ子供も生み、子供も育て、子供の病気の治療もしてきた。しかし、俺は世話になっていないと言うなら、この子供らはみんな俺の子ではない、って言っていることになろうね。…… まあ、実際のところ、そういう気持だったかもしれない。女房、子供に対する情愛というものは、本当に薄い人だったよ。
そうやって母様が送ってくれなさったものをお金にかえては、東室蘭から輸西(わにし)の町まで一日おきにバスで通ったんだが、そのバス停というのが、ただ原っぱにポツンと標識が立っているだけでね、バスというものは、雪になって遅れるとなれば、どれだけでも遅れる。その間、雪の中で立ち続けて待っている。……
房子も小さかったし、火の気(け)のある所に一人で置いていくこともならず、連れていくんだけれど吹雪いてくると地吹雪と言うのだろうね、風と雪が上からではなく横から吹きつけてくる。涙を流せば涙が、鼻水を垂らせば鼻水が凍る。まつげまで凍ってしまう。 それでも、房子は、けなげな子でねえ、どんなに寒かろうと思っても、寒いとも言わず、泣きもしないで、私のモンペの裾にしっかりつかまっていた。
ある日、バスがやっと来たんだけれども、雪だるまみたいになって立っている私たちが見えなかったのか、それとも、満員ででもあったのか、止まらないで、そのまま行ってしまった。それで、覚悟して、私たちは歩きだし、結局、輪西まで吹雪の中を歩いて行った。 房子は、転(ころ)び転びしながらも、泣かないで、歯をくいしばって、裾につかまりながら歩き通した。可哀相に、と思ってせめて手を引いてやりたくとも、もう英夫の息が今にも絶えそうで、おんぶすることができず抱いているので、手も引いてやることができなかった。
そうやって、ようやくに輸西にたどりついたら、西越さんというお医者さんが、私たちの姿を見て、これでは、坊やの生命も持たないが、あなたたちの生命も持たない、注射の打ち方を教え、薬も分けて上げるから、こういう凪(な)ぎの悪い日は、家で打って上げなさい、とそう言って、親切に教えてくれ、道具もみんな分けて下さった。
お医者さんに言われてみて気がついたら、凍った着物の裾でこすれたんだね、私の両足とも、腿から下が血だらけになっていたよ。
それで何とかその後も英夫に注射を打ち続けることができたんだが、あの寝汗というものは、ひどかったねえ。今思っても、ぞっとする。人間は汗をかいて熱を下げるんだ、ってお医者さんは言うけれども、まあ、だらだら、だらだらと、したたるように汗をかいて、耳たぶにたまってくる。それを、そばにいて、一晩中、脱脂綿で吸い取ってやっている。その上に、咳をして咳をして、今にも息が止まりそうなの。砂糖水も、湯ざましも、口には含むんだけれども、咳と一緒に吹き出してしまって飲めない。一日ごとに、顔も体も小さくなっていくばかりで、筋肉注射をしようにも、もうお尻の肉も無いようになってしまって、うつろな目をしている。ああ、この子はもう助からないなあ、と覚悟したけれども、ただただ、神仏に祈りながら、注射を続け、脱脂綿で砂糖水や重湯を吸わせ続けた。
それが、ある朝、ふと、うたたねから気がつくと、英夫がめずらしく咳もせず静かだ。さわってみると、熱がないどころか、ひたいも冷たくなっている。ああ、この子が死んでしまうって思って、思わず抱き起こして、英夫、英夫って呼んだの。そうしたら、目を開けて、焦点の合わないような目で、一所懸命に私を見て、そして、わかったんだろうね、わずかにニコッとしたの。ああ、生きている! 笑ってくれた!……って思ったら、それまで何十日も泣くことも忘れて看病していた私が、もう涙が出て、涙が出て、どうにも止まらなくなった。しゃくり上げながら、大急ぎで湯ざましを与えたら、チュウチュウと吸うのね。時々むせるけど、ちゃんと吸ってくれる。ああ、この子は助かるんだ、神、仏のおかげだって、どこに向かって手を合わせていいかわからないけれど、私は手を合わせていた。
私が泣いたら、やっぱり何十日も泣くことのなかった房子が、私の顔を見て、堰(せき)を切ったように、わっと泣き出したの。……あの子も、小さいながらに、一緒に耐えていたんだろうねえ。
本当に、英夫は神仏(しんぶつ)のお力で生かしていただいたようなものだ。そしてそれを、大勢の人々が助けてくれた。西越さん、母様(かかさま)、そして、米や味噌を快く買って下さった室蘭の人々だ。
父ちゃんかね。……あの人は、勿論、毎日、学校に行っていた。そして、今夜は製鉄所の社員に中国語を教える日だとか、何の会議だとか言っていた。勿論、働いてはもらわなくてはならない、そして、本人も、俺は、一所懸命に働いていたんだと言うでしょう。それはそうかもしれないが、なぜ、私は、一人ぼっちで、いや、房子と二人だけで、英夫が生死の境をさまようているのを見続けていたような気がするんだろうね。どこで、あの人がどうしてくれたとか、どこでどう言うてくれたとかの記憶がまったく何も無いんだよ。不思議に思うの。
今朝出ていけば、夜、帰った時にこの子はもう息をしていないかもしれない、毎日毎日が見納(みおさ)め、最後の親子の別れになるかもしれない出勤だったはずだよ。それでも、弁当持って、あっさりと朝は出ていったし、夜は、私が汗を拭いてやっているそばで、いびきをかいて寝ていた。お前は、いつでも子供と一緒に眠れる、俺は毎日仕事なんだ、って言う気持だったんだろうね。次の日が休みであったって、一度として、今夜は俺が看(み)ているから、お前はゆっくり休め、とは言ってくれなかったね。そう言ってくれても、勿論私は、大丈夫と言って自分で看たとは思うよ。けれども、そのひと言で、ああ、私は一人じゃないんだ、ってどんなに慰められ、励まされたかわからないだろうにね。
言葉はひと言、そして、言うことは一瞬。……しかし、そのひと言を、決して言えない人というものがあるんだよ。それを言う心を持ち合わせていない人にとっては、本当に簡単なそのひと言が言えない。そして、そのひと言を言わなかった訳を説明するために、あとで沢山のことを言うんだね。
英夫もやっと正月を越して誕生日を迎えて、いろいろのお人に感謝しながら穏やかな日を送っていたら、父様(ととさま)が吐血をして入院した、という母様(かかさま)からの手紙が来た。
私は、すぐにもとんで帰ろうと思うし、渋谷校長御夫妻も、帰って最後の親孝行をしなさい、と言って下さるが、母様が、いや待て、父様はお前の話をされるようになったが、まだ来てはならないというふうでいなさる、しかし、近々許しを願うから、それまで待っていろ、と言いなさる。あの時は、本当につらかった。
朝晩に、私は、水原の方に向かって手を合わせていた。房子も英夫も、真似して手を合わせるんだよ。その時、お前はまだ、腹の中だったから、勿論わかるはずもないのに、お前は昔から変な子で、いや腹の中で一緒に考えていたの、一緒に泣いていたの、ヘソの穴からちゃんと見ていたの、って言う子だったんだが、母親の感情を腹の子は感じるもんだって言うから、本当にそうだったのかもしれないね。
しかし、八月に入って二度目の吐血、と聞いた時には、私はもう夢中で汽車にとび乗った。房子の手を引いて、英夫をおぶって、おしめやら、着替えやら、風呂敷包みの大きいのを持ってねえ、長い道のりの旅だった。……
しかし、この旅の何十時間かの間、私は、本当にいろいろのことを考えたり、思い出したりしていた。
振り返って見れば、五年の歳月が経(た)っていた。満州、千葉、そして室蘭と、生きる場所を求めてさまよい歩いてきていた。その親不幸の歳月の長さが、言ってみれば、この道のりの長さだ。そんなに簡単に埋められるほど、私の父様たちに対する罪は軽くない。
この五年、何につけても助けてくれたのは、母様だった。そして、母様の指図さしず)に従って、米、味噌を運び出し、送ってくれたのは、新松だった。父様は、手紙一本くれず、言葉ひとつも母様に託してよこさなかった。しかし、あの父様が、母様や新松のしていることに気がつかぬはずがない。気がついていながら、見て見ぬふりをしていてくれたからこそ、すべてができたことだった。それなのに、口に出しては、おりょうはどうしているのか、と母様に聞きたくとも聞かないできた父様の意地と悲しさ、そして、やはり手紙一本書かなかった私の意地と悲しさ、どっちも、この世でたったひとりの父親であり、たったひとりの娘であってみれば、なるほど心の中はわかり合ってはいる、わかり合ってはいるが、何もなかったように水に流すということができるほど、簡単なものではなかったんだ。
二人の子供と、お前をおなかの中に抱いて帰るということは、これは、取り戻すことのできない歳月のしるしを持って帰るということだ。この、しるしというものを、父様が見られて、何と思われるだろうか。
修一郎、修二郎、そして桂子、まだ幼かったこの三人の子を残して、私は家を出た。どんなに母恋しいと思ったことだろう。私とても、一日たりと忘れることは無かった。その後、五年、……みんな、父様、母様に大きくしていただいた。しかし、私の中には、勘当されて家を出た時の、小さい時のままの三人の顔と姿しかない。あの子たちに関しては、時間というものが、私の中では、あの、家を出た日の所で、止まってしまっている。
父様にも、母様にも、置いて出た子供たちにも、どう詫びても、詫び尽くせず、償い尽くせぬものがある。……ただ、それは今はいい、今はただ、残されたわずかの時を父様のそばにいたいという、その思いだけだ。その思いだけで私は帰るんだ。父様、待っていて下さいね。……
そんなことを、心の中でつぶやいて、祈っていたが、長い旅に疲れて、うとうととさまとすると、やはり眠りながらも父様のことを考えているのか、いろいろの夢を見るんだれども、みんな、父様にかかわる夢ばかりで、それも父様がお元気な頃の夢ばかりなの。
私が、女学校に入ることになった祝いに、って言って春休みに東京へ連れていってくれなさった思い出だったり、横町の三平が私の婚約の祝いにって来てくれた思い出だったり、ね。……
春休みだった、私は、父様に連れられて、磐越西線(ばんえつさいせん)で、まず会津若松に降りて、鶴ケ城趾や飯盛山(いいもりやま)を見て、その晩は、磐梯熱海(ばんだいあたみ)に泊まって、お得意さんの旦那衆と会って、……そう、あの頃は、郡山あたりまでお得意さんがあったんだねえ。……次の日は、那須に泊まった。
那須は、今でも忘れられないけど、宿を少し出た所に「殺生石(せっしょうせき)」と呼ばれる岩があって、この下から何か硫黄の成分の毒ガスが時々噴き出すので、そういう名が付いていて、近寄っちゃならんぞ、と父様が言っておられたが、私たちが泊まったその翌朝に、ここで五人の親子がガスに当たって死んだの。それが、隣りの部屋の人たちでねえ、大騒ぎだった。
立ち入り禁止の棚の中にまで入っていってやられたのね。小鳥も落ちていたりして、何かその日は、特別に余計にガスが噴き出したんだろうか。家族揃っての楽しい旅だったんだろうにね。
父様は、ともに泊まった縁だ、と言ってお香典を包んで置いてこられたようだった。
東京では、市電というものに初めて乗った。大体において、父様という人は、頑固ではあるけど、決して頭は固くなくて、何でも新しいものには興味があってね、市電と言えば市電に、地下鉄と言えば地下鉄に、勿論、ラジオだ、自転車だ、自動車だ、電話だと言ってはすぐに興味を示す人だった。
しかしまあ、東京っていう所は、ともかく人が多くて、私は、父様とはぐれたらどうしようと、必死に父様の手につかまるんだけれども、父様は、娘と手をつないだりするのが恥ずかしいもんだから、放せ、放せ、と言う。仕方がなくて私は、父様の着物の帯につかまって歩いた。
東京は、恐くてあんまり好きじゃない、って私が言ったら、仕様がないなって、早く引き上げて、帰りは、高崎から長野にまわり、善光寺近くの宿に泊まってきた。
碓氷峠(うすいとうげ)って言うのは、今はどうなっているのか、あの頃は、アプト式とか言う歯車を組み合わせたような機関車の輪で、ギザギザの付いたレールの上を走っているんだって、まあ、父様は、講釈しながら、窓から身体乗り出して見る、デッキヘ行ってのぞいて見る、まるで子供みたいにはしゃいで走りまわっているの。
そうしては、おりょう、寒くないか、おりょう、腹へらぬか、おりょう、足痛くないかって気を使ってくれる。
家にいる時は、でんと構えて厳しい人だけれど、旅に出て、二人っきりになると、本当に普通の子煩悩(こぼんのう)な父親になる人だった。私が結婚してからは、今度は、修一郎たちをだしにして、あれを見せる、これを見せるって言っては、あちこち旅をしていたね。
結婚と言えば、私が無理やりに因果を含められて、まもなくだったが、どこでどうし聞きつけたんだか、横町(よこちょう)の三平が、祝いだって言って、お酒を一本ぶら下げて来た。あの人は、私より五つぐらい歳上なんだけれど、私の小さい頃は私の家にいたのね。佐々木三平、って同じ佐々木の姓だったから、きっと遠縁の人だったのかもしれない。この人は、小学校を卒業するまで私の所にいて、それから横町の自分の親のいる家に戻って、何かしていたんだが、十五、六の時に水原の町を出てしまって、一時は、どこで何をしているのか、親にもわからないようになっていた。それが、二十歳ぐらいになってから、ふらりと戻ってきて、私の家にも来たの。この時に、父様にこっぴどく怒られた。何で怒られたってね、ひとつには、親に行方も告げずに姿をくらますとは何ごとかって言うのと、もうひとつは、戻って来た時に、肩から背中にかけて、まあ、びっくりするような大きな牡丹の入れ墨(ずみ)をしていたもんだから、親からもらった身体を傷つけるとは何ごとかって、父様に怒られたの。父様は、親代わりに自分を育ててくれた人だから、父様には頭が上がらない。小さくなっていた。
この人が、太鼓を叩かせると名手でね。まあ、小さい時から好きだったんだね。祭りになると、家の山車(だし)小屋から山車が出ていくんだけれど、もう一週間も十日も前から、小屋の中で、日がな一日、太鼓を叩いていた。
父様は、また三平の狂う夏祭りが来た、うるさくてたまらん、って言ってはいたけれど、別にやめさせもしなかったから、それなりに、ああ今年もまもなく祭りだなあって思って、楽しんでおられたのかもしれないね。私たち子供も、三平の太鼓が始まると、うきうきしていた。
水原を出て行方知れずになっても、天神様の祭りの八月末になると、どこからともなく帰ってくる人でね。私の家にも来ず、親の家にも行かず、どこかにもぐり込んで寝ていてね、二日間というもの、太鼓を叩き続けている人だった。自分で工夫して、不思議な太鼓を打つ人だった。私は、小さい時から、ずっと三平の太鼓を聞いて育ったから、どんなに遠くでも音がすると、ああ、三平が打っているってすぐにわかって、走っていくんだった。
そうして、山車(だし)について歩いていると、幕のすきまから私を見つけてね、恥ずかしがって逃げようとする私を捕まえて、中に引っ張り込んで、仕様がないから私が中で腰かけて座っていると、ますます張り切って太鼓を叩いた。
「乱れ打ち」とか「流れ打ち」とか言うんだろうけど、ドロドロドロ……って調子を取っていたかと思うと、頭の上まで撥(ばち)を振り上げて、ズダーン、ズダダーンと叩きだす。その叩き方が始まると、笛方の人は、笛をやめる。三平ひとり、太鼓を叩くのね。私は、それを聞きながら、上半身裸になって汗をしたたらせて打っている三平の姿をうしろから見ながら、何かしらいつも胸が苦しくなるんだった。
牡丹(ぼたん)の入れ墨をしてきて、父様には怒られたけれど、太鼓を叩いていると、その汗が牡丹の花びらを濡らして、露のように光る。父様には言うと叱られそうで言わなかったけれど、私は、とってもきれいだと思った。この太鼓を打つ時のために、この人は、この入れ墨をしたのかなあ、とか、それを私に見せにきてくれたのかなあ、なんて娘心(むすめごころ)で思っていた。
父様に叱られてからは、いっそう、祭りには来ても私の家には入ってこなくなっていたんだけれど、私の結婚がもうすぐ、って言う時に、一升びんを持って、私の祝いに、って寄ってくれた。祭りとは関係のない、冬の日だった。
父様も、その日は機嫌がよくて、まあ上がれ、って言いなさった。あの人は、何だか舌をもつれさせて祝いを言っていだけれど、父様は笑って、そんな紋切(もんき)りの口上はお前には似合わん、もういいから一杯やれ、って言いなさった。
私が、三平の持って来たお酒をお燗(かん)しようとしたら、いやもう、冷やが一番なんで、と言う。……盃なんかじれったい、湯のみで、って言う。……それで私が注(つ)いでやろうとすると、赤くなって、いや自分でやるから、と言って自分で一升瓶から注いでは飲んでいた。
母様が、何かおつまみを、って言って立とうとしなさると、それを押しとどめて、帳場の軒下(のきした)にぶら下がって見えた、赤い唐辛子(とうがらし)、……あれがいい、あれを火であぶったのが一番だって、取ってもらって、自分で囲炉裏(いろり)の火であぶって、かじっては飲むの。大丈夫かえ、お前、って母様が心配して言うのに、まあ、意地を張っているとしか思えない、かじって飲んでは、うなっているの、おーっ、辛いっ、おーっ、うまいって、もうふうふう言いながら、涙流したり、鼻水流したり、……酔って赤くなっているのか、唐辛子が辛くて赤くなっているのか、……私は、あきれて見ていた。
結局、自分の持って来たお酒一本、ほとんど一人で飲んでしまい、唐辛子をひとつなぎ食べてしまって、帰っていった。
父様が、変な奴だ、って言ったけど、帰られたら何か私は急に淋しくなって、もう三平には二度と会えないんじゃないか、って訳もなくそんな気がしてね。
本当に、それからというもの、その年の夏祭りにも来ず、その後、三平の太鼓の音を聞くことができなくなってしまった。父様や母様も、祭りの時期になると、三平の奴、どうしているかなあ、と言っておられたから、淋しいとは思っておられたんでしょう。
でも、あの人は、生きていたんだね。終戦になって二年ぐらいして、ひょっこりと祭りの日に帰ってきた。それも家には寄らない。ただ、遠くに聞こえた太鼓の音で、私にはすぐに、三平だ、ってわかって、お前たちを連れて出ていった。もう髪も少し白くなりかかっていたけど、お前たちを昔の私のように山車(だし)に引き込んで、太鼓を叩いてくれた。私は、付いて歩きながら、娘時代に帰ったようで、何だか胸が切なかった。
続けて二年くらい来たかしらねえ。それからまた姿を消して、もう現れなかった。結婚もせず、子供も残さず、もうとうに亡くなったんだろうけれども、どこでどう生きていたんだろう。お前も小さかったけれど、山車に乗せてもらって太鼓を打たせてもらったことをよくおぼえているんだってね。……そうだね、見かけはヤクザっぼかったけれど、気持は優しい人だったね。……
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