かなる冬雷

 

第三章  無明

 

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 天佑(てんゆう)の如くに、父、史郎をはじめとして、修一郎、修二郎、そして桂子と、死線をさまよった者たちのすべてが、ひとりの欠ける者もなく、水原の佐々木の家に帰りついた。

 母にも、祖母にも、新松にも、私たち幼い子供にも、それぞれに喜びは限りなくあり、佐々木の家は、精神的には、明るさにあふれたが、悲しいことに経済的には、生きて帰ってきた者の分だけ、より窮迫(きゅうはく)せざるをえなかった。

 すでに戦争末期には、事実上破綻(はたん)をきたしていた佐々木家の味噌醸造は、新松や修一郎の懸命の努力にもかかわらず、二度と再び、往時(おうじ)の如くには復活することなく終わった。

 第一次、第二次農地調整法、いわゆる農地改革が矢つぎばやに実施された。そして、公職追放令の改正によって、史郎の、教職復帰への道も断たれた。

 農地改革によって、佐々木の家は居住している敷地を除いてすべての田畑を失った。それはしかし、今は亡き直蔵が繰り返し言っていた「預かっているもの」を「返した」ことにほかならず、佐々木家の人々は、それに対して特に憤慨もしなかった。そのことを嘆いたり恨んだりする言葉は、私は一度も聞いたことがない。

 ただ、再び味噌を作ろうにも、金もなく、大豆や水もなく、カボチャやフスマを使っての代用味噌を作れだの、速醸(そくじょう)で作れだのと、何もわからぬ役人たちが言っている、と嘆く声が聞こえた。

 長年の得意先からは再び注文も入り始めていた。修一郎も苦慮したのであろう、しかし、どうにもならなかったようだ。結局は潔く味噌屋をやめる以外はなかったのかもしれないが、修一郎には、まだその決心ができなかった。

 新潟商業時代の同窓生のやっている新潟市の大きな味噌醸造元から少しずつ味噌を仕入れ、それを「やまさ」印の佐々木の樽に詰めかえて出荷する、という姑息な延命手段を修一郎はとった。

 職人気質の新松には耐えられないことだった。しかし、立ち直るまでの、あくまでもつなぎだ、目をつむってくれ、と修一郎に説き伏せられた。

 ここ数年の佐々木家の経済的荒廃について、新松個人には何の責任もなかったのだが、彼は、修一郎の留守を守りきれなかった自分の責任として苦しんでいた。その彼には、それ以上、何も言えなかった。

 だが、そんなことで、復活へのつなぎになど、なりうるはずもなく、まるで味の違う味噌を、詰めかえて売るなどという、商道徳に反する道を選んだことで、結局は、百年かかって築いたすべての得意先の信頼を失い、自壊(じかい)を早めただけであった。
 それでも二年近くはそんなことをやっていただろうか……。

 

 若い衆がひとりいた。彼がオート三輪の自動車に樽(たる)を何個か積んで、新潟まで仕入れにいくのだった。私はこの人になつき、この人もまた私を可愛がってくれた。新潟へ行く時、私はいつも、このオート三輪の助手席にちょこんと乗って付いていった。

 車にはドアも無く、風はもろに当たった。夏はむしろ快かった。しかし冬は、容赦なく雪が吹き込んで、身体を凍えさせた。鼻水を垂らしながら、それでも私は泣きもせずに乗っていた。彼は車を止め、味噌樽にかけてある菰(こも)を取ってきて、私の身体に巻いてくれた。少しカビくさいその菰のにおいをかぎながら、私は、侘(わび)しく、悲しかった。それは決して寒さのためではなかった。兄、修一郎が、してはならない悪いことをしていることを、幼いなりに私は感じとっていたのだった。降ろした味噌を詰めかえ、ラベルを貼り直しているのを、私は、蔵の隅のうす暗がりにたたずんで見守っていた。私は何でも見ていた。そして、何でも聞いていた。……

 毎日、芋の方が多い粥をすすりながら、そのことが、というよりも、粥をすすりあっているみんなの顔が暗く、言葉が少なくなっていくことが、ただ淋しかった。みんな生きて帰ってきたあの日々の、何は無くとも、家の中を満たしていた喜びの輝きは消え、今は、けもののように、ただ生きのびるための一日、一日の戦い、飢えとの戦いに、大人たちが疲れ果て、とがった厳しい目付きをしていることが悲しかった。

 

修一郎は、遂に株に手を出し、決定的に失敗した、もはやすべてを失っていた。転売する味噌を仕入れにいく金ももはや無かった。
 佐々木味噌醸造元は、こうして終焉(しゅうえん)の時を迎えた。

 

 新松が暇乞(いとまご)いをし、若い衆に最後の給料とわずかの退職金を渡していた日のことを、私は、よく覚えている。若い衆が、私の頭をなでてくれて立ち去ったあと、祖母は、奥から紙包みを持ってきて新松の前に差し出した。お前には言葉では言い尽くせぬ恩がある、こんなはした金は、お前の気持を傷つけるだけのものであることもよく知っている。でも、こんな形でしか私たちは尽きぬ感謝の気持を表わすことができない、どうか受け取っておくれ、と、おしむは言った。

 しかし、新松は、受け取ろうとはしなかった。親子三代にわたって、こちらさまで生きさせて頂きました。親方、親方と立てられながら、結局は力及ばず、修一郎坊ちゃまにこんな悲しい目を見させて、ただただ申し訳ないと思うばかりです。御恩を限りなく受けたのは、私の方です。こんなお金は受けとれません。どうぞ、皆様のこれからの生活の足しにして下さい。私のことなんぞ、孫夫婦が食わしてくれましょうし、それに、もう何も思い残すことも無く、今は、一日も早く、先の且那さまや富助の所へ行って、お詫(わ)びもし、こもごものお話でもしたいと、そう思うております、と新松は言った。

 お気持だけは、確かに頂きました、と遂に新松は金を受け取らなかった。祖母が泣き、私も、祖母の背に身を寄せるように座って聞いていて、悲しみを感じていた。新松に渡そうとしたその金にしても、前日、祖母が古道具屋を呼んで、土蔵へ行ったり来たりしながら、かなりの品数を売って作ったものであることも、私は見て、知っていた。私はなぜか、子供らしく外で遊ぶこともせず、ただひたすらに、この没落して行く佐々木の家の様子を凝視しつつ、小さな胸を締めつけながら、生きていた。

 

 新松は、終戦のまぎわに、あるひとりの女性を餓死寸前の流浪の旅から救い上げて、町外れの外城(とじょう)と呼ばれる町のあばら家を借りて住まわせ、世話をしてきていた。病弱な、娘ほどに歳の違うこの女を、わずかばかりの自分の給金で養ってきていた。町の者たちの中には、老いの色狂いと中傷するものもいたらしいが、私は二度ほどこの人のもとに新松につれられて行ったことがあり、この人に対する新松の態度が、娘のようにいとおしみながら、むしろ「仕えている」という感じのものだったことを感じていた。

 色白を通り越して病的に白い顔をしたこの人は、私にもやさしく接してくれ、私をじっと見つめて、お母様を大切にして頑張って生きて下さいね、と言った。

 不思議な宗教的特質をもつ人だったらしく、近在から、この人の助言や示唆を求めて訪れる人々が多くいた。後年、私の母、おりょうも、どう生きていいかもうわからなくなった時に一度訪れて教え諭(さと)されたことがある、と言った。

 新松が佐々木の家の雇われ人であることを終えてまもなくの春、この人は新松に看(み)取られながら消えるように亡くなり、時をおかず新松も、燃え尽きるように、この人の「かたわらで」死んだ。

 貧しい新松の家だった。佐々木の家が、このふたりの葬儀を手伝って営んでやった。佐々木家がこのふたりの生涯の最後の短い旅を是(ぜ)として認知したということと、どこかたがいに殉死めいていたふたりの亡くなりように、町の者たちの下卑(げび)た誹謗(ひぼう)も消えうせ、ふたりの葬儀には思いもよらず多くの人々が訪れて、焼香をした。

 おしむも、おりょうも、修一郎も、そして、私もおしむの陰につきまといながら、参列したが、なぜか、この時も、父、史郎だけはその人々の中に居なかった。そのことで母が憤っていたことを私は覚えている。

「自分は、新松などには何の借りも無い」
と史郎は、見下していつも言っている史郎だった。

「では、下(しも)の家へ米、味噌を運び、満州への送り迎えを新潟の港でし、小見川へ、室蘭へ、岐阜へ、……私たちが暮らしてきたどの地へも、米、味噌と、それに託した無言の思いやりを送り続けてくれたのは、いったい誰だというのか、畜生でも恩を忘れることはない」
と、母は本当に火を吹くように怒っていた。

 この言い争いの時、父、史郎は、西の座敷の縁側で、猟銃の散弾を、火薬や鉛弾を詰めて作っていた。 佐々木の家からすべてを奪い尽くし、今、ひたすらに転落していく佐々木の家になお寄生しながら、史郎は職を探すこともなく、鉄砲撃ち遊びをし、猟犬を飼い、さらに釣り、かすみ網、碁打ちと、自分のかつての父親と同じように、放逸な暮らしをしていた。この遊びほうけの姿こそが、私の、父、史郎に対する記憶の始まりであった。

 修一郎や、おしむたちが、次に売らなければならない壷や掛軸や着物を広げて、そのひとつひとつにこもる思い出を語りながら、それを振り払う努力をしているややうす暗い座敷からまわって行くと、父、史郎のいる西側の部屋の縁先だけが明かる過ぎて、むしろ何かしら白々として見え、この家にはまったく似つかわぬ奇妙に疎遠な人がそこにいる、という感じを私は持った。

 私の魂は、零落していく佐々木の家に帰属しており、その愁(うれ)いを幼いなりに私もまた分かち持っていた。

 

 姉の房子、兄の英夫の存在は、なぜかしら、この時期、私の中では希薄だった。

 兄、英夫は、なぜかすぐに私をいじめ、私の後頭部にあった禿(はげ)を指さしては、禿、禿、とあざ笑った。そして、すぐに暴力をふるった。

 妹の祥子だけは、ぴったりと私に寄りそって生きていた。どこへ行くにも、妹は私についてきた。私もまた、おかっぱ頭の、まるい顔にまるい目をしたこの妹を、可愛がっていた。上の二人と、下の二人のきょうだいの間には、この頃から一種の距離があった。

 房子と私は、四つ違い、英夫と私はいわゆる「年子(としご)」で、一歳八ケ月しか違っていないのだが、奇妙に精神的には距離があった。

 姉の房子は、幼い頃から利発でもあり、また自立心も強く、めったに泣くということもない子だった。私は、幼い頃に、姉が泣いているのを見た記憶がない。良し悪しではなく、芯に強いものを持ち、大人たちの相克(そうこく)を見ても、自らの心をはその渦中(かちゅう)から引き離して距離を置いて見ている、ということのできる人だった気がする。

 英夫は、優しさと残酷さを合わせ持った子だった。優しいかと思えば、奇妙に冷酷な、人の心をあえて踏みにじってみせるようなことをした。自分が人を傷つけているということを知っていてなおもやることもあれば、なぜか感受性を鈍麻させたように気がつかないでいることもあった。私は、五感のすべてを、針ネズミのようにむき出しにさかだてて、周囲の人間たち、とりわけ大人たちの表情を読み、その心をよぎる雲の影をじっと見ていた。同じ年頃の子供と遊んだ覚えがほとんどなく、いつも庭のあたりでひとり遊びをしたり、妹を相手に遊んだりしながら、あまり子供らしくない心で生きていた。

 妹、祥子は、感受性の鋭い子だった。しかし、喜怒哀楽をじっと心に押し包む子だった。そして、それが耐えられなくなると、言葉で吐出(としゅつ)し、代償することができず、泣きだし、ただひたすらに泣く子だった。 

四人の子は、それぞれに、分裂や混沌を内に抱きながら、手を取り合ってではなく、それぞれに、ひとりひとりで、暗い嵐を常にはらんだこの複雑な家の中で、生きる孤独な戦いをしていたのかもしれなかった。ある子は、固い壁をめぐらせて超然とすることによって。ある子は、耐えに耐えてのち、ただひたすらに心のすべてを洗い流すまで泣くことによって。……そのどちらにもなりえず、分裂と混沌をもろに担いながら迷い歩いていたのが、兄、英夫と、私だったのかもしれない。そして、そのある意味での「近さ」が、逆に、自己嫌悪の裏返しのように互いへの反発と、時には憎しみのような感情を招いていたのかもしれない。

 喧嘩する兄弟ほど、大きくなってから仲良くなるものだよ、と祖母がよく母おりょうを慰めていた。しかし、それを聞きながら私は、決してそうはなれないだろう、となぜかすでに思っていた。確かに置かれている状況は近くとも、実は異質な精神の核を含んでいることを、私は感じていた。尊敬したり、恐れたりすることはあっても、「愛する」ということはできないのではないかという予感を持っていた。

 私は、その頃、ただただ「愛」だけをすべての心の価値の根と思って生きていた。愛されることを願い、愛することを欲していた。熱情のように、愛を与えたくて爆発しそうであり、かつ、限りなく愛に渇いていた。

 

 修一郎は、すべてを失いながら、なおあがくように虚飾の地位や名誉を求めて、公選の教育委員の選挙に立候補したりした。当選はし、本人の名誉はを満足したかもしれないが、それ以上に、選挙という「争い」を通して心を汚し、家の経済的逼迫(ひっぱく)をさらに強めただけだった。

 この時期の、異父兄、修一郎は、最も精神的には荒廃し、自分を見失っていた。直蔵の生き方からも、富助の心からも、はるかに遠ざかっていた。新松はもうすでにその生を滅(めっ)して、この修一郎と佐々木家のさらなる堕落に苦しむ必要はなくなっていた。

 修一郎と、史郎の争いが絶えまなくあった。修一郎の「働き方」には問題があるとしても、それでも、常に何とか暮らしていくための手段を捜し求めて努力していた。史郎は、何もしなかった。いや、もうほとんど残ってもいない佐々木家の財産からさらに自分の遊びのための金を持ち出していた。そして、修一郎が北の千島で生死の境をさまよっている間、新発田から休暇で帰ってきては安逸な生活をしていた自分を、「お前の留守中にこの佐々木の家を守り抜いたのは他でもないこの俺だ」と厚かましくも言い、戦後の没落の過程も自分に財産管理をまかせようとしなかった修一郎の無能力、無責任であって、自分が経営をしていればこんなザマにはならなかった、と悪し様(あしざま)に罵(ののし)っていた。若い修一郎もさすがに激して、史郎の生きざまを批判した。「何を!」と言って、先に手を出すのはいつでも史郎の方が先だった。遂には殴り合いとなり、囲炉裏に灰かぐらが舞った。

 母おりょうは、身も心も凍らせながら、じっと座っていた。ふたりの争いに割って入り止めようとはしなかった。おしむは、止めに入り、時には、あまりに傲慢な史郎を批判もした。すると史郎は、いっそう激して、火箸や刃物まで振りかざした。私は、泣きながら、火のような思いと目で大人たちを見ていた。みんな、死んでしまえばいいんだ、そんなに憎み合っているのならいっそ、殺しあって、死んでしまえばいいんだと、私は心の中で叫んでいた。

 こんな争いのどの光景の中にも、他の私のきょうだいたちの姿は無かった。いくら思い返してみても、私ひとりしかそこにはいない。いても、私がただ大人たちをしか見ていなかったのかもしれない。それとも、本当に、私しかいなかったのかもしれない。
 ただ、私は、思う、火のような悲しみと怒りを抱きながら、私はいつでも、ひとりぼっちだった、と。

 

 修二郎は戦後すぐに商事会杜の勤務に戻り、実家の中の相克(そうこく)からは距離を置きながら、つつましく、そして着実に、独立した自分の生活、自分の家庭を作っていた。嫁をもらい、静かに自分の幸せを築こうとしていた。

 桂子は、戦後の混乱と没落のさなかに、嫁いで行った。木炭で走るオンボロの乗り合いバスを借りてやるのが精一杯のことだった。それに乗って桂子は、隣りの安田町(やすだまち)のやはり没落した地主の分家へ嫁いでいった。あの子には、本当に私は何もしてやれなかった、幼いうちに捨て、戦争の中で引き離されて暮らし、今、何ひとつまともなものも持たせてやれず、捨てるように嫁にやる、私は何という母親なのだろう、と母が泣き、御時勢だよ、御時勢なんだよ、と祖母が慰めていたのを、私はよく覚えている。

 

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