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第六章 法輪
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母さん。
あなたは、行ってしまった。この部屋から、この家から、そして、この私が、なお明日も生き続けなければならない、この地から。
あなたの身体が、そこにあった間は、私は、何度も何度も、あなたの静かな微笑をたしかめては安心し直し、今日のつとめを果たすことができました。
あなたの生も死も、ともに私の中でやわらかく溶けあい、人々に対する私の優しい思いの湧き出す源泉となってくれていました。
一睡もせずにあなたのかたわらで夜を明かした私は、たしかに、肉体的には疲労の極みにはありますが、心は不思議にあたたかく、今日一日、日頃耐えられないものに耐えることができ、日頃許せないものを許すことができました。
あなたの身体を送り出す時でも、まだ私は淋しくありませんでした。
母さん、すぐに行くからね、先に行って待っていてね、と言ったのが聞こえましたか。
ああ、待っているよ、と私には聞こえました。その余韻湯よいん)の中で、さらに午後の仕事も続けることができました。しかし今、夜となり、あなたの部屋にこうして座り、あなたの身体の消えたベッドを見ていると、あなたの「不在」の感覚が、ひしひしと押し寄せ、限りなく私は淋しくなっていきます。
ベッドの枕元には、あなたの小さい鏡と化粧水、髪油(かみあぶら)などが、そっとそのまま、置かれています。
何があっても、どんな時でも、あなたはきちんとした身じまいを崩さない人でした。理屈ぬきに身についた習慣と言えば、ただそれだけのことです。しかし私には、身じまいは心の姿勢と一つのもの、という気持がいつもあなたにあった気がします。それは何かしら、いつ死に直面しようともうろたえてはならない、という武士の気位や覚悟のようなものに私には思えていました。
私は、覚えています。小さい頃、……そう、お祖母(ばあ)ちゃまと一緒に寝ていた四、五歳の頃、あなたは私にそっと、お休みを言いにきて、脱ぎ捨てた私の衣類をたたんでくれながら、いつも言いました。
いいかい、人間はね、いつ何があってとび起きても、うろたえたり、恥をかいたりしないですむように、暗がりの中でもすぐに着れるように、脱いだものはきちんとたたんで置かなくてはいけないんだよ、と。……
しばしば、空襲警報の鳴る時節ではありました。けれども、それはただ単に、そういう非常時だけのことではなく、人はいつでも凛(りん)としていなければならないのだよ、という教えとして、今にいたるまで、私の心の中にしみ込んでいます。
きちんと片づけをして寝ていると、いい子だねと言って、寝ている私に頬を寄せてくれました。そんな時は、いつも、母さんの髪油の匂いがしました。その髪油の瓶が、今も枕辺にあり、ベッドに寄りかかれば、母さんの匂いがします。
このベッドの上で、昨夜私は、あなたのかぼそい身体に、ありとあらゆる処置を加えました。そのために、あなたに余計な苦しみを与えたと、今は思います。
けれども、何をされても、あなたの微笑は消えなかった。あなたは、わかってくれていたのでしょう。ああ、この子は、今、私と別れる心を探すためにこうした時を必要とし、汗を流しているのだ、と。そう思いながら、あなたこそが私を見守り続け、そして最後に言われた、利夫、私はもういいんだよ、すべてもういいんだよ、ありがとう、と。……
私は、あなたに、何をして上げられたのでしょう。甘え、奪うばかりであったような気がします。本当に、これで良かったのでしょうか。
しかし、良しと言おうとも、足りずと言おうとも、もはや、現身(うつしみ)のあなたには何もして上げられません。
ただできることは、明日、あなたを追って水原の町へ行き、あなたの骨と魂とを抱いて再びこの地に帰り、あなたの眠ったこの地で、あなたとともに生きていくことだけです。
そう、明日の夜は、またあなたに会えます。でも、そう思ってみても、今夜のあなたの「不在」が、私にはどうにも淋しいのです。だから、少し、おしゃべりをしましょうね。
母さん。……そう、あなたは、結局のところ、遂に、母という存在であり続けたのですね。振り子のように振れ動く心は時にあったでしょう。しかし、常にあなたは、母であるという生き方に立ち戻り、母として生き切ることを通して、あなたは、深い意味での女であり、人間であることの存在証明をしぬいてきたのだと、私は思います。
私たち男は、男の性と父性とを分離し、それを男の自由度の拡がりと思い上がり、女性の性の「混沌」をあざわらい、利用し、汚すことを重ねています。
母さんにとって、自分の性は女の性であり、同時に母性でありました。それは常に分かちがたく、渾然湯こんぜん)一体のものとしてありました。
あなたには、勿論、沢山の苦しみがありました。しかし、あなたの苦しみとは、母であり続けることによって自分の女としての性が妨げられたり、人間としての自分が実現しえないなどということではなく、母性の感情が自然に求めるものを発露(はつろ)しえない苦しみであり、加えて、女としての性を汚され、結局は、総体としての人間性の抑圧を強いられ続けてきたという苦しみでした。
子供たちに腹一杯食べさせてやれない苦しみ、つぎはぎのボロしか着せてやれない苦しみ、のどに箸(はし)を突き立てて息絶えんとする子、高熱に狂乱に陥(おちい)り走り回る子を追い、抱きしめるしかなかった苦しみ、戦場に出ていく子らに祈り以外の何ものをも持たせてやれなかった苦しみであり、悲しみではあっても、母さん自身の飢えや、窮乏の苦痛では決してありませんでした。
一人の男とのめぐり会いに身を委(ゆだ)ねる運命の道を自ら選んだがために、幼い三人の子らに心を残しながら、満州、千葉、北海道、岐阜と流転の旅を続け、その流転の日々の暮らしを、まさにその置き捨てた生家(せいか)の人々の愛と情けとによって支えられ続けてきたこと、自分が佐々木の家から遂に奪い続ける者でしかありえなかったこと、このことに対して、深い罪としてあなたが自らを裁き続けてきたことを、私は知っています。
しかし、それを罪と呼ぶならば、私たち松井の四人の子供全部が、上の三人のきょうだいに対して、罪を負っています。彼らの、母を失った悲しみの上に、私たちの生誕があり、私たちの、母を得た喜びがありました。しかも、その三人のきょうだいたちのすべてが、私たちを可愛がり、育ててくれました。あなたを許し、あなたを奪った松井史郎という男を、父さん、と呼んで許してきてくれました。
その罪も、その恩も、私はあなたとともに担い続けましょう。
あなたは、私に一番の窮乏の大学生活を強いた、という責めを心に負いながら生きてきたのではないかと思います。
でも、私が一番、わがままな学生生活をさせて頂いたのです。
浪人時代の生活も、大学生活も、大学の闘争も、すべてが私にとっては豊穣(ほうじょう)な精神の成長の過程でありました。それがわからず、その中で自分一人苦しむ者のように、心荒れさせていたこともありました。でも、そのすべての期間を、何も言わぬ愛で包み、じっと信じて見ていてくれたこと、これはどんなに感謝してもしきれません。
愛情の生活も、そしてその破綻も、すべてが私の選んだ生の道でありました。
今なお、人を傷つけた罪の意識は重い層土(そうど)の如くにあります。しかし、私はもう悔いはしません。悔いることこそ、汚すことだという思いが、今の私にはあります。
母さん。たしかにあなたの言う通り、人は精一杯に生きてきた、と言ったからといって、それで許されるものではないのでしょう。私も、精一杯には生きてきました。しかし、それは、言いかえれば、結局は、生きたいように生きてきた、ということであって、窮乏の故にも、他の何の故にも、私は自分の意志を曲げて生きてきたとは思いません。
一瞬一瞬が、孤独な自由のうちにあり、一歩一歩を、不安な自己の投企(とうき)として生きてきた、そして、それが総体としての自己の主体性というものであり、意志と呼ぶものであったのだと、今、私は思っています。
言い換えれば、主体的に生きるとは、孤独な自由から逃げないということであり、絶望的な自己投企の歩みを続ける、ということなのでしょう。それは、幸、不幸、という価値判断とは思考の次元においては直結はしない。けれども、現実には、主体的に生きながらも、人は、幸、不幸を感じるし、それはそれで大切なことでもあるけれども、幸、不幸のみが人生の目的ではないし、人生の岐路において右か左かと決断させる根拠は、幸、不幸の予感とはしばしば違うものであるのです。母さんもそうであったのだろうし、私も、そうであったという気がします。
この一年あまりを、あなたは、私と生きてくれました。訪ねくる誰に対しても、あなたは、この子たちが良くしてくれるので私は幸せだ、と言ってくれました。でも、本当に幸せだったのは、誰でもない、この私だったのです。
あなたは、長い歳月にわたって私に対して負い続けてきた、実は負う必要など無かった「責任」を、この最後の一年を私とともに暮らし、私を愛し、阿貴子を愛して下さることで果たそうとして下さったのだと、私は思っています。そしてまた、あなたを愛し切ることなく、ともに過ごす時の少なくきた私に、最後にあなたを愛する時を与えようとして下さったのだと思います。
そのあなたの真情と、与えて下さった一年の月日を振り返り見る時、なおその多くを損(そこ)ねざるをえなかった己れの愚かさを切なく思います。残された生命の火のすべてをもって、あなたは愛し切っていかれた。あなたが示された、母親の愛というものの無条件さに、私は、心を打たれます。母さんの愛の前に立つ時、私の愛など、何と気まぐれで、自分本位のものでしかなかったことでしょう。
貧しい生活の中で、人は、いろいろのことを考えます。そして、その結果として、その生活をある程度通り抜けた時、人はなぜか互いに違う道筋に立ってしまっていたりします。
道筋が違っていても、進む方角が同じなら良いのですが……。
母さんの言ったように、なるほど貧しさは悲しい。悲しいけれどもまた、その中でこそ、物へのこだわりを捨てて生きることをも人は学びます。しかし、貧しい生い立ちであったが故に、貧乏から抜け出るためなら何でもしようと決意した、と言う人もいます。その人の生き方が、真実、その、「決意」の結果であったのか、それとも、その「決意」の論理は所詮(しょせん)は自己弁明でしかないのか、それはわからないけれども……。
貧しさをへて、ひたすらに精神的になって行った母さん。そして、貧しさをへて、ひたすらに非精神的になっていった父さん。……遂に再び交わることなく、ひたすらにそれていく道を歩いていく両親のもとで、私たちは育ちました。母さんから受け継いだもの、父さんから受け継いだもの、その相克湯そうこく)の中で私たちは自己を形成してこなければなりませんでした。どちらかを全肯定し、どちらかを全否定することは、ある意味では、たやすい。けれどもどんなに意識として全否定しようとも、それは「血の中に」ある。
私は、これまでの半端な人生の中でも幾度、自分の血をすべて流れ出させ、一瞬なりと、透(す)き通った存在になって死にたいと、思ったことでしょうか。しかしそれは、空しい感傷的な衝動であって、再び己れに立ちかえってみれば、そこには決して純一ならざる混沌としての生しかないのでした。それと格闘し、それに形を与え、それに方向を与えようとしながら、私たちは生きてきたのでしょう。 その方向が、四人のきょうだいで、それぞれに微妙に違い、今なお違い続けていることは否(いな)めない事実です。
でも、みんな、苦しんで生きてきた、それも事実です。互いに違う地点に立っていることに気づいたとしても、それが即ち「是非善悪」ではない、……そういう気持にようやくになることができてきているように思います。それは、裁きとか、許しとかいうものと少し違う認識、ただ、現実の静かな認識であり、認知なのです。
そして、そうやって、裁く心を離れてみた時に、ふっと思い出せる思い出がいくつかあります。
あれは、豆腐屋をしていた時のある日曜日でした。私が、たまたま行っていました。母さんは、何かで、どこかへ出かけると言い、昼御飯は、お留守番の褒美(ほうび)に、白米だけの御飯(ごはん)を炊いて食べていい、と言い残していきました。
父さんも、房子もいませんでした。英夫と私の二人は、めずらしく喧嘩もせず、見よう見まねで米をとぎ、薪湯まき)で御飯を炊きました。あんまり蓋を開けてはいかんのだぞ、と言い合いながらも、二人でかわるがわる蓋を開けて見て、そのくせ結局少し焦がして、あわてて釜を下ろしました。
店の油揚げに醤油をかけただけのおかずで、まだ熱い、よく蒸(む)れていない御飯を、二人でふうふういいながら食べました。
何という、まぶしい白さだったでしょう。何とおいしかったことでしょう。……でも、めずらしい兄の優しさと、理由のわからない母さんの不在が、なぜか悲しかったことも、よく覚えています。
あの店は、道路側の前半分を母さんたちが借りていて、後ろ半分は大家(おおや)の人が住んでいたのでした。大家の主人は、米軍相手の通訳だったそうだけれど、ほとんど家に帰ることは無く、女性と、英夫と同い年の男の子が一人いたと覚えています。
前半分を貸したのも貧しさのためだけれど、その家賃収入だけでは食べていかれず、主人はお金を与えているのかどうかもわからず、竈(かまど)に釜を置いたままにしておくと飯を盗んでいく、と母さんが侘(わび)しげな顔で言ったことがありました。母親が、暗い「商売」をしているようなことも聞きました。母さんにしても、米を分けてやるだけの余裕はあの頃には全く無かった。時々わざと釜を取り込み忘れたように置いたままにしておいてやる、それが精一杯の、……本当に、精一杯の施与(せよ)でした。みんな貧しく、飢えていた時代でしたね。
子供だけは素直な子だ、と母さんは言っていた。あの子、いえあの人は、今は、どうしているでしようか。
豆腐屋の生活と言えば、ある暑い夏休みの一日、たまたま、きょうだい四人が揃って、田んぼへ写生にいくことになりました。
道具も何も揃いはしなかったけれど、喜んで行ったことを覚えています。よく晴れた日で、横町をぬけてしばらく歩いていくと、五頭(こず)や菱ケ獄の山なみが、目の前に見えました。いいかげんに何か描いて、あとは畦道(あぜみち)を走りまわって遊んでいました。何とはなしにただ、姉や兄と一緒にいられることがうれしかったのでした。
日射病になりそうな暑さで、頭がぐらぐらしてきていました。その時、県道を、旗を荷台に立てた自転車が、チリン、チリン、と鈴を鳴らしながら通りかかりました。アイス・キャンディー売りのおじさんでした。
房子が、四本買っておいで、とお金をくれました。私と祥子は大喜びで走っていきました。サッカリンと人工着色料のかたまりのキャンディーが、しかし、あんなにおいしく思えたことはありません。芯の木の棒だけになっても、いつまでも、しゃぶっていました。
英夫が炊いてくれた「銀シャリ」の飯、房子が買ってくれたアイス・キャンディー、……そのうれしさに、何かしら少し淋しさをにじませなが、今も、私は思い出すのです。
家族六人が揃って、ともに暮らすようになった南町の家も、精神的には何かばらばらに生きているような奇妙な生活の場でしたが、それでも最初は六人が揃って暮らしてはいました。
けれども、まず房子が大学に入り、英夫が大学に入り、と少しずつ巣立っていって、私が浪人生活をしている頃は、淋しい家になっていました。
夏祭りになって、神楽(かぐら)舞いがやって来ても、なぜかいつも父さんはいず、男が渡すものだからと母さんに言われて、いつも私が男衆や子供たちに、おひねりを渡していました。
夏祭りと言えば、町内会から配られた、白地の角提灯(かくちょうちん)に字や絵を書くのも、いつも私の仕事でした。母さんに、利夫、今年も書いておくれ、と言われて、両脇に「町内安全」、「家内安全」と書いて、さて正面の絵は、となると、考えはするものの、結局はなぜか河童(かっぱ)の絵になるのでした。あまり祭りの華やかさには似合わない、少し幽鬼(ゆうき)じみた河童の絵。……
なぜ、何年も河童の絵だったか、わかりますか。私の中にあった、混沌とした思いのためです。
私たちは、富助という人の残してくれた家に住んでいたわけでしょう。母さんに幾度か聞かせてもらった富助という人の心のありようが、いつかしらひとつの、現実にめぐりあった人格として、私の中に生きるようになっていました。その富助と、修一郎兄さんたちとの交わりの日々に、河童の絵の凧(たこ)の「思い出」があり、私もいつかしら、一緒に小さな子になって凧を作っているような思いにとらえられたこともあります。
その富助という人の魂が、今、どんな思いで、佐々木の家の姿を、母さんの姿を、そしてこの家の姿を見ているだろう、と時折、考えていたのです。それが、私に河童の絵を描かせた気持の一端(いったん)です。
そしてもう一つは、あの頃の私自身が、出口の無い暮らしをしているような思いつめた気持になっていて、何かしら河童の幽鬼じみた絵こそが自分にふさわしいと、自虐(じぎゃく)的に思いつつ墨(すみ)の筆をとっていたのでした。
でもね、思っていたのですよ、出口を見つけられた時が来たら、その時は、美しい花の絵を描こう、と。そして、大学に入った年、私は、帰省して、明るい、大輪の花の絵を描きました。覚えていますか、母さん、あれはね、牡丹(ぼたん)の絵のつもりだのですよ。
遠い幼い日の祭りの太鼓の思い出の中にある、あの三平という髪の白かった人の背にあった牡丹の花、それを私は描きたかった。母さんに(そして母さんも?)ほのかな思いを寄せていた、あの「無法松」さんに、私は捧げて描いていたのですよ。
あの年の絵は、町内会の審査で入賞して、何かご褒美を頂いたのでした。
父さんは、どんな思いで母さんを送っていったのでしょう。
父さんは父さんなりに、私たちを可愛がってくれていたのかな、と思う幼い頃の思い出も幾つかはあります。けれども、あとは年ごとに、父さんは遠い人になって行きました。私たちの誰が遠ざかったのでも無い、むしろ、私たちの誰もが、勿論、母さんも含めて、心の中では、父さんの本当の優しさを渇望し続けていたのだと思ます。けれども、父さんは、心を閉ざして、どんどん遠くへ去っていき続けました。私たちにはわからない論理と感情で生きる人となっていきました。静かにしみじみと話すということも無く、何かと言えば包丁や火箸を振りまわす人、母さんと英夫を殴りつける人となっていきました。
それでも、心に、少しはとがめるものもあったのでしょうか、私と英夫が喧嘩をして、あまりにも英夫に対する殴(なぐ)り方がひどいので、私が泣きながらむしゃぶりついて、なぜ英夫だけをそんなに殴るのか、喧嘩をしたのが悪いのなら、なぜ私をも同じに殴らないかと叫んだら、そうかっ、と言って私をも殴りつけ、私が、あんたなんか鬼だっ、と叫んだら、「親には、法律で保証されたチョウカイケン(懲戒権)というものがあるんだっ」と言いました。
どこの世界の親が「懲戒権」などで子供を叩くものですか。腹を立てて叩こうと、それが理屈が通っていなかろうと、叩く親の心に、本当は切ない愛情があることを知っている限り、子供は親をなお信じ続けるものなのです。のちに英夫の暴力のゆえに傷ついた自分を言う時、自分がふるった暴力の数々が、かならずしも暴力をふるわれた当人だけでなく、私たち家族みんなの心を、どれだけ荒廃させたか、ということに対しての自省は、感じられませんでした。それでも、私は、英夫が暴力をふるうことに対しては、決して許さないけれども。
父さんは、そうやって、私たち家族からは遠ざかり続け、そして他方で、自分が善人で気配(きくば)りのある人間として交わる人々を、「外」に作っていきました。そして、その人々にとっては、私たち家族は、父さんをないがしろにし、非道な仕打ちを加える「人非人(にんぴにん)」であり続けたし、今でも、そうであり続けています。父さんが、「向こうの」世界の人々を私たちに決して引き合わせないのは、なぜでしょうか。それは、その時、父さんが二重人格的に自分を分離し、分割して、器用に保ってきたその「すりぬけ」が成り立たなくなるからです。
勿論、人は、自分だけの秘められた世界を持っていて、時折そこで何かを回復して、再び「日常」の生活へと立ち帰ってくる、ということはあります。そして、その場合には、向こうの世界は、立ち帰ってきた人の心の潤い、心のふくらみとして、こちらの世界につながっているのです。
しかし、父さんは、その私たちの関与しえない秘匿(ひとく)した、禁断の世界の中でも、結局は、偽善的に生きたのであり、それゆえに、父さんは豊かにはならず、むしろ一層の腐朽へと落ち込んでいったのだと思うのです。第三の世界を作ろうと、第四の世界を作ろうと、それが、誰からでもない、自分自身からの逃亡であり続ける限り、父さんにとって、遂に、それらは、砂上の楼閣(ろうかく)に似たものに成り終わっていくことでしょう。
「なぜ私の心の中から、ガラクタだけしか引き出してくれないのか」と母さんは嘆いた。
父さんも、同じ嘆き、同じ悲しみを私たちに対して持っているのでしょうか。その満たされぬ悲しみを埋めようとして、「向こうの」世界を求め続けたのでしょうか。
母さんを置いて水原(すいばら)の家を出ていったあの日、まさに「向こうの」世界において、己の再建を図るべく旅立っていったのだと、なおかつ私は思いたかった。それなのに、一年もしないうちに、再び「こちらの」世界に立ち戻ってきた、これはいったい何なのでしょう。それでは「向こうの」世界を捨てたのかと言えば、決してそうではありません。私の直感が、そう告げています。
母さんは、毅然(きぜん)として生きてきた人だけれど、決して理屈の人ではなかった。でも、私は、男であるためもあってか、やはり理屈にひっかかってしまいます。父さんの行動、したこと、しなかったこと、の理由を考えてしまいます。それはかならずしも、裁くためではなく、むしろ、理解し、受容したいためだと言いたい。しかし、考えても考えても理解できないもの、しかもそれが堅い壁の如く屹立(きつりつ)するものならまだしも、底無し沼のような、ずぶずぶとした黒いものである時、私は、どうしてもまず嫌悪を、そして、怒りを、抱いてしまうのです。
母さんが父さんを「勘弁」してもう一度受け入れだということが、理屈はどうあれ、母さんの安らぎに、そして幸せにつながったのなら、私はそれで良かった。けれども、母さんは、日ごとに萎(な)え、朽(く)ちていった。それが私の怒りを引き起こし、私は、母さんを「取り返す」ために戦わなければならなかった。母さんにとって、ここでのこの月日の意味は何であったのか、それは私にはわかるつもりです。清濁(せいだく)含めて、ともかく、わかるのです。
では、あの人にとっての、ここでの月日は何だったのか。これが、私には、わからない。しかも、何ともやりきれないふうに、わからないのです。
母さんの世話も看病も、相変わらず建前のものでしかなかったし、愛情も、お金も何も母さんに与え直すことなく、終わってしまいました。
お金も、とあえて言うのには理由があります。あれは、母さんの貯金のすべてを見た日のことです。私は、あの人に言ったのです。生涯にただ一度のことでいい、母さんに、十万円でいいからお金を上げて欲しい、と。そして言いました。あなたは、母さんに退職金も分け与えず、高額の年金から小遣いさえも分け与えずにきた。母さんは、お金の欲しい人ではない。物が欲しい人でもない。あなたには、足袋(たび)一足、ぞうり一足、買ってもらえなかった、と言う。しかし、母さんの欲しかったものは、足袋でもなく、ぞうりでもない。その小さな物に託して贈る情愛の心だ。でも、私は、あえて言う。あなたに、その託して贈る情愛の心が無くても、私に言われての、不本意なお金であってもいい、母さんにやって欲しい、今すぐにやって欲しい。母さんに残されている時間は、もう少ない気がする。だから、すぐにやって欲しい。母さんは、驚きながらも、喜ぶだろう。そして、あなたが託すことの無かった思いは、母さん自身が自らの心の中で作るだろう。そしてそのお金を、喜びながら、みんなに分け返してくれるだろう。あなたになりかわって母さんは、あなたのお金にあたたかいものを付与して、みんなに与え直してくれるだろう、と。
しかし、その願いさえも、あの人は、果たしてくれませんでした。そしてそのまま、母さんとの別れの日を迎えてしまいました。私は、このことを、生涯忘れることはありません。まさに「無慚(むざん)」な人ではあります。
母さんは、もういいのだよ、と言っているのがわかります。でも、私はまだ、もういい、とは言えないのです。
あの人は、まだ生き続けるし、私の予感では、今後もここで暮らすことでしょう。論理はこの際、置くとしてもいい。けれども、ひとつ屋根の下で暮らす以上、一緒に食事もとり、お茶も飲むでしょう。その時、話すことが何ひとつ無い、という異様な関係を続けていく自信は私にはありません。私が、いつか爆発することになるのは、目に見えています。
母さんの思い出を、しみじみと語り合えたらどんなにいいでしょう。しかしこれからも、母さんの人生のひとこま、ひとこまごとに、あの人に、なぜ、と問い、責めることにはなっても、優しい気持で語り合えることは遂に無いでしょう。それは、決して、あの人が過去において罪を犯してきたから、母さんを苦しめ、裏切ってきたから、というためではありません。そうではなく、罪を犯してなどいない、苦しめたり裏切ったりもしていない、と居直り続けているからです。嘘をつき続けているからです。
あの人が、嘘をつくことを止めた日、その日こそ、罪も、裏切りも、たとえ悲しくとも、同じ母さんを思う思い出の一部となって、洗われていくのだと、私は思うのですが……。
父さんの部屋にある小さなタンス。
破壊しない限り、本人以外には開けられないタンス。昔、英夫が言ったことがありました。利夫、お前、知っているか、あのタンスはな、不思議なタンスなんだぞ。まず、どこかの鍵を開ける、そして引き出しを抜く、そして奥に隠された釘を抜く、そして次の引き出しを抜く、そしてまた釘を抜く、それも一本や二本の釘じゃないんだぞ、……そうやっていかないと、最後の引き出しは開かないんだぞ。
いったい、誰に対して、何を隠しているんだ、って俺は一度腹を立てて、目の前で開けて見ろ、と怒ったことがあった。そうしたら、仕方なく身体で隠すようにして一本ずつ手探りで釘を抜いていく、それを見ていたら、もう何ともいやな気分になって、もういい、見たくもないって言って終わったんだが、あれはな、珍妙なタンスなんだぞ、と。
あのタンスに何が入っているのかなど興味も無く、まして触れて見る気もありませんが、何が入っているということより、そんなタンスの細工を、みんなから隠れるようにして、うす暗がりの中でこそこそと作り続けたあの人の心の暗い姿にこそ、戦慄を覚えるのです。
死んでも見られたくないものがあるのなら、私は、その意志を受けて、あの人の亡くなった日、決してどのひとつの引き出しをも開けることなく、あの小さなタンスに火をかけ、その灰をあの人とともに葬ってやりましょう。
しかし、せいぜいのところ、貯金通帳ぐらいしか入っていない気もするのです。あの人が、あのタンスのすべての釘を抜き去り、良くても悪くても、これが自分のありのままの姿であり、自分のすべてだ、と真に開き直った時にこそ、あの人は自分自身にかけ続けて来た呪縛(じゅばく)から解き放たれるのだし、失うもののもはやない、からりとした世界の中に日々に目覚めることができるようになるのだ、と私は思うのですが。……
母さん。
母さんの魂は、もう、お祖父(じい)ちゃまや、お祖母(ばあ)ちゃまの所に行きましたか。
母様(かかさま)の姿が見えると、この一年、折々に言っていたあなたは、父様(ととさま)には会えない、まだ怒っていなさるのかなあ、と少し淋しそうに言っていましたが、そんなことは無かったでしょう?
苦しい息の下で、「ああ。……おりょうか」としか言われなかったとしても、房子と英夫の頭をなでて涙を流して下さったお祖父ちゃまが、何で母さんを許さないでいるものですか。
母様、って胸にすがって甘えたい気がする、と言っていた母さん。お二人のそばに座って、心ゆくまで存分に甘えられたらよいと思います。
私たちの母となってから今日まで、あなたは、みんなに甘えさせることはあっても、あなた自身は誰の胸に甘えることもできないまま、背筋を伸ばして生きてこられました。お祖母ちゃまが亡くなられてからは、特に淋しかったことでしょう。
私たちすべてに惜しみなく愛を与え続けながら、あなた自身は、どこからその愛の力を汲み取り続けていたのでしょう。母さん自身だって、心が枯れ、心の飢え渇く時だってあったでしょうに、どんなにあなた自身が切ない時でも、私たちが甘えれば、あなたは無条件に抱いてくれました。
今、一人の娘に立ち戻って、親たちの胸に憩うているあなたを思えば、私はうれしく、心あたたまる気がします。
忘れられない、コッペパンの思い出があります。
あれは、浪人二年目のある秋の夜のことでした。私は、疲れ果てていました。前には進めず、横にも後ろにも道は無く、八方ふさがりの壁の中で、実らぬ空しいあがきを続けているだけではないのか、という絶望に襲われていました。そして、……空腹でもありました。でも、夜食を食べることも、ままならぬ生活でした。私は絶望し、飢え、そして、突然、プツリと何かが切れて、憤怒(ふんぬ)の如きものが噴き上がりました。
そうです。あの時、私は、もの心ついてからずっと続けてきた「良い子」であることをやめ、狂気に陥ったのでした。
私は、荒々しい足音を立てて階段を下りて行きました。下の茶の間には、母さんと、たまたま帰ってきていた房子がいました。私は、激しい口調で言いました。
「コッペパンが食いたい!」
と。それは、突拍子もない、理不尽な要求でした。家にコッペパンの買いおきがあるはずもなく、買いに行こうにも、近くの菓子屋は勿論のこと、もう町中が寝静まっている真夜中でした。そして、それが理不尽であることを知っていて、それゆえにこそ、私は叫んだのでした、
「コッペパンが食いたい!」
と。房子は勿論、こんな時間に、とか、何か他の物で間に合わせたら、とか言いました。しかし、私は、怒りの発作に全身をわなわなと震わせ、地団太(じだんだ)を踏みながら、
「コッペパンをくれ!」
と叫び続けました。母さんは、じっと、うつむいていました。あの時、母さんが私を叱りつけたら、私はもっと火を噴いたかもしれない、でも、それが結局はカタルシスとなって、私は違うふうに救われたかもしれない。でも、母さんは、黙ってうつむいていた。私は、憤怒をぶつける場所も無くまた二階に上がり、本もノートも引き裂き、めちゃくちゃにあちこちにぶちまけながら、
「コッペパンをくれ!」
と、わめき続けました。どれくらいの時間がだったのでしょう、あなたは、お盆を持って入ってきたのでした。
そのお盆には、一本のコッペパンと、一本の牛乳が乗っていました。
あなたは、何も言わず、足の踏み場もなくなった部屋に入ってきて、私の前にそれを置き、また下りていきました。
私は、そのパンと牛乳をしばらくのあいだ睨(にら)み付けていました。そして、思いました、
「いいとも、食ってやる! 」
と。私はかぶりつきました。胸につかえるそのパンを飲み下しました。不意に、どっと涙が出てきて、私は声をかみ殺して泣きました。
それによって、私が「救われた」と言うべきかどうかはわかりません。ただ、私の憤怒は悲しみに変わり、その悲しみの中で、私は結局再び「良い子」になるしかないのだということを、敗北の如くに、悟っていました。私は、なお泣きながら、自分の投げ散らかしたものを拾い集め、引き裂いたノートを貼り合わせて、また受験勉強を始めました。
私の憤怒(ふんぬ)を砕いたのは、あの一本のコッペパンでした。何も言わず家を出て、暗い夜道を歩き、菓子屋の戸を叩いて、ひたすら頭を下げて詫びながら、一本十五円のコッペパンを売ってもらってきた、母さんの心でした。
理不尽を百も承知で叫んでいる子供の、その理不尽さの後ろにある、どうにもならない苦しみを、あなたは理屈でなく、心で受けとめようとしました。そしてそれを、理不尽さもろともに引き受けて、子供の狂気を救うために、自らも狂気の母親となって、たった一本のコッペパンのために、真夜中の菓子屋の戸を叩きました。私には、お前とともに狂気になってやることしかできない、とあなたは言っているのでした。
その結果としては、私の苦しみは、カタルシス的には解消されず、再びそれを飲み下して、「良い子」になることを強いられることで終わりました。私もまた、ある意味では、甘えを禁じられた生き方をしてきたのです。
母さん。私は、母さんを恨(うら)んでいるのではありませんよ。あの夜のことは、私は遂に詫(わ)びることなくきてしまいました。それは、詫びて片づくようなものではなかった。
しかし、これだけは言えます。あの一個のコッペパン、真夜中の、理不尽なあのコッペパンが、その後の歳月の中で、あなたに私をつなぐ重い絆となり、母というものについて、そして人間というものについて、考える契機となり続けたのだということは。
人は、たしかに、どんなに理を尽くして説諭されても救われず、ただ、言葉の尽きたところにある、もの言わぬ抱擁によってのみ救われることがあります。
そして、どんなに言葉で非をとがめられても屈したくなく、ただもの言わずに与えてもらった優しさの中で、自分の誤りを素直に認めうることもあります。
言葉の尽きたところ、言葉を越えたところにあるものを、私は探し求めて生きてきた気がします。しかもなお、言葉を探し、言葉を求めて生きています。言葉という手に載せて差し出し合い、渡し合おうとする時、その指の間から、さらさらとこぼれ落ちていくもののあることを、知りながら……。
言葉に疲れ、言葉に倦んだ時、訪れた沈黙の中に立ち現われてくる真実の心というものもあります。そういう目に見えぬもの、こぼれ落ちるもの、沈黙の中に立ち現われてくるものを大切にすることを、私は母さんに教え続けられてきた気がします。
母さん。
あなたが、最後にともに過ごしてくれたこの一年という月日の持つ意味を、私はこれからもずっと、考え続けながら生きていくでしょう。
私に最後を看取(みと)ってもらいたい、と結局は言い、また本当にそうさせてくれたあなたは、医者である私の所にいれば、というような実利的な意味でともにいてくれたのではありません。
お医者さんのお子さんの所で亡くなられたのだから、お母さまはお幸せだったことでしょう、などとわかったようなことを言う人がいます。愚かなもの言いです。
私は、わかっているつもりです。あなたは、必要とあらば、たった一人ででも暮らし、やむを得ぬとなれば、たった一人、野に飢え死にしてでも死んでいける、強い芯を持った人でした。
あなたは、私を救わなければならない、と思い続けていた。私を愛し、慰め、救ってやりたい、と思い続けていた。私の「孤独」は、私自らの選択において自ら招いたものであるのに、あなたは、何か自分の責任ででもあるかのように、心を痛め続けていた。私の心が安らぎ、やわらぎ、幸福になってくれなければ、行くところにも行かれない、自分の人生が、何か完結しえない、と思っておられるようなところがあった。
それが、理屈ではない、あなたの愛でした。その愛のゆえにこそ、あなたは私と暮らしてくれたのです。そしてその心に支えられて、私は、もう一度、人を愛することができました。
あなたが、最後の眠りに入る前夜、私たちが不思議に思ったほど爽やかに、生き生きと、そして優しく話してくれたことを、私は、あなたの生命の最後の奇跡のように思っています。すべてを燃焼させ尽くし、語り尽くし、与え尽くして、あなたは静かに眠りにつきました。
あなたは、阿貴子に、
「あなたの心根(こころね)には、どこか私に似た所がある」
と言ってくれました。それは、阿貴子なりにあったではあろう苦労への、何にもましての「ご褒美」でありました。短い交わりではあったけれど、あなたは、私たちみんなに与えた種子を、あの子の心の中にも、そっと蒔(ま)いて行かれました。彼女は、それによってすべてが報われたでしょうし、それによって今日からまた、彼女の出発をし、生きていくことでしよう。あなたの身体の去ったこの部屋だけれど、あなたの思い出は、沸き立つように、ここに満ちています。その思い出に身を委(ゆだ)ね、とめどなく流れて、時を過ごしてきました。灯明(とうみょう)をともし、香をたいて、私は悲しみと幸せに包まれています。
大好きな母さん。
最後の瞬間まで心を洗い、心の火を燃やし続けた母さん。
苦しみの絶えることの無かった人生を、ひたむきに生き切った母さん。
すべての者たちの「罪」を、自分の責任、自分の罪として、担おうとし続けた母さん。
私を生み、育て、生かしてくれてありがとう。自棄的になったこともある私だけれど、これからは、また素直に、あなたの与えてくれたこの生命を大切にし、いつの日にか、あなたの岸辺に私もまたたどりつけるように、歩いていくつもりです。
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