・オタクの精神病理としての「劣等感や自己不全感など」
  ――“現在の”オタク達に高頻度で見受けられる特徴――

ver.1.06(2006.03/03改)


 ・はじめに

 ここまで私は、萌えキャラ達の背負った宿命や萌えにおけるキャラクター⇔オタク間の、一方向的関係と、自己愛の回収手続きとしての“萌え”についてまとめてきた。さらに、本サイトのあちこちに散らかるテキストで、彼らが持っている諸特徴について様々な方向からアプローチしてきた。脱オタ検討一部ニートと一部オタクの共通性萌えキャラ萌えの実体etc…こういった幾つかのテキストに共通するものを抽出すると、「自信の無さ」「傷つく事への敏感さ」「劣等感」という言葉に近いものが顕れてくると私は考え始めている。どこまで上手く「劣等感に近いソレ」を描写できるか分からないが、このテキストでは、その旨く表現しにくいソレを出来る限り表現してみようと思う。

 繰り返すが、このサイトで取り扱う「オタク」は、世間から侮蔑される事に心を苛まれ、なおかつ内心では何とかしたいと思っているオタクであり、萌えに関する記述でも、冒頭でかなり厳しい条件づけを行って対象を絞っている。このためげんしけんの高坂くんのような、オタク趣味に造詣は深いけれども自信とコミュニケーションスキル/スペックに恵まれた人物は除外されており、どちらかと言えばルサンチマンの拓郎エルメスに出会う前の電車男古い時代の毒男板住人に近い心象風景をお持ちのオタクが取り扱われている。

 このような萌えオタクを対象にしている以上(しかしこれこそオタクの中核群と考えてターゲットにしているわけだが)、彼らの精神的傾向にある程度の偏倚があるのは当然だと言われたらそれまでである。だとしても、彼らにどういう精神的傾向があるのかを考察するのはやはり無意味ではないと思う。本サイトで知見を集積させているうち、様々な角度から一つの傾向が共通点として浮かび上がってきた気がするので、それらを束ねて、オタクの内面に渦巻くものに少しでも接近してみたいと思う。そうすれば、オタクの性質・行動を理解したり脱オタ方法論を論じるうえで、色々と便利なんじゃないかと思える。



 ・「劣等感や自己不全感など」の内在を暗示する、様々な兆候

 どうも、当サイトで検証の対象になっているようなオタクの周辺には、劣等感とか不全感とか低すぎる自己評価とかを示唆する知見があまりにも多すぎた。「短慮に基づく偏見」と斬って捨てるにはあまりにも集積してしまった幾つもの兆候を、まずは順を追って説明していこう。



 1.侮蔑されないような非オタクや、リアル女性に対する強い反応、時に過剰な敵愾心。

 これは必ずしもオタク趣味を持たない人でも…例えばネットであれこれ主張している自称非モテ論者のほうがむしろ高確率で該当しているかもしれない。だが、あくまでネット上を見る限りという限定をつけるなら、非モテと被差別オタクはかなりの程度まで重複していると推定される※1

 ルサンチマンを含んだ複雑な心境を見事に書籍化した『電波男』が代表だが、彼らは生身の女性・女性と付き合う男性に対して強烈な劣等感や、余裕の無い敵愾心を示す事が多い。「俺達は俺達、あいつらはあいつら」と主張するオタクもいるし、仮に劣等感を隠し持っていたとてそれをストレートに表明するオタクは必ずしも多く無いものの、男女交際の話・セックス・童貞・結婚の話になった折に劣等コンプレックスを見事に開花させてしまい、隠された願望や不満を看過されてしまうオタクは多い。劣等感や自己不全感が無ければスルー出来る筈の諸々も、彼らはどうしても反応してしまう。まるで、熱烈に気にしているかのように……。

 こういったオタクも仕事では有能な事が多いので、仕事話において何らかの劣等感を垣間見せる事は少ない。しかし、(異性間も含んだ)プライベートの男女関係にまつわる話題に至った時など、ポロリと感情的反応を示してしまったり(知的水準や情緒のコントロールが上手いオタクは、こういう内面の感情的反応をマスクするよう試みる)、キョドった一瞬を見抜かれたりして発覚することがある。

 またインターネット上(特に匿名性が提供される場所)では、仲間と連帯しながら自分の足元みられずに言いたいことを表明できるため、彼らは思いの丈を安んじて吐き出す事が出来る。例えば、知性やモラルでは自分達に劣るものの腕力・対異性経験に長じたDQNに対する彼らの反応は凄まじく、歯をむき出しにして劣等感を叩きつけるような書き込みをする御仁があちこちで観察される。この劣等感はルサンチマンとしての性質を帯びていることがしばしばで、羨望と嫉妬と嘆息が混交したスゴイ書き込みが散見される。この事を証明するように、然るべき場所で釣ってみると、鰯が大漁だったりマグロや鯨が釣れることもある。

 なお、彼らは強い劣等感を持つが故に、ネットのように安全な場では色々表明するものの、DQNや女性にリアルで面と向かってそれを言う事は出来ない。知的議論に長けた者が、blog上などで様々な概念・文献を引用して劣等感・自己不全感を見事に昇華・知性化させる事こそ見受けられるが、彼らが劣等感の源に対してリアルでアプローチしているという話やレポートはあまりみられず、結局は現場との交流を踏まえない高踏的議論に陥ってしまっている例も多い。現実無視の高踏的議論に陥れば陥るほど、そのdiscussionは本人の気持ちを安定させる、単なる防衛機制としての機能以外の意味・価値を失っていきやすいのだが…。



 2.オタク趣味が、劣等感に対する緩衝材になっている可能性

 今回の萌え特集&オタクのセクシャリティの項目では、萌えキャラとオタクの関係性についても随分論じたが、どういう類の脳内補完であれ、『絶対にオタクが傷つかない環境・状況』下においてだけお花畑が展開されるという共通点がある。キャラ達は一方向的にオタクの願望を全て受け入れ、拒否することが無いので、萌えの世界では対異性コンプレックスに歯軋りすることが無い。自己愛をキャラクターというよりしろに投射し、それを回収するという“一人キャッチボール”としての萌えゆえに、他者からのNo!が侵入してくる心配は無い。(関連してそうなテキスト:こちら)

 萌えに供される作品群においては、対人葛藤・対人劣等感のリアリティを追求した作品は少数派に過ぎず、オタクの劣等感を刺激しない作品と、むしろオタクの劣等感や対異性コンプレックスを補償する作品が大勢を占めている。ちなみにプラトニックな素材やギャグもまた、ご都合エロや過激エロと同様、劣等感を刺激し難い素材である点にも注目して欲しい※2。こうした構造の萌えだからこそ、オタクの劣等感や不全感や対異性コンプレックスを殆ど刺激する事なく、それらの緩衝材としても機能する事が可能となる。劣等感や自己不全感を“癒す”には、萌えという方法論はなかなか適している――拒否されると感じるリスクが絶無で、劣等感を刺激されるリスクが絶無という特徴を持つが故に――。

 なお、この仮説にはアイドル消費も含まれる可能性があると踏んでいるが、アイドル畑は詳しくないので、ここでは一応対象から外さざるを得ない。アイドル分野に関しては、

 1.男性関係のスキャンダルが露見した時に一気に人気が下がる
 2.彼女達が負わされた、無害で清楚なイメージ
 3.近年一層感じられるようになった記号化
 4.萌えゲーオタとモーオタの掛け持ち者の出現

など、類似の現象が起こっていてもおかしくないと思うのだが、私のところでは情報不足である。そちらが専門でオタク研究やっている人の見解を見てみたい。

 また、萌え以外の各オタクジャンルに関しても、「当人の潜在的な劣等感や自己不全感をカバーする為に惹かれているのではないか?」という指摘を頂いた事がある。即ち、『軍オタ・プロレスオタ・スパロボオタなどの分野で消費される「強さ」「勇敢」などは、オタクが望みながらも成し遂げられない(または当該オタク分野にハマった頃に成し遂げられなかった)「強さ」の代償ではないか?』という意見である。自らが為しえない「強さ」にまつわる劣等感・不全感を心理的に解消する手段として、防衛機制の補償に該当する形でオタク趣味が機能する可能性は私も否定しない、特に、彼らが萌えゲーオタとの掛け持ち組ならば尚更である。ただし、軍事関連に詳しい人やプロレスファンの中には、そういう劣等感を感じさせない一群も認められ、劣等感と深く関連した軍オタ・プロレスオタが実際どの程度の割合を占めているのかは不明なので、先走りは危険すぎる。また、こうした補償としての「強さ希求」は、例えばK-1グランプリを観戦するオタクでも何でもない視聴者などにも発生するものであり、それ自体異常なものではない事にも留意しなければならない。

 とはいえ、萌えコンテンツをはじめとする諸オタクコンテンツが、劣等感やコンプレックスを刺激するどころか、それらを緩衝するバッファとして機能しやすいつくりをしていて、それらがオタク達にバンバン消費されているという事実には色々考えさせられる。加えて、萌えという“自己愛をそのまんま頂ける”コンテンツが、月9ドラマだのAVだのに比べて劣等感や自己不全感を刺激されずに済むように出来ていて、そういうコンテンツを萌えオタ達がより多く嗜好している点にも、やはり着目しておきたい。



 3.叩かれやすいオタクの行動から透けて見える、劣等感を示唆する所見

 オタクとして差別・叩きの対象となりやすい行動で触れた特徴のなかにも、劣等感を持つ者が選択しやすい行動として捉えられるものが多く含まれている。

 先の項目1.とも重なるが、オタクとして叩かれやすい問題行動のひとつとして、異性やイケメンを前にした時のキョドりっぷり・震えが挙げられるが、これなどはダイレクトに劣等感と結びついた反応であり、かかる仕草を示すオタ達がコミュニケーションスキル/スペックや対異性交流の面において実際に劣等感を抱いている可能性は高かろう(本態性振戦などの疾患由来の可能性もあるが、稀だ)。そして、そういった挙動を評価する人間は「こいつキョドってるぜ」と感じたうえでオタクと自分との立場を力関係を規定しがちである。「そんな反応示すオタクなんて少数派だよ」と仰る人もいるだろうが、なかなかどうして、いい歳回ってもこういう振る舞いを十分克服しきれていないオタクは意外と多く、このサイトで取り扱うような被差別オタクが異性を相手にキョドったり、過剰で不自然な明るさ(それも不慣れ)を示すことでかえってひどい評価を被る事例は枚挙に暇がない。そしてそういった内面の動揺に対して、女性達の鑑識眼はシビアである(なお、彼女達はスクリーニングの段階では減点法を重んじがちだ)

 オタクの行動から劣等感や自己不全感を垣間見る場面は、なにも異性やイケメンが相手の時だけとは限らない。自分の得意分野(例えばオタ趣味)について意見を求められた時、自己陶酔と自己顕示の甘い罠にかかりそうになるオタクがどれ程沢山存在するのか…あなた自身の経験と、周囲の仲間達の姿を思い出してみて欲しい。判断力や廉恥心を備えたオタクは、自己陶酔と自己顕示をいつ・どこで・誰に向けて・どこまでやっていいかを判断し、きちんとブレーキをかける事が出来るが、自己顕示のチャンスが乏しく、常日頃の劣等感が強いオタクほど、そして判断力や廉恥心に乏しいオタクほど、「ボコボコに叩かれそうな」「痛くてもうみてらんないうような」自己顕示をやらかしてしまうものである。ブレーキの効きが甘いオタクは、こうした“内面を覗き見るヒント”をついつい他人の前で暴露してしまう。

 一部オタクが得意分野で過剰な自己顕示を繰り返す有様をみると、私のような人間は、『自己顕示が行われない分野における自信の無さや劣等感』を思いつくことになる。特に、“そんな話題でそんな相手に自慢して偉くなった気分になれるの?”と突っ込みたくなるような内容とタイミングが頻発するオタクの場合、(余程知能が低い場合や精神疾患罹患中の場合を除いて)そんな場面でわざわざ自己顕示しなければならないような心理的要請が隠れていると強く疑わざるを得ない。発達途上にある小学生や中学生がこういう事をやったとて、劣等感がどうと指摘するのは早計だとは思う。だが、いい歳したオタクがアンバランスな自己陶酔と自己顕示を繰り返すならば、“不自然な場面であっても、可能な時に優越感や自己実現を獲得しなければバランスとりづらい心的傾向を持つ人”であったり、“かわいそうな過去(現在も?!)を持つ人”の可能性が高かろう。そんな痛い行動をするからには、それなりの背景や原因があると考えるのが筋というものである。

 劣等感を補う為にも、せめて自分の得意分野ではスポットライトを浴びたいという彼らの心情と行動は痛いほど分かる。分かるのだが、そういう気持ちをセルフコントロール出来ずに臆面もなくやってしまうオタク達を、周囲は冷淡な目で眺めざるを得ない。本人以外の誰もが、気づいている筈だ。


 そういえば、脱オタに似て非なる存在として、単なる服オタになってしまう人達が存在している事を私は思い出した。彼らの中には、ファッションに傾倒している事を自己顕示や自己陶酔の材料とし、同じ土俵において劣っている人(例えば脱オタの途上にある人)を馬鹿にして精神の均衡を維持している群が存在している。

 こういった輩は2chのファ板では「服オタ」と言われて忌み嫌われているが、実際、服飾における優位の誇示と、自分よりレベルが低い(と思っている)者への罵倒の過剰さもまた、何らかの劣等コンプレックスの存在を暗示しているものと推測されて興味深い。同様の現象は脱オタ進行中の人にもしばしばみられ、脱オタ者達は自分達の服飾向上を正当化する一方、かつての同胞達や脱オタ失敗者のそれを強く批判する。脱オタ途上者にみられる過剰な同属嫌悪の背景にも、「劣等感が未だ解消されきっていないが為に、自分を高い所に置いておかなければならない心理的要請」があるのかもしれない。

 つまり、彼らはコミュニケーションスペック等を向上させ、技術的には脱オタに成功しつつあれ、精神的な劣等感・コンプレックスの面で脱オタに未だ成功していないからこそ、あんな観念をまとって自分を偉くしておかなければならないのではないかと問いたいわけである。事実、脱オタ者でも精神的な劣等感を克服した者達は、脱オタ途上期の者ほど同属嫌悪をしなくなっているように見受けられるのだが※3。この、精神レベルでは完了していない脱オタ者の一群がみせる同属嫌悪と過剰な審美主義もまた、オタクに埋もれる劣等感の深刻さを示唆している現象の一つととりたいのだが、いかがだろうか。







 【※1かなりの程度まで重複していると推定される。】

 ただし、侮蔑されるオタク達の全てがこのような強い反応や過剰な敵愾心を示しているわけではなく、女性から侮蔑されようが「俺は俺、あいつらはあいつら」と達観して二次元萌えやゲームなどに尽力する“求道オタク達”がいる事は断っておきたい。そのような彼らからは劣等感や自己不全感、イケメンやリアル女性へのルサンチマンは全く感じられない。少なくとも、私が知っている何人かの達観した“仙人クラス”のオタク仲間からは、むしろ見ていて眩しいほどにオタクとしての誇りと輝きを放っている。彼らは、岡田氏が理想としたオタク像や第一世代オタクに限りなく近く、後述する第三世代オタクの精神病理とは違った心的傾向を呈している。彼らを前にすると、己のオタクとしての中途半端さを恥じたくなる。人間的にも頼り甲斐のある彼らを、私は敬愛し続けるだろう(殆どの女性は、絢爛たる彼らに気付くまい!)

 彼らにとっては、リアル女性だのイケメンだのへの怨嗟をあげる時間と労力すら勿体ないらしく、その手の言説には見向きもしない。彼らにとって重要なのは、オタク趣味の堪能と促進、仕事の充実と発展、そして己自身の人生を己の矜持で歩いていく事らしい。迷いも他者への羨みはみせない。(プライベートにおいて)オタク仲間以外にわざわざ褒めて貰おうなどといった強迫性は微塵もみせない。





 【※2注目して欲しい。】

 なお、AVや恋愛ドラマにおいては、オタクは男優⇔女優とのやりとり・絡みを見ていても男優に同一化できないばかりか、自分と比較してしまって劣等感を痛感させられる危険性を孕んでいる。対して、萌えメディアに登場する男性主人公達は、オタクたる消費者がこのような劣等感を抱かずに済むような「処理」を施された形で登場する(例:影が薄く目を隠した主人公・ダメオタクっぽい主人公・破天荒であり得ないすっ飛んだ性格の主人公など)

 彼らはリアルな男優と異なり、リアルな「性的経験のありそうな男性」を予感させるファクターをあまり持っていない。また、女優の側に関しても、AVや恋愛ドラマに登場する女優達は「オタク達には侵襲的な」女性達を連想させる諸ファクターを残したままディスプレイに登場する為、やはりオタク達に日ごろのリアル劣等感を意識させる可能性がある。一方、萌えキャラ達はこの限りではない――データベースだけで構成されている彼女達だからこそ、劣等感を殆ど刺激することのないキャラクターにデフォルメされる事が出来る。幼女とかメイドとか巫女とか処女とか幼なじみとかも含めて…。

 また、主人公に対する適切な処理以外にも、プレイヤーが劣等感を自覚するリスクを回避しやすい方法は色々ある。例えば日常っぽさの無い設定を導入する事によって、萌えに際して劣等感を混入させられるリスクを回避しやすくなる手法などだ。剣と魔法の世界とか、女だけの秘密の世界などといった設定は、プレイヤーからリアルな劣等感や自己不全感を遠ざけるのに一枚噛んでいるのではないかと思われ、こうした舞台装置もまた、あらゆる萌えコンテンツに広く見受けられる。オタク達の「現実生活のいま」を、出来るだけリアル路線で描写した萌えコンテンツは、少ない。





 【※3しなくなっているように見受けられるのだが。】

  もしこれが真なら、2chファッション板は精神的には劣等感を克服できていない服オタがごまんといるという事になるか!まあ、服はそういった劣等感を解消する触媒としてなかなか良いものだし、だからこそ脱オタにおいて服飾整備が背中押しとして重要なのもよく分かる。服装にそういうものを期待するのは間違ったことでもないと思う。だが、過剰すぎる服飾へのこだわりは、アンバランスな人となりを予見するための良い分析材料となってしまうだろう。精神科医じゃなくても、人相手の商売人ならば、こんな事誰だって気付く。

 ちなみに、劣等感を服飾の優越でのみ処理している服オタ、ことにブランドイメージを借りる事によって劣等感を補償している服オタ達を最も傷つける突沸ポイントとして「そのブランド着ている奴はクソ」「お前はそのブランドを全く使いこなしていない」などが効果的である。彼らの劣等感と冷静さのバランスが悪ければ悪いほど、こういう中傷に対して活きの良い反応が返ってくる。批判が明らかな釣りだったとしても、極端な人々はスルーする事に失敗してなかなかアレな返事をくれるが、それじゃ自己不全感をブランドイメージ等でがんばって補償しているのが丸見えになってしまう。