4.脱オタ方法論で実は鍵を握っている、劣等感やルサンチマンの克服
オタクが脱オタをする時の方法論の一部や、脱オタの目的もまた、オタクが持つ種々の劣等感を疑わせる所見に満ちている。というのも、脱オタ者達は服装をどうこうしようとかいったレベルで満足する事が殆ど無く、
1〜3に挙げたコンプレックスがある程度解消されてきた時点で、ようやく『misson completed!』と喜びに咽ぶからである。彼らは別に服オタになりたいわけではなく、
周囲の非オタや異性に認められたり、苦い内面を克服する為に脱オタを志している。ちなみに脱オタのプロセス途上、服飾そのもので劣等感や不全感の補償を達成する方向で奇形化してしまったのが服オタではないと私は疑っている。
大半の脱オタ者にとって、ファッションは手段であって目的ではない。
※1
率直に言って、
そこそこの服を一揃い買って、オタク趣味を捨てた時点で脱オタに成功と思ったオタクなんて存在しない。「昔は苦手だった異性とヤりまくった」「良いパートナーをみつけた」「昔は苦手だった男性連中とも対等に付き合えるようになった」「誰の前でも自信を持てるようになった」等と感じるようになってようやく、「脱オタ完遂せり」と成功者達は感じているようである。
脱オタの目的も達成評価軸も、あくまで種々の心理的劣等感・不全感を超克出来るか否かにあるのであって、ファッションや美容室通いはその為の手段に過ぎない。服飾面・美容面を整えて脱オタしようとして失敗したと感じているオタ達は、実際にどこまで彼がファッション的にナンセンスだったかは不明にせよ、この劣等感の克服に失敗している事だけは確かである
(経験談をみる限り、むしろもっとひどくなっている可能性すらある)。
そういえば以前私は、好きな女性に接近したいとか性的接触を達成したいといった純粋な性的欲求だけが脱オタエネルギーの供給源と考えていた。しかし今回の考察を経てみると、ひょっとしたら
性的欲求の実現と同じぐらい「異性や非オタとの交際を通して劣等感・不全感を解消する」のも脱オタ推進のエネルギー源として重要なのかもしれない、と思いはじめている。劣等感に満ちたオタク達の一部が一念発起して脱オタを目指し、恋愛や女性経験を経由する事でコミュニケーションスペックや異性にまつわる劣等感を解消しているのかもしれない。いや、これはちょっと先走りすぎた考え方かもしれないが
※2。ファッションが性欲に直結しているという指摘がある以上、あまり結論を急ぐのはまずいかもしれない。
5.当サイトにおける症例集・及び私の知るオタク達の学童期〜思春期
私が古くから付き合っているキャリアの長いオタク達のなかで、学童期〜思春期前半ぐらいにおいて、いわゆるクラスの人気者だったと確定している者をみたことが無い。
私が生活史を知り得る全てのケースと、毒男板等の書き込みを参照にする限り、侮蔑されるオタクとなっていった者の殆どは学童期〜思春期前半にクラス内カースト制度(以下スクールカーストと表記)において下層に位置して虐げられていたと考えられる。例えば脱オタ症例として挙げたなかでもtypicalな
症例1・
症例2・
症例4においてはこの傾向が顕著だし、私自身にもこういった生活史はかなり当てはまる。こういった知見・経験をみるに、彼らが学童期〜思春期前半にかけて、劣等感・不全感・低い自己評価をたんまり育てられている可能性が高いと踏んでいる。思春期以降になって一気にオタクとして開花する多くの男性は、
(主として学校内の同年代の子供達との関わりの中において)劣等感を植えつけられるようなエピソードに恵まれていたのではないだろうか?そういえば、
NHKにようこその山崎も、こういったエピソードを背負ったオタクとして描写されていた。あそこまで無残な黒歴史を持ったオタクは幾ら何でも少ないだろうけど、迫力のある描写だったと思う。あそこまでひどくない生育歴を抱えたオタクなら、それこそあちこちに存在している、スクールカースト低位者として。
なお、ある男の子がスクールカーストにおいて低位になってしまう原因としては、
学童期〜思春期前期にかけて評価対象となりがちな諸要素が相対的に劣っていた事が原因と考えられる
(関連:はてなキーワード、うちの旧いテキスト)。学童期〜思春期の男子が同年代間で評価される尺度としては、例えば運動能力・見た目・おこずかい・子供社会の流行や話題への追従性・
(学力を含めない)立ち回りの知恵などが挙げられるが、オタクになっていく子供というのは概してこうした要素に不遇である
(ヒッキーやNEETに関しても、こうした要素に恵まれている者が少ない気がするのは、気のせいだろうか)。箇条書きでまとめると、
・
運動能力や身体能力が劣っている(これには喧嘩の能力も含まれる)
・
(僅かなプラスαだけで何とかなったであろう)見た目が整備されていない
・
(親の厳格さや経済的事情などで)子供社会の流行やトピックスについていくことができない
・
子供社会における立ち回り能力や素養が不十分だった
・
その他、先天的素養で致命的問題を含んでいた場合もやばげ
これらが不十分な男の子ほど、学童期後半〜思春期の前半――学年で言えば小学校4年生ぐらい〜高校生ぐらい――の間にスクールカーストで低位に位置してしまう可能性が高いと思われる。注意すべきは、
学力や勤勉さや知識や知的能力といった要素は、スクールカースト内では全く評価されないという点である。受験勉強や進路という要素が子供社会の中でクローズアップされてくるまでは、
(親や教師が称揚し、評価の対象にしがちな)学力・勤勉・知識・知的能力は子供達のなかではろくに評価されない。それどころか、受験勉強や進路の問題が鎌首をもたげてくる時代になってもなお、いったん定まってしまったスクールカーストには学力や知的能力等はそんなに影響を与えない印象を受ける
(こんな例もありますが、彼もかなり可哀相だ)。
勉強が出来るなら女子に見直してもらえるという淡い期待は、白昼夢に終わるのが定めで、「勉強は出来るけどあの人オタクだし」という烙印に涙を呑む男の子が後を絶たない。
勉強が出来たとて、すぐに結果が出るわけでもなく、勉強したとて合格の瞬間まではたいして評価される事もない
※3(落ちちゃう事もある!)。そして
合格の瞬間というのは卒業の瞬間なわけで、クラスメートに再評価されるだけの時間は残されていない。クラス内で三年間/六年間低い評価を与えられ続けるという事がどういう作用を彼らの精神にもたらすのか?劣等感と自己不全感を抱えたまま上位カーストや女子を見上げて暮らす日々が何をもたらすのか?
毒男板用語集に書いてある事を私は誇張だとは微塵も思っていない。そういうわだかまりを今も克服できていないオタクはごまんといる。特に、当サイトが以前から問題にしているオタクや、萌えオタの多くはそんな感じで、“『げんしけん』の高坂くん”のような存在はあくまで稀有に過ぎない。このような、「お前らは劣っていて相手にもならないんだぜゲラ」といった迫害・嘲笑を背負ってきた
(いや、背負ってきている、という現在進行形が適切か)者達に、劣等感や自己不全感が醸成されてきても全く不思議ではない。むしろ、努力しても何をしても周囲からプラスの評価をろくに与えられない生活を永く続けながら、それでもなお自己肯定的で優越的な生を選択できるほうがむしろ不自然とさえ言える。
…以上のような感じで、侮蔑されるようなオタク達の背景に自己不全感・劣等感・低い自己評価を想定したくなる要素は、オタク界隈に住んでいると幾つも観察することができる。これらはエビデンスと呼べる代物では無いとしても、これらの該当するオタクが
今回の議論対象となる萌えオタに多数みられることは否定のしようもない。オンラインでもオフラインでも、それこそ幾らでも見つけることが出来る。上記の“議論対象となる萌えオタ”に必ずしも該当しない萌えオタならともかく、該当する極めて多くのオタク達から「劣等感のようなもの」を抽出するのは容易である。
・侮蔑されるオタク達・萌えオタ達が抱える「劣等感のようなもの」
彼らの殆どは、実際はそんなに鬱屈とルサンチマンにまみれた生活を過ごしているわけではなく、楽しい日常を過ごしている。だがなかには、様々な問題を露見させまくっているオタクも案外といるし、
(防衛機制の隙間から)異性への苦手意識や劣等感をたまに覗かせる程度のオタクならばそれこそ何処にでも存在している。
この特集で挙げたようなオタ達は多かれ少なかれ「劣等感のようなもの」を心の奥底に抱えていると思われ、それこそが
(第三世代以降の)オタクの精神病理の中核的要素ではないかと私は考える。
もちろん
これは確率論的なお話であって、個々の萌えオタさんのなかには例外が存在するし、程度問題もある。だが、現在萌えオタをやっているオタク達の大多数or典型例は、岡田斗司夫氏などが提言していた「おたく」とはかけ離れた精神病理を抱えていると考えている。かつて提唱されていた第一世代おたくのような、『ポジティブで尖った主張が可能なおたく』『独創性の高いおたく』『自分自身の趣味や振る舞いに矜持を持っているおたく』は少数エリートに過ぎず、現在の多くのオタク達は「劣等感のようなもの」を抱えながらもっと湿った生き方をしているのではないか。そこにはもはや
“おたくとしての優越感”なんかは滅多に見いだせない※4。現在のオタク達の大多数は、もっと消極的・受動的にオタク界隈にくっついているように見えるのだ。幾つかの選択肢のなかからオタク界隈を選んだというよりも、他を選ぶと「劣等感」に直面することが多すぎるが故にオタク界隈しか選択肢がなかった者の割合が、第三世代オタク以降においては極めて高いように見えるのだ。
美少女キャラも、オタ仲間も、秋葉原も、「劣等感」をさしあたり回避するにはとても都合がいい。殊に、
前述のキャラクター⇔オタク関係に至っては全くと言っていいほど「劣等感」を刺激しない。よって、
オタク界隈の中だけで自己完結型のライフスタイルを構築できる限り、凍てつくような「劣等感」と対峙する必要性を最小限にとどめる事が出来る。(この点に関しては、狭義の萌えや本田氏のアプローチは合理的な選択肢だ)そのうえスクールカースト時代から受け継がれる、『他人から評価されない状況を一方的に押しつけられた立場』も、オタク仲間と一緒の時には改善する。オタクとしての造詣が深ければ、幾らでも優越感や自己実現を体感出来るし、周囲のオタク仲間と楽しく遊ぶ事さえ出来れば、お互いを尊重しあって生きていくことができる。これに対して
外の世界には、スクールカースト低位者だった頃から綿々と続く、彼らを劣等とみなす環境・人々が溢れている。これらの人達は、オタク達をろくすっぽ理解しようともせず、差別と断罪を押しつけやすい。
肯定的なアイデンティティをオタク分野に抱きながらオタクをやっている者は、2005年現在において少なく、多くの
おたくオタク達は「劣等感のようなもの」と折り合いをつけて生きやすいからという理由で、消極的にオタク趣味を選択しているに過ぎないのではないかと疑ってみる事で、やはり幾つかの事態が説明しやすくなる。エルメスと付き合う段になったら
(2chの)電車男がさっさとオタク趣味を捨てたのも、脱オタ者が女遊びを覚えたらすぐにオタク趣味を捨てて軽蔑するのも、「本当に望んでいるのはオタク趣味じゃない」と考えれば別段不思議ではなくなる。
結局、多くのオタク達が本当に夢見ている生き方は“イケメン”や“スクールカースト上位者”達の生き方をなぞらえる事であり、抜きんでた同人誌鑑識眼を身につける事や全一スコアラーになる事ではないようなのだ。オタクとして能力を磨いたり業績をあげる事すら、せいぜい補償に過ぎないのではないか?そういや知人の全一スコアラーも、彼女が出来るやさっさとシューティングゲームもエロゲーもやめてしまった。脱オタ者達もまた、脱オタしてからはオタク趣味をゴミ同然に取り扱う者が後を絶たない。彼らは自らの専攻オタク分野で満足のいく結果を出すよりも、劣等感を溶かしてくれる女性とのキスを選びがちである。「劣等感」を何とかする為にオタク界隈を選んだ
消極的選択者の場合、恋愛などを通して「劣等感」がダイレクトに解消されれば、オタク趣味はもはや用無し、という事なのだろうか?だとすれば、一介のオタクとしてはあまりに悲しい営みではないか
※5?世間の風がどうであれ、自分の趣味分野を真に愛しているなら、世間体や女性と付き合えるか付き合えないかに関わらず愛でていくものではないのか。何故あんなに簡単に、積み上げた経験やコレクションを捨てられるのか。
仕方なくオタク趣味にはまっていた人間ならいざ知らず、本当にオタク趣味を愛して情熱を傾けた者なら、そんな事出来るはずもなかろうに。
・おわりに
「劣等感」からの回避や補償として消極的にオタク趣味を選ぶなんて後ろ向き過ぎると仰る人もいるかもしれない。だが、「劣等感」を抱えているオタク達にとって、脱オタなどを経て直接劣等感や不全感などを克服するのは大変難しく、素養や年齢次第では最早挽回しようがない。それに、そうした生き方であっても、DQNの迷惑な生き方や“子供はペット同然女”のインモラルな生き方よりも余程文化的で人間的な生き方と言える。よって、今回のdiscussionに賛同する人も、
「消極的にオタク趣味を消費している→人間として劣っている」という馬鹿げた脊髄反射はしないで欲しい。世の中には、そうしたオタク達よりも遙かに非人間的ではた迷惑な連中がいる事を忘れてはならないし、消極的にオタク趣味を選んだ者が、結果としてオタクとして大成することもしばしば見受けられるのだから。
今回私が指摘した「劣等感」あるいは「自己不全感」は、たぶん過半のオタク達を苦しめているし、それが無ければオタクをやってないか、少なくとももっと小規模にしかやっていない者が多いと推定する。事実、脱オタ者などがこの「劣等感」を克服すると、彼らは高確率でオタクをやめてしまうか、以前のような熱狂から離れてしまう
(色々忙しいからという面にも注目は必要だが→)。故に私は、
第三世代以降のオタク達を理解するうえのキーワードとして、「劣等感」に着目することを提案する。このキーワードを通して現在のオタク界隈の沢山の事が説明できるし、逆に現在のオタク界隈の多くの現象から、このキーワードが導き出される。オタクのセクシャリティ・過剰なまでのルサンチマン・萌えコンテンツ消費を考えるうえで、この特有の
精神病理(心的傾向)を念頭に置くと、色々なことが説明がしやすくなるのではないだろうか。また、萌えを適応促進的なファクターとして生かしていく方法について考察するにあたっても、「劣等感」への配慮が必要ではないだろうか。以後、このサイトではオタクの精神病理として「劣等感」がありがちということを念頭に置きながら、議論を進めていこうと思う。
【※1ファッションは手段であって目的ではない。】
英国デザイナー・Katharine Hamnettの言葉。
「
男性も女性も、服を着るのは多かれ少なかれセックスをするためです」
グッチのデザイナー・Tom FORDの言葉。
「
ファッションは全て性交につながる。……18歳の子供のことを考えてみてほしい。出掛けるとなると、とっかえひっかえTシャツを20枚も試す――彼らにとってはそれほどの重大事なんだ。……ファッション本来の強迫観念は、セックスと結びついている」
以上はNancy Etcoff著『
survival of the prettiest』からの引用である。
ファッションは、異性を惹き付ける為のツールとして
(さらに不十分ながら同性に対しての威信の象徴として)機能する。少なくとも、Nancy女史は進化生物学的アプローチによってそう推定している。服オタのなかでも同性しか意識しない少数者はともかく、多くのファッション志向者達はその規模の大小・センスの優劣を問わず、異性による評価を向上させる為に服飾を整備するという考えには、私も大筋で同意する。ファッションは、それ自体が目的ではない。性的資源にアクセスするための手段、としてまず存在する。他の目的や存在意義は、二の次だ。
【※2先走りすぎた考え方かもしれないが。】
脱オタクファッションマニュアルの久世氏が影響を受けたという、新しめの脱オタサイト・
脱オタク恋愛講座は、ファッション技術やアイテム紹介に固執する事無く、
仕事やプライベートにおける「自信」「オーラ」「心の強さ」というものに拘った紹介をしている。そして、対人場面における「自信」「オーラ」「心の強さ」といった要素は、劣等感や不全感を持ったオタク達に最も不足している分野としてピックアップされ得るものだと思われるのだ。電車男本編と
ドラマ版ではこういったプロセスがある程度描かれているし、私が知っている
脱オタ成功症例達も、このプロセスを踏んで劣等感を何とかしている。服装やコミュニケーションスキルなどといったものを超えた要素に着目しているこのサイトは、脱オタ方法論を論じるうえで一石を投ずるものだと私は捉えている。詳しくは、別テキスト『
脱オタサイトの歴史』をご覧頂きたい。
尤も、あのサイトの方法論は、現在の私個人の男女交際戦略や倫理技術に抵触している為、私は同じ方法をとらないだろう。
倫理技術的には、このサイトの方法論は一部のオタクさん達に強烈な副作用を生じる可能性があると私は推定しており、必ずしも全てのオタクさんには勧められない所もある。特に、
嘘の毒性に対するレジストが無い者は避けた方が良いかもしれない。とはいえ、脱オタ方法論としての全体的指針は、脱オタに要請されている可能性の高い、「劣等感克服」「自己評価の向上」という課題をもカバーし得るものである。オタク達に「俺達はお前と違って純真なんだ!」と批判されそうな部分があるが、悲しい事に、少々利己的なほうが異性を引っかけられるというのは事実で、しかも安い異性の場合は
純粋な心なんてものが無いほうが評価されやすかったりする。個人的には、主催者moteo氏のイデオロギーは好きではないが、脱オタ研究者にとって必見である事は認めるし、その存在意義は高く評価したい。
【※3たいして評価される事もない。】
各予備校メーカーの全国模試における順位発表を挙げて、「成績の良い者なら、途上のプロセスで評価を受け、劣等感を少しは解消できるのではないか?」と指摘する向きもあるんじゃないかと思う。だが、私は全国模試などで高順位をとって劣等感が解消できる度合いには疑問を感じずにはいられない。
1.そうした高順位を取れるオタクは限られている事。確かにオタクはDQNに比べると勉強が出来る者が多いかもしれないが、あくまでDQNと比較しての話で、誰もが高い学力を披瀝し得るというわけではない。どのぐらいのオタクが実際にそうした優越感にありつけるのか??
2.そうした解消の「場」と「時」が限られている事。全国模試にせよ(そこそこ以上の進学校の模試にせよ)毎日やっているわけではなく、仮に毎回勝利したとてそうした優越感と遭遇できる機会は限られている。まして、そこそこ以上の進学校でなければこうした機会自体存在しない。対してクラス内カーストは在学している限りずっと付きまとうし、超一流の進学校から一般校まで広く認められる現象である。
3.「学力が高い」という評価が誰に評価されるかという事。クラス内カーストが酷ければ、いくら高い点数を取っても上位カーストのクラスメートや女子には殆ど肯定的な印象を与えない。「あの人頭はいいけどオタクだし」で御終いである。彼を褒めてくれる者もいなければ、人気者とかになる機会を与えてくれるわけでもない。彼をクラス内に位置づけるものは、依然として学力や知的機能以外の諸要素でしかない。
そのうえ、家族すらこの高順位に対して高い評価を与えてくれない可能性もある。親が子供に対してより一層の高学歴・より一層の高得点を期待しているような家(厳格な家ではなおさらである)では、幾ら良い得点を取っても「のどが乾いているのに塩水を飲まされるような」対応しかして貰えない事が多く、むしろ一層「俺は何をやっても駄目」という印象を強めかねない可能性がある。また、本田透氏の家庭のように、そもそも学力向上というものがどういう価値を持つのか理解していない親を持ってしまった悲劇的な例も後を絶たない。
【※4滅多に見いだせない。】
しかも、稀に見いだせる自信過剰のオタクというものがこれまた痛い人が多くて困ってしまう。自信を持っていて、なおかつオタク趣味分野への造詣が深くてコミュニケーションスペックにも問題が少ないオタクは、それほど頻繁にみられるものではない。一方で、自信だけはあるもののオタク趣味分野の造詣が浅すぎる御仁や、自信の無さが透け透けの“強がり君”といった痛い人達はそこここで見出すことが出来る。
【※5あまりに悲しい営みではないか。】
また、萌えオタとかなり重複がみられる非モテ界隈の一部が“現実の女性”や“イケメンヤリチン”などに拘った非難の声をあれほどあげ続けるのも、本当はそういう生き方を熱烈に望んでいるからではないかと私は疑っている。
インモラルにも関わらず果実を貪る不当な連中を退け、その果実を自分達が貪りたい、という事ではないだろうか。本田氏の提唱するような“護身完成”を真に目指し、D.T.フィールドによって精神の均衡を守って生きていこうと思うなら、そんなものに言及したり、ルサンチマンを抱えながら女達の言質を玩んでいる暇は無い筈だ。もっと萌えやオタクの世界に邁進していくべきであり、オタク界隈の外を見て怨嗟の声をあげるなど、
護身完成を遅らせるだけの迂遠でしかない。勿論、彼らに自分の評価を向上して貰おうなどという試みも無駄である。
にも関わらず、リアル女性・イケメン・脱オタを見つめ続け、発言し続ける彼らを観察していると、
“本当は護身完成よりも、君の言うところの肉便器を欲しているんじゃないの?”と突っ込みたくなるほど、リアル女性やイケメンのほうばかり見つめている。そんなの見ている暇があったら、
鋳薔薇とか
Fateとかやってたほうが護身完成に近づけるものを…そうもいかないというのか、彼らは。
彼らの熱烈な女性批判には、
愛憎という言葉がよく似合う。彼らは強烈な関心を持っている。どうでもいいとか遠ざけようとか思っているなら、あそこまで執着する事もあるまい。俗世を離れて隠遁する仙人のような印象はどこにもなく、慾のギラつきと近親憎悪が透け透け――熱望と憧れと怖れが透けて見える。だが、もちろん彼らは決してそれを意識下で認めようとはすまい。出来る筈もないし、認めないのが彼らのポジションでは適応的だとは思う。この辺りの事情に関しては、後続テキスト『オタクにみられる防衛機制(仮)』でも関連事項を取り扱うことになりそうだ。
本当に護身完成をしているオタク達は、おそらく、女性・イケメン批判発言をするどころか、そもそもテレビドラマや六本木ヒルズや女性ブロガーの発言なんぞに一瞥すらくれず、粛々と己の幸福を追究していることだろう。非モテ諸氏を皆救おうという慈善家さんはともかく、
己の幸福追究に関して本田氏の『護身完成』を援用したいとだけ思っている非モテ諸氏には、オタク界隈にもっと埋没してしっかりと萌えていく事を勧める。“女共”と距離をとって己の適応をしっかり追究していこうと思うなら、ネット上のモテ・非モテ議論なんぞにうつつを抜かして時を過ごすのは勿体ないだけだ。あんなのを眺めていても、変に未練や執着や愛憎を煽られる事こそあれ、護身完成には益をもたらさない。心静かに護身を完成させ、キャラクター達と会話が出来る境地を目指すのだ。