・合理化(rationalization)
自分のとった行動や態度
(または、自分がしたくてもとれなかった行動や態度)に対して合理性・倫理性のある理由をつける事によって、自分のアクション
(や出来なかったアクション)によってもたらされた不安や葛藤を軽減させるという防衛機制。本来なら満たしたいけども満たす事が困難な衝動・欲求をあきらめざるを得ない際に伴う、葛藤・不安・怒り――こういった諸々が心の中に渦巻く時、心の均衡を維持すべく「これはこういう理由で、やった方が
(やらない方が)良いのだ」という理由を
(主として自分に対し)後づけするため、
自己欺瞞的色彩を呈しがちだ。
例としては、
イソップの「狐と葡萄」の話が特に有名である。だが、イソップの例でも分かるとおり、周囲の者からは自己欺瞞的・自己正当化的色彩が何となく感じられたり、変に緊張を帯びた主張となったりと、何かしらの「気になる」ポイントを抽出できる事が多い
(たまに、凄く上手に隠せる人もいるはいる)。外部からの抽出が困難な事が多い
抑圧とは、この点に関しては対照的である。とはいうものの、こういった合理化は誰もが思い当たる記憶があるはずで、合理化があるからと言って、異常だとか何だとか言う必要は無い。程度・頻度・巧拙の差はあれど、
誰もが自然と発生させている防衛機制である。もちろんそういった葛藤が相対的に少ない人においては発生の程度・頻度は少なくなってくるだろうし、この防衛機制が呈しがちな不自然さに着目出来た人は、巧みに隠そうとしてくるだろう。また、防衛機制に頼らなければならない度合いが強烈な場合には、自分自身でも意識しきれない事が多い。
合理化は、当サイトが対象としているようなオタクにおいて高い確率で探知出来る防衛機制の一つであり、当人が本当は何を望んでいるのかを指摘する為のヒントとして役立つ事がある。では早速、幾つかの例を挙げてみよう。
オタクというより自称非モテ・喪男にみられる合理化の例としては、「リアルな女性なんて二次元に比べれば糞」「リアル恋愛のどこが楽しいのか分からない」などといった、実際の女性や男女交際に関しての合理化がよく見受けられる
※1。もちろん、
今回議論の対象にしている萌えオタクの多くは非モテ・もてない男に該当するため、重複がかなりみられるのは言うまでもない。
彼らのなかには実際に恋愛を経験していて、リアルと二次元とを実地で比較したうえで
(例えばリアル恋愛の面倒くささなどを挙げて)「自分は敢えて二次元を選ぶ!」とコメントしている猛者もいる。だが大多数の者は、
リアル恋愛を単に経験出来ないが為に「ブドウに手が届かない狐のように」ブドウをすっぱいものだと予め決めたうえで語っているに過ぎない。もし手に届くところにブドウがあった時、彼らがどう行動するのかは、コメントが所詮は合理化の産物である限りにおいては予断を許さないものがある。
頑張っても恋愛や交際に手が届きにくい現状への不満や不安を緩和する為に、彼らの一部は「俺は恋愛したくて仕方ないんだけど、喪男だからダメなんだー!」「恋愛できないまま歳を取っていくのが怖い」と泣き叫ぶ代わりに、「恋愛なんて○○だから、やらなくてもいいさ」といった合理化の手続きを経て、現状への
不満や不安に直面する事を回避する。彼らはブドウを実際に口にして酸っぱさを確かめたことはなく、見た目や噂や手に入らなかったという経験だけでブドウを語っているという点で愚かにみえるかもしれないが、予めブドウが酸っぱいという前提を脳内に設定しておけば、わざわざブドウに手を伸ばす必要性を感じる契機が少なくなって葛藤も減ずるという点で賢いといえる。葛藤の回避という視点からみる限り、これはこれで有効なストラテジーと言える。
しかし、こういったロジックに依って不満・葛藤への直面を避けているが故、例えば男女交際が出来ない事に不満を隠し持っているオタクに対して「脱オタすれば君も普通に恋愛できるじゃん」とか「ギャルゲーばっかりやってないで、女の人ともっとコミュニケーションをとってみたらどうだろう?」等と面と向かって提案すると、
このような防衛機制を用いる者は必ずと言っても良いほど定型的で強い反応を呈することとなる(というか、そういう時にしか反応が観察出来ない)※2。むろんそういった定型的反応は、逆に何らかの葛藤の存在を探知する為の素晴らしいヒントになってしまうが、ヒント漏れは彼自身の心的バランスをとるか否かとは別個の命題なので、このたぐいの“ヒント漏れ”への対策は疎かになりがちである。
このほかにも、本当は願望しているのに
(抑圧されたり逃避されたりして)普段は記憶にすら登らせない各願望が、誰かの指摘などによって不意に直面化し、防衛機制
(つまりここでは抑圧だの逃避だの)とコンフリクトを起こした瞬間、合理化に該当する言動は発生しがちである。今回議論の対象にしているタイプのオタクは、願望していながらそれが達成されない願望をそれこそ山のように持っているので、願望が達成されない不満や葛藤を、不意打ちで指摘したりすると、合理化がポッと出てくる可能性がある。特に
精神のバランスが弱そうなオタクや、葛藤を抱えすぎて潰れそうなオタク、他種の防衛機制がバンバン展開されているオタクに対して用いてみると、様々な合理化がみられ、そして彼らが本当に望んでいながら達成出来ずに葛藤を起こしているモノをうかがい知る材料を収集することができる※3。
・知性化(intellectualization)
一つ前に紹介した
合理化は、自分自身の葛藤をともかく何とかする為に自分自身をとりあえず騙せればOK
(自己欺瞞が外から丸見えかは問われない)という水準に留まっている場合も含まれているが、もうちょっと進んだ
(?)形のモノが存在する。
知性化は、『情動や欲求を直接満たす事が出来ない代わりに、それらに対する知的認識・論理的思考・知識の獲得や伝達などの知的態度をとる防衛機制』で、この知的活動を通して、本人は情動・欲求と一定の距離を保ちやすくなるだけでなく、或る程度までの代理満足を得ることができる。例えば
恋愛がしたくてがしたくてうずうずしている童貞男が、恋愛について議論したり恋愛についての知識や知見を収集したりするのが好例である。セックスやデートはできなくても、考えを巡らせている間はある程度充実した時間を過ごすことが出来る、ということになる。
この辺り、昇華によく似ている部分があると気づかれた方もいらっしゃるだろう。事実、ちょうど
性欲や攻撃性などがスポーツなどの形で昇華されるような格好で、性欲や攻撃性などが論考や知見集積を通して知性化されるわけである。
昇華と知性化は、どちらも衝動や欲求をより社会的に好ましい形態で充たすという点で共通しており、半ば重複している事も少なくない。考えようによっては、理系・文系諸分野の研究者達は、多くがこの知性化に該当していると考える事も出来る
(あくまでこの視点の場合は。防衛機制という視点だけでモノを見ていると、人間の損得勘定が狂ってしまったり、自分自身の頭が腐ってしまうので注意)。どちらにせよ、昇華同様、知性化という防衛機制もまた、オタクに限らずありとあらゆるタイプの人が発動するものであり、それ自体は異常な防衛機制ではない事を断っておく。
“知的活動を通じて欲求や衝動をコントロールしやすくする”ということなので、腕力よりも知性が問われがちなオタク界隈では、知性化と呼ぶに値する現象はみかけやすい。ネット上でのオタク達のサイト群やblog群のなかには、単なる合理化に堕せず、見事な知的結晶を開花させたサイトが数多く存在している。軍オタ・ゲームオタ・エロゲオタ・
ありとあらゆるオタク達によって、知性化に該当しそうな論考・総説が生産されており、考察やレビューの記述などを通して様々な衝動や欲求が制御されている。優れたサイトか否かに関わらず、防衛機制という視点からサイトの内容やレトリックを検証していくと、彼らが知性化を通して代理満足や欲望との距離調整を達成した痕跡をみることができる
(場合がしばしばある)。そしてそこから、防衛された衝動・欲求や、葛藤について推測するチャンスを得ることが出来る
※4。
知性化の場合でも、防衛機制によって葛藤や不満がある程度マスクされたり代理満足はされるものの、衝動や欲求が完全に消えてなくなるわけではないので、防衛しきれなかった葛藤のカケラが漏れ出てしまう事はなかなか避けにくい。と
はいえ、知性化という防衛機制は単なる合理化と比較すれば知的結晶を生産してくれる事が多く、自分自身だけでなく第三者にも恩恵を与えがちであるという点でありがたいものである。下手にやらずに合理的にやればやるほど、知的議論が優れていれば優れているほど、他人に色々と突っ込まれる確率も下げられるし、
(それが本当に本人にとって幸せな事かはともかく)他人に肯定的に評価される契機になりやすくもなる。
最後に、知性化も度が過ぎるとボロというか歪みを生じてくる事があるので紹介しておきたい。知性化は内容が内容だけに、当事者もある程度まで判ってやっているふしがしばしばあったりするし、そういう自覚はむしろ健全だが、
病的になればなるほど本人の自覚が遠のきやすく、場合によっては「思考の全能」(Allmacht der Gedanken)を呈してしまうかもしれない。この「思考の全能」状態になると、自分の観念・思考がそのまま現実で起こった事だと思い込んでしまう。或いは、自らの観念・思考で現実は全て自由に変えられるという考えに至ってしまう。もしかすると一部タイプの哲学者には必須とも言える状態なのかもしれないが、そうした極端な例外を除けば、適応をむしろ妨げるような方向に傾きやすくなる可能性が高い。純粋な議論ならともかく、対人コミュニケーションの絡むシーンにおいては、「思考の全能」やそれに近い知性化を展開する事はコミュニケーションを失敗させるリスクが高い。よって極端な知性化は、学問の殿堂の奥深くのような極端な状況下でなければむしろ適応を悪化させ、もっともっと葛藤を招き寄せる原因とすらなり得る。
思考
(&それを去来させる願望)と現実との区別もおぼつかないこういった状態は確かに重篤だが、勿論オタクに特異的にみられるわけではなく、本来はむしろ精神科臨床の場面で、より重い病態水準の患者において観察されやすい。
【※1男女交際に対しての合理化がよく見受けられる】
とはいえ、彼らが主張する意見の中には、現在の男女交際で横行する商取引的側面や即物的側面に対する鋭い批判が含まれていたり、似非平等主義がはびこる一方でリアル階級主義は一層深刻化しつつある昨今の情勢への鋭い洞察が含まれていたりする場合がある点には留意すべきだろう。
後に触れる
知性化に成功したdiscussionにおいては、こうした鋭い着眼が見事に生かされている事が多い。しかし、そこまでのdiscussionに成功した事例の割合は必ずしも多くないし、防衛がエレガントに決まらず、どうにもルサンチマンの臭いがぷんぷんしている例が数多くみられるのも事実である。もちろん、ぷんぷんさせる事はいけない事ではないのだが、あまりにもルサンチマンが露骨な場合、プレゼンテーションに余計なバイアスがかかっている可能性を読者に疑わせやすくなってしまい、損をしていることはある。
繰り返すが、知性化という語彙が相応しい状態までdiscussionを洗練させている事例はインターネット上ではまだまだ必ずしも多くはなく、単なる合理化の域に留まっている粗末な意見がまだまだ多い。そしてこれからもそうだろう。
防衛機制が強烈に作動している環境下で、合理化に堕しない程度の生産的議論を構築出来る人間というのは、やはり限られている――防衛される葛藤が強ければ強いほど、また知的結晶を構築する為に要請される知的能力等が高ければ高いほど、こうしたハードルをクリア出来る者の割合は低くなると推測される――。
【※2強い反応を呈することとなる】
実はというと、「合理化」は欲求充足そのものを防衛する防衛機制というよりは、
欲求充足と防衛との間で葛藤が生じた時にその葛藤を隠蔽する為に二次的に発動される機制とされるため、厳密には一次的防衛機制とは区別して考えなければならない、と成書には書かれていたりする。この例では、普段は意識にすら登らない(
抑圧)か、直面することを避けている(
逃避)か、萌えコンテンツなどでごまかされる(
補償)かして葛藤が防衛されているものが、「脱オタすれば君の欲求は満たされるよ」という本心の願望充足の呈示と衝突してはじめて「合理化」と呼ぶに相応しい自己欺瞞が生起する。
上のような状況下、「異性なんて〜」という合理化が行われる事によって、そのオタクは
自分自身に葛藤がある事を隠蔽しようとし、事実隠蔽にしばしば成功する。少なくとも、自分自身に対して事実隠蔽を行うという点においては。
そういや、この葛藤を誰に見せたくないのでしょうね?他人に見せたくない?いえいえ、丸見えですよ。じゃあ誰に?自分に、という事ですね。この辺り、スティーブン・ビンカーが防衛機制を「心を守る為の自己欺瞞のメカニズム」といった趣旨で表現したのは、合理化という防衛機制に関する限り、実に的を射ているように思える。事実、この
合理化をはじめとして幾つかの防衛機制は、自分自身の心のダメージコントロールや事実隠蔽に成功するものの、他人にはむしろ違和感をプレゼントしてしまって隠すべき本心を悟られるヒントを与えてしまう事も多い。心理系の職業の人間に限らず、この事実をなんとなく知っている人達は、防衛機制を発動させる事によって他人に違和感を与えることにも警戒するようになり、自分自身の防衛機制の発動から他人に尻尾を掴まれないように、有形無形の工夫を行うようになっていく。