・補償(または代償)(compensation)
行動目標が
もとの目標から他の目標へと置き換えられることによって、その要求が多かれ少なかれ充足される防衛機制が、補償と呼ばれる。S.フロイトではなくアードラーとユングが言い始めた防衛機制ということもあってか、内容は逃避・反動形成・知性化・逃避などと一層重複しがちである。このため、ここまでに述べた
幾つかの防衛機制と間違いなくオーバーラップしているのでご了承いただきたい。なぜ出所が違って重複している概念をわざわざ紹介するのか?それは、この補償
(代償)という概念が似合う現象がオタク/非オタクを問わず広く認められるうえ、概念が分かりやすいためか比較的一般にも広く使われている印象を受けるからである。
補償の例はそれこそどこでも転がっている。いなくなった恩人の形見や嗜好を大切にすること・身体の自由が利かない人が小動物を飼うこと・スポーツが駄目な人が学業にまい進すること等々、思い通りに情動や願望が叶えられないけれども葛藤を緩和しなければならないあらゆる場面において、「置き換え」はみられ、また有効でもある。置き換えの内容は、他の防衛機制のことばで言えば知性化や昇華に該当するものだけでなく、逃避や反動形成に該当するものまで多種多様で、
長期的にも適応的意義の高いものもあれば、短期的にはプラスでも長期的には害毒となりかねないものまで存在する。言うまでもないが、この防衛機制もまた「誰にでもみられる正常な心の営み」の一部に対する呼称であり、補償が発動していることを根拠に精神疾患に罹患しているとは考えない。
当然、オタク界隈でも補償に該当するものは多々見受けられるし、それは精神医学・心理学的には異常なことではない
(≠常に適応促進的)。以下に挙げる代表的な補償の例も、それが機能しているという点ではむしろ防衛機制が正常に作動している証明にすらなっているかもしれない、と、くどいほど繰り返しておく。
ただし、である。葛藤の程度が著しく強い場合で、葛藤を何とかしなければならない程度がひどい場合
(特に不安や怒りを含んでいる場合など)には、補償は強迫的になったり
異常なほど熱狂的になったり、他の事をうっちゃってまでやったりする場合がある。これは
『過剰補償』と呼ばれる現象で、ここまで来てしまうと、本人の全体的な適応バランスが崩れやすくなる事が多く、フレキシビリティも失われやすい。このテキスト群で
対象とするオタク達をみていると、過剰補償に該当してしまいそうな補償も沢山存在しているように思える。ことに、第三世代オタク達の多く
※1のように、必ずしも好きこのんでエロゲーマーや漫画博士という道を選択したのか怪しい人達のなかには、異常なオタク趣味への傾倒や知的集積の背景に、“過剰補償ではないか?”と思いたくなるようなアンバランスな適応を呈している人々が観察される。過剰補償に限らず、過剰な防衛機制はひとつの側面からみれば適応促進的ではあっても、その他の多くの側面においては中期〜長期的な適応を妨げやすく、それだけに当人にとっては深刻な事態と言える。
彼らの“萌え”がもしも過剰補償・過剰防衛だとすれば、それは将来彼らの適応に暗い影を落とす事になるだろう。
では以下に、補償のカテゴリ別にオタクにおける例を呈示してみよう。
例1:萌えをはじめとするオタクコンテンツの消費。(空想逃避型の一例)
キャラ萌えを通して、リアルにおいて性的な情動を満たせない葛藤不全感を何とかしようという、ベタな補償である。散々既出だが、二次元キャラへの“萌え”はAVなどと違って劣等感などをチクチク刺激せず、効果的な補償をオタク達に提供することができる。
(詳しくはこちらへ)。補償という観点からみると、虐待や暴行に特化したエロゲーも、さとうきびよりベタベタな展開の萌えコミックも、
まさに直球勝負のコンテンツ達であり、迂遠さの欠片も無い形でオタク達の心のスキマを埋めていく。リアル女性に対して渦巻く諸願望
(勿論、多くの萌えオタ達にとっては、リアル女性達に対して表出も実現も不可能な代物である)を補償するものとして、萌えコンテンツは馬鹿馬鹿しいほどストレートである。だがストレートな分、萌えの世界の内側では屈託が無いのかもしれないが。
またロボットアニメや軍事関連・アクションゲームやシューティングゲームは、性的な情動や不全感を解消するには少々弱いかもしれないが、暴力も含めた
強さ・優越感・攻撃衝動を補うには好適といえる。戦闘能力も低く劣等感に満ち満ちたオタク達は、リアル世界ではそれらを入手したり解消したりする機会が絶望的なほど少ない。ダークヒーローであれ、正義の味方であれ、強さを抱えながらも矛盾に悩む主人公であれ、
感情移入を通して実現不可能な願望や情動を補償することが出来るのだ。この辺りは、萌えと同じである
※2。しかも、こうしたオタクコンテンツへの埋没は、現実の葛藤から目を逸らせる効果を確実に併せ持っている。
例2: 知識集積。データ収集。(対照的な価値実現型)
スポーツがてんで駄目な人が学業にまい進する如く、プライベートの分野においてはオタク達は、恋愛や情緒的なやりとりの代わりに、知識集積や論理的やりとりに邁進することがある。また、スポーツ・その他モテ趣味・ナンパなどに突き進む代わりに、ゲームや同人などの分野で頭角を現そうとする者もいる。勿論、学問やディベートに特化する者もいるだろう
(狭義のオタクとは関係ないが)。
様々な衝動・情動が叶えられず葛藤が発生していても、そうした諸情動を直接克服する代わりに、それらと殆ど対照的な分野で成果をあげることで心の平衡を保つというやり方――こうした補償もまた、オタク界隈においても広く認められる。
情緒的なやりとりが苦手だけれど論理的思考やデータベースの取り扱いに優れたオタクは、様々なオタク分野に広く認められ、彼らにおいてはデータや知識の集積・知的論考そのものも、心的葛藤の軽減化に大いに役立っていると考えられる(防衛機制、という考え方に基づけば、ね)。彼らがこうしたプロセスのなかで生み出したコンテンツは、しばしばオタク達にとって有益なものが含まれており、他の防衛機制で言えば
知性化・
昇華などに該当するものも多い。
ただし断っておくが、がんばっても駄目な人というのは常に存在する事は忘れてはならない。この路線の補償に走ったオタクの能力によっては、この手の補償すら惨めな失敗に終わることがある
※3。昇華や知性化に該当するような内容のものが多い補償のカテゴリーなので、それは仕方ないのだが。
例3:リアル女性に対する攻撃性や、こき下ろし (イソップのすっぱい葡萄型)
この例については、
合理化のところに書いた内容と殆ど重複するので省略する。また、後述する
投影ともかなり合致している。
余談だが、このように防衛機制というのはサブカテゴリの一つ一つは実際にはかなり重複している
(殊に、異なる論者が提唱した者同士はなおさら)。だが、学術的にはともかく普段本当に重要なのは、どのサブカテゴリに含まれるかではない。
いずれのサブカテゴリに属していようが、ともかくもそれが防衛機制という
概念に合致した営みか否かが重要となる。そして付け加えるならば、1.その防衛機制によって何が緩和されているのか、2.その防衛機制が当人の全体的適応に悪影響を及ぼさないか否か、3.中期〜長期的にみても適応促進的か否かなどに着目するほうが建設的だろう。
例4:リアル異性には興味が無いという表明 (劣等感を隠す装い)
リアル異性に興味が無いという表明を行うオタク達をしばしば見かける。軍事、鉄道、無線、パソコンなどの非萌え分野のオタク達のなかには、異性には興味が無いというポーズをとっている者が少なからずいる。男女交際を全く経験していない場合が殆どの彼らは、服装などで媚びず、「彼女なんて要らない」と表明し、惰弱な萌え路線のオタクコンテンツを軟派と一蹴する。だがそのなかには
硬派路線のポージングが強迫的になっている一群が混じっているし、さらにそのなかの幾らかは男女交際やリアル異性の脱価値化(叩き)が顕著だったりもする。彼らをみていると、純粋に性欲が無かったりリアル女性に興味がないというより、有り余る性欲と異性願望を抱えながらも
(いや抱えているからこそ)過剰なまでの禁欲主義をとる聖職者の姿を連想させる。本当に何も性的な衝動や葛藤がなければそこまで必死になることもないだろうに、
ほらほら汗かきながら力説していてバレちゃいますよ、という者が大半を占めている。この場合の補償もまた、他の防衛機制各種と同様、第三者への隠蔽としては殆ど役に立たずに自己欺瞞としてしか機能していない場合が多い。むしろ、そうした脅迫的禁欲の表明によって、隠蔽されたものが暴かれるのだが、心のバランスをとることが多くのオタクにおいて優先されがちである。
なお、類似した補償を連想させるタイプとして、異性キャラやほんわかした話は好きだけど、18禁は汚らわしいと主張する亜種を挙げておこう。勿論、この場合は、“
プラトニックな関係には興味はあるけどエロティックな関係には興味が無い”という表明の裏に、防衛しきれないリビドーが溢れているという解釈になってくる。このタイプのオタクに“そんなにギャルゲーが好きなのに、何故18禁は駄目なの?”と問い詰めると、彼らは必死に様々な弁明を試み、自らの純真さを説明しようとする
※4、それも第三者が求めているよりも過剰に。もちろんこうした試みは自己欺瞞としてしか成功しないことが殆どなのだが。この場合のプラトニックが
反動形成にも該当するのは、前述の通りである。
例5:脱オタから異性漁りに走るオタク達 (ハンディキャップ克服型)
アードラーの主張する補償の定義のなかには、劣等感の源泉となるハンディや問題点そのものを超克するタイプも含まれている。脱オタや異性漁りなどを通してオタクが持つ「劣等感や自己不全感」を遂に乗り越えるのも、アードラー先生の補償には含まれているのだ。だが皆さんもご存知の通り、脱オタの可否はともかく、脱オタに乗り出すオタク者というのは割合としてはそうは多くない。特に今回萌え特集でとりあげたような萌えコンテンツヘビーコンシューマにおいては非常に少ない。むしろ、
他の補償も含めた種々の防衛機制を用いる者が大半を占めている。
・投影(または投射)(prodection)
自分が内面に持っている衝動や情動などを外在化し、
(自分と別個の)外界の対象に属するものとして認識するような防衛機制を、投影と呼ぶ。自分が内側に抱えておくと不快だったり不安だったりする情動
(例えば攻撃性なり性衝動なり)を対象に見いだす事を通して、自分とその情動は直接関係のないものとして心理的距離をとることが可能になるという防衛機制である。
ただし、無限遠に距離がとれるわけではなく、自己と投影された情動との関連性は幾らかなりとも持続されることになる。他の防衛機制同様、やはり100%のブロックというわけにはいかない、余程病的なケースを除いては。
例を挙げると、あなたが激しい攻撃衝動を持ちたくなる集団がいて、にも関わらず彼らに対して敵意を表明できない葛藤状態にあるような場合。ここで投影が働くと、“あなたが”ではなく“彼らが”攻撃衝動を抱いているように感じられるようになる。ここで攻撃衝動は“あなた”の内面から“彼ら”に外在化されることとなり、このプロセスを通してあなた自身が内面に激しい攻撃衝動を抱えっぱなしでいるよりは葛藤が軽減されるという寸法だ。また、自分自身が浮気をしていて不安を抱えている場合に、逆に妻が浮気をしているのではないかと主観が歪曲される場合も投影に該当する。どちらの場合であっても、
自分の心の中の葛藤なり衝動なり不安なりを、他人の背中に見てしまうというのが特徴だ
※5。
さて、オタク界隈で投影に該当する現象はどれだけ発生しているだろうか?オタク趣味愛好家だからこそ、この投影がみられる、というものは実はあまりみられない
(他の防衛機制の幾つかだってそうですけどね)。だが、内面に
抑圧だけでは防衛しきれないほどパンパンに攻撃性や葛藤や性衝動を抱えたオタクに関しては、確かに投影はかなりの頻度で見受けられるし、それが対象オタクを探るうえで面白いヒントをくれる事は多々ある。オタクでなくても、こうした衝動や情動への葛藤が強ければ投影はいつでも起こり得るが、オタク界隈で起こる投影として典型的なものを幾つか紹介しよう。
1.脱オタ者によるオタク&オタク趣味批判
脱オタ者はしばしば、オタク達に対して非常に批判的・攻撃的・侮蔑的になることがある。脱オタが完了して長い時間が経った者には少なく、脱オタの途上にある者や脱オタして彼女が出来たりして間もない者に多いのが特徴である。また、一般主婦やOLの態度に比べると、無視や嫌悪よりも積極的攻撃が目立つ。
彼らは、嘗て自分もそうであった筈のアキバ系nerd fassionに対して強烈な批判を浴びせ、嘗て大好きだった筈のアニメやゲーム趣味を「馬鹿な奴のする事」とこき下ろす。投影という防衛機制が「自分の中にあるものを外在化する事によって葛藤を減少させる」というだけあってか、
自らの過去を嘲笑・侮蔑するような言動をしているにも関わらず、意識下のレベルでは「俺らとオタは違うもの」という明確な線引きが出来てしまっている。自分の過去や自分の一部だったものという意識は、第三者に指摘されるまでは意識化されないか、最も深刻な場合には、指摘されても否認してしまって鵜呑みにできなくなってしまう。
脱オタというプロセスにおいては、オタクという生き方と距離をとらなければなかなか心のバランスを保ちきれないところがあると思われ、自分が築いてきたオタク的処世・オタク的価値観を外在化しなければやってられない要請が高まるのではないかと私は考えている。故に脱オタ者においては、周囲のオタクやオタク趣味への否定的投影が発生しやすく、
この営みを通して(苦境を闘う)脱オタ者達はかろうじて心のバランスを保っていると推測される。少なくとも、私は一時期そうだった――そうしなければ、元の暖かい温室に戻って何もしなくなりそうで――。だが、逆に十分に脱オタが進んでしまえば、オタクという生き方と距離をとる要請が減じてくるし、異性などへの劣等感も減じてくるため、この手の投影は次第に影を潜め、しまいには消滅してしまうのではないかと推測する。
2.オタオタしたオタク達による脱オタ批判
逆に、オタク趣味界隈に生き続ける事を表明しているオタク達のなかには、神経質な脱オタ批判を繰り返す者もいる。脱オタに関しては、多くの人が「個人の自由なんじゃないの?」という醒めた印象しか持たないし、一部の非オタク達は積極擁護しているぐらいである。だが、当のオタク達
(勿論全部ではない)のなかには、他人の脱オタについてあれこれ難癖をつける人がいる。曰く、あんなのはオタクとは言えない中途半端な連中だとか、オタク趣味が本当に好きではなく仕方なくやっていた連中だとか…内容は実は正鵠を射ていたりするんだが、
彼らはその事に気づきすぎ、そしてそれをスルーできないのである。別に脱オタする者がいたとて彼らの権益になんらの影響を与えるわけでもないし、個々の人間がどう生きようと迷惑さえかけなければ自由である筈なのに、一部の急進的なオタク達は脱オタ叩きを好む。そして
いかにも外在化してますよといわんばかりに「俺様はあいつらのようなオタクの出来損ないとは違う」と切り離すのである。
私見だが、このようなオタク達による
脱オタ批判が酷いオタクほど、むしろ内心では脱オタ(とそれで得られるもの)に対する欲求や情動が強いのではないか?いろいろな事情によって彼らにはそれらの欲求や情動は達成されにくく、故に葛藤を生み出してしまう→抑圧するだけじゃキツいほど葛藤が強いために何かプラスαの防衛機制が必要→投影による外在化 というプロセスを、私は彼らから感じとっている。正直、
脱オタ批判をどうでも良いことと捉えているオタク達よりも、脱オタ批判の金切り声をあげているオタク達のほうが、よほど脱オタに恋焦がれているように見えるのだが。また、彼らの言動は不注意であれば不注意であるほどルサンチマン丸出しの事が多い。嫉妬するほどあこがれる衝動に手が届かない状況では、確かに投影という防衛機制は有効に働くことだろうし、且つまた要請されることだろう。
以上の
1.2.は、比較的オタク限定の投影の例だが、もちろんオタクに限定しなくてもネット界隈・リアル人間関係では沢山の投影を観察する事が出来る。ネットに限定して例を挙げると、
3.開けっぴろげな男女交際に対する批判(むしろ2chで言う喪男が該当しがち)
このタイプの男性達による強烈なイケメン・DQN批判や女性批判をみていると、投影というカラクリがとてもよく似合う。交際や性行為を繰り返す男女達が屈託なく達成している願望・衝動を彼らもまた熱烈に持ってはいるが、諸般の事情によってこれらは達成出来ない。故に発生する内的葛藤を緩和する為に、内在している気持ちを男女交際の盛んな人達に外在化
(投影)させるというわけである。
こうした衝動を投影する対象としては、奔放な交際を繰り返す男女はいかにも適している。さらに好適な事に、こうした男女は堕胎や不倫といったインモラルな特徴を多く含みがちで、
自らの批判行為を同時に合理化する事も可能である。故に、防衛機制の有り様としては非常に強固なものを形成しやすい。「あいつらは倫理観の無い淫乱」という批判は、倫理観についてはともかく、淫乱という言葉に関する限りは自らの内面に存在するものの表明として着目する事が出来る。見る人間がみれば誰もが気付くこの事を、彼らはあまり自覚していない。
4.アクセス乞食・アクセス厨批判(むしろアクセス数が重要な世界で該当しがち)
アクセス乞食達の直裁的な行動に対する批判は、しばしばそうした願望や衝動を隠し持ちつつも葛藤の末に諦めざるを得ない人間によって行われやすい。あまりそういった願望や衝動が強くないか、アクセス数に満足している者はこうした問題をそもそも意識しないか、わざわざ話題にする確率は少ない
(とはいえ、アクセス厨関連の話題が、界隈のトピックスになっている時にはこの限りではない。議論の対象としての価値を見出した多くの人が書き込む事になるだろうから)。やはり、ある程度アクセスを稼ぎたいという願望や衝動が背景にありつつも、それが出来ないという葛藤のある者においてのみ、こうしたアクセス乞食批判が恒常化しやすい。アクセス厨達は、こうした願望を投影する対象としてはいかにも適しているうえ、ネット上のマナーなどの問題点を含んでいる為、
アクセス厨批判はほぼ確実に合理化を同時達成できる。故に、露骨なアクセス稼ぎに飛びつきたくなる内的葛藤をなんとかする為の防衛機制としてはなかなか優れており、願望や衝動の外在化は強固に完成され得る。
以上、ネット限定の例として
3.4.を挙げてみた。オタクの例であれそうでない例であれ、投影は自らの衝動や願望にまつわる葛藤を処理する手法として便利な形式で、多かれ少なかれ誰もが意識すらしないでやっている。さらに、防衛機制の合理化にも合致するパターンの場合、この営みは衝動・願望にまつわる葛藤を処理するうえで極めて有効な手段となる。
合理化にも合致している場合には、第三者にも簡単にはバレにくくなるし、自分自身がその葛藤を意識する確率もグンと下げることが出来る。もちろん、そうした強固な防衛が中期〜長期的には不利益をもたらすものだった場合には、気付きにくさが仇になることはあるけれど。
【※4自らの純真さを説明しようとする】
フィクションの女性の例で非常に恐縮だが、
げんしけんの荻上などがこのタイプの好例かもしれない。彼女はやおい同人誌を好みながらも、そのような欲求を持つ自分自身をなかなか認める事が出来ず、
こっそりやおい同人誌を買いに行く自分自身に直面出来ない人だった。そして彼女は、自らの「補償」がカミングアウトなどで破綻すると、飛び降りよう
(acting out)としてしまうのである。確かに彼女はフィクション上の人物で極端なデフォルメを受けたキャラクターだが、類似した心理/行動的特徴を持ったオタクが男女ともにゴロゴロしている事は皆さんもご存じだろう。己の欲望の汚さと罪深さを、「私はエロなんて興味ないもん!」「自慰なんて、汚い人間のする事」と頑な主張しながら、コミケや秋葉原でこっそりエロ同人&やおい同人買ってるそこの君。君だよ君ぃ。劣等感を隠す装いをするのは結構だけど、度が過ぎるとみんなに丸見えになっちゃいますよ。
不自然で強迫的な防衛機制は、本人以外の誰もが違和感を感じるので丸見えという例。荻上は、そこら辺が見事に描写されたキャラクターといえる。
☆荻上と春日部咲に関する考察なんてのも、面白そう。紙幅の都合で略。
【※5他人の背中に見てしまうというのが特徴だ。】
このサイトをちゃんと批判的に眺める事を知っている諸氏や、このような防衛機制に関する言及が暗示するものに敏感な諸氏、防衛機制に関してある程度知っている諸氏はもう気付いているだろう、私のこれらの言及にも、しばしば私自身の投影が影響しているという事に。この手のテキストでは、“私が何であるのか”“私が対象に何を見るのか”という問題の混入は避けられない。
このサイトをどう読むのであっても、こうした“私自身の問題”が絡んでいる事については、読者は十分注意深くなっておいて欲しいと思う。
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