同一視・まとめver.1.11(2005.10/31,2006/04/03修正)
・とり入れを介する同一視(または同一化)(identification)
話に入る前にまず、精神医学・心理学の用語としての同一視は大きく分けて二つの意味を持っていて、その二つを区別しなければならない事を断っておく。同一視、と呼ぶものは、
(1)自分と対象・または対象相互間の境界が曖昧になる認識の在り方
(同一視・一次的同一視)
(2)とり入れの機制を介して、対象のもつ諸属性を自己が獲得するに至る心理プロセス
(同一化・二次的同一視)
のどちらかを指している。今回紹介するのは、このうち
(2)が中心となる
※1。なお、“小児の心理発達において、両親に対する同一視が無視できない”という考え方も心理学・精神医学的にはすごく重要だが、紙幅の都合で今回は省略するのであしからず。同様に、“大人になっても自己−対象との境界が曖昧な同一視が常にみられる人においては重い病態水準が疑われる”といった、精神医学的に重要な幾つかのポイントも省略させて頂く。このテキストでは
病的な防衛機制は取り扱っていかないので、そこの所はどうかご了承いただきたい
(この関係で投影性同一視もカット)。
(2)に該当する同一視は、前述の
投影に似てはいるものの、ほぼ正反対の性質を持った営みとして観察される。即ち、投影が自分の中で抱えたくない衝動・情動を外在化する事で葛藤を軽減するのと対照的に、同一視は自分にはアクセス困難な願望・衝動を、それを象徴する外界物をとり入れる事で自分のものとし、その結果として葛藤を減弱させる機制という事になる。違った言い方をするなら、
投影が「嫌なものを意識から外界に押しつける」機制なのに対して、同一視は「好ましいものを外界から導入」といったところだろうか。自分自身の衝動・願望が解消されないままに葛藤が存在する時、同一視はそれらを好ましい形で達成している他者に
自分をダブらせたり一体感を感じたりすることによって間接的に達成した気分にさせる。この時、対象の持っている好ましい達成は
(無意識のうちに)あたかも自分自身のもののように感じられることとなり、一時的にせよ本人は葛藤しっぱなしの状態を避けやすくなる。しかしこれまた多くの防衛機制と同様、葛藤は完全にゼロになるわけではない。
(健常レベルにおいては)この防衛機制もまた本人はどこか自覚的である場合が多く、ふとした時に“願望未達成に伴う葛藤”が首をもたげてくることはある。だが、同一視の対象に深くハマっている限りにおいては、こうした思い出し葛藤は最小限に抑えられる。
大人〜子供まで認められる同一視の具体例としては、憧れのアーティスト・有名人・身近な憧れの人物への自分重ねが最も観察しやすい。自分が望んでいても直近には叶えられない衝動・願望
※2がある場合、願望の象徴になるような
有名人等の服装・振る舞いを採り入れることで、衝動・願望を直接叶えられないにしても叶えたに近い気分を獲得することは可能となるのだ。有名歌手・カリスマ・尊敬する先輩・上司の言動のコピーなんかは、誰だってやったことがある筈
(もちろん私も沢山思い当たる)だが、これも防衛機制という視点から語れば同一視に該当し得る。特に幼少期〜思春期の若い時代には、同一視が発動することによって己の未熟さや力不足に伴う葛藤が大いに軽減されるだけではなく、将来の能力獲得・心的成長が促されやすい。
注意すべきことに、萌えオタ達においてはアーティストやタレントへの同一視は、同性のアーティストやタレントに自分を重ねるチャンスがそもそも少ないためか、割合としては非オタクの人達ほど観察できない
※3。また声優オタクにおいても、オタク達は同性の声優にはあまり強烈な憧れやファン心理を剥き出しにする事が無い
※4。身近にいる凄い先輩・過去の偉人等への同一視はそれなりにありそうだが、メディアに登場する“格好いい男性”への同一視はあんまり観察されない。例えばジャニーズは萌えオタク達の模倣や憧れの対象には殆どなっていない。
では今回の議論対象となるオタク達においては、どんな同一視がみられるのか。具体例を幾つか挙げてみよう。
・同性の魅力的なキャラへの同一視
オタク界隈で格別にみられる同一視としては、やはり
キャラクターへの同一視を語らないわけにはいかない。格闘ゲームのキャラ・ロボットものの男性キャラ・ネットゲームのmyキャラなどは同一視の対象として格好の素材になっている。幼い子供が同一視の対象にしそうなキャラクター達も含め、
オタク達は“格好良いキャラ”“立派なキャラ”に同一視を発動する。
銀河英雄伝説のゾンバルト少将や
ドラゴンボールの餃子に理想を重ねるような人はあくまで少数に過ぎず、全体的傾向としては、力・容姿・正義感・徳・知恵などをプレゼントする男性キャラクターが同一視の対象になりやすい。また、ロボットや
(軍オタなら)兵器そのものが対象となることもある。ハカイダーやDioのようなダークヒーローも人気があるし、不完全でオタ達と共通の心的傾向が描写された
(スパロボ風に言えば)リアルロボット系の男性キャラ・エヴァンゲリオンの碇シンジのようなキャラも同一視の対象として手堅い人気を保っている。同一視したくなる要素
(戦闘で活躍・かわいい女の子が側にいる・偶に凄い心の強さを見せてくれる、等)を持ち合わせつつも、年齢設定や心理傾向や生活態度などに
オタク達と何か共通する傾向を持っていれば、同一視はより容易になりやすい。スパロボの男性キャラ達をみてみると、実際にこういったつくりの男性キャラが沢山存在している事に気づく。
さらに、
グッズの購入や台詞の物真似などによって、同一視はより強固なものに精錬できる。グッズの消費だけではなく、キャラと同じ格好や髪型をしてみたり、オタクが好きそうなバイクに乗ってみたりという現象も多い。こうした、グッズ消費や羨望対象の物まねは同一視にみられる典型的な行動だが、これがリアルのタレントなどに対してではなく
架空の存在に対してリアル領域で発生する模倣であるというところが面白い
※5し、色々なオタク固有の問題の生じやすいところである。
オタク趣味界隈には、男性オタクが同一視する事で葛藤を緩和出来るような“造り”のアニメや漫画やゲームがわんさと存在しており、
オタク自身が簡単に解決出来ない心的葛藤の緩和剤として役立っている。ただし役立ちすぎて継続的な
逃避としても機能している場合があり、こうなるとリアルにおける適応水準の向上が
(長期的には)阻害されやすくなる。昔はともかく、現在は同一視の対象に出来るようなキャラはアニメ・漫画・ゲーム界にも殆ど無尽蔵に存在している
(ネトゲなんかはこの点でも完璧な玩具だ)。
永久にアニメの国の王子様に同一視し続けて夢の世界に遊ぶ事は十分に可能だし、実際にそうしているオタクも多い
(消極的にか、積極的にかはともかくとして)。やりすぎれば、リアル領域における自分の発展・獲得が疎かになりやすいが、葛藤が強くて同一視を徹底しなければ辛くて生きていけない人の場合、中〜長期的なマイナスの可能性はスルーされやすい。
なお例外的存在ながら、ぬるいオタクライフだけどどこか楽しげな日々を描いた漫画
(げんしけん、あ〜る等)も、同一視の対象として役立つ場合がある。この場合、
同一視対象キャラは凄い能力を持ってはいないが、凄くいい環境が描写されている事が多い。こうしたタイプのキャラは、
(オタク)読者との共通項もかなり多く、同一視が容易という利点も持っている。
・異性キャラへの同一視・ショタキャラへの同一視(少なくとも、男性オタクの場合)
オタク男性において特徴的で、非オタク男性にはあまり無い現象として特筆したいのがこの現象である。
萌えオタの一部または一時だけに認められるのだが、
オタク男性達が同一視の対象としてかわいい女の子キャラや幼い少年キャラを選択する事があるのだ。格好良さ・力・権力・勇気などをプレゼントするような、前述のヒーロー達ではない。別冊宝島のおたくの本・網状理論Fに挙げられていた“漫画家が自分の描いた女の子に自分を重ねる”という風な現象は、萌えオタ界隈では珍しいものではないらしく、実地で萌えオタをよく観察していれば、異性キャラへの同一視を示唆するような
“まねごと”の痕跡をあちこちで見かけることが出来る…魔法少女モノの歌を歌うとか、台詞や仕草の真似とかもそうだが…
(そういえば、電車男ドラマ版の劇団ひとりの演技は、こういう部分も見事にキャッチしていて驚かされた)。
また、異性キャラではないものの、幼くてかわいらしい男の子キャラ
(ショタキャラ:基本的には小学生以下ぐらいの年齢を想定されている)への同一視も発生しがちで、エロゲーなどの分野で
(女性オタクは当然として)男性オタクからも堅実に支持を集めている。この場合、男性萌えオタから少年キャラに対して、セクシャルな意味合いを含んだ眼差しが注がれているのは言うまでもない。
倒錯と言いたくなるようなこの手の同一視が発生している原因は諸説あるだろうし、実際には幾つもの要素が複合しているのも間違いないだろうが、私見では、
1.彼らのうちに男性としての成熟から退却したい心性が存在している可能性。退却対象としての女キャラ・ショタキャラへの憧れ→同一視?
(男性成熟から逃避)
2.エロゲーなどへの耽溺の果てに、女の子の快楽・美・無垢などへの憧れや羨望の念が強くなってきて、格好いい男性よりもかわいい女の子のほうが同一視の対象として魅力的に見えてきちゃった?
(ロリキャラ耽溺の果ての、理想幼女への憧れ・羨望)
3.もっと広い範囲の社会病理としての
“父性の失墜”?
4.萌えという営みの構造に関する一般的傾向の影響。萌えている時はオタクと萌えキャラの心的距離が零なので、オタクは願望をキャラに投射して願望を丸ごと回収出来る。ならば同時に、自分がキャラになりきる事によってキャラの快楽を自分のモノとして全吸収する事も可能ではないか?
※6(萌えの構造上の特性を生かした、作品からの快楽吸収)
などが複合しているものと推定する。ともかくも
2005年現在、萌えオタ界隈で散々見かけるような異性キャラ・ショタキャラへの同一視は、非オタク界隈では相対的に少ない現象と私は認識している。
なお、ゲイやホモは、コトの相手に同一視しているわけではないという点でショタ萌えや異性キャラへの同一視とは異なっている事は断っておく。同一視にしても萌えの構造にしても、対象と自己との心的距離が接近する
(というか零になる)という共通点があるわけだが、ゲイやホモにおいて同様の特徴があるとは聞いたことがない。
…以上二つの現象を、オタク界隈
(特に萌えオタ界隈)で特有の同一視のあり方として紹介させていただいた。リアルで格好良い同性に同一視が発生するよりもアニメ・漫画の世界の同性キャラに同一視が発生したり、萌えの構造を背景とした異性キャラへの同一視がみられたりという所はいかにもオタク然としている。勿論
こうした同一視が非オタク界隈に皆無と言い切れるわけではないが、オタクの世界では特に多いとまでは言い切れるだろう。また同一視という防衛機制そのものは
(この防衛機制が正常な発達にも必須のものである以上当然ながら)、オタク・非オタクを問わず幅広く認められるもので、メンタリティの異常を示唆するものでは無い事を最後にもう一度確認しておく。
・防衛機制関連のまとめ、というか終わりの言い訳
以上、随分長いテキストになってしまったが、特に有名な防衛機制を幾つか選び、オタクにみられやすい防衛機制について解説を試みた。防衛機制という概念は誰に対しても当てはまるものであって、その殆どは異常性を示唆するものではない。また、その個人が置かれている環境・葛藤内容・能力・利用出来るリソースなどによって、どのタイプがどんな風にどれぐらい出てくるのかはまちまちであり、オタクならば必ず出現するモノがあるなんてとても言えたものではない。しかし、
・オタク達の葛藤の内容、特に当サイトで取り扱うオタク達にありがちな葛藤
・オタク達のコミュニケーションスペックや知的能力や運動能力など
・オタク界隈で防衛機制形成に利用出来るリソースや、萌えの構造上の特徴
などといった萌えオタ固有の特徴を背景にした、オタクにとりわけ認められやすい防衛機制のタイプに着目する事は、やはり可能だと思う。そして、このような視点でオタクが隠し持っている葛藤の存在を幾らかでも類推出来るようになれば、
実地でオタク達と円滑なコミュニケーションを図っていくうえでも&オタク界隈の文化現象についてオタクの心的傾向――つまりオタクの精神病理――を加味して考察を進めていくうえでも有益ではないかと思う。さらには脱オタ方法論を考えたり、葛藤の多いオタクがより気楽に生きていく為の道を考えたりするうえでも有益だろうとも思う。データベース消費はじめとする構造からの接近だけでなく、オタクの精神病理・侮蔑されるようなオタク達が抱えている葛藤に接近しなければ、オタクの適応技術研究は困難と私は常々考えている。私のサイトのこれまでの議論も、多かれ少なかれオタクの精神病理を意識しながら書いてきたつもりだが、こうやって改めて防衛機制だけをテキストにしてみて、
観察される諸々の防衛機制が「セクシャリティ」「劣等感や自己不全感」に関連した葛藤を防衛していると改めて痛感した次第である。
第一世代おたくはともかく、第三世代以降のオタク、ことに非オタクに蔑ろにされながらも消極的にオタク界隈に居続けているオタク達に関する限りは、防衛機制の観察という視点からみても
(特にセクシャリティやコミュニケーションに関連した)「劣等感や自己不全感」を示唆する所見が多すぎると私は総括せざるを得ない。この防衛機制関連のテキストを通して、私はいっそう第三世代オタク
(特に侮蔑されながらも、何も出来ずに悩んでいるオタク)の精神病理として劣等感・自己不全感を想定しなければならないと感じるようになった。そして、
オタクコンテンツの主要な消費者のうちにこうした精神病理が存在しているとすれば、オタク文化・オタクコンテンツにある種の傾向が与えられるのが必然ではないかとも感じている
※7。
この長々とした防衛機制関連テキストは、精神医学の初学者がオタクの日常を見ていて感じる、ごく当たり前の事を書きつづったものに過ぎないが、
不思議な事に、類似のテキストはオタク界隈ではあまり生産されていない。学術的というにはあまりにも初歩的で、しかもベタな指摘だから賢い人達は手をつけたがらないのだろうか?それとも彼らが第三世代オタクをあまり観察していないためなのだろうか?こうした視点が賢い彼らに欠けているとはとても思えない以上、何か理由があるのだろう。
(もしかすると、このことが私のアキレス腱を示唆しているのかもしれない。が、仮にそうだとしても私は未だそこの所に気付いていない、ということになる)
勿論、防衛機制という視点を介しているからには、このテキストの読者は筆者たるシロクマ自身の立ち位置に気をつけながらテキストを読み進めていく必要がある
(関連→観察者がどうであるかの問題)。ある意味、こうした
防衛機制や精神病理への“気づき”は、私自身の心の中に渦巻くモノの投影としての意味合いをゼロにすることが出来ないものであり、何%かは知らないが私自身が持っている属性の顕示にもなっている事をここに告白しておく。この防衛機制関連テキストを批評する際には、観察者自身の視点の中に、それこそ投影などに該当するものが含まれている事を差し引いて考察して頂けたらと思う。
さて、これで防衛機制についての議論は一応終了しよう。全部の防衛機制を挙げるわけにはいかなかったが、とてもじゃないが時間が足りないのでやめておく。また、幾つかのポイントにおいて斉藤先生の
ファリック・ガールと共通するものが見いだせたような気がして気になって仕方ない
(特に、異性キャラへの同一視と、犯しながら犯される萌えのあり方に関して)が、これも紙幅の都合で諦めることとする。いつか、もうちょっと勉強したら。
【※1このうち(2)が中心となる。】
後半まで読んで頂ければ分かると思うが、このテキストのなかでも、萌えに関連した同一視…例えば「異性キャラ・ショタキャラへの同一視」に関する項目では、
(1)の、自分と対象との境界が曖昧になるという意味合いが濃くなってくる。
(1)のような対象との境界が曖昧になるタイプの同一視は、子供にみられるか、ライブのような特殊状況で発生するか、さもなければ精神疾患・人格障害においてみられるか、ともかくちょっと特殊な条件のもとでなければ発生しにくいのだが、異性キャラとの脳内距離が際だって接近しやすい
萌えの構造下では、元々キャラとの距離が零に近いためか、対象との境界が乏しいような一体化が進みやすい。
そういえばこのテキストを打っていて、エヴァンゲリオン第弐拾話『人のかたち、心のかたち』をふと思い出した。シンクロ率400%でエヴァにに飲まれたシンジ君が、“私と一つになりたくない?”と誘惑する女性キャラ達を思い浮かべ続け、リアル世界には帰ろうとしないあのシーンを。“シンジ君、帰りたくないのね?”と赤木博士が呟いていたのを覚えているが、なんかまるで萌えの暗喩みたいだ。
(監督さんの狙いは違うっぽい。参考:→スキゾ・エヴァンゲリオン。エヴァみてない人は一度ご覧になるか、こちらなんか参照にするといいかも)
【※2直近には叶えられない衝動・願望】
例えば憧れの的になるような美人でありたいとか、みんなにチヤホヤされる人気者でありたいとか、自分が欲していながら手に入らないような強いパワー(腕力や武力かもしれないし、権力や徳や智慧かもしれない)を持った人間でありたいと憧れることは、殆どの人間あることだろう。特に思春期の頃なんかには尚更で、女の子とデートに出掛ける事すら、多くのオタクには叶えがたい憧れである。
しかし一般には、美人や有名人や偉人ほどのポジションに到達出来る人間は稀なわけで、それらの巨人への憧れが実現に至る者は少ない。最も素養のある者でさえ、頑張って耐えてようやく実現する分野も多く、長い年余に渡って葛藤を我慢出来た者だけに、到達のチャンスがやってくることになる。彼らを目指して(or彼らの影ぐらいは踏むことを目指して)粉骨砕身する人が葛藤にもめげずに日々を戦って行くためにも、この同一視という防衛機制は重要である。この手の達成は、葛藤の痛みや我慢なくして目指す目標に到達出来ないのが常なので、あこがれの人への同一視などといった鎮痛剤が無ければ長期間の修業時代になかなか耐えられるものではない。
そういえば、昨今の漫画・アニメの同一視対象を観察していると、同一視の対象となるキャラに「努力した人が強くなる」という文脈が感じ取りにくい作品がだんだん増えている気がする。この微細な変化については既にあちこちで指摘されているわけだが、同一視の対象キャラが思春期心性の発達にどう影響するのかと絡めて考察すると、とっても楽しいことになりそうだ。ここでは書ききれないので割愛。
【※3非オタクの人達ほど観察できない。】
萌えオタ限定ではないが、例外的にオタク達が同一視しやすいタレントやアーティストというものが存在する事は断っておこう。例えばかつての大槻ケンヂ&筋肉少女帯などは、女性ファンだけでなくオタク男性からも熱烈な支持を受けていた。断定は出来ないし同一視が全てというわけではないにせよ、オタクによる筋肉少女帯への傾倒の主成分のうちに、同一視に該当する成分が含まれていた可能性は高い。
ただし、筋少をオタクというコンテキストで語っていいのか若干の疑問は残る。そこら辺は、もっとサブカルチャーに詳しい他の人にきっちり語っていただきたいところ。
【※4ファン心理を剥き出しにする事は無い。】
椎名へきるや堀江由衣を追っかけたりCDを買ったりする声優オタク(♂)は沢山いる。だが、石田彰や保志総一朗に憧れて追っかけをやったりCDを買ったりする声優オタク(♂)はあまりみたことがない。仮にいたとしても、相当マイナーな存在と私は推定する。
とはいうものの、うら若き声優オタク達を対象にした「声優養成学校」「オーディション」といった搾取装置(極めて少数の人間を選抜する装置でもあるけど)が今もあんなに健在な事を鑑みると、男性声優に同一化しちゃっている声優オタクは私が知らないだけできっといるに違いない。その場合は、ルックスだけでなく声や演技力に惚れているんだと、と信じたい。
(その後、声優界に詳しいから、こうした男性声優オタの存在を指摘されました。関智一onlyの握手会で、それらしき男性声優オタクを確認したと。)情報提供:下町ポルゾイ日記の天馬さん。
【※5模倣である点が面白い。】
この、模倣対象がタレントではなく架空のキャラであるという特徴は、非オタク(例えばリアル女性など)からの評価という点においてはディスアドバンテージになりやすい。キャラへの同一視が昂じたファッション・振る舞いは、非オタクからみれば珍奇なものとみなされる可能性が高く、下手をすれば「こいつ、キャラの真似してるぜプギャー」という事態を招く危険性もある。例えば木村拓哉がドラマで着ていた服を真似したりスタイルを模倣したりすれば、流行を追いかけたと解して貰えるかもしれないし、アーティストの真似事として楽器をいじりはじめても“それイイね”となるかもしれない。だが、シャアの台詞を連呼すればガンダム程度なら分かる人に、「こいつガンダムオタク(彼らはガノタとは呼ばない)の痛い奴」と言われるのは避けられず、格ゲーキャラの服装を真似て粋がってみてウケるのも、コスプレ会場だけと相場が決まっている。キャラ模倣による格好つけは、非オタクからは良い評価を得られにくそうなのだ。
このような分水嶺が存在する理由の一つとしては、“その模倣の元ネタを視る側がどれだけ分かっているか&好きか”が大きいことは言うまでもない。だが、格ゲーを知っている女性オタ・ガンダムを知っている女性達すら、コスプレ会場以外における男性キャラの模倣に冷淡である事実を見過ごすわけにはいかない。もしかすると、二次元キャラの格好良さとリアル男性の格好良さの間にズレがある事が関係しているのかもしれない(COMME CA DU NERDにおける指摘、1999.)。オタク達の服飾・スタイル選択にキャラへの同一視が関与している場合、それに伴って適応・コミュニケーションも影響を受ける可能性があるんじゃないかと私は疑っている。
ちなみに私は、外見だけでなく“こういうアクションがヒロインキャラに受けるんだ”といった、対異性の振る舞い(behavior)・考え方のレベルにおいても、同一視の対象とされているキャラからオタクへの影響があると疑っている。男性アニメキャラと同じ振る舞いを生身の僕達が生身の女性にやっても受ける筈が無いのに、それがベターと思いこんでしまうような先入観を“憧れのキャラ達”に刷り込まれている可能性には、十分注意を喚起したい。
【※6吸収する事も可能ではないか?】
以前のテキストで、オタクとキャラとの心理的距離が零になるという話や、“萌え”という営みが持つ自己愛的傾向について私は提言した。前のテキストで書かれた
一般的な“萌え”においては、キャラという反射壁を用いた“願望ひとりキャッチボール”の主体はあくまでオタク自身であり、まずオタク自身が思いついた願望がキャラに投げかけられて、それを受けてキャラが望み通りの振る舞いを
(作中なり脳内補完なりで)することを通して願望が全回収されるという流れが念頭に置かれている。このタイプの萌えにおいては、キャラというよりしろに
願望のボールを投げつけるのは、最初の最初はオタク自身でなければならない。
しかし、心理的にキャラと零距離が保たれている場には、もっと受動的にオタクが快楽を与え
られる事も可能なんではないか?ということなのだ。
つまり、オタクがキャラに能動的に願望を投げかける事から手続きが始まるのではなく、いきなりキャラから快楽を提供されてそれをただただパッシブに回収する、という事も可能なんじゃないかと疑っているのだ。この場合、欲望や願望をオタク自身が起点となって主体的・能動的に投げかける必要はない。キャラが性的悪戯されてアンアン言っている描写を眺めながら、同一視の対象となっているキャラと快楽を共有するだけで良い。
キャラとの心的距離が零な脳内補完なら、キャラが作品中で喘ぐ姿に自分を重ねて恍惚とすることも十分可能だろう。男性性からの退却願望・女の子への憧憬が強いオタクならば、こういう曲芸はより容易になるだろうし。比較するなら、以下のようになるだろうか。
1.一般的な萌え |
オタク
| 願望を想像したままに投射する→ |
萌えキャラ
|
←願望はキャラを通してそのまま回収される |
☆この場合は、少なくとも最初に願望を投げかける主体はオタクである。
2.異性キャラ・ショタキャラに同一視している時の萌え |
オタク
| オタク側から願望の投射は必要ない→× |
萌えキャラ
|
←キャラとの同一視・一体化を通して、作中で描写された
キャラの快楽がそのままオタクの快楽として堪能される。 |
★この場合は、オタクは
最初から客体として快楽を与えられる事も出来る。作中で、自分が同一視しているキャラがアンアン喘いでいる描写があればそれでいい。能動性は、要請されていない。
(なんか、こっちのほうが想像力を動員しなくていいような気がするなぁ)
実際は、異性キャラやショタキャラへの同一視を起こしながら萌える事が出来るような萌えオタは、「オタクが主体的にキャラに願望を投げかけて回収する」と「キャラに自分を重ねてキャラの快楽を客体的に与えられる」をとっかえひっかえしたり、両者がごちゃまぜにしたりしているのかもしれない。私の知る限り、キャラからの
パッシブな願望回収だけに完全特化した男性萌えオタは多くなく、両方とも愉しんでいるオタクのほうが多いように見受けられる。
それにしても、主体的に願望をキャラに投げかけて貪るだけでなく、キャラの喘ぐ姿に自分を重ねて客体的にも快楽を堪能出来るとすれば、この萌えはなんとエロチックなんだろうと唸らざるを得ない。まるで、男の快楽追究と女の快楽追究が合体したような、
主体的/客体的どちらの悦しみも噛みしめるようなエロ!なんという貪欲!主体/客体両面から萌えを楽しめる萌えオタは、
(脳内補完においては)幼女にペニスを突っ込んで快楽すると同時に、ペニスを突っ込まれて快楽を与えられていると解すべきではないだろうか。或いは羞恥させながら、自らも辱められているとか。
こうした曲芸的な快楽追究を達成するには、やはり萌え特有の構造
(特にキャラと自分とが脳内において極めて近い距離であること)が重要な役割を果たしているのではないだろうか。まあ、実際にはそこまで器用にキャラと一体化し“ペニスを突っ込まれる快楽”に身を任せることの出来ないオタクも沢山いるだろうけど、そういうオタクには
アトリエかぐやの最近のエロゲーなどのような、主人公男性の受け身傾向が強いコンテンツがちょうど良い塩梅なのかもしれない。
【※7必然ではないかと感じている。】
ここでオタク文化論やオタク論を長々とやるつもりは無いので、オタクコンテンツのなかでもエロゲー分野などにおける
キャラクターの偏倚が、こうしたオタクの精神病理と相性がとても良いことを指摘するぐらいにしておこう。
個人的には、オタク論・オタク文化論はデータベース消費や経済的観点などの“外側からの観察や考察”と、心理学的手法のような“内側からの観察や考察”の両面からサンドウィッチするように進めていくのが理想ではないかと思っている。どちらか一方だけで一元的に話をまとめようとする試みは、学術的には強い魅力を感じるものの、
一元論的な説明で全てが説明されるという思いこみは太古の昔から成功したためしが無い。勿論、何かを主張する際にどちらか一方に着眼して、そこを徹底的に詰めるのも大切
(例えばこのテキストは、内側からの観察と考察に偏っている)だが、実地のオタク達を描写したり実地のオタク達と触れ合いながら“オタクの適応について直に話し合っていく”際には――つまり仮にも
臨床的な状況では――多元論的視点が求められるんじゃないかと思っている。だから私は頭が悪いなりに、斉藤環先生の試みも東浩紀先生の理論展開もどちらも大好きで、両方をむしゃむしゃ咀嚼したいとは思っている。
(多分彼らもそうなんだろうけど、大人の都合で一元的に主張しなきゃいけないんだろうな、と想像してみるテスト)