かなる冬雷

 

第一章 あけぼの

 

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 私の母、おりょうは、明治三十四年、越後新潟県の、やや県北に位置する農村地帯の小さな町、水原町(すいばらまち)に生まれた。

 新潟県は、日本海にそって「ノ」の字形に南北に細長く伸びた県で、西側は、長い海岸線をもってまともに日本海に向き合っており、長大な山脈によって北は山形から、福島、群馬、長野、そして富山の各県と隔されていて、今でこそ、鉄道も道路も、谷川岳の山腹をつらぬいて、直線的に関東、東京へと結ばれてはいるが、かつては、新潟県と外とをつなぐ道は、海岸線にそって細々と北上する山形、秋田への道、そして、いずれもけわしい峠を越えていく、福島県会津地方へぬける道と、長野へぬける道、そして、「親不知(おやしらず)」の難所で有名な、富山へぬける道の、おもに四つのルートぐらいしかなく、それらも豪雪期にはおのずから途絶する道で、現実的には、かなり孤立した県であった。

 おりょうの生まれた明治後期は勿論のこと、昭和に人ってもまだ、たとえば、東京へ行くというのは大変なことであり、阿賀野川ぞいにトンネルにつぐトンネルをぬけて会津、郡山へ出て、東北線に乗り換えて行く行程でまる一日かかり、信越線によって長野を経由し、碓氷峠をアプト式の線路でようやくに乗り越えて、高崎から上野へと行く行程で一泊二日を要した。

 一年の三分の一を降り積もる雪の下に埋め込まれて暮らす、否応ない忍従の時を、いつかしら己れの心のあり方にも反映させ、隔絶した風土の中で生きることを重ねてきて、良くも悪くも、いまだにある種の孤立性、内向性、そして多重性を、さまざまのところに残していて、言語においても、物ごとの考え方においても、更に言えば、情念のありようにおいても、新潟の人々は、一種特有の心の姿を持っているように思われる。

「越後人の郷土、同郷意識の強さは、独特、かつ異常だね」
と言われたり、

「越後の人は、あたりはソフトだが、なかなか腹の底の本当の感情が見えてこない」
と言われたりすることがあって、当の越後で生まれ育った私には、そんなものかなあ、と思うだけで自分ではよくわからないのだが、排他性というよりは、帰巣性というか、求心性、回帰性というか、越後の川に帰ってくる鮭たちのように、たしかに、どこの地へ出ていっても、心の中でいつも、故郷の山河、故郷の人々へ向いている目を、私白身も強く持ち続けながら、生きてきた気はする。

 そうした情念のレベルの問題を、他者に論理的に説明しようと思ってもうまくできることでもなく、また、する気もあまり無いのだが、強いて言われたり、問われたりすれば、私はただ、「雪国だから」と答えるしかないのである。

 その一方で、自分の、あるいは私の母の、感性や情念のありようを言語化し、そして突き放すことによって、それを静かに観想する者の地点に立たなければならないと苦闘する歴史が、自分自身の中では、ずっとあったような気がする。

 

 くる冬ごとに、雪は、降りしきり、降り積もった。しんしんと、音なくひたすらに降り積もる雪もあれば、雨戸を波打たせ、格子をきしませる雪もあった。
 めずらしく、雪の無い師走などがあると、何かしら妙に心が落ちつかず、寒風だけが身にしみいって感じられ、正月の朝、雨戸を開けて、一面の雪化粧になっているのを見ると、ようやくに落ちつくのが常だった。
 しかし、ひとたび本格的な積雪が始まれば、これはただちに、生きるための戦いの始まりとなった。雪の下で埋め込まれて飢え死ぬ者も、雪おろしをし切れぬうちに家屋がつぶれ、圧死する者もあった。

 町の中の主だった通りは、雁木(がんぎ)と呼ばれる一階の屋根のひさしが一間の余(よ)もあり、それが互いに隣家とつなげてあって、いわば雪の下のトンネルの役をなす構造があって、ここを通って人や物の往来はわずかに確保されていたが、ひとたび町なみをはずれれば、降り積もった雪の上に、更に屋根からおろした雪が重なって、あっというまに道路の高さはひさしに接するようになり、二階から出入りすることにもなった。

 道々のかたわらに沿って流れる、雪流し用水路を兼ねた大小の川も、ひとたび凍てついてしまえば、もはや雪流しの用には立たず、以後はもう、家を倒壊させぬために、ひたすらに屋根の雪をおろし続ける他はなく、ただじっと、忍従と沈潜の日々が続くのだった。

 埋め込まれ、封じ込められた者たちの感性はむしろ研ぎ澄まされ、思いは内に燃え、時と所を得れば、すべてをはねのけるように燃え出すものとなった。

 越後の人問の情は、深いのだ。その表出はためらいがちで、ぎこちなく、無器用ではある。しかし、ひとたび己れを与えることを覚悟すれば、その情の炎は、激しく、時には人を焼くものとなった。

 冬の風雪は、肉体を凍えさせはするが、心は凍らない。

 母、おりょうもまた、そうした、決して凍ることのない心を持って生きた女性の一人であった。

 

 遠く、シベリアの凍土の上から吹き出し始めた風は、日本海を吹き渡るあいだに、十二分に湿度を補給し、裏日本と呼ばれる、日本海に面した地域に上陸する。そして、ほとんど例外なく東側の進路を阻むようにそそり立つ分水嶺の山々にぶつかり、やむなく急上昇してこれを乗り越えながら、かかえてきた水分を、雪として降り落としていく。

 この越後平野もまた、雪を降らせるために造形されたような地形であって、海岸の県都、新潟市から一歩市外へぬけて見れば、はるか東の方に、県境の山々がくっきりと稜線をつらねて空を切っているのが見える。そして、その海岸から山脈までの問は、わずかに丘めいた起伏が点在するだけで、あとは見はるかす平野であって、夏には波打つ緑の稲穂の海、そして冬には、白一色の縹渺(びょうびょう)たる大雪原となるのであった。

 新潟市もふくめて海ぞいの町々は、冬の寒風をまともに顔面に受けるが、降雪そのものは比較的少ない。風が平野部の内奥に向かい上昇気流になり始めるともに、運びきたった水分は雪の結晶となり始め、それは、山麓の町や村に存分に降り落とされていく。

 越後平野のやや北方のこの小さな町にも、この年、雪はくる日もくる日も降りしきった。明治三十四年二月、おりょうは、その雪の中で、佐々木家の長女として生まれた。

 

 北蒲原郡水原町は、江戸から明治へと時代が激変した折の一時期、今で言う県庁の前身にあたる行政施設が置かれたと伝えられる天朝山と呼ばれる丘が町の中央にあって、ここは桜の美しい丘である。

 町は国道四十九号線を、そっとはさむようにして長く伸び、雁木で連結された町なみが、今も古い時代の面影を濃く残している。

 以前は、この町の通りの中央を、雪流しを兼ねた川が流れていて、柳が風に揺れ、川面に影を落としていた。この小さい川によって、町はいわば、右岸の町、左岸の町に家なみが二分されていた。しかし、自動車の登場とともにこの川は埋められ、今は、暗渠(あんきょ)となった雪流しの掘割が道の両側にあるだけである。

 水原町を貫いた国道は、ほぼ直線的に山麓の町、安田町(やすだまち)に向かい、その小さい町なみをぬけると、遠く尾瀬と猪苗代湖に水源を発した水量豊かな阿賀野川が右手に添うように現われてくる。安田町から上流の阿賀野川は、ほとんど全川(ぜんせん)が深い渓谷をなしていて、その右岸の山肌にへばりつくようにして国道は登っていく。そして県境近い最後の町、津川町を過ぎれば、あとは、車でも息つきしたくなるひたすらな登り坂で、鳥井峠を越えてようやくに会津盆地へとぬけていくのである。

 往時は、戊辰(ぼしん)戦争において「賊軍」となった人々が最後の戦いの地、会津をたよって登っていった道でもあり、それをまた執ように、「官軍」が追いすがり追いつめていった道でもある。

 新潟の方からこの道を登っていくと、津川の町を過ぎた県境近い山あいにさりげなくかかった小さな橋に、よく見ると、「見返り橋」と書いてある。いつ付けられたのか、どんないわれで付けられたのかは、土地の人に尋ねたこともなく、わからない。しかし、たしかに、大勢の人々が、この私も含めて、「見返る」思いを抱きながら、この橋を渡り、峠を登った。戊辰の役の時のように、ふたたび戻ることのない峠越えであった人々もあるであろうし、私のように、幾十度の往復をしながらも、なおその都度に余る心を後ろに残して登る者もあるのだった。

 県都が新潟市と定まってからも、水原町は穀倉の蒲原平野にいくつか点在する物資の集積地としての存在を、おだやかに保ち続けた。

 農業がほとんどすべてで、他に何の地場産業とてあるわけでないひっそりとしたこの町も、四と八のつく日だけは、路地、路地を埋め尽くすように市が立った。なるほど、お金は払ったり払われたりしてはいたが、それは、近在の山土で作った焼きものなどを持ってきた人々が、互いに売りあい買いあって、あまったお金で、鍋、釜などの日用品の補充を買ったり、家で待つ子供のための駄菓子や、家族のための衣類などを買って帰る、そんな市であって、言ってみればそれは、物々交換の集いであった。

 朝早くから賑わった市の日の町も、夕方ともなれば、荷を空にした荷台に家族へのわずかの土産を積んで、大八車は、三々五々に散っていき、また幾日かの少し侘しい静寂に入っていく、そんな町であった。

 おりょうは、そんな町で生まれ、育った。
 おりょうの生家、佐々木家は、すでに何代目かになっている古い味噌醸造元であった。
 おりょうの祖父母は、おりょうが三、四歳の頃には亡くなっており、自分を抱いてくれた白髪の優しい人たち、といった程度のおぼろげな記憶しかなかった。父は佐々木直蔵、母は、おしむと言った。仲むつまじい夫婦であったが、なぜか、おりょうのあとには子が生まれず、おりょうは結局、跡取りのひとり娘として育った。

 

 庭先の梅の花が咲きほころび、やがて庭のあちらこちらでツツジの花が咲き、家の前の川の柳の下を無数のホタルが飛びかい、夏の緑のむせかえる匂いと、蝉たちの降るような生命(いのち)の歌に包まれて、……おりょうの目も、耳も、しばしば伝えながらも、自分を包む世界に対して開かれていった。

 幼い認識の始まりであった。そして、ひとたび認識の扉が開かれると、多くの人々の顔、その表情、そして、さまざまの声と言葉、光と影の交錯、暗闇と明かり、移り変わるさまざまの色彩、そして、自分の手の触覚、皮膚の感覚、舌の感覚が、おりょうに襲いかかってきた。世界が、奔流(ほんりゅう)のように音を立てて流れこんできた。それは、世界のほんのごく小さなかけらに過ぎなかったのだが、おりょうのまだ小さな心にとっては、溢れんばかりの世界であって、いつもすぐに入り切れなくなって、おりょうは苦しくなり、怯えて泣いた。

 子守りの娘の背中での、あるいは母親の胸に抱かれての、泣き疲れての眠りは、しかし、いつも安らかで、豊饒(ほうじょう)な眠りであった。なだれこんだ過量な刺激は、眠りのなかで熟し、発酵し、澄んだ上澄みは知識の水と化し、澱(おり)はこされて捨てられていった。眠りから目覚めた時、この小さな心は、もう怯えてもいず、疲れてもいなかった。一日一日と、季節は進み、おりょうの心もまた、原初的な認識を、識別と判断力へと進化させ、受動的な快、不快の感覚を、選びとり主張する意志へと進化させながら、成熟の歩みを運んでいった。

 自分を日がな一日背負うて歩き、いつも自分に向かって話しかけ、時折おろしては布の汚れを取りかえてくれる十歳の子守りの娘を、おりょうは好きだった。その娘の歌ってくれる、歌が好きだった。時折、背中を濡らしては叱られもしたが、叱ったあとで口に入れてくれる桑の実の甘さや、無花果(いちじく)の少しプツプツと種のある果肉の甘さや、ざくろの酸っぱい甘さが好きだった。

 

 そして、……冬が来た。

 ある日、眠りから目覚めたおりょうの目に、純白の世界がとびこんできた。そしてなお、無数の花びらの如くに舞い降り続ける風花があった。その風花に向かって、母のおしむに抱かれながら縁側から手を差し伸べるおりょうの小さな手に、子守りの娘は、小さい雪玉をにぎって与えた。その、初めて触れた冷たさに、やけどでもしたように驚いて手をひっこめて、おりょうは泣いた。

 母のおしむは、子守りの娘を叱った。しかし、その叱り方に固いものはなく、おりょうもすぐに泣きやんで、また空に向かって手を差し伸べた。おりょうと、おりょうを膝に抱いた母のおしむと、子守りの娘とは、それぞれにそれぞれの思いの中で、縁側から、その冬初めての雪を見ていた。

 

 誕生日も過ぎる頃には、おりょうは、自分をとりまく人々の関係をおぼろげに理解し始めていた。甘えも、駄々も、涙も、眠りも、みなその背で受けとめてくれてきた子守りの娘があった。そして、その大好きな子守りの娘の背中のあたたかみによってもなぜか満たされきることのない不思議な心の飢えを、胸に抱いて乳をふくませてくれることで満たしてくれる母という存在があった。そして、時々通りがかりに頭をなでてくれ、時には抱きとって、宙高く放り上げたり、ぐるぐるまわしたりしてこわがらせながら、しかしいつも優しい目で見ていてくれる父という存在があった。そして、この父という存在が、「旦那さま」とも呼ばれ、そう呼ぶ人々にとって何かの力ある存在であることをも知った。

 後に「家族」として知り、また、佐々木家の一族郎党として知ることになる、ある絆によって結ばれた人々があり、それが自分の生きている世界の基盤であり、そしてその世界の中で、自分が大切にされ、愛されていることをも、おりょうは理解していった。

 しかし、おりょうはまだ、この世に、自分に害をなし苦しめる敵対的なもののあることも、自分から何ものかを理不尽に奪い取っていくもののあることも、知らないままでいた。なぜなら、いまだすべての人々は、ただひたすらにおりょうを愛し、おりょうに与えることしかしなかったからである。

 こうして、おりょうの幼い日々は、幸福に満ちたものであった。おりょうは、ものやわらかな心を持った、かわいい、そして、美しい娘として育っていった。

 

 おりょうの生まれた佐々木の家は、すでに味噌屋になってからでも何代目かになっていたが、もともとは、水原町の人ではなかったという伝承があった。

 水原に定住した初代の先祖というのは、越中か越前あたりのある藩の武士で、なにかの切迫した理由があって藩を離れ、流れ歩いてこの地に来て、病いに倒れた。

 ある貧農の家にかくまわれて看病を受け、病いは癒えたが、生の無常を感じて刀と、刀とともに離すことのなかった意地とをともに捨て、その家の娘と一緒になり、この地に根をおろし、百姓になった。そして習い覚えて、味噌造りを始めた。最初は町の商家に買ってもらうぐらいのものであったが、誠実な造り方と商い方をしたので次第に信用も得てすこしずつ軌道に乗り、明治に入った頃には、「やまさ」印の味噌は町や近郊のみならず、広く県北にまで販路を持ち、鉄道の開通に合わせてやがて県南や、峠を越えて、喜多方や会津にまで荷を送り出すようになり、いつかしら町では有数の資産家になっていた。

 しかし、その、いわば初代の先祖がどの藩の武士であり、どんな理由によって藩を離れて旅に出たのか、また、それを救った農家、いわば女方の先祖というのがどこの家であるのか、といったことは、もうはっきりしていなかった。

 佐々木家の代々の菩提寺である、町はずれの長福寺という寺には、佐々木家の過去帳があったが、初代についての事実については何らかのはからいがあったのかもしれず、また現在の当主である直蔵にも、またその幼なじみの住職、吉川(きっかわ)和尚にも、いまさらそんなことを詮索する気もなかった。

 ただひとつ、はっきりしていたのは、刀を捨て、それとともにそれまで自らを縛ってきた目にみえぬ何かをも捨てた初代の人の「発心(ほっしん)」は、正直であれ、謙虚であれ、無欲であれ、優しく慈しみ深くあれ、といった教えとなって、代々の当主たちの心のあり方を律してきた、ということである。 

 長福寺は、禅宗の曹洞宗の寺であり、明治になってからは、佐々木家は常にその檀家総代をつとめ、代々の住職を、物質的にも、精神的にも支えてきていた。教区の集まりや、法話を聞きながら数日を寺で泊まって過ごす、夏の定例の講の世話もし、直蔵自身も時折はそれを、自らを省みる「安居(あんご)」の時として参加し、坐禅も組んだ。

 こうして、僧たちとの交わりは常に深かったから、当然、その考え方には仏教的な、またさらには禅宗的、曹洞宗的な考え方が濃く溶けこんでいたとは思うのだが、それにこだわらず、自然で、広くのびやかな宗教観、人生観、あるいは、アニミズム的な、万象(ばんしょう)に対する敬虞な思いをもって生き、家族や、一党の者たちを率いていた。

 また、大乗仏教の諸宗派の中でも、禅宗は、聖道門(しょうどうもん)、自力門(じりきもん)として、やはりどちらかと言えば「個人」にまず正覚(しょうがく)の起点があり、それがあって初めて人に何かを説きうる者たりうるという考えになりやすく、自らを律するにも厳しいが、他者に対しても厳しい交わり方になりやすいのではないか、と何となく深くはわからぬままに私は思ってきているのだが、佐々木の者たちは、常に、人々の中へ、という意識、人々とともに、という意識をもっていて、覚者(かくしゃ)としてではなく、自らもまた無明の闇から湧いてくる煩悩に生きる者のひとりとして、常に誰に対しても門を開き、心を開いている、というふうであった。

 市(いち)の立つ日は勿論のこと、ふだんから、行商の人たちや、遍路(へんろ)の人たちは、誰からともなく、いつからともなく、昼飯どきには、縁先や、玄関を入っての上りがまちを借りて弁当をつかい、その人たちに、一杯の味噌汁、一杯の茶を供することを、おりょうは、母のおしむに命じられて育った。

 直蔵は、ひまがあれば、一緒に縁先に腰をおろして、その人々と気さくに会話を交わした。これまた代々に、若い衆たちを差配する親方にとり立てられてきていた新松は、時々、その人々の問をぬって出入りしながら、「こりゃまったく、茶店だわい」と苦笑した。

 おりょうが生まれてからは、直蔵は、一徹なところは変わらなかったが、人々に対する優しい心はいっそう深くなり、使用人もふえたが、「家族」もふえた。というのは、遠縁、近縁にかかわらず、貧しい家や、事情のある家の子供たちを引きとって養育し、佐々木の家から嫁に出したり、教育や職を与えたりしていたので、いつでも、大小の子供たちが何人かは一緒に暮らしていたからである。

 おりょうの子守りとなった娘も、そうしたひとりであって、家が貧しくて小学校も半ばで行かれなくなったのを、おりょうの子守りとして家に入れ、教育も与えながら、後に嫁いでいくまでの年月を、佐々木の家で過ごさせたのであった。姉や兄のような年まわりの子も他にもいて、いつも家の中には子供たちの賑やかな声が絶えず、一人っ子のおりょうではあったが、淋しい思いをすることなく育った。 

 人の縁ということについては、直蔵には、ある種の深い思いがあり、親方の新松は、ふとしたことでひどく直蔵に叱られたことがあった。

「お前の言う縁とは何だ。血のつながりのことか。なるほど、それも縁のひとつではあろう。けれども、味噌を仕入れて下さる遠いお店のお得意様も縁ある方であり、その味噌を買うて、今宵(こよい)の味噌汁を作り飲んで下さるどこぞの見知らぬお方もまた、縁ある方なのだ。縁先で弁当をつかわれる方々も、降りだした夕立ちに軒下を借りたいと駆けこんでこられる方々も、店先で下駄の鼻緒を切らして、ひもの何寸かでも分けて頂きたいと入ってこられる方々も、みんな縁のある方々だ。私にも、お前にも、前世はあったのだろう、だからこそ、こうして現世に生き、めぐり会うて、ともに仕事をして生きている、来世のことは、これはわからん。私は、できるものならば、めぐる輪廻(りんね)はそろそろ今生(こんじょう)限りで終わりにしたいものだと思うてはいるが、凡俗の、迷いも汚れも多い身ゆえ、この業を背負うて来世も生きずばなるまい。ま、その時には、新松、またお前にも会いたいものだと思うている。
しかし、よいか、生あるものの縁の重さ軽さ、遠さ近さなど、自分でわかるつもりになるでないぞ。すべての縁を、まじめに受けとめることだ。それが、どんな因をふくみ果をなす因果の橋渡しであるかは、神仏ならぬ私らにはわからないことだ。ただ、善き橋渡しであってくれればよいがと、祈ることしか、私らにはできんのだ」

 それは、ある行き倒れを、近くの人々が佐々木の家へ運びこんできた時のことであった。まだ若かった新松が、そんなに縁のない人を引き受けてばかりいては、とふと口にしてしまって叱られたのだった。叱られはしたものの、直蔵の心のありようは勿論良くわかっていたし、何よりも、その叱る言葉の中にあった、つぎの世でもまたお前に会いたい、のひと言が、新松にはうれしかった。

 それにしても、しばしば、行路病者(こうろびょうしゃ)は、佐々木の家に運びこまれた。入院設備のある病院が当時の水原の町には無かったためもあるが、新津(にいつ)や新潟まで運んで病院に入れるにせよ、町の医者に往診を頼むにせよ、それは金も時間も人手も要することであって、病者本人のふところにはそんな金などまともにあったためしもなく、ともかくも佐々木の家へ運びこめば、直蔵たちが最善を尽くしてくれることを、町の人々がよく知っていたためもある。

 医者にしても、直接に運び込まれるよりは、佐々木の家にいわば預かってもらって、往診する方がむしろ安心であったろうし、警察にしても、町役場にしても、面倒を引き受けてくれる佐々木の家に、感謝こそすれ、問題にする気はなかった。

 ふだんは、気の短いところのある直蔵をいらいらさせるほどにおっとりしているおしむは、こういう時は、別人のように決断が早く、てきぱきと指図をして、布団をしいて寝かせ、医者を呼びに若い衆を走らせ、話すことのできる病人であれば、さしつかえなければ、と前置きして連絡先を尋ね、意識のない病人であれば、人を立ち合わせて荷物をあけ、身許のわかる物を探した。そして、重い病状の場合には、その連絡先へ、細々とした、長い電報を打ったり、手紙を書いたりした。

 食べ物を与え、薬を飲ませ、着がえさせ、身体を拭き、病状が許すようになれば、入浴をさせた。幸いにして病い癒えれば、洗って繕っておいた衣類に、それとなく新しい着がえや、路銀を加え、飯を持たせて送り出した。

 不幸な転帰をとる者もあり、遠い地からの病人の身内がまにあわぬこともあり、また、まったく最後まで何も言ってこぬ身内もあった。

 さまざまの姿で流浪する人々のひとりひとりに、当人にも、また残されたつながりある人々にも、みんなそれぞれに、口には出せぬ、出しきれぬ理由のあることが多かった。直蔵も、おしむも、決して強いて何かを聞きただすということはなかった。

 病い癒えて再び行先も告げずに旅立つとき、「お世話になったお礼もできぬ上に、過分のお心付けまで頂いて、生命(いのち)あるうちにふたたびこの道を通るとは思われず、御恩の返しようがない」
と言う者があると、直蔵は言った。

「私らは、世間さまから受けているご恩の万分の一を、あなたにお返ししただけだ。あなたがなおこれを仮に恩と思うとしても、私たちになど何も返す必要はない。因果はめぐると言うが、恩も報恩もまためぐるものだ。これからの歩みの中で、行きあう人々の誰かに小さな何かをしてやることができ、また、歩む目の前に跳び出した虫一匹を行き過ごさせてやる慈悲を施せば、あなたはもう十分に報いているのだと思う。
 道は限りなくあり、その道の歩きようもまた、限りなくあるように見える。けれども、人間というものの生きていく道は、結局のところはひとつなのかもしれず、また、ひとつであればよいが、と私は思っている。あなたは歩きだし、私はここにとどまるように見える。しかし、結局のところ、あなたも、私も、あい伴ってひとつの道を歩いているのかもしれない。
 あなたの傘には、同行二人、と書いてある。それは勿論、見守ってくれる仏と二人、ということでもある。しかし、二人ということは、みんな、ということでもあるかもしれない。あなたの歩く道が、どうか、つつがなく、平らな道でありますように、私らは祈っておりますよ」と。

 また、不幸な転帰をとった人については、役場や警察の了解を得た上で、茶毘(だび)に付し、縁者のわかった所へは、若い衆にこの舎利(しゃり)と香典と、事情を記した書状を持たせて、どんなに遠くへでも送り届けさせた。送り届けられた側の人々が感謝するとは限らなかったし、何としても受け取りを拒まれて仕方なく再び水原の地へ持ち帰ることになったこともあった。若い衆の報告を聞きながら、直蔵はいつも思い、おしむに言った。ああ、また、人間というものについて、考えさせられたのう、と。

 無縁の人については、長福寺で法要を営んで葬り、佐々木の墓を詣でる折々には、同じように詣でて、冥福を祈った。

 代々の家風がそうであったから、誠実に商いはしても、佐々木の当主たちには、進んで財をなす、という気質や傾向はほとんどなかった。

 それは、「滅びる者が、滅びる物を求めて何とするか」という無常観からくるものでもあったが、それ以上に積極的に、生きる姿勢として、自分たちは目に見えぬ多くの「おかげ」で生きさせてもらっているのだから、この「おかげ」は絶えず返していくべきものである、という考えからくるものでもあった。自分たちが今、何がしかの人々に何がしかの寄与をし、施与をしているのは、遠い先祖以来、人々から受けた有形無形のあまたの「恩」に対して、わずかに報いることでしかない、と考えていた。

 しかも人は、苦境の時に与えられた一椀(いちわん)の粥、一服の薬、一枚の衣服、ひとにぎりの銭、そして一夜の宿に、ただ合掌し、感謝するしかなく、いつの日か、その十倍、百倍の物を返したとしても、その時の心の大きな喜びまでをは、決して返すことができない。いや、本当のところでは、人は人の「恩」に報いるなどということは決してできず、また同じように、人は人に対して犯した「罪」を償うことなども、遂にできないものなのだ、騎(おご)りの心は、知らず知らずのうちに忍びこんでくるものだ、人に感謝された時こそ、自分の中を厳しく点検してみなくてはならない、とも考えていた。

 こうした、見返りを求めない人々への気持を、それだけのことをしていきうる資産家の「趣味」として皮肉に見る見方もできるかもしれない。あるいは、階級的な搾取(さくしゅ)の代償としての「免罪符」的な施与(せよ)に過ぎない、という見方もできるかもしれない。しかし、「物」を与えることは易(やす)い、物に託しておくる「心」がむずかしい、施与が「義」とされるかどうかは、それが「法(のり)」に適(かな)い、よき「縁」となりうるものであるかどうかにかにかっている、と絶えず考えていた直蔵たちに対して、その見方は酷に過ぎると言うべきものかもしれなかった。

 味噌の醸造と販売という現実の商いの生活の中で、使う者、使われる者、命じる者、命じられる者、売る者、買う者、という立場の違いはあり、それにともなって金銭の授受があったとしても、それを搾取、非搾取という言葉で切って捨てるには無理なところも沢山にあった。

 貧しい者から金をとる、という考えは、直蔵にも、おしむにも無かった。いくらでも掛け売りで味噌は「売って」やっていた。直蔵たちは、「買い」にきた人たちに対して、決して味噌を「くれてやる」ことはしなかった。形の上でも、いつも、「掛け売り」であった。そういう形にしなければ、「買い」にきにくかろうと、直蔵は考えていたのだった。

 秋になって、一斗の米でも持ってくれば、直蔵は大喜びでそれで一年分の味暗代を受領済みとして帳簿をしめた。そんな、とんでもない、と言う者もあったが、直蔵は、店の品物をいくらで売るかはわしの勝手じゃろうに、と笑って受け流した。

 身内に何かのできごとがあって、田や畑を担保にして大きな金額の金を貸してくれ、と言う者もあった。銀行は二束三文の評価でしか貸してくれない、というのだった。担保なんぞいい、と言っても相手の方が承知しなかった。結局は返せるはずもなく、結果として名義は佐々木のものになることもあったが、それで気が楽になるなら、と直蔵はそれを受容していた。それが、いわゆる地主と小作という関係を作ったとしても、現実には直蔵はこれらの土地を「預かった」気持でいたから、「小作料」なるものは取ったこともなく、「小作人」たちは、その後も変わらずに自由に耕作し、収穫を得ていた。秋の実りの時期になると、みんなそれぞれに気持ばかりの米や野菜を届けてきたし、直蔵は喜んで受けとってそれらを賄(まかな)いにまわしたが、必ずあとで「礼」にそれを上まわる量の味噌を届けさせた。

 第二次大戦後の農地改革によって、佐々木家は、「預かっていた」これらの土地のすべてを人々に返した。一方、戦中、戦後の混乱の中で、合理主義的、資本主義的な経営へと脱皮し、転換していくには、佐々木家の人々はあまりにも無器用であり、才覚というものも持たず、情緒的に生き過ぎた。佐々木家の当主たちは、遂に最後まで「資本家」にはなり切れぬ人々だったのである。

 見る見るうちに没落し、食うや食わずやの生活に落ちていったこの佐々木の一族の困窮の歳月を、精神的にも、物質的にも、支え、与え、励ましてくれたのは、他ならぬ、かつて「使用人」であり「小作人」であった人々であり、また、佐々木家の代々のありかたをじっと見てきた町の人々であった。今や、かつての自分たち以上の貧窮の中に無器用に喘(あえ)ぐ佐々木の者たちに対して、彼らは、あたたかい心と、変わらぬ静かな敬意をもって接し続けた。

 風呂を立てる余裕もなく、かつて賄いの女中であった人の家へ、ぞろぞろと貰い風呂に行っても、屈辱を感じさせられるような言動に接したことは一度もなかった。

 一年たち、五年たち、十年、二十年たっても、彼らの態度は変わらなかった。それは、報恩とか憐欄とかいう感情から、何かしらもう一歩踏みこんだ人間への思いを基底にしているもののように思えた。

 直蔵は、後に述べるように、戦前にすでに亡くなっていたが、直蔵の蒔いた心の種子は、かかわった人々の心の中に、たしかに根付き、実を結んでいたのだと言えるのかもしれない。

 直蔵にしろ、直蔵の父、おりょうの祖父にあたる人にしろ、在俗の信者というよりは、在家の僧として認められて、僧衣を総本山から授与されていたのは、決して厳密に経典を学び、教理に通じていたからというのではなく、実践の人として、その生き方を通して人々に仏縁(ぶつえん)を結び続けた者として認められたからなのであろう。

 本山の僧たちは、北陸から東北へと遊行(ゆぎょう)する途次に、越後にくれば、しばしば佐々木の家を定宿(じうやど)にしてくれていた。直蔵は、それを深く喜び、感謝し、それを与えられた「自恣(じし)」の時として、自らの迷妄や我執について告解し、教えを求めた。

 曹洞宗の僧たちもまた、謙虚に、真筆に語った。

 仏陀は、正覚(しょうがく)のはじめより涅槃(ねはん)のおわりに至るまで我は一字も説かず、と言っておられます。どんなに文字を、言葉を、山の如くに積み上げても、そこに真理は無いということでありましょうか。また、言葉によっては決して語り尽くせぬほど、真理は深く、きわまる所がないということでありましょうか。けれども、あの「梵天(ぼんてん)の勧請(かんじょう)」を受けいれられてからのち、仏陀は多くのことを語り続けてこられました。足りないのは、言葉や説明ではないのでしょう。正法(しょうぼう)は、すでに目の当たりに示されており、耳もとで説かれ続けているのでありましょう。私たちは、それに目を閉じ、耳をふさいでいるのかもしれません。そうやって生きていけるのなら、それも今生(こんじょう)のひとつの生きかたではあるのかもしれません。しかし、目を閉じても、耳をふさいでも、なおかすかに見え、もれ聞こえてくる真理というものがあるのを、あなたも私もすでに知っており、ただ、誤った怯えによってそれを拒んでいるのだ、ということもたぶん知っているのでしょう。やはり今こうして生きであることを無常と思い定めきれず、それゆえに今日のできごとの諸々に怒りや悲しみや憂いを抱いて自ら苦を生み、また、明日という日に、かくあれよと望みをかけることによって、不安や迷いや渇きを生みだしているのでありましょうが、それを乗り越えることは、なお私にもできません。生死(しょうじ)の海にさまようて、わたることができずにいるのは、私もまた同じです。でも、ああ、さまようているな、と自覚すること、そして、ああ、多くの人々がやはりこの同じ海にさまようているな、と見ること、そして、わたる時はともにわたらねばならぬ、と考えること、これがすべての始まりなのではないか、と思っているのです。

「越後の国、やや北の方に、佐々木家という代々仏道に深く帰依する家風の篤志家ありて……」という文章のある、ある僧の書を、後年、私は佐々木家の土蔵の中で見たことがある。そこには、直蔵も含めて多くの在俗の信者たちが問うたのであろう、生きんとするがゆえに生じる苦しみの訴えを、自らに課せられた「公案」として、答えなければならないものとしている僧の真摯な心の姿があった。「衆生(しゅじょう)の海は、越え渡らなければならない無明(むみょう)の海である。しかし、この衆生の海なくして法(のり)の岸なく、無明の闇なくしてそれを滅(めっ)して開ける覚りの光もない」ともそこには書いてあった。

 まだ小学生だった私は、母に叱られて、お仕置きで土蔵に閉じ込められたのだったが、ひとしきり泣きわめいたあとは、泣くのにも疲れて、山のようにあった書物をあれこれと引っぱり出して見ているうちに、この書を見つけだしたのだった。私はそれを読み、そして「わかった」のだった。すべての漢字には、ふり仮名がふってあったから「読めた」が私には、奇妙に内容がしっくりと「わかった」気がしたのだった、いや、それ以上に、むしろ、切ない心なりに探し求めている答えのようなものが、ここにあった、という不思議な「うれしさ」があったのだった。まさにその頃、……母、おりょうも、私も、そして家族のすべてが、「無明」の闇の中で道を見失い、お互いを見失って、さまよっていたのであった。

 

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