|
第一章 あけぼの
|
|
|
|
|
|
おりょうは美しい娘に育った。
小学校を終えると、新潟市の女学校に進んだ。寄宿舎生活は、生まれて初めての他人との集団生活であり、やたらに規則、規則で行動を制約される生活であった。
直蔵にしろ、おしむにしろ、ひとり娘のおりょうをこの上なく愛してはいても、決して甘やかしては育ててこなかったし、心のありようについても、しつけは厳しかった。しかし、寄宿舎に入って、廊下の歩き方ひとつにも注意を受けながら暮らすことには、苦痛があった。父や母や、親方の新松との面会のあとの別れには、いつもつい涙がこぼれた。
しかし、高等科へまで進んだおりょうが、受け止めたこの規則正しい五年の生活は、結局のところ、知らず知らずの過保護が温存していたおりょうのある種の脆弱さを払拭(ふっしょく)し、鍛え直すことに役立った。
乏しい食物で飢えに耐えることも学んだ。精神的原因や肉体的原因でしばしば発熱したが、めったなことでは親は呼んでもらえず、寄宿舎の一室で水枕をあてがわれて、ひとり、自分自身と闘わなければならないことも学んだ。
そしてまた、おりょうは、学ぶということが好きだった。勉強そのものを苦痛と思うことはなかった。直蔵からは、すぐれた知力と、篤学の原動力である知的好奇心を、たっぷりと受けついでいた。おしむからは、折れ曲がっても折れない粘りづよい忍耐力を受けついでいた。
学ぶことは、知ることであり、知ることは、新しい扉を開くことであった。それは、新しい世界に足を踏み入れることであり、いくつもの人生を合わせ生きることであった。
儒教的な道徳教育に対しても、さして抵抗するものはなかったが、ただ何かしらそれは、言わでもがなの「形」を言われているに過ぎないように思えた。大切なのは、その中に込められる心の姿なのではないか、とおりょうは思った。自己に厳しく、他者へは、のびやかな柔らかい心を持って生きている両親の生き方が、おりょうは好きだった。何であれ、「絶対」という思想は、何か他者を切って捨てる傲慢な部分を持っている。小さな自分へのこだわりは、必ず何かを見えなくする、気をつけよう、とおりょうは思うのだった。そんな思いをふと口にすると、同級生たちには、どきりとするほど反権力的に聞こえた。
おりょうは、美しい声をしていた。透明感がありながら、冷たさは感じさせず、何かを育む潤いのようなものを含んだ声だった。
おりょうは、交響楽よりも、歌曲が好きだった。聞くことも、歌うことも好きだった。旋律も歌詞も、楽譜の上では「枠」としてはめられてあるようでもひとたび、ひとりの人問が歌いだせば、その「枠」は歌う人の思いによって、生きもののように柔らかく広がった。その思いのもっとも優しくふくらむ歌である童謡が好きだった。そこには、かつて自分を背負い育ててくれ、今は遠く嫁いでいった人への懐かしい思い出もかさなっていた。
女学校では、さまざまの行事の折に、おりょうは独唱させられた。色白の面長の顔に、涼しげな切れ長の目をし、鼻筋が通り、口許の引きしまったおりょうは、美しかった。実家に帰ると、母のおしむは、歌ってみろ、と言ったが、強いられては決して歌わなかった。しかし、ぼんやりと、夕暮れの庭を見ながら、縁先でよく童謡を口ずさんでいた。それらの歌はみんな、子守りの娘の背中で聞いだものだった。その人は、千葉県の方で暮らしていた。
女はみんな、否応なく大人になり、結婚をするが、それは、新しい人や、新しいものとのめぐり会いであるとともに、多くの人、多くのものとの別れでもあると思えて、おりょうは淋しかった。
自分もいつの日か、伴侶を得て生きることになるのだろうが、たとえその後も両親とともにひとつ屋根の下で暮らそうとも、その日からは、甘えて生きてきた何倍もの歳月を、甘えることのできない大人として、妻として、母として、生き続けていかなければならないのだ、と思うと、切なくなって涙が落ちた。父様(ととさま)、母様(かかさま)と言って甘えていられるこの日々が、なお長く続きますようにと、おりょうは祈っていた。
実は、あと少しで高等科を卒業するという最後の年の秋になって、自分の縁談話の出ていることをなんとなく耳にしていたのだった。しかし、両親からは、まだ何の話も出ていず、自分の方から問うのは何かやぶへびになるようで、怖くもあり、おりょうは怯えていた。
そんなおりょうのひそかな身構えを察知して、もめごとを避けるかのように、直蔵もおしむも縁談ことについては何もふれぬままに、その年も暮れた。
しかし、正月休みも過ぎて、寄宿舎に戻る支度をしていたおりょうは、両親に座敷へ来るようにと、呼ばれた。その改まった呼び方に、おりょうは、ああ、あの話だな、と思った。
その日、おりょうは、ひと月後に婿を迎え祝言を行う、学校は卒業前だが辞めることになる、と告げられた。相手は、遠縁にあたる近在の豪農の次男で、おりょうより三歳歳上の者で名を徳次郎という、おとなしく、優しい気性の男だ、内々に少し前から話しがあって、相談してきていたのだが、このたび急に話がまとまって、そうと決まった上は、一日も早い方がよかろうということになって、二月末の吉日に祝言を上げることになった、と直蔵は言った。
おりょうは、こんな時がいつかは来るものと予感もし、覚悟もそれなりにしていたはずであったが、いざ急に言われてみると、心の準備はできず、自分の意志というものを聞くことを初めから避けるようにして話を進めてきた両親のやり方に、悲しみと不審を覚えた。
一度も会ったことさえない人と、一ケ月後に結ばれよと言われたとて、どう考えていいかもわからない、女学校の卒業も、もうまぢかなのだから、せめて卒業してからのことにして、少しは考えさせて欲しい、とおりょうは言ったが、このことに関してだけは、両親の態度はなぜか固かった。
お前は跡取り娘で、婿をとることになるのは、とうに承知で生きてきたはずであり、去年、西側に部屋を二つ建て増しした時も、これはお前が結婚したら住むことになる部屋だぞと言ったはずだ、徳次郎に会ったことがないと言うが、覚えはないかもしれないが、いろいろの折に会ってはいる、向うはお前のことは小さい時から見てきて知っていて、たいそう気に入ってくれているし、徳次郎はおとなしい男ではあるが、仕込めばいい跡継ぎにもなるだろう、きっとお前を大切にしてくれると思う、私たちが見込んだ人間と一緒になり、私たちと一つ屋根の下で暮らすのだから、何も案ずることはない。……とめずらしく直蔵は多弁だったが、それだけに、やはりどこか、言い訳めいてもいた。
父様(ととさま)、違うでしょう、父様がどんなに見込んだお人であれ、添うのはこの私なのだから、段取りに従う従わないではなく、添う者同士が会い、語らう時を作ってくれるのが当然のことでしょう、父様らしからぬ不自然なやり方だ、とおりょうは抗議したが、結局は因果を含められた。
女学校の卒業のことについても、商家の娘が、何も勤めに出るわけでもなし、卒業という形にこだわることはない、学ぶべきことは学んできたはずだ、資格などは必要ないし、むしろ時には邪魔になるものだ、とも直蔵は言った。
後に、徳次郎が小学校しか出ていないことがわかって、ああ、このためにむしろ卒業させまいとしたのだな、と訳がわかってみると、信頼してきた両親に一層裏切られた気がして、おりょうは口惜しかった。
わずかに残された一カ月の学校生活を、おりょうは寸暇を惜しみ、読書の内にすごした。おりょうは、人間としての、女としての、生きる意味を、自らの心で了解した上で、その意味を果たすための道筋として、結婚生活を受容したかった。しかし、生きる意味、などというものは、開いた本の頁の間にはさまっているようなものではない。人は、その意味を了解してから生まれてくるものではない。その意味は、自ら生きていく中でさがし、あるいは作っていくしかないものであった。
直蔵にもおしむにも、勿論、悪意のあろうはずもなく、おりょうの幸せになることだと思っていたことに違いはない。ただ、強いて言えば、お見合いという形を直蔵たちが取らなかったことについては、実は、かすかな不安が、直蔵たちにあったことが真の理由であった。この不安のよってくる所を、目をそらさずに見すえる努力をもし直蔵たちが時間をかけてしていたら、おりょうの人生は全く違ったものになっていたはずである。しかし、それはどこまでも「もし……」なのであって、現実の人生はその定めの道を突き進んだ。
徳次郎の中にかすかに見える暗い翳りのようなものが、直蔵たちの心に小さいトゲのように刺さっていた。礼儀正しく、おとなしく、控え目な徳次郎の性格そのものは幼い時からのものであって、直蔵にはそれは、自分がこれから好む形に鍛えうる素材のようにも思えた。しかし、明敏なおりょうに会わせれば、おりょうはこの徳次郎の礼儀正しさを、何かしら自己防衛的な殻と、おとなしさを、決断のできない性格と、そして時折陥る沈黙の中に見えるほの暗さを、病んでいる心と見るかもしれないと、直蔵は案じたのだった。
しかし、そう見ていたのは、他ならぬ直蔵自身なのであり、不安だったのも直蔵白身たのである。その不安を解消しえぬままに直蔵は、決断の跳び越えをした。そしてその跳び越えをすることを、おしむにも、おりょうにも求めたのであった。
しかし、直蔵にも、おしむにも、おりょうにも、そして、徳次郎にも、……この結婚の持つ真の意味はわからなかった。それは実は、わかろうと努力してわかることではなかった。避けようとして避けられることでもなかった。それは、不可思議な「定め」として、おりょうが引き受けなければならなかった道、運命の道であった。
なぜこの者たちが、と、一対の異性の組み合わせの意味を考えてみても、そして、好悪の感情をまじえてその条理、不条理を論評してみても、限りない生命の連鎖、幾世紀、幾十世紀にもわたる人間の生の連鎖の現在的なその果てに、今、その二人が結ばれて何を生みだす必要があったのかは、遂に誰にも理解はできない。その「定め」の内包していた真意は、今の時点では、そしてもしかすると永遠に、……誰にもわからない。真意などというものは、最初から無いのだとも言える。また、真意とは、結局は、その連鎖を担い生き続けた人々の生命のあたたかみの総計であり、総体なのだ、とも言える。
いずれにしても、今、この私という一個の生命の存在の立場から見て言えることは、せいぜいのところ、おりょうが徳次郎と結婚しなければ、修一郎、修二郎、桂子という三人の異父きょうだいは存在しなかったであろうし、おりょうが後に私たちの父、史郎とめぐりあって結ばれることもなく、史郎との流転の旅を重ねながら、房子、英夫、私、そして祥子という四人の子を更に生み継ぐこともなかったであろう、ということでしかない。
そして、修一郎以下の七人の子が、またそれぞれに、それぞれの生を生き、子らを為し、それぞれの生の連鎖を紡いできたことの是非も善悪も、意味も無意味も、「今」というこの時を切っていくらその切り口を観察してみても見えてはこない。
翻って考えて見れば、おりょうが徳次郎と結婚をした、ということは、他のある誰かとは結婚をしなかったということであり、そのことによって、もう一方の、ありえたかもしれない生の連鎖は、永遠に抹殺されたのだ、とも言える。
こうして、ひとつの正の選択は、必ず、もう一つの負の選択を伴っているのであり、この切り捨てられたものの持ちえたであろう意味を秤量しえない限りにおいて、現存するものの意味の絶対的な評価は所詮はなしえないのである。
人の出会いがあり、形造られる絆と呼ばれるものがある。それは、偶然を必然と思いなして続ける人間の営みであるが、その出会いと絆の意味は、遂に計りがたい。わかるのはただ、個々の人が、その生を生きて、どんな喜びや悲しみを味わい、自分なりにその生の総括をどのように為し、自分のあとに生きる者たちに何を負託していったか、ということだけである。
そして、数多くの事象が見える。それらの事象を選択して見、選択して記憶にとどめたのは、他ならぬこの私自身である。私の母となったひとりの女性、おりょうの人生について語ろうとする時、それは否応なく、おりょうについて語る私の視点を露呈することである。その私の視点を、おりょうが善しとしてくれるかどうかは、もはや確かめるすべもない。ただ、この私という生命を生み、育ててくれた人の人生を、その人自身が語ってくれた多くの言葉を縁(よすが)として、なおしばらくたどり直し続けなければならないと思う。それが私に負託されたものを知るために必要な、心の作業なのだから。
こうして、おりょうは、父母と、運命との導きに従って、徳次郎と結婚をした。まだ残雪の深い、二月のことであった。
おりょうは、もう悲しまなかった。自分の短かった青春を、心の深みに埋め、自分とともに生きることになった人と、その人とともにあるこれからの人生を、たじろがずに見ようと、澄んだ目を見開いていた。
大正十一年に、長男の修一郎が、大正十三年に、次男の修二郎が、大正十五年に、長女の桂子が生まれた。
自分の結婚生活が幸福と言えるものかどうかは、おりょう自身にはよくわからなかったが、人並みの夫婦生活はあり、華奢(きゃしゃ)な身体でおりょうは、三人の子を次々に生んだ。
直蔵も、おしむも、素直に孫たちの誕生を喜んだ。子を為すなりの夫婦としての円満さはあるのだと思って、直蔵たちは、相変わらず心の中にトゲのように刺さっているもののことは考えまいとした。その父母の喜びを、自分の喜びに跳ね返らせて、おりょうもまた、これを幸せと思えばよいのだ、と自分に対して言っていた。
おりょうの夫、徳次郎は、たしかに、もの静かで礼儀正しかったが、修一郎が生まれ、さらに修二郎が生まれたのちになっても、その態度は奇妙に打ち解けず、この男は本当の所、感情の表出を抑えているというよりも、感情そのものが乏しいのではないかと、直蔵は時々苛立ちを覚えた。
命じたことは逆らわずに果たしたが、裏返して言えば、命じられたこと以上のことは行わず、自分の意見を言うこともなかった。
時折、放心したように無表情になり、何を考えているのか、と直蔵が問うと、別に何も、と慌(あわ)てるでもなく答えるのだった。
孫もできたことだし、そろそろ引退させてもらおうかの、とそれとなく徳次郎を督励するようなことを直蔵が言ってみても、徳次郎はただ、はあ、と言うだけで、張り切るわけでもなければ、反発するわけでもなかった。
そして次の日も、また次の日も、直蔵は、その日の仕事を指図する他なかった。何年たっても、同じだった。何とも出口のないやりきれなさに直蔵は疲労していった。
しかし、直蔵にとってやはり最も心にひっかかっていたのは、徳次郎の、人間に対する無関心であった。
時代の流れの中で、出口なくおし曲げられながらも、直蔵の人間への思いには、なお熱いものがあった。しかし、徳次郎の心の中には、そういう意味では、何もなかった。愛着もないし、また嫌悪もなかった。
佐々木の家族に対しても、時折訪れる実家の両親や兄弟に対しても、奇妙に空疎な感じのつきまとう交わり方しかしなかった。
心の中にあるものが、反発であれ、不満であれ、憤りや恨みであれ、生々しい感情があるのであれば、それはやはりそれなりにひとつの「火」ではあり、それは自分をも他人を
も焼くかもしれないが、また転じて、自分をも他人をも暖めるものともなりえようが……と、直蔵はひそかに心で苦しんでいた。
おしむもまた、おしむなりに、母親らしく、娘のおりょうの身と心とを案じていたが、懸念を口に出して、逆におりょうの中に不安や疑いの種を蒔くことになってはと、何も問うことはしないでいた。
そのおりょう自身には、やはり、自分たちの生活がこれでいいのかどうか、わからなかった。徳次郎は、昼間は、おりょうと二人きりの時でも、おりょうに対して距離を置いているように見えた。それは、愛していても敬することを忘れない、という距離ではなかった。自分が知的活動において妻より劣っている、という劣等感からの距離でもなかった。説明しがたい距離、どう埋めたらよいのかわからない距離だった。
夜になれば、徳次郎は奇妙に激しくおりょうの身体を求めた。それに応えるわずかの時の中で、おりょうは、この「距離」が跳び越えられ、埋められるように思ったが、自分の求めるものだけを慌(あわ)ただしく求めて眠ってしまう夫の横で、一種の寂蓼を感じながら、夫婦とはこういうものなのかと親に尋ねてみることもできず、これでいいのだと、自分に言い聞かせ、子供たちとの愛情の世界でその寂蓼を埋めていた。
こうして徳次郎は、佐々木の家の中で、逆説的な意味でのひとつの「中心」となっていった。それは、すべての人々が絶えず見守りながら、気をつかい、怯えている、虚無の中心、……佐々木の何世代にもわたる暖かく、潤いのある家庭の中に突然生じた、暗い虚無の中心であった。
そこに投げかけられ、呼びかけられたどんな感情も、谺(こだま)となって返ってはこなかった。
徳次郎とかかわるすべての人々が、一種、得体の知れぬ脱力感を味わった。人々は、徳次郎とかかわることを恐れ、無意識に避けるようになっていった。
直蔵も、おしむも、そしておりょうも、これをなお、徳次郎の「性格」と考えようとしていた。そう考えることであきらめもし、また、そう考えることで、いつかは変わり得るかもしれぬと、かすかな希望を持っていた。
しかし、それは、徳次郎の「性格」ではなかった。それは、徳次郎の「病気」だった。必要なものは、愛でも、慰めでも、督励でもなく、精神科医による「治療」なのだった。しかし、誰ひとり、そのことには気がつかなかった。
文学館案内に戻る
| |||
|