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第一章 あけぼの
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佐々木家の敷地は、かなり広かったが、蔵が多くて、むしろ手狭にさえ感じられた。それでも、表通りに面した母屋の横から裏手にかけて美しい和風の庭があり、築山(つきやま)が築かれ、松、もみじ、梅、海棠(かいどう)、椿、つつじ、ざくろ、南天、などの木々が石灯篭や苔むした大小の庭石などと調和しながら四季を彩り、庭師の芸の力によって、限られた空間を奥深いものに見せていた。
大豆蔵、米蔵、塩蔵、とならんで、裏手に大きな仕込み場があった。仕込み場の中には、大豆を煮る巨大な鉄の釜や、煮上がった大豆をすりつぶす機械、攪拌機、精米機などがあり、仕込み場の一画には仮眠したり休憩したりする畳部屋があって、中央には囲炉裏(いろり)がきってあった。仕込み場に接して、麹を作る麹室(こおじむろ)や井戸小屋があった。
仕込み場に向きあって広大な味噌蔵があって、これが大蔵(おおぐら)と呼ばれていた。味噌蔵は、他に新蔵(しんくら)、前蔵、横蔵とあり、更に、手押しの消防車の置いてある消防小屋や、年に一度の夏祭りの時に引き出される山車(だし)を納めてある山車小屋などがあり、母屋の裏に立つ土蔵とともに裏手から表へと庭をとりまくように蔵や小屋が林立していた。そしてそれらの蔵や小屋にはさまれた空間に、柿の木、無花果の木、胡桃(くるみ)の木、そして銀杏の木などの「成りもの」の木が植えてあった。
母屋は二階建てで、前の二階には身内の若い者たちが、裏手の二階には若い衆たちが、そして、階下の一番奥の台所と隣接した部屋には、女中たちが寝ていた。母屋の部屋は、口の字型に結ばれていて、その口の字の中央の空間に小さな池があり、人工の小さな滝と、せせらぎが作ってあり、池の縁をふちどって、沢山の秋海棠が植えられていて、初秋になると、優しげな、うす赤い花を一杯につけた。
母屋の玄関を入ると、土間になっていて、左手には茶の間を兼ねた帳場があり、ここにも囲炉裏がきってあった。右手には主客用の座敷があって、その座敷に接して仏間があった。座敷につながって二つの部屋があり、そこで直蔵たち夫婦は寝起きしていた。座敷を包むように広い廊下があり、その雨戸をあけると、そこが庭であった。
母屋の前の通りをはさんで川が流れており、その川にかけられた石橋を渡った所に、前蔵があり、左手には、鬱蒼とした竹やぶがあり、風が吹く日には、葉ずれの音がしきりだった。川岸には草が生い茂っていて、夏には無数のホタルが舞った。
前蔵に渡るための幅広い石橋は、週に一度やってくる紙芝居の開店場所で、この日は町内の子供たちが、わずかの小銭を握って早くから集まっていた。母屋につながって道ぞいに木塀(もくべい)があり、そこに門があったが、日中は、いつもそれは開かれていた。紙芝居屋の来るのが遅れると、待ちくたびれた子供たちは、鬼ごっこを始め、その門からどんどん入りこんできて、庭やら、蔵のすきまやらに隠れこんだ。顔見知りになった行商人たちも、平気でどんどん入ってきて、庭石や縁側に腰かけて弁当をつかったりした。
直蔵もおしむも、そんな人々の出入りを屈託なく受容していた、というより、むしろ喜んで見ており、茶飲み相手になっていた。直蔵もおしむも、子供というものが好きであり、人間というものが好きなのだった。
春の、味噌の仕込みの時期になると、屋敷の中は活気に満ちた。
この仕込みの総指揮は、親方の新松の仕事だった。親子三代にわたって親方の責をまかされてきていて、味噌のことは熟知していたから、すべてをまかせておいてまちがいはなかった。やや小柄だったが、十四、五歳の頃からもう父親の監督下で若い衆として働いてきていて、筋肉質のよく引きしまった身体をしていた。若い象たちの持ち上げられないような桶(おけ)でも持ち上げる力も気力も持ち続けていたし、何よりも、実直な、裏表のない性格で、みんなから信頼されていた。
仕込み場で練り合わされた味階は、桶に詰められて、前の大蔵の中にある巨大な、味噌熟成のための大樽へとかつぎ入れられるのだが、ベルトコンベアーなどが簡単にある時代ではなく、すべて、ひと桶ずつを男衆たちがかっぎ上げるのだった。
大樽は、直径も高さも一間半ぐらいはあって、仕込み場の出口からこの大樽の上の縁へと掛け渡された、ぶ厚い板の坂道を上がっていくのである。当然のことながら板はたわむし、反動で揺れ返す。この浮き沈みにうまく歩調を合わせて、ひょいひょいと、かつぎ上げるのだが、見ていればリズミカルで軽快そうに見えても、その盛り上がる胸と背の筋肉と、真剣なまなざしを見ていれば、全神経の集中を要する熟練技であることはわかった。
板には、すべり止めの横木が打ってあり、さらに、きつく荒縄が巻いてあったが、ひとたび味噌をそこへ落とせば、たちまち渡り板はすべり台のようになった
新松は、その渡り板の脇に陣どって、男衆たちの足運びを、腕組みして見守っていた。
危なかしいリズムのとり方には容赦なく叱声がとび、ホイッ、ホイッ、と自ら掛け声をかけた。しかし、結局のところは、自分自身もそうであったように、理屈でなく、身体で覚えていくしかないことも、新松は良く知っていた。ただ、直蔵から、桶なんぞはいざという時は放り投げていい、怪我だけはさせるなよ、と言われていたこともあり、膝が笑ってきたな、とみると、いくら当人たちがまだ大丈夫だと言っても、ひと休みするように頑として言い渡した。
直蔵は、朝の仕込み場での新松との打ち合わせに出ていき、渡り板のひび割れや縄のしめ具合などを新松とともに綿密に点検し、麹室の温度や湿度の具合を見てまわったりしたが、いざ仕込みの荷役が始まれば、すぐに現場を離れた。なまじっか自分などが見ていては、男衆が変に緊張したり、張り切りすぎたりしかねない、と思うからであった。
賄い方も、仕込みの時期には、女たちが慌ただしく立ち働いた。住み込みの女中たちだけでは勿論たりず、男衆たちの妻や母親やらがその時期には手伝いにきて、男たちの食事を作った。重労働の男たちのひと休みの時の食い物は、何はおいても握り飯であり、本当にみんな一升飯を食った。
おりょうは、直蔵や新松に叱られながらも、仕込み場に好んで入り込み、荷役が始まると、新松のそばにしゃがんで、じっと見ていた。あぶないから離れている、声を出すな、と新松は叱ったが、おりょうは離れなかった。肩あてだけで上半身はだかの若い衆たちの労働の姿は、まぶしいくらい美しく思え、いつかしら自分も一緒に力んで歯をかみしめてしまうような、その緊張感が好きだった。そして、若い象たちも、年ごとにきれいになっていくおりょうに、切れ長の澄んだ目でじっと見ていられるのがいやではなかったし、そして、叱りつける親方の新松自身も、いずれは否応なく婿をとって跡取りになるおりょうが、仕込みの作業に目を輝かせているのを、心では喜んでいた。
麹の米の質から吟味し、その麹をふんだんに使い、塩気を抑えた味噌は、熟成してくると、一種こうばしい香気を放った。出荷の時期になると、何台も何台も牛車が、「やまさ」印の十貫目樽を積んで、表門、裏門から出ていった。「米、味噌、醤油」が食生活の基本であり、それがあれば、ともかくも生きられた時代であった。
母屋の座敷に接して、三畳間ばかりの仏間(ぶつま)があったが、ここには、禅宗にしてはやや立派に過ぎるような、幅一間ほどの仏壇が、きっちりと納められていた。仏壇に向かって、経机(きうづくえ)を前にして座すと、左右の障子を通して、明かる過ぎもせず暗すぎもせずに柔らかな光が入ってきて、座す者の心を不思議に落ちつかせた。後ろの襖をあげれば、座敷とひとつながりになり、折々の法要の時には、家内の者はみんなこの座敷に座って読経を聞いた。そして、それはしばしばのことであったので、おりょうは、いつのまにかお経を耳で覚えた。勿論、その意味するところはわからなかったが……。
直蔵は、おりょうに対して、正面切って仏法の話しをする、ということはほとんどなかった。しかしある時、それは、おりょうが十二、三歳の頃だったが、おりょうが仏間の掃除をしている所へ通りかかり、何を思ったのか、掃除の終わるのを待って、座敷におりょうを座らせて、こんな話しをしたことがあった。
お釈迦さまは、女性の出家をなかなかお認めにならなかったが、それは、女性の身を不浄とされたのではなく、女性は情に流されやすく、煩悩から離れがたい、というふうに考えておられたからだと聞く。しかし、私は、我が身をふりかえって、男の深さというものは、しばしば身勝手で、女の犠牲の上になり立っているものだ、という気がする。そして、こうも考える、女の情は自分をも他人をも滅ぼしかねないものでもあるが、その中から我(が)というものを極力洗いながし、他人を思いやるところを深めていくことができれば、男にはなかなか及びがたい深い慈悲の心というものにも到達できるのだ、と。女の生きかたは、狭く鋭い尾根を渡っていく道となりやすい。よいな、心して生きるのだぞ。……
おりょうは、すべてはわかりきらない気がした。しかし、父親のまじめな話し方を通して、父親の愛情と懸念を感じた。自分には、何かあぶなかしく見える所があるのだろうか、と思った。
直蔵たちが生き、そしておりょうが生まれ育った明治という時代は、日本が欧米に追い付こうと、しゃにむに近代資本主義国家としての政治、経済体制を作りあげた時代であった。それは当然の帰結として、二つの軋みを生みだした。成長し、巨大化する資本は、限りない自己拡大を求めて国内を支配し、さらに大陸へと侵略の触手を伸ばしていった。
そして国内では、自分の肉体(と精神と)を売って日々の糧を得る厚い無産者階級を作りだしていった。その結果としての軋みは、一方では日清、日露の戦争であり、そして一方では国内における労働運動の激化であった。
天皇制という、一見近代合理主義と背反する体制を奉じながら、日清、日露の戦争に勝利したことによって、日本の指導者たちは、選び持っている国家体制の正当性が証明されたものとした。
しかし、おりょうの七歳の時には、戦争後初めての経済恐慌を経験し、労働争議も激化した。別子銅山、足尾銅山の労働者の反乱が勃発し、苛酷な血の弾圧を招いた。 おりょうの十歳の年には、遂に韓国が併合され、朝鮮半島の人々の、以後長きにわたる屈辱の歴史が始まった。
やがて世は、大正と名を変えたが、それは、より深い苦悩の時代への推移に過ぎなかった。もちろんこの越後の片田舎の小さな町にも、その折その折の世の動向は影響を及ぼしてきていたが、しかし、身近に一発たりと銃声が聞こえるわけではなく、朝鮮だ、ロシアだと言っても、身内から兵隊を送ってでもいなければ、やはり遠い国のように思えていた。
日常の生活の感覚の上では、むしろ、国内の恐慌に引き続く不況の方が問題で、家計の圧迫はどの家でも感じていたが、しかし、まだこの時期、農産物やら海産物やらの物々交換的な経済基盤の上で生きていた人々にとっては、それはまだ、直接に飢えや生き死ににかかわるものとはなっていなかった。
佐々木の家にしても、「味噌」という、身分や階級やを問わず日常生活上欠くべからざるものを造っていたわけで、恐慌の中での貸し倒れや、売り上げの回収の遅延などはあっても、大きい混乱には巻きこまれる職種ではなく、比較的平穏に商いを続けることができていた。
しかし、直蔵は、世の流れに対して、鈍感でも無神経でもなかった。思想や主義主張があって、というよりは、天性の鋭い感受性と柔らかな心情とからくる、自然な、ほとんど本人自身もそれと意識しない反権力意識、反体制意識を持っていて、弱い立場の人々に対して国家が懐柔と弾圧という両面の政策をもって分断し、陥れ、無力化していくことに対して、人間の尊厳を傷つける理不尽として、ひそかな憤りを覚えていた。
その憤りは、直蔵をして、警察に捕らえられた左翼の活動家の家族に、身元を知られぬようにしてそっと援助を与えたり、弾圧につぐ弾圧の中で徐々に身を屈していく新興の宗教団体へ、そっと隠れた寄捨をしたりするという、当時としては極めて「危険な」行動をとらせた。
利権の拡大を求めてひたすらに海外への進出を企てる「国家」という名をかぶった資本と軍部の自己増殖の力に対して、既成の政党も、既成の宗教も、無力であった。集合と離散をくりかえしながら、それらはどれもが、結局は体制の中での自己の保身を図る道へと後退していった。直蔵自身が在俗の信者として属する禅宗宗派にしろ、仏教会全体にしろ、青年僧たちの横断的な連帯の動きは見られたが、それもすぐに潰(つい)えさって、「宗教の政治からの独立」を、むしろ何もしない自らへの免罪符として、時代の流れの中に没していった。
直蔵は、やりきれなかった。
仏教であれ、キリスト教であれ、その原初の情熱はもっと燃える炎の如きものであり、衆生済度の発願は、まさに「衆生救われざれば我れまた救われじ」の悲願であったはずではないか、と直蔵は唇をかんでいた。しかし、その直蔵自身にも、いざとなれば捨てられない家族があり、家業があり、佐々木の家に寄り添って生きている多くの家と人々とがあった。直蔵は、一族の頭領であり、家の子、郎党の幸、不幸に対してまさに一義的に責任を負うていた。それが、直蔵の軛(くびき)であり、愛執のもとであったが、まさにそうした軛をすべての人々が負うていたのであって、自らをふりかえってみれば、屈していく誰をも責めきれぬ気もした。
これが片田舎の小資産家の感性的なヒューマニズムの限界であり、その優しい宗教的心情も結局は、情念の哲学のうちに終わったということであったのかもしれない。個人主義的な宗派の陥牢(かんろう)に、直蔵も結局は、進んでではないにしても、落ち込んでいったのかも知れなかった。
しかし直蔵は、なおすれすれの危険を冒しながら、特に、遅れてきたる、それゆえに原初の人間愛の火を抱いている新興の宗教の宗団に、陰ながらの援助を続けた。すでに「新興」と呼ぶにはや〉古い、幕末からの歴史を持ちながら、明治以降に激しい圧迫、干渉の波にさらされた天理教に対して、金光教に対して、そしてまた、大本教に対して……。
このことは、妻のおしむ以外には誰にも言わなかった。そして、直蔵がこれらの援助に使った金は、実は本業の商いから出たものではなかった。それは、いわば「陰の」金であり、直蔵はそれを「天から授かって」いた。
自分の代になってまもなく、直蔵は、先々代の建てた土蔵が手狭になってきたので、これを取り壊して、新築をした。土台の低かったのを三尺余の高さにあげ、石垣で組み直し、平屋だったものを総二階にしたのだった。
吉日を選んで古い土蔵を一気に取り壊し、土台を固め直すために整地をしていた時、中央部で、ぶ厚い陶製の瓶を人足が掘り当てた。注意深く周囲の土を取り除き、重い蓋のついたままのそれを、人足たちは数人がかりでかかえて直蔵の所へ運んできた。
先祖が何かの理由で、土蔵を建てる時にひそかに埋めたものであることは当然推測されたが、みんなの見守る中でこれをあけてみて、さすがの直蔵も仰天した。何重もの油紙でしっかりと包まれていたのは、数十枚の小判だったのである。
小判が出た、という話は、あっというまに小さな町の中を駆けぬけた。多くの人々がひと目見ようと集まってきた。つぎの日の新聞にもこのことが報じられると、遠い所からも人々が見にやってきた。直蔵は、さっさとこれを警察に届けた。
他に持主の現れるわけもなく、人々のうわさのほとぼりの冷めたころに、それは直蔵の手許に返されてきた。
直蔵の父親はまだ存命だったが、尋ねてみても、自分は何も親からは聞いていない、と言い、お前の思うようにするがよい、と言った。
今の時代であれば、所有権争いもあったかもしれないが、直蔵は、人足たちに何枚かづつの小判を分け与え、更に、二つの小学校と町役場に、歴史の史料にと一枚ずつを寄贈した。(それらは、発見の由来を記した文とともに、額に入れられ、各校長室と町長室に長く掛けられていたが、太平洋戦争後の混乱の中で、いつのまにか、すべて消え失せてしまった。)
直蔵は、残った小判をそのまま保持し、使わないでいた。商いは一応順調で、あえてそれを換金して資金にまわす必要に迫られなかったためもあるが、もうひとつの理由が直蔵にはあった。それは、この金が、その昔、流浪の果てに武士を捨ててこの地に住みついた、
謎の中にある祖先にかかわる、何かいわれのある尋常でない金のような気がしたことである。直蔵は、家族の者たちに、この残りの金のことは、なかったものとして忘れるように、
と言いわたした。
後年、直蔵が、思想の故に弾圧される人々や、信仰の故に抑圧される人々に、密かに援助した金は、実は、この小判を何枚かづつ換金しては作った金であった。自分たちが、私的に使ってよいのかどうかわからない、出所のつまびらかでない金を、直蔵は、こうして人々に「返す」道を選んだのだった。
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