かなる冬雷

 

第一章 あけぼの

 

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 あくる年の五月……。

 新緑は香り、植え付けられた稲の苗はしっかりと根付いて、さやさやと美しく波打っていた。雨上がりの空は、洗われたように青く、広大な水田の向こうに、飯豊山(いいでさん)、五頭山(こずさん)、菱ヶ獄の連峰が、くっきりと稜線を連ねていた。

 味噌の仕込みの準備が今年も始まっていた。富助は、修一郎と修二郎を、仕事の邪魔にならないように連れだして、散歩に出てきていた。

 稲架(はさ)掛けの木が立ち並ぶ田の小道を歩きながら、道の脇を流れる小川の岸辺に伸びる芹(せり)を摘(つ)んだり、小川の藻のすきまを泳ぎ過ぎる小魚の姿を眺めたりしながら、三人は歩いていた。

 修一郎も修二郎も、もう小学生だった。修二郎は、次男坊でもあって、まだ甘えも残し、富助の優しさに心をゆだねて、他愛のない悪さをいつもしたりしていたが、修一郎は、父親の死後、急速に大人びて、弟妹のために身を張ってかばってみたり、また彼らのわがままに、いつも少し侘しそうな顔をしながら何かと譲っていた。その修一郎の心の姿に、富助は、いとおしさと、痛ましさを感じていた。

 富助自身も、この一、二年のうちに大きく変わってきていた。言葉は、ゆったりと落ち着き、もはやどもることもなかった。直蔵に許されて、修一郎らとともに土蔵に入り、まるで小図書館のような蔵書の中から、さまざまのものをとりだして読んでいた。ひとたび心の流れが定まれば、富助は、愚鈍でも散漫でもなかった。子供たちの遊びを見守りながら、富助は木陰(こかげ)でいつも本を読んでいた。

 形あるこの世の財産をすべて手離して直蔵に託し、もはや富助は、失うべきものを何も持たず、ただ目に見えぬ心の宝だけを大切にして、静かに生きていた。富助の目は、穏やかに澄んでいた。生死をかけて人生そのものから学んできたもののすべてが、今、富助の中で洗われ、正しく意味付けられて、納まるべき所へ納まり、豊饒(ほうじょう)な心の言語の源となっていた。

 

 阿賀野川から引いてきた、幅二間ばかりの農業用水路の土手に登ると、そよ風が快く頬をなでた。土手は、まっすぐな二条の道となって、田の間を貫き、遠く山裾(やますそ)に向かって伸びていた。

 土手には、クローバや、おおばこの緑が、じゅうたんのように密生していて、雨上がりの湿り気をまだ少し残していたが、富助は腰を下ろして、改めて山なみを見た。飯豊山(いいでさん)の山頂にも、五頭山(ごずさん)の山腹にも、まだ白く雪は残っていた。この季節、こうして、柔らかな稲の緑の向こうに、この山なみを見るのが、富助は好きだった。

 

 思いみれば、……生まれ故郷の九州を追われるように出て、もはや二度とそこに帰ることのない身となって、生きてきていた。さまよった山河は限りなくあり、今はどの地も、煙る雨や、磯の香り、降る雪の冷たさとともに、すべてが懐かしの中に溶けていた。どの地でも、人々は懸命に生活しており、それぞれの喜怒哀楽をもって生きていた。自分は、故郷を失っての旅において、沢山の他の「故郷」を見てきた。そして、自分は、その中から、二つの地を新しい自分の「故郷」として見いだすことができた。その一つが、綾部の町であり、もう一つが、この水原の町だった。大旦那さまの言われるように、人はかならずしも肩をならべ、手を取りあって生きられるとは限らないが、この大地、この大空のもとで「一緒に」生きていることには違いはない。おふくろも、女房だったあの女も、そして、博多の人々、綾部の人々、富山の人々、みんなが、やはり今日という日を「一緒に」生きているのだ、と富助は、しみじみと思っていた。自分が受けた、すべての苦痛は、いつの頃からか、自分の苦しみであるよりも、むしろ、それを自分に加えた者たちの悲しみとして思われるようになってきていた。もはや、誰を恨む気持とてなく、許すも許さないもなく、ただ今日のようなうららかな日に、緑を見つつ風のそよぎを頬に感じられることが、素直にうれしかった。

 うぐいの乗っ込みの季節だった。婚姻色の朱色の脇腹を染めた魚の群れが、時々ひらりと反転したり、水面から跳ね上がったりするのを見て、子供たちが喚声を上げるのを聞きながら、富助は、何を考えるともなく、快い放心に陥っていた。

 

 その時であった。小さい叫びに続いて、ザブンという水音がした。はっとして立ち上がり振り返った富助の目に、川面(かわも)を浮き沈みしながら流れていく小さい頭が見えた。走りながら下駄を脱ぎ捨て富助は、その頭めがけてとび込んだ。雨上がりの増水した川を思いもよらぬ早さで流れていく修一郎の身体を、何とかとらえたが、修一郎は、夢中で富助にしがみついた。

 富助のわずかに一本だけの動く腕は、修一郎につかまえられて、富助は泳ぐこともならず、振りほどくこともならず、多量の水を肺に吸い込んだ。

 それでも必死に、川底に沈んでは蹴り上がりながら岸に近づき、修一郎に、草につかまれ! 離すな! と叫んだ。修一郎は、水面まで垂れ下がっている草の束にしがみついた。それを見届けたのが、富助の最後の力だった。富助は、意識を薄れさせながら、そのまま流されていった。 

 運の悪いことに、百メートルほど下流が、県道の下をくぐるために暗渠(あんきょ)になっていて、そのトンネルの入口に、大きいゴミを流入させないための、縦の鉄柵が固くはまっていた。

 富助の身体は、そこにひっかかった。ふだんなら人を助けたかもしれないその鉄柵が、富助をは助けなかった。薄れた意識の中で、もがいてつかんだその鉄棒は、ぶ厚く水垢(みずあか)でおおわれており、富助の五本の指は、空しくすべった。そして、押し寄せる水流は、富助の身体を巨大な水圧でその鉄柵に押しつけた。富助は、水の中で、張り付けになった。もはや、あえぐ肺に入ってくるものは、水だけだった。ちらりと、水越しに見た青い空を最後の光景として、富助のすべての力は尽きた。

 修一郎は、富助の言葉を守って、草の束を両手でつかんだまま動かないでいた。修二郎は土手の上で泣き叫び、異状に気づいて駆けつけた近くの農夫が修一郎を助け上げたが、富助を引き上げるには、もっと人手が要った。

 ようやくに引き上げた時、富助の目は、まだ何かを見るように大きく見開かれていた。人々は、その目を、そっと閉じてやった。

 

 直蔵たちは、あまりのことにただ茫然とし、涙を流すことさえ忘れていた。新松が、このたびは一番悲痛を隠さず、この馬鹿野郎、馬鹿野郎と叫びながら、号泣した。おしむが動くしかなかった。二年たらずのうちに、二度目の葬式であった。

 修一郎たちは、父親の徳次郎の死よりも、富助の死によって、精神的に大きな打撃を愛けた。徳次郎と子供たちとの間は、病いによって常に引き離されていたが、富助は、まさに、修一郎たちと「ともに」生きてきていた。常に視線を子供たちの高さに置いて、子供たちの心を理解しながら、並の父親以上に父親的な愛情によって、子供たちを教え、導いてきていた。

 まじめすぎる説諭に、時には反発しながらも、子供たちは、結局は、富助を通して、人のあり方を学んできていた。それは、徳次郎が果たせなかった、佐々木家の存在の仕方を修一郎たちに継承させることでもあった。子供たちは、何をしていても、母、おりょうと、富助の視線がいつも自分たちを見守っていることを感じながら生きてきていた。

 しかし、もはや、朝の目覚めは変わらずに訪れても、富助の姿はどこにも見出せず、その声を聞くこともできなかった。叱られてみたくてしたいたずらを、またしてみても、叱ってくれる人はもういないのだ、という事実を、子供たちは少しずつ、少しずつ、受け入れていくしかなかった。

 この世に「死」というものがあり、それは、愛する人を、心の中に思い出だけを残して理不尽に引きさらっていくものであることを、そして、二度と再び返してくれないものであることを、子供たちは学んだ。切ない思い出など、むしろ、ひとかけらも残さずに、合わせてさらっていけばいいものを……。

 しかし、「死」は、子供たちをたしかに苦しめながらも、日常の生活の中では空気のように意識されないでいたさまざまのことを析出(せきしゅつ)させ、意識の水面にはっきりと浮かび上がらせたのだった。それは、遅かれ早かれ、すべての人々に投げかけられる「問い」であった。苦しくても、切なくても、子供たちは、それに直面し、それ対しての答えを探す歩みを始めなければならなかった。

 生命とは、はかなく、危ういものだった。富助の冷たくなっていた身体を思い起こしながら、あの暖かい心はどこへ抜け出ていったのだろうか、と思った。身体、という生きものの形は、仮の宿りの姿であり、生命がひとたび抜け出てしまえば、それはまさに空しい亡骸(なぎから)であった。しかし、その身体とともに葬ったわけではないはずの生命を、いくら、どこに探し求めて見ても、どこにも見つけることはできなかった。肉体と魂という、ひとつならざるもの、しかしまた、ふたつならざるものについての説明を、子供たちは考え、求めていた。しかし、答えは見つからなかった。

 修一郎は、富助とともに生きた時間の絶対的な長さと、富助との問にあった共感の深さの故に、とりわけて、この愛する者の喪失の苦しみを、重く、長く担った。九歳そこそこの子が、仏間にひとり座していた。灯明を上げ、香を薫(た)きながら、うつむいて考え沈み、そして経本を広げて、小さな声で経を唱えていた。

 「なむからたんのう  とらやや……」

 その小さな姿と声を、おりょうは黙って見守り、また、聞いていた。おりょうは、ありふれた言葉で修一郎を慰めはしなかった。おりょうは、思っていた、この我が子にとって、これは自分で歩み越えなければならない道であることを、……ひとりの人間が死に、その犠牲の上に自分という生命が生き残った。このことの重い意味を、修一郎は生涯をかけて考え続けていかなければならない、そして、それに手を貸しうる者があるとすれば、それは、他ならぬ、富助その人でしかないことを……。

 

 そして、……まさに富助はそうしていた。

 修一郎の心の奥深くから、富助のあの柔らかな声が、語りだしてきていた。

「さあ、行くんだよ、坊や。生きるために、この部屋を出ていくんだよ。思い出と悲しみの中だけに生きていると、人は、しまいには、その思い出と悲しみにさえも麻痺してしまい、それさえも失ってしまうものかもしれないよ。

 私のために苦しむのは、もうおやめ。私は、坊たちとともに生きたこの月日ほど幸福だった時はないのだから。坊たちのしたこと、言ったことのすべてが、私にとっては愛おしいものとなっている。何ひとつ、悔いることなどないのだよ。 

 死が、私を坊たちから引き離したあの瞬間においてさえ、私の見たものは、暗闇ではなく青い空であったのだし、私の思ったことは、死の恐怖ではなく、守るべき生命を辛うじて守りえたことへの安堵だったのだから。

 私は、もはや、悲しんでも、苦しんでもいない。人の生きる時間の長い短いなどに、なにほどの意味があるだろう。ただ小さな優しさにめぐり会いたくて私は歩き、ただ小さな優しさを人に返したくて私は生きた。それで十分だ。私は、求めるものにめぐり会うことができ、返したいものを少しは返せた気がして、うれしいのだよ。

 私は、滅んだのではない。坊だちが、私のことを心のどこかで思って生きている限り、私もまた、たしかに坊たちとともに生きている。手をつなぎあっていても、心は遠く離れ、互いを見失っている人々もいるが、私は坊たちの前におり、坊たちの中にいる。だから私は安らかであり、幸せなのだ。

 しかし、今はもう立って、この部屋を出ておゆき。明るい太陽の光の中へ。そこが、坊たち、若い生命の生きる場所だ。……死者は、死者の場所で眠り、生者は生者の場所で生きる。そうでなければならない。けれども、生者も死者も、そんなに遠く離れているわけではないのだよ。

 私の身体は失われたが、それは同時に、私はいつでも、あらゆるものの中にいることができるようになった、ということだ。

 坊たちが幸せな時、私は喜びに顔を輝かせながら、いつもそこにいるだろう。坊たちが不幸せな時、悪いことをして苦しんでいる時、そう、その時も、やはり私は、淋しさに顔を曇らせながら、そこにいるだろう。私は、求められる限り、いつもそこにいるのだよ……」

 

 修一郎は、富助の声に促されて、仏間(ぶつま)を出てきた。苦しみのうちに、狂熱の夏は過ぎ、澄んだ秋の風が立ちはじめていた。

 幼い生命は、早過ぎたのかもしれない死と生の認識を持ち、なおつぶらな瞳に、おりょうの胸を打つような、不思議に大人びた光と影を漂(ただよ)わせながら、時の風の流れから顔をそむけまいと決意して立っていた。

 

 昭和という新しい時代は、人々に、古い苦悩を引きずらせながら、更に新しい苦悩を加えて担わせようとしていた。

 農村の荒廃は、いよいよ顕著となり、村々には、小作争議がくすぶり続けた。

 稲穂は黄金色(こがねいろ)に実り、畑の作物も色とりどりに豊饒な取り入れの情景を描きながらも、その豊かさは、その地で額に汗して働く人々のものではなかった。

 豊饒の中での貧困の増大、というこの社会の矛盾を解決する真の道を模索するかわりに、国は、一時しのぎのつかみ金を疲弊した農漁村に投げ与え、募りくる国民の不満の声を抑圧しつつ、朝鮮、満州へと侵攻を進めることによって、その不満の鋒先(ほこさき)をそらそうとしていた。

 味噌を造って売る、というこの単純な商いにおいても、米や大豆の値段は激しく変動し≠ワた、働きにくる人々の家庭も、恐慌の嵐の中で、その基盤を揺るがせ、更に、拡大していく大陸の戦線に向かって、働き手たちが狩り出され、奪われていくことによって、その生活の崩壊は加速されていった。

 味噌という、この生活必需品でさえも、売れゆきは鈍った。人々は、買い求めたわずかの味噌を少しでも食い伸ばせるように、そこに更に塩を加えていた。

 味噌の売れゆきの落ち込み方ひとつの中にも、新松に言いきかせた「縁ある人々」である遠い見知らぬ地の人々の困窮の深まりが見えてくるようで、直蔵の思いは暗かった。

 

 昭和七年三月、満州国建国の宣言がなされた。すでにそれに先立って、厳寒の大陸で、軍は上海事変を引き起こし、ハルビンを占領しており、今や、この満州の地を拠点として、更に大陸の奥へと侵攻の歩みを進めようとしていた。

 相つぐ政治家要人の殺害事件や、次々に日本の国土を襲う地震や台風という自然の猛威の常ならぬ異常さの中に、直蔵は、ほとんど宗教的な直感のように、巨大な破局の訪れきたる前兆を感じとっていた。

 「心の準備をせよ。破局がくるであろう」

 だが、何を、どう準備すれぱよいというのであろう。直蔵は怯えた。自分を支えてきた、ささやかな哲学も、宗教心も、資産も、一族の絆も、何もかもが瓦解していく予感に、直蔵は怯えた。

 この時、直蔵の生命力は、老いと、相ついだ不幸による精神的打撃と、そして、この時まだ正体を現していない肉体の内側からの病いの芽によって、衰えを見せ始めていた。直蔵はそれを、気力の衰えだと恥じ、歯を食いしばって、己れを叱咤していた。

 しかし、どろどろと轟(とどろ)く軍靴(ぐんか)の音にまぎれて、もうひとつ、忍び足で近づいてきているひとりの人間、直蔵にとっての最後の愛する宝を奪い取りにくる者の足音が、ひたひたと近づいてきていることに、直蔵は、気がつかなかった。…… 

 

 

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