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第一章 あけぼの
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大正十二年。
修一郎が一歳半になってまもなくの、九月一日。大地が激しく鳴動した。
鉄びんが落ちて灰かぐらの舞い上がる囲炉裏端から、修一郎を抱きかかえて玄関の外へ走りだしたおりょうの目に、道ぞいに流れる川の水が一瞬止まり、ついで、波立ちながら逆流するのが見えた。次々に揺れが襲い、家々から悲鳴や怒声が聞こえ、さまざまの物が落ちて砕ける音がそれにまじった。
長く続く余震の鎮まるのをまって、屋根から落ちて砕けた瓦の破片をよけながら、おりょうは修一郎を抱いて家に入った。
帳場には、なお灰かぐらが舞っていた。そしてそこに異様なものを見て、おりょうは立ちすくんだ。それは灰かぐらを頭から真っ白にかぶって炉端に座っている、徳次郎の姿であった。動じなかったのではない。徳次郎は一瞬のうちに萎(な)え、頭の中が空白になって、もはや何もなしえず、ただ座っていたのだった。
直蔵は、裏の蔵の方へ走っていっていた。おしむは、台所の方で、女中たちを叱咤(しった)していた。誰もいなかった。おりょうは、修一郎を胸に抱いたまま、訳のわからぬ恐怖に震え、徳次郎の灰色の姿を凝視して、言葉もなく立ち尽くしていた。
首都東京を壊滅させ、遠く三百余キロ離れた越後の川の水を逆流させたこの関東大震災は、また、人々の分別をも打ち砕いた。
ようやく東京の壊滅的な様子のわかりかけてきた三日後の深夜、佐々木の家の前を、罵(ののし)りながら走り過ぎる男たちの声がし、その乱れた足音が戻ってくると同時に、人の呻(うめ)き声とともに、川に人の落ちる音がした。
直蔵が走り出てみると、川の中に一人の男が倒れていた。数人の男たちが逃げ去ったが、二人ほどは見知った顔だった。直蔵の大声に、住み込みの若い象たちが走り出て、川にとび込み、男を引き上げた。男は頭を割られ、左肩を深く斬られていた。近くの町内に住む一人暮らしの老婆に拾われて何となく住みついていた余所者(よそもの)の男であった。ひどく訛(なま)りの強い、時々どもる話し方をする男であった。何度か老婆の使いでか味噌を買いにきて見知ってはいたが、会話らしい会話を直蔵はしたことがなかった。
遠い東京の狂気に呼応するかの如く、この片田舎の町でも、朝鮮人ではないかといううわさが立って、狂気の襲撃が行われたのだった。
直蔵たちは、この男を家に運び込み、医者を呼びにやった。肩を日本刀で斬られた傷が深く、幸い動脈は切れていなかったので一命はとりとめたものの、腱や筋肉を断ち切られていて、左腕は二度と上がらなくなった。頭頂部から眉間(みけん)にかけても丸太のようなもので殴られての割創(かっそう)があり、ひどく醜い傷跡を残したが、脳内出血はまぬがれていた。
苦痛と屈辱に呻く、富助というこの中年の男を、おしむとおりょうは懸命に介抱し、慰め、励ました。二日目から約十日間、高熱が続き、医者は危ぶんだが、出入りの魚屋に氷を手配させて冷やし続け、何とか重湯や砂糖水を飲ませ、ようやくに持ち直した。
当分かくまってやってくれ、というおりょうの言葉に、そうするがいい、と直蔵は答えた。それでいいな、と押し付けるように言われて、徳次郎もうなずいた。
熱の下がるのをまって、おりょうは富助という名のこの男に、好きなだけここにいて養生(ようじょう)していいのだと言い、老婆の所へは人をやって説明してあるから心配しないでいい、と言った。
富助は、必死に起き上がろうとしながら、動く右手だけで、おりょうを拝んで、ポロポロと涙を落とした。
富助が居候(いそうろう)をしていた老婆の家には、富助が負傷して運び込まれた次の日に、新松が行き、事情を説明していた。
老婆は、富助を居候させるようになったのちに、転倒して大腿骨を折り、寝たきりになっていたが、頭ははっきりしていて、富助を助けてもらった礼を言い、よろしくお願いいたしますと言った。
しかし、寝たきりになった老婆を現実的には富助が介護していたわけなので、富助がいなくなれば、老婆はすぐにも飢え死にしかねなかった。新松の説明を聞いて、おしむは、女中を送り、食事を持っていかせ、掃除をし、着替えをさせ、入浴などの世話もさせた。
富助もいることだし、良ければ家に来て一緒に養生してはどうか、とおしむは直接でかけていって勧めたが、老婆は、そんなもったいないことには甘えられない、富助のことだけでもお礼の申しようもないし、こうして毎日お世話をして頂いていることでも身の縮むような思いをしている。いずれにしても自分は先は長くない予感はするし、死んだ亭主と暮らしたこの家で死にたい、自分が死んだら、このボロ家と、富助に耕してもらっていた小さい畑を富助にやってくれ、と言った。
本当にそんな予感があったのだろうか、それから二週間ほどして、食事を届けにいった女中は、寝床の中ですでに冷たくなっている老婆を見出した。
身寄りはなかった。まだ寝たり起きたりの富助に代わって、直蔵たちが、ささやかな葬儀を営み、遺骨は老婆の亭主の眠る墓に一緒に葬った。富助のためには、老婆の位牌を作って入魂し、病床のかたわらに置いてやった。富助は、実の母親を亡くしたように深く悲しみ、位牌にむかってしきりに何か詫びていた。
この老婆は、町の片隅に支部のある天理教の信者であった。
富助は、傷が癒えて何とか動けるようになると、歩きを覚えて目の離せない修一郎の子守り役を与えられた。富助は、それを喜び、修一郎を我が子か孫のように深く愛した。一年近く、富助は、佐々木の家から外へは出ないようにしていた。この間に、おりょうは、次男の修二郎を生み、必然的に富助は、修二郎の守り役にもなった。
修二郎の生まれた大正十三年には、同じ越後の木崎村(きざきむら)で激しい小作争議が起こり三週間、騒ぎが続いた。明治末の足尾、別子両銅山の争議とそれに対する軍隊による血の弾圧以降も労働争議は先鋭化し、多発していたが、更にそれに小作農民たちの反抗も加わって、争議と、強権による弾圧とが繰り返されていた。国家は大正十四年、治安維持法を成立させ、弾圧に対する法的「整備」を行っていったが、労働者、小作農民の反抗もさらに先鋭化し、大正十五年には、木崎村の争議が再燃した。
この年の秋に、おりょうは、三人目の子、桂子を生んだ。
富助は、三人の子の守り役を続けた。
修二郎が歩きだした頃にも、なお根深く反朝鮮人、反中国人の感情は残ってはいたが、さすがに白昼に富助を襲う者もなく、また、富助はれっきとした日本人で、九州の博多の製鉄所で働いている時に、大正九年のこの製鉄所の大ストライキにまきこまれて職を失い、東北の母親の里を探して越後に流れてきた者だ、ということもわかり(新松は若い衆や女中たちに、それとなくその話を広めさせた)、また言ってみれば、佐々木の子らがいつも富助の護衛についているような具合でもあり、富助は、心配することなく町の中を歩けるようになっていた。
加えて、直蔵が、襲った犯人たちのうち幾人かの顔を見知っていながら、警察の事情聴取に対しては、暗くて顔は見えなかった、と証言し通したことも、当の犯人たちに対しては貸しを作った形になっていた。
そして、何よりも、心と身体に深手を負った当の本人、富助が、自分の災難を不思議に広い心で受けとめ、探せば探せたであろう犯人を、探す気を全く持たなかったのであった。
富助は、初めはひどく愚鈍そうに見えた。徳次郎や直蔵やおしむには、よく口もきけないようなふうで、すぐにしどろもどろになり、あげくのはてには緊張のあまり、どもったりした。それでもおしむには、何とか聞かれたことだけは答えようと努力はしたが、ひどく考え考えに言葉を探しながら答えるので、忍耐強いおしむも終いにはじれったくなって、もういい、ということになるのだった。
おりょうに対しては、顔を赤くして、ほとんど何ひとつ口がきけなかった。いい歳をした男が、赤くなって縮こまっている、というのも妙な具合ではあったが、おりょうは、この鈍重そうな男の中に隠された鋭い感受性と、傷ついている善良で優しい心のあることを、見てとっていた。
おりょうは、返事もできないでいる富助の顔を見ぬようにしながら、とりとめのないひとり言のように、佐々木という家の来(こ)し方と、修一郎たちが、作るであろう未来についての思いを語り、また、親方の新松や若い衆や女中たちのひとりひとりについて、その人柄やら家庭環境やらについて語り、親類縁者の系譜について、そして、直蔵の道心(どうしん)について語った。
そして、ふと目を合わせれば、そこには、眉間(みけん)の傷を更に深くして、眉根(まゆね)を寄せて真剣に聞いている富助の目があった。それは、愚鈍でも鈍重でもなく、考え深い、澄んだ目だった。
親方の新松に対しては、富助は不思議と早くから心を開き、仕込み場の片隅の囲炉裏端(いろりばた)で、茶をすすりながら、ぽつりぽつりと身の上を語っていた。
新松は、一日の仕事が終わると、帳場に来て、直蔵に仕事の報告をし、明日の段どりを話し、そして最後に、今日は富助の奴がこんなことを言っておりました、と報告をした。
直蔵は、キセルでたばこを吸いながら、黙って聞いていた。おりょうも黙っていたが、真剣に耳を傾けていた。そして、少しずつ見えてくる富助の世界の、想像していたような部分には、やはりそうだったのかと思い、思いもよらない過去には、驚きもし心も痛めた。
富助は、九州、博多の生まれだった。
東北の津軽あたりからどういう事情があってか流れてきた母親と、漁船の乗り組員だった父親との間に生まれた。富助のなまりの強い言葉は、博多弁と津軽弁とのごちゃまぜだったのである。他に妹が一人あった。
父親は、まだその顔もよく覚えないうちに、玄界灘(げんかいなだ)のしけで船が沈んで死に別れとなり、母親は、亭主の雇い主から魚や貝を分けてもらって、行商しながら二人の子を育てていたが、妹は、三つか四つの時に、売れ残りの貝を食べて当たって死んだ。
富助自身も毎朝早くから、しじみを売ってあるいたりして、何とか小学校だけは出た。それを待っていたように母親は、富助を博多の町のある魚屋に奉公に住み込ませ、自分は、西南戦争で死にそこねたという薩摩の男と一緒になり、北海道開拓使に伴う官吏の仕事があるというその男とともに、北海道に渡っていってしまった。それが母親との生き別れであった。
二、三年の問は、鉛筆をなめなめ書いたような字の、母親からの手紙が時折来たり、時には何枚かの紙幣がそこに入っていたりしたが、ある時、男が病いで死んだので津軽の実家にひとまず帰る、という手紙があったきり、以後、音信は途絶えた。
新しく誰かと生活でもしたのか、それとも連絡するまもなく事故や病いで亡くなりでもしたのか、何もわからなかった。
母親の故郷は、津軽というだけで、あとは町の名も、村の名も、まして所番地も、何もわからなかった。富助は、ひとりぼっちになってしまった。
それでも富助は文字通り黙々と働き、その魚屋からやがて、のれん分けをしてもらって、小さい店を持った。この間に、主人の遠縁にあたる京都府の丹波町という所の女を紹介されて嫁にもらい、五年あまり一緒に暮らして、男の子がひとりできたが、この女房は、いざ独立して自分たちの店を持つようになると、自分は山の生まれだから魚の生臭いのは嫌いなんだと言って、一年たらずで他に男を作って出ていってしまった。いわば仲人でもある元の主人に尋ねてみても、女の行先は知らない、だいたいお前は性根が陰気だから嫌われるんだ、と返事はすげないものだった。
ひとりでは、小さい子をかかえて、まともに店もやっていけず、また何かしらやる気も失ってしまって、半ば店じまいのようになっていたが、そんなある日、三歳になった男の子を富助は近くの川へ水遊びに連れていった。そして、強い日射しの下で何を考えるともなく一瞬の放心に陥っている間に、子供は、足をすべらせて流され、声も立てずに、深みにはまって溺れ死んだ。
富助は、狂乱して、町中の医者を走りまわった。もうだめだ、とうに死んでいると言われても、死んではいない、何とかしろと怒鳴り、また、土下座して、助けてくれと泣いた。
結局、警察が出てきて、富助は、子供の亡骸(なきがら)と一緒に、留置所に入れられた。富助が、何としても子供の身体を手から離そうとせず、荒れ狂うので仕方がなかった。
元の魚屋の主人が身許引受人になり、もともと頭のネジが少し狂っているのでということで、富助は三日目に放免された。
子供の身体をなおも抱いて離そうとしなかったが、暑い時期のことで、もう亡骸(なきがら)は異臭を放ち始めており、みんなでようやくに因果をふくめてあきらめさせて、火葬にすることができた。
遺骨は、漁師だった父親の眠る墓に納め、富助は、小さな位牌と、何がしかの金を与えられて、博多の町から送り出された。送り出された、と言っても別に行く先があるわけでなく、いわば、追い払われたのだった。
その時に、同情した町内の者が、お前は八幡製鉄へ行け、あそこなら人を募集しているはずだと言ってくれたので、他に行くあてもないのでそこへ行き、身体はいい身体をしていたので、使ってもらうことができた。
しかし、ものの半年もしないうちに、製鉄所の大ストライキが起き、約一ヶ月間、争議が続いた。富助にはむずかしい理屈はともかく、闘っている仲間たちを裏切るということだけはしてはならないという思いがあり、連日、ピケを組んで地蔵のように立っていたが、最後には警棒でめった打ちにされて、血まみれで放りだされた。
要領のいい連中は、さっさと職場復帰したが、富助にはもう帰る職場はなく、また、帰る気持もなくしてしまっていた。
この日から、富助の流浪が始まった。組合からめぐまれたわずかの金をふところにして下関にわたり、その地から富助は日本海添いの道を、ひたすらに歩いた。人々の情けや施しを受けながら、ただひたすらに歩いた。
どこへ行く気だったのか、と新松が聞くと、津軽の母親の所へ行く気だったような気がする、と富助は答えた。新松は、あきれもし、強く胸をつかれる気もした。
夏の終わり頃、富助は、舞鶴まで来ていた。そして、そこから内陸の方へ向かって歩きだした。
京都はどっちかと問われて、問われた方が目をむいた。あんた、歩いていく気か、と言われれば、富助は黙ってうなずいた。薄気味悪い気違いだと、敬遠してそのまま立ち去る者もあれば、この街道をどこまでもまっすぐ行けばよいのだ、と教えてくれて、路銀(ろぎん)や食い物をめぐんでくれる者もあった。
富助は、京都の町へ行こうとしたのではなかった。ただ、丹波町という所、自分を捨てた女の生まれ育った所へ行ってみようと思ったのだった。その町へ行きつくことができたとしても、勿論、その女房だった女に会え、女が自分のもとに戻るはずもなかった。それでも富助は行こうとしていた。女房の町の方へ、そして母親の村の方へ。……ともかくも、心の中に、自分の向かうべき「方角」を持ちうる限り、富助は、どんなに飢え、疲れても、耐えて歩き続けることができたのだ。
それは、勿論、希望とさえ呼べない幻想、非論理的な情念であった。しかし、他者には理解できぬそうした情念につき動かされ、導かれて、富助は、子供の位牌をふところに、ひたすらに歩き続けた。
富助が、桑畑の両側に続く街道を歩き続けて、綾部の町に入った時、突然に悪寒に襲われ、高熱を発して、富助はそのまま道路わきの桑畑の中に倒れ込み、意識が混濁した。二日ほど雨に濡れ、その濡れた身体のままで道端の神社の隅で眠ったりしてきて、遂に肺炎を起こしたのだった。
現実(うつつ)と幻(まぼろし)の境の中で、富助は夢を見ていた。……
魚の臭いのしみ込んだ母親の体温を感じながら、富助は母親とひとつ布団の中で寝ていた。そして、その母親は、不意に起きだして、出ていこうとした。どこへ行く、連れていってくれ、と富助は起き上がって叫ぼうとしたが、金縛(かなしば)りにあったように動けず、ただ去っていく母親の後姿に向かって、連れて行ってくれ、と声なく叫んでいた。……
そして今度は富助は、河原で遊んでいて、足をすべらせて水に落ち、流されていた。必死にもがいても、自分は水の中にあって、水を通して青い空が見えるだけだった。そして最後の力で手をぱたつかせてほんの一瞬、浮かび上がった時、自分を助けようとして自分の名を呼びながら河原を走ってくる自分の小さな子供の姿が見えた。来るな、危ない! と声にならない声で叫び、子供に向かって手を差し伸べながら、富助は沈んだ。……
その手が、誰かに握りしめられた。その手の冷たさに、富助の意識がわずかに戻った。富助は、どこかの部屋にいた。自分の手を握ってさすりながら、のぞき込んでいる髪の白い女の姿が見えたような気がしたが、再び富助の意識は泥のように混濁した。
二夜(ふたや)を昏蒙(こんもう)のうちに過ごして、富助の生命力は病いに打ち勝ち、やがて熱が引いた。
桑畑で倒れていた富助を見つけて、人々に手伝ってもらって戸板に乗せて自分の家に運び、医者を呼び、介抱し続けてくれたのは、綾部の在の百姓の老婆だった。この、しのという名の老婆の家で、富助は、ぼろぼろになっていた身体と心とを癒す時を与えられた。
しのには、富助とほぼ同じ歳まわりの息子がいたが、日露戦争に取られて戦死してしまっていた。残された嫁と、孫娘との、女ばかりの三人暮らしだった。孫娘は、早くに生まれたので、そろそろ年頃になっていて、近い内に、同じ町の、ある宗教団体の青年部の男と一緒になることになっていた。
綾部は、養蚕(ようさん)と機織(はたおり)の町で、しのの家も、蚕の飼育や機織で忙しかった。
起き上がれるようになると富助は、桑を刈り、蚕を養う仕事を手伝い、また、わずかばかりの畑や田の仕事をした。何はなくとも三度の飯を食わせてもらい、そして働く場を与えられたことで、富助は幸せだった。
部落の者たちも、この余所者(よそもの)に対して、不思議な暖かさをもって接してくれた。富助は、しのの家で、この年の冬を迎えた。
ある日、富助は、しのの孫娘に連れられて、当時この地を拠点に、広く信者を得つつあった新興の教団の集いに行った。
集うている人々は、みんな貧しげな人ばかりであり、顔見知りの部落の人たちも多くいた。
この教団の開祖となった女性は、綾部で夫をなくし、困窮のうちに八人の子供を育てていたが、ある日、神がかりとなって、教えを説き始めたのだということだった。今は、その実の子供ではなく、養子となった男の教祖によって教えが説かれていた。
いろいろの神々の名の出てくるその話には、よくわからない所もあったが、ただ、恰幅(かっぷく)の良い教祖の、熱情ある、しかし、やわらかな話しぶりには、人の心を魅(ひ)きつけるものがあったし、とりわけ、その話の中にあった、
「今、この世の苦しみのすべてが、世の改まることの始まりを意味しているのだ。信じ合い、助け合い、祈る心を絆として、共に働き、共に生きていこうぞ。すべての者は、神仏のふところの中では等しき子らであり、きょうだいであり、家族なのだ」
という言葉には、枯れ果てていた富助の心を潤すものがあったし、何よりも、この地で拾われてからのち、しのの家族を初めとして、触れあう多くの人々から与えられた優しさ、自分を旧知の者のように扱ってくれた暖かさの中に、この教えが実践の道として生きていることがしみじみと思われて、富助は納得し、うれしかった。
あらためて、自分が過ごさせてもらってきた部落の生活を考えても、たしかにみんなが互いの貧しさをむしろ積極的に共有し、あたかもひとつの大家族のように、助け合って働き、助け合って生きていることが実感された。
この日から、富助は、自閉的であった自分の心の殻を自ら脱ぎ捨てて、しのたちに対して真底(しんそこ)から心を開いた。何もかも身構えることなくさらけだしてみれば、怯えの残渣(ざんさ)も残りなく消え、移りゆく自然の相に合一して生きる、力みも、てらいもない生活がそこにあった。
しのは、富助が自ら語るまで、富助の過去については何ひとつ聞きただしはしなかった。
そして、富助が自ら語り始めると、静かにそれに耳を傾けながら、その語り口の中に見える富助のかたくなな恨みや怒り、過剰で不毛な自己苛責(かしゃく)などについて、少しづつ正し、洗う手助けをした。
その冬の日々、すきま風の吹きこむ、しのの家の、囲炉裏ばたで、しのたちと語らいながら、富助の心は暖かかった。
「お前がどこから来て、どこへ行こうとしているのかと、わしは聞かないできた。それはただ身体のことでしかなく、ある意味では、どうでもいいことだったからだ。けれども、どこから来て、どこへ行くのか、ということを、心のこととして考えるのであれば、これは、今生(こんじょう)の一大事だ。……今は、こうして一緒に生きているのがわかる。これでいい。他人だ、身内だ、とこだわる愚かな者もいる。しかし、夫婦は他人の始まりと言うが、本当は、その他人である男と女が夫婦となって結ばれて、家族と呼ばれる濃い血の絆を作っていく、このことの方に考えなければならない大事なことがあるのだ。他人こそが大事だ。他人が身内の始まりだ。この娘(こ)も年が明ければすぐに嫁ぐ。そして他人と結ばれて、家族を作っていく。そうしてみれば、結局は、他人も身内もない。あるのはただ、人間だけだ。教祖様の言われるように、みんなきょうだいであり、家族なのだ」
と、しのは言った。しかしまた、そんな家族であればあるだけになお、しのの孫娘が年が明けてまもなくに嫁いで出てみれば、残されたしのと、嫁との、女二人の家に暮らし続けるには、それなりの決心、心のけじめが富助には求められていた。それは、後家となっている嫁と、夫婦として縁を直すかどうかということだった。
富助は逃げた女房に、もはや未練はなかったが、やはり丹波の町に一度は行って、女の消息をたずね、できれば意志を確かめきって自分の心をすっきりさせたかった。自分自身の中に、しのの家の嫁と夫婦になることを自然と思い、またそう求めてきてもいる心のあることを自覚すればするほどに、あいまいに、ずるずると、そうなってはいけないという思いが強くなった。富助は、春になったら丹波の町へ行ってくる、それまでのわがままを許してくれと言って、しのの家を出て、教壇の本部に寝泊まりする所をもらって、雑用係となった。
だが、この二月のある日、突如、雪を蹴って、数百名の警官隊が、教団を襲い、教主夫妻以下、本部にいた者たちのほとんどすべてと、町中(まちなか)の主だった幹部たちとを逮捕した。
富助はこの時、裏手で薪割りをしていたが、突然襲ってきた一人の警官に、いきなりサーベルで腿を刺されてカッとなり、手にしていた薪でその警官を殴り倒して、裏山へ逃げ込んだ。そして次の日の未明に、しのの家の裏戸を叩いた。二人は驚いたが、富助が警官を殴り倒したと聞くと、死んだ警官がいるとは聞かないが、追っ手のかからぬうちに逃げろと言い、握り飯やら、あるだけの銭やら、傷薬やらを風呂敷に包んでくれた。それを背にして富助は、綾部の町を離れた。
もはや、丹波の町の女のことはどうでもよく、雪のある山あいの道を抜けるようにして再び日本海側に出て、汽車に乗ったが、富山の手前でしのたちからめぐんでもらった金は切れてしまった。富助は、汽車を降りて海に向かって歩き、結局、新湊(しんみなと)の漁港に着いた。富助は、ここで、以前博多で魚屋をしていたことを買ってくれる者がいて、暖かくなるまでの何ケ月間かを、魚市場の卸問屋で働かせてもらうことができた。
春になると富助は、引きとめる者たちに礼を言って、再び、北への旅に出た。北陸線、信越線と乗り継いで、新津(にいつ)で降り、また歩きだした。津軽……遥かなる津軽の地まで、あとはまた乞食をし、草の根を噛みながらでも歩いて行くつもりなのだった。
そしてその道すがら、水原の町の農道で、飢えと渇きのために動けなくなり、横になっているとこ草に埋もれて横になっているところを、あの天理教の老婆に拾われたのだった。この老婆に助けられなければ、富助の旅は更に続いたのかもしれないし、あるいはまた富助の生命もここで尽きたかもしれない。そして、富助という人間も、その物語も、佐々木の家とはかかわりえぬままに終わったのかもしれない。
しかし、富助は、助けてくれたその老婆のもとでそのまま暮らした。この人は、置き去りにしてきた綾部のしのと、面影や心のありようにおいて、似ている人だった、と富助は新松に語った。
富助は、母親に仕えるようにこの老婆に仕えた。老婆とともに小さい田畑を耕し、町の隅にある小さい天理教の教会へも一緒に行った。半年ほどして、老婆は階段を踏みはずして落ち、大腿骨の根元を骨折した。医者にも見せ、安静もとったが、骨はうまくつかず、結局ほとんど寝たきりとなり、富助が畑で取った野菜を市で売ったりして小銭を得て、老婆に食べさせ、介護していた。
そうして、ひっそりと、一年あまりを暮らしてきていたあの大正十二年の九月の夜、呼び出されて外に出たところを、無頼(ぶらい)の者たちにやにわに殴打され、更に逃げるのを追われて、佐々木の家の前で斬られ、川に蹴込まれたのだった。
考えてみれば、何と多くの人たちに助けられ、助けられして生きてきたものか。……そのどれもが、見返りを求めない情けだった。御寮(ごりょう)さんや、大旦那さまのいつも申される、返せぬ恩、とはこのことだ。しかし今、修一郎坊ちゃまたちを預けて下されて、好きに育ててみよ、と言うて下さる。何というありがたいことか。返せぬ恩は、めぐり会うた人への愛情で返せとも教えて頂いた。好きに育ててみよ、と言われても、頭も何もないわしじゃ、ただ、我が子であればと思うて慈(いつく)しんで育てることしかできぬ。女房への未練は、綾部で断ち切ることができた。母親への未練は、あの婆様とともに暮らすことで消えた。今、最後まで残っていた、子供への罪を、少しでも償う機会を与えて頂いたことになる。わしは、幸せ者じゃ。……と富助は新松に言った。
おりょうは、直蔵に、富助の言う綾部の教団とは、新聞に出ていた、大本教のことか、と尋ねた。直蔵は、そうだ、と答えた。おりょうが更に、新聞ではたしか、「不敬罪」でどうこうとあったように思うが、と言うと、直蔵は、めずらしく語気を荒らげて言った。あの人たちは、ただ、「我らが人の子ならば天皇も人の子、天皇が神の子ならば我らもまた神の子」と言っただけだ、と。……
直蔵にしてみれば、それで「不敬罪」とは理不尽であり、おりょうもまたそう思ったが、この時代の中では、まさにこうした言辞こそが「不敬罪」そのものなのであった。
直蔵が、どこで大本教の教義や講話に触れたのかは誰にもわからなかった。そして、富助に出会う以前から、すでに大本教に対しても、陰ながらの時折の寄進をしていたことも、おしむの他は誰も知らなかった。直蔵は、今初めて聞く大本教の受難の日の模様に心を痛めた。
農民、労働者の困窮、とりわけて「女工哀史」に見られるような女性労働者の悲惨が続き、そして、反抗するすべての者たちへの抑圧、弾圧、そして殺害の続く時代であった。直蔵は、やり場のない憤りに心を荒(すさ)ませていた。自分自身の、ひとりの人間としての努力、いわばひとりの「種蒔く者」としての自分の努力など、日ごとに空しい営為(えいい)であるように思われていく世の流れに対して、やりきれぬ怒りと、自分の無力さを感じて生きていた。
いくら、衣食住を与えているとは言っても、給金もなしではと、おりょうは言い、富助に対して初めは十円、桂子が生まれたあとは二十円の小遣いを徳次郎に頼んで出してもらった。とんでもないことで、と富助は、動く方の手を振って受け取ろうとはしなかったが、せっかくの御寮(ごりょう)さんの気持だ、頂くものだ、と新松が口を添えて、受け取らせていた。
富助は、それで、子供たちにちょっとした玩具を買ってやったり、富助に老婆が残していった家の小さな修繕をしたりしていた。
富助は、三人の子を差別なく愛していたが、自分が一番最初に佐々木の家に住まわせてもらう絆となった修一郎のことを、心の中では特別の深みに置いていた。
坊、坊、と言って可愛がったが、しかし、甘やかし過ぎもせず、わがままが一線を越すと、厳しく叱った。初めのうち修一郎は、泣き泣き母のおりょうの所へ庇護を求めて行ったが、おりょうは、富助が叱る時は叱るべき理由がきちんとあるのを知っていて、決して修一郎をいたずらになだめて叱った富助の存在を無にするようなことはしなかったし、逆に、どうして叱られたのかと問い質(ただ)して、改めて叱り直したりした。そんな時、富助は身の置き所がないようにおろおろしていたが、修一郎は、そしてやがて修二郎もまた、こうして、甘えての告げ口には何の意味もなく、むしろ自分の非をたなに上げて告げ口をすることは、卑怯なことなのだということを、学んでいった。
桂子が生まれた頃には、富助は、もうどもることもなく、ごく普通に誰とでも話せるようになっていた。言葉数は少なかったが、話すべきことはきちんと話し、特に子供たちと遊んでいる時は、のびのびと話していた。
修一郎と修二郎は、凧(たこ)が好きだった。ある時、庭で、新しい凧を買ってくれと富助にせがんでいるのが聞こえた。前のは破れているし、それに、ひごも折れている、と修一郎が言っていた。
いけませんよ、富助にねだっては、買って欲しいものは私に言いなさい、とおりょうは縁側に出ていきかけて、ふと、富助の言い聞かせている声が聞こえて、足をとめた。
富助は、言っていた、何でも直せるものは直して使ってやらなくては可哀相だ、どんなものにでも生命があり、心がある、破れた凧にもだ、と。……
修一郎たちは、仕方なく、その日は半日がかりで凧の修理をした。糊は、台所の女たちに煮てもらったが、竹ひごを削るのは、修一郎にやらせた。できない、と言うと、やってもみないでできないと言ってはいけないし、また、やらなければ、いつまでもできるようにはならない、と富助は言った。まだ自分は小さい子供だから、できないんだ、と修一郎が言うと、子供ではあるが決してもう小さくはない、弟も株もいて、もうすぐ学校にも行くことになっている子は、十分に大きいのだ、と富助は言った。ひごなんか、買えばいいのに、と修一郎が言うと、富助は、何でも買えばいいという考え方はまちがっている。この世の中には、いくらお金があっても買えないものは沢山あるのだ、と言った。
どこまでも引かない富助に負けて、修一郎は、新松に借りた「肥後守(ひごのかみ)」のナイフを使って、無器用に竹ひごを削った。二ヶ所ばかり指を小さく切ったが、どうせ母に甘えていっても、励まされるぐらいがおちなので、なめてがまんをした。
障子紙を貼って、帳場から借りた墨をすって、修一郎と修二郎は、ひどくにじんだ河童の絵を描いた。そして乾くのを待ちかねるようにして、裏へ行って上げた。よろめきながらも凧は、蔵の屋根よりも高く上がった。子供たちは喚声を上げ、富助と新松は、にこにこしてそれを見ていた。子供たちの喚声を遠く聞きながら、おりょうもうれしかった。
その晩は、優しく母に傷の手当をしてもらいながら、修一郎たちは、今日、自分たちが為しとげた大事業の報告を得意気にし、ほうびに新松からもらったと言って「肥後守」を見せた。
おりょうは微笑みながら聞いていた。そして子供たちのうしろに、黒子(くろこ)のようにひっそりと控えている富助と目を合わせた。口に出しては言わなかったが、心の中でおりょうは言っていた。……ありがとう、子供たちをお願いしますね。……夜の癒しの仕事は母たる私のつとめですが、昼の導きと鍛えの仕事はあなたに託します。私はあなたを信じます、と。……
そしてふと、本当はそのつとめを負うべき子供たちの父、徳次郎の、子供への情愛があるのかないのかさえもわかりかねる、仮面めいた無表情を思い浮かべて、眉(まゆ)をくもらせた。
桂子の生まれた大正十五年の暮れもおしつまった十二月二十五日、大正天皇は没した。短い大正の世は終わり、年号は昭和と改まり、若い皇太子が天皇となった。
しかし、新しい時代の希望の光はどこにも見えてこず、暗い軍靴(ぐんか)の足音が、いよいよ重く大陸に轟いていた。
国内では、天皇即位の礼に前後して、数次にわたる左翼政党員の大量検挙が行われ、次々に結成される労働者、農民の政党は、時を置かずして解散させられたり、分裂に導かれたりした。特別高等警察、いわゆる「特高」の、どす黒い視線が、人々の心の中までも睨(ね)めまわし始めていた。
どちらかといえば、むしろ体制によって小市民的な自己の日々の安定を守られている「階級」であるはずの直蔵は、この時代の流れが、実は階級や階層の如何を問わず、人間性の抑圧と、遂には、人問の生命そのものの大量の破壊へと向かっていることを予感し、怖れと焦燥にかられていた。
しかし直蔵は、多くの者の勧めや要請にもかかわらず、決して政治の世界に足を踏み入れなかった。妻のおしむの実家筋からは、町会議員が出たり、町長が出たりしていたが、直蔵は常に、権力の匂いのするものからは距離を置いていた。
「権力を持った瞬間から、人は権力に奉仕する下僕(しもべ)となるのだ」
と直蔵は思っていた。しかしまた、そのまさに権力が、人間の背骨と精神とをねじまげにかかってきている今、ただ権力を蔑視し、権力に抑圧されている人々に陰ながらの援助などをしてみていても、それは自分の良心に対する言い訳に過ぎないことも、よく知っていた。
しかし、それを突破する道を、直蔵は見いだすことができなかった。自らの精神の「老い」を感じながら直蔵は、ただ、自分を中心にまわっている日常の小さな世界を、せめて安からしめようと空しい努力を続けていた。
その直蔵の担っている荷を、本来ならばとうに引き受けて、大黒柱になってくれていてよかったはずの徳次郎は、しかしこの時、むしろその心の病いを深めていた。
もはや、ただ寡黙で暗い、というだけではなく、何かしらもっと悲惨な存在、日ごとに人間としての残された感情のすべてを崩れさせ、朽ちさせていきつつある存在の如くに見えた。直蔵は、なおも何とかしようと苛立って引っ張りまわし、おりょうは、自分の与えうるすべてを与え尽くしながら、なおも与えようとし、励まそうとしていた。だが、すべての努力は空しく、むしろ徳次郎を追いつめていくことにしかならなかった。
この時、徳次郎の精神の最深部で、「私は、病気だ!助けてくれ!」
と、声にならない声が叫んでいた。……しかし、その声は、遂に、口からは発せられず、誰の耳にも届かなかった。
ある冬の朝、おりょうが目覚めると、徳次郎の姿が隣りになかった。今日は、めずらしく早くに目覚めたのかと、さして気にもせず、身づくろいをして台所へ行き、朝食の支度をしている者たちに、徳次郎を見なかったかと問うたが、誰も見ていないという返事だった。
急に不安になったおりょうは、一夜のうちに更に降り積もった雪をかきわけるようにして、庭や、裏の仕込み場に行ってみたりしたが、どこにも徳次郎の姿はなかった。
走りまわっているおりょうの只事でない様子に、起きてきた直蔵は、何を騒いでいるのかと問い、徳次郎の姿が見えないと聞くと、一瞬考えに沈んだが、それから、見る見るうちに顔を蒼白にした。住み込みの若い象たちをたたき起こすと、すべての蔵の中を見てまわれ、味噌樽の中もだ、と命じた。
父親の言葉に含まれている意味を悟って、やはり蒼白になったおりょうは、富助に、子供たちを起こしてすぐに、川下(かわしも)のおしむの実家へ一時行くように、と言った。
しかし、そのひまもなく、すぐに徳次郎は見つかった。川向うの前蔵の中で、徳次郎は首を括(くく)って死んでいた。死後、相当の時間がたっていた上に、厳寒の夜の中で死体は硬直しきっていて、まるで人間の形をした丸太のようであった。
引き下された夫の頭をかき抱いて、おりょうは泣き叫んだ、お前様、どうしてですか、どうしてですか、と。そして、何がそんなに淋しかったのですか、と。……
直蔵はただ、そのこぶしで、味暗樽を叩きながら、嗚咽(おえつ)していた。
知らせを聞いて、徳次郎の実家の者たちも、深い雪道の中を駆けつけてきた。直蔵たちは手をついて頭を下げたが、実際のところ、どちらが詫びるべき問題とも言いかねた。
親方の新松も仰天して駆けつけてきたが、家内中の者が錯乱して動けないでいるのを見ると、気をふるい立たせて、男たち、女たちに、次々と指図を与え始めた。何であれ、役割をもらって動く方に救いがあった。
三人の子供たちは、遺体を見ることは許されず、何が起こったのか理解できないままに、泣き続ける母親の姿が切なくて、おりょうにすがって一緒に泣きじゃくり、離れようとしなかったが、やがて、おしむに言い聞かされ、富助に連れられて、おしむの実家に預けられていった。
何もかも、信じられない悪い夢のようだった。心の整理も、受容もないままに、新松の指図に従ってどんどん葬儀の手順は進められ、徳次郎は、茶毘(だび)に付された。
子供たちの手を握りながら、今、ごうごうと燃え尽きていく夫の身を思い、その現(うつ)し身との間で重ねてきた夫婦の交わりを思い返しつつ、おりょうは、私はやはりこの人を愛していたのだ、と思っていた。
祝言の日に、初めて会わされた男に、ただ初めは恐怖と苦痛をもって身を与えながら、やはり子を為しつつ重ねてきた夫婦としての月日の中で、この人をこの世で無くてはならぬ人としてきていたのだ、と思っていた。そうでなくて、どうして今、この私の心にぽっかりとあいた空洞の大きさを説明できようか、と。
そしてやがて、ふと思った。なぜ私は、やはり愛していたのだ、などと自分に言って聞かせているのだろうか、と。愛してきた、と言う私はなぜこの人を救ってやれなかったのだろうか、この人の苦しみの源を遂に理解しえず、癒してやれなかった自分の愛とは何だろうか、と。そして、この人が死へ向かって跳び蹴ったその瞬間にも、そしてこの人の身が凍え切っていくその時間にも、痴呆のように眠りこけていた私の愛とは何だろうか、と。
問うても問うても、答えても答えても、おりょうの心のひび割れは深まっていくばかりだった。
もういつしか涙は洞れていた。
不意におりょうは思った。火葬というのは、いいものだな、と。それは、生き残った者の愛執をも一緒に燃やし、乾いた灰にしてくれる。……私の燃え尽きた悲しみの灰など、きっと、小さな骨壷に納まってしまうようなものなのだ、と。
昭和四年という年も、まもなく暮れようとしている冬の日だった。
この冬も、例年の如く、雪はしんしんと降り積もり、人々を埋めた。埋められながら人々は、それぞれに、それぞれの思いの中で生きていた。
四十九日の法要を営み、納骨をすませてからは、直蔵はもはや、徳次郎のことを語らなかった。徳次郎のことは、自分の生涯にとって、慙愧(ざんき)に堪えない痛恨事(つうこんじ)であった。自分の判断のあいまいさによって始まった縁組であった。そのために、徳次郎というひとつの生命を失い、そのために、後にも先にもたったひとりきりの娘に、こんな人生を強いてしまったのだった。そしてまた、自分が物心(ものごころ)ついてから今日まで、学び、考え、身につけてきたと思っていた精神的な力の何ひとつもが、徳次郎を救うものとなりえなかったことに、深い挫折感と虚無感とを感じていた。直蔵は、仏間(ぶつま)から離れた。彼は、そこで徳次郎の霊に会うことができなかった。もはや、生者とも死者とも、何ひとつ語るものを持ちえぬ自分であると感じていた。
そして、おりょうは、実は、直蔵が案ずるよりずっと早く、自分を立て直していた。夫の身体を灰にした日、おりょうは自らの愛執もまた、灰にしていた。そして、おりょうは、認めていた、自分にはわからないということを。……徳次郎という人が、自分に与えられた真の理由も、また、それがこうして、突然に奪い去られた理由も、そのすべてのことの真の意味は、自分にはわからないところにある、と認めていた。
直蔵に責任はない、と思っていた。直蔵の判断、自分の努力、それらの力の及びきれない「定め」のようなものがあり、今、その「定め」は三人の子を自分に残し、自分を寡婦にした。これをただ受けとめ切って、新しく生きていくしかないのだと思い定め、むしろ、父、直蔵のことを案じていた。父様(ととさま)、もう自分を責めて苦しむのはやめて下さい、と。
おしむも新松も、心に傷を負ってはいたが、二人にとっての心配は、ひたすらに直蔵とおりょうのことであり、徳次郎の死そのものに対しての悲しみは、奇妙に、心がとがめるほど薄かった。むしろ、長年にわたって重苦しく歪んでいた佐々木の家の中の精神的空間が、不意にまた澄み、悲しくはあっても、悲しみが悲しみとしてまっすぐに見えるようになっていることに気づいていた。
子供たちもまた、情愛においてはもともと縁の薄かった父親の「不在」に急速に順応していった。子供たちは、母、おりょうの顔をじっと見ていた。そして、おりょうが、からりとしているのを感じると、安心して、自分たちの心もからりとさせていった。
富助は、一番の部外者でありながら、なぜか、複雑な思いを抱き続けた。佐々木の一族の人々、ひとりひとりの思いが、富助にはよく見えた。
自分のような人間が、いくたびも死の淵から連れ戻されもすれば、徳次郎のように、一瞬の跳躍で死に受け入れられる人もいて、その条理のわからないことに、富助は悩んだ。
直蔵の慙愧(ざんき)も痛ましく、おりょうの諦念(ていねん)も痛ましく、修一郎たちのあどけなさも痛ましかった。人間の明日はわからない、……その強い無常の思いに促されて富助は、ある決心をした。
直蔵の所へ直接話しにくるなどということはついぞなかった富助が、ある日、思いつめたような顔をしてやってきて、直蔵の前に手をついて、お話しがございます、と言った。私めは、ずっとこちらさまに置いて頂いてよろしいのでございましょうか、と富助は問うた。勿論だ、いつまででもおるがよい、と直蔵は答えた。
富助は、それで思い切れたが、ひとつ願いことがある、亡くなった婆様が自分にと言って残していってくれたあの家と小さい田畑を、買い上げてもらえないか、と言った。直蔵は、突然の思いもよらぬ話に驚いたが、買うのは勿論がまわないが、急にどうしたのか、何か思うところがあってのことか、と問うた。
富助には、自分のこの間の心の推移をかならずしもうまくは説明できなかったが、おおよその話の筋道は、こうであった。――この家にずっと置いて頂けるということであれば、自分は何の財産もいらない。できれば、自分の生きているうちに、多少のお金にして頂いて、綾部の世話になった人々に送ってやりたいと思う。世話になりながら、自分は逃げだして、あの人たちを置き去りにしてきた。その恩の何分の一がでも、そんな形で返せればと思う。そしてできれば、買って頂いたものを、修一郎坊ちゃまの名義にして頂ければ、うれしいと思う。そうすれば、私にもしものことがあっても、坊ちゃまが、これは富助が
残していった家だ、と思いだして下さる縁(よすが)になるような気がする。
直蔵はしばらく考えていたが、やがて、わかった、お前の望む通りにしよう、と答えた。富助の立ったあと、おしむは、あれはいったい何であんな気になったんでしょう、と言ったが、直蔵は、いや、富助は、自分の歩むべき道を歩んでいるのだ、と言った。
直蔵は、本当にその家を買ってやり、大工や左官を入れて、痛んでいる所を直し、また長く住めるようにした。
そして、富助は、受け取った金を、綾部の教団と、しのの家に送った。
新盆のその夏は、淋しい夏であったが、おりょうの早い立ち直りと、富助の不思議な満足感がみんなに感染して、救いとなっていた。
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