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第二章 流転
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私の父、松井史郎は、明治四十三年、岐阜県の恵那郡長島町に生まれた。
松井家の四男坊として生まれたが、下に妹がひとりあり、合わせて五人きょうだいであった。しかし、上の三人の男子は、病気や事故で早くに亡くなり、史郎は若くして、実質的な跡継ぎとなった。
松井家というものが、どんな家風の家であり、それが父、史郎の血と心の中に、どんなものを残していったのか、また、現在は恵那市長島町となっているこの町が、どんな地理的および精神的風土を持つ町であったのか、私にはよくわからない。いや、よくわからないというよりは、全くわからないと言うべきかもしれない。今、父の生きてきた道すじを、私なりにたどり直そうとしてみる時、実の、今なお健在な父の、故郷のことも、生い立ちのことも、そして、血において、縁において、つながっているはずの人たちのことも、具体的には何ひとつ知らないに等しいということ、少なくとも、父から岐阜の世界のことを聞いたことは一度としてなかったということの異様さに、あらためて自ら衝撃を受けるのである。
父の側の世界は、単に縁遠かったというのではなく禁断の、封印された世界として、私たちには遂に見えぬままに終わろうとしている。今後ともに、それが開かれ、見えてくる時があろうとも思えない。父の生家はもはや跡形(あとかた)もないのである。家のあった場所すらもはや不明なのである。
松井家という、父が誇らしげに言うには、代々、庄屋をする家柄であったという家と、そこで生きた代々の人々の足跡が、その地にはもはや何も残っていず、墓の在所さえもが不明になりつつある、というこの絶対的な「消滅」は、いったい何ごとなのだろうか。
それは、時の流れの中で、人の不在によって、単に記憶も記録も薄れていったというようなものではなく、もっと積極的に、何ものかが、あえてすべてを消し去り、忘却の中に葬り去るべく意志した結果であるかのようにさえ見える。
人は、たしかに、しばしば、故郷(ふるさと)を捨てもする。けれども、故郷の方は、そう簡単には、人を捨ててはくれないものだ。それは、その地で生きた歳月の中で縁を結んだ人々の密かな呼びかけを通して、あるいは時には、思いもよらぬ折に直接に私たちの心に谺(こだま)する呼び声によって、私たちを故郷へと振り向かせる。
「帰っておいで……」
と。
そして、それに促されてある人は帰り行き、ある人は、それと格闘して、あらためて帰るまいと決意しなおす。しかし、帰らない人々の心の中にも、故郷は、やはり存在し続けるし、故郷の中にも、その人たちはなお存在し続けるものなのだ。
今、父、史郎という人の心の中に、故郷がどんな谺を響かせているのかは、私にはわからない。又当のその人に問うてみても、わからないのだ。
そして、遂に、私は思うようになってしまった。――父は、ただ故郷を「捨てた」のではなく、故郷を多分「殺した」のだと。そして故郷の地もまた、父につながるすべてのものを抹殺することによって、それに報いたのだ、と。
岐阜の地を、禁断の地として私たちに封印し続けてきたのは誰であったのか。父は、それは、おりょうであったと言うであろう。自分は、おりょうのためにこそ、岐阜の地を捨て、封印せざるをえなかったのだ、と。しかし私は、それは違う、と言わなければならない。
岐阜の地について私の知ることのほとんどすべては、まさに、その母、おりょうによって語られたことであった。父ではなく、母こそが、父の故郷について語り続けてきたのである。たとえどんなに帰ることなしと思い定めた地であろうとも、なぜ父は、故郷の山河について語り、その地に住む人々、父の子である私たちが切れぬ縁で結ばれているはずの人々について語ることがなかったのだろうか。
語りたくても語ることが許されなかったのだ、と再び父は言うであろう。誰が許さなかったのかと問えば、おりょうが、と言うであろう。私は、それも違う、とやはり言わなければならない。
たしかに母は、父と一緒になってから、苦しみ多い人生を生き、父の縁を通してからみついてくる岐阜の地の人々によって悲しみも与えられ、また、多くのもの奪われ続けもした。今、母に、ひと言、岐阜の地を好きか嫌いかと問うことができれば、嫌いだ、と答えるであろう。
にもかかわらず、母は、逃げることなくまっすぐに岐阜の人々と交わってきたし、ある歳月を岐阜の地で暮らしもした。(妹は、岐阜で生まれている。)そして、ある人々をは懐しみ、恩ある人と語り、岐阜の町並み、岐阜の山や川、父の生家の様子、そして父の母親、私たちの父方の祖母なる人の没していく日々のことを、感慨を込めて昨日(きのう)のことのように語ってくれたのは、まさに母なのであった。
善しを善しとし、悪しを悪しとしながらも、その折、その折の、自分の人間としての心の限界への反省をもまじえながら、母は、素直に、岐阜の地と岐阜の人々について語ってきた。
しかし父は、それでもやはり、自分の故郷は、母によって禁じられた地となったのだと言うであろう。そしてここに至って、私もまた、ある深い意味で、そうだったのかもしれない、と思う。
それは、母の魂が、父、史郎によって与えられ続けた汚辱に対して、常に、否、と叫び続けたことにあり、父、史郎が、それに対して対峙(たいじ)すべき己が正当性を持ちえなかったことにある。
その、目にみえぬ、魂の向かい合いにおいて、父は常に母に対する加害者であり、簒奪者(さんだつしゃ)であり続けながら、また常に敗北者であり続けた。加害者であり、かつ、敗北者であった、というこのあり方の継続こそが、父が沈黙せざるをえなかった真の理由であると私は思う。
自らの生に、秘匿(ひとく)しなければならない部分を絶えず作り続けたのは、他ならぬ、父自身であった。そして、その秘匿する部分の重い腐朽(ふきゅう)によって、結局父は、自らの生の全体を腐朽させることになってしまったのではないか、と私は思う。
そしてそれを不幸と呼ぶならば、その不幸を悲しみ続け、その不幸をそのたびごとに乗り越える努力をしてきたのは、母であって、遂に最後まで、父ではなかったのである。
「松井の家は、代々庄屋をつとめた由緒ある家柄で、五輪の塔の墓がニケ所にあることでもそれがしのばれ、分家も出した富農であった」
と、父は、母に出会った頃に言っていたという。
しかし、それが本当だったとしても、なぜかしらず零落し、現実には史郎の幼時は貧困のうちにあったと思われる。
のちに、母が、何ゆえにあなたの言うそれだけの身代(しんだい)が失われたのか、と問うと、史郎は、自分の父親が遊び人だったためである、……酒は飲む、鉄砲は撃つ、釣りや碁打ちで明け暮れるで、結局身代をつぶしてしまったのだ、と答えたという。
しかし、わずか一代で、はたしてそれだけの身代が、そんな遊びごときで跡形もなく消えてしまうものなのだろうか、物は消えても人々の思い出や敬意は残るものなのではないだろうか、……そもそも、お義母(かあ)さんを葬りにいった時も、どこにも「五輪の塔」などはなかった、山の上の粗末な墓だった、と母は不思議がっていた。
ともあれ、事の真偽はさておき、父、史郎が、母に語ったその生い立ちとは、次のようなものであった。……
史郎が物心ついた頃には、すでに貧乏な家であった。長ずるにつれて貧乏になっていく過程を見てきたというのではない。
小学校に上がると、父親が畑で作った茄子(なす)を毎朝町に売りにいき、五十銭、六十銭という銭を得てきては、父親にそれを渡し、それから学校に行った。その銭は、いつも父親の酒代になってしまい、母親が蚕のまゆを毎日煮て、それから糸を紡(つむ)ぎ、問屋へ持っていって銭を得て、何とか皆に食べさせていた。
史郎の祖父や祖母についてはいっそうはっきりしないが、何でも史郎の母方の祖父が、一里あまり離れた、木曾川の河川敷に掘っ立て小屋のようなものを建てて住んでおり、小学校三年ばかりの時にひそかに母親に場所を覚えさせるために連れられて行かれた。それ以後は、週末になるときまって、口やかましい父親の目を盗んで、母親の詰めた食べ物を持って、この祖父の所へ届けに行かされた。子供の足では、随分長く感じられたが、いつも言われる通りにした。
着物の裾(すそ)を、ほこりまみれにして、やっとたどりつくと、近所の人が見ていて、ああ、また松井の子供が来ている、と言って、同情して、握り飯をくれたり、黒砂糖のかけらをくれたりした。
父親は、酒が過ぎて中風になって身体が不自由になり、働き盛りの一番上の足もこれに前後して兵隊にとられて支那へ行き、生活はいっそう苦しくなったが、家庭の事情を考慮してくれて、この兄は一年ほどで内地に帰らせてもらえた。
やがて町に中学校ができたが、自分は貧乏なので行かないつもりでいた。しかし、母親が行くように勧め、大工だった長兄も、お前の中学校ぐらいは何としても俺が働いて出し、また妹も女学校ぐらいは出してやるから行けと言ったので、中学校に進んだ。
次兄は、盲腸を患って医者にかかったが、経過が悪くて死に、すぐ上の足も、早くに何かの病気で亡くなっていて、兄弟はふたりきりになり、長兄が、大工として働きながら、酒もタバコもやらずに頑張っていたが、生活は楽にならなかった。町の生活保護のようなものを受けるかという話も出たようだが、結局、受けずにきた。
そんな家の様子だったので、中学校には入ったが、自分の服はつぎはぎで、帽子も新しいのは買えず、近所の鉄道員の古い帽子をもらって、それに校章を付けてかぶっていた。
山へ入って芝を刈ってきて毎日の燃料にしたり、たにしを取ってきて煮て弁当のおかずにしたりし、朝は桑を摘んで、蚕を飼っている家に持っていき、目方で十銭、二十銭をもらって、それで帳面を買ったり、それを貯めて英語の辞書を買ったりした。
中学校ではテニス部に入っていたが、帰り道、本屋に立ち寄って、買えない参考書を毎日立ち読みをして勉強をした。
中学校を卒業する時になったら、長兄が、金がかからないで行ける上の学校もある、海軍や陸軍の学校もあるし、東亜同文書院いうのもある。お前はいわば次男坊だから、支那へでも行って働けと言い、東亜同文書院を受験し、いい成績で合格した。
公費負担の学校だとは言っても、県の負担が半分、自分の負担が半分、という学校で、この負担金が納められず、代議士になっている地主の家へ連れられていき、自分は外で待っていたのだ、身体の不自由な父親と兄が入っていって、何とか面倒をみてくれないかと頼んだそうだが、秘書に断られた。
特別奨学金の申請をして、それを受け取ったが、あと十円が足りなくて苦労をした。それでも何とか払って、上海の学校に行った。
東亜同文書院での生活は、学生だとは言っても、経済的には現地の水準からすれば高く日本人がはばをきかせていた時代だったので、大威張りで街を歩けた。女を買いにいく者もいた。
街に出ると、貧民の子供らが大勢寄ってきて、物をねだる。その子供らを一列に並ばせておいて、坂の上から硬貨をころがすと、みんなが、何か叫びながら競争でそれを追いかける。拾って飛び上がって喜ぶのもいれば、ころんで顔や膝を擦りむいて泣くのもいる。それがおかしくて、よく硬貨ころがしをやった。
東亜同文書院を出て郷里の岐阜に帰り、すぐに嫁をもらい、女の子がひとり生まれたが、この間に父親が亡くなった。
その後、昭和八年に、新潟市の商業学校の教師の口があり、母親と妻子を残して、単身で赴任した。赴任してまもなくに、自分を父親がわりになって育ててくれた長兄が、自分の嫁の実家の普請をしてやっていて屋根から落ち、打ち所が悪くて、自分が連絡を受けて行ったが死に際にも間に合わなかった。
兄の方が自分より遅れて結婚したのだが、結婚早々に死んでしまい、兄嫁は、そのまま実家に帰ってしまった。
こうして、自分は結局、松井家の跡取の形になってしまったが、母親と妻子を残したまま新潟に戻り、単身赴任を続けた。……
これが、私の知る、父の生い立ちのすべてである。
単なる年表、あるいは、履歴書、として見るのであれば、これで十分かもしれない。
しかし、年表、あるいは履歴書、という突き放した言い方になるほどに、そこには、父、史郎がしきりに強調したがる「悲しい生い立ち」の真の情念の流れは見えてこないし、人々、とりわけて、母や妻や子や妹や義姉という人々への愛情も見えてこない。ただ自分がいかに「苦学」をしたか、そして、いかに頭脳優秀であったか、という裏返しの自慢と、自分の人格にもし問題ありとするならぱ、それはこの「屈辱的な」人生を不当に強いられたことにこそ原因があるのだ、という自己弁護だけが妙に目立ってくるのであった。「貧窮を極めた」「屈辱的な」人生と、父、史郎はしきりに言う。しかし、この程度の貧しさは、何も当時としては珍しいことではないし、できる手伝いをして家計を助けるのも、庶民のごく普通の姿であった。母おりょうの子守りとなった人にしろ、小学校も半ばで学校にも行けなくなり、働きに出されたわけであるし、こんなことは当時は稀でも何でもない、いくらでもあったことである。
新しい帽子が買えなかった、服がつぎはぎであった、などとあえて言うことの方にこそ違和感がある。そんなことは、人々の全くありふれた日常であったし、私の子供時代にしたところで、古い帽子や、つぎはぎの服、擦り減った下駄などは、当たり前のことで、戦後の貧しい時期には、勿論たにしも食べたし、どじょう草でも何でも食べた。
にもかかわらず、史郎は、これを「屈辱的」であった、と表現する。ここにこそ、実は、こういう話で同情や尊敬を得られはずだという史郎の意図とは、まったく違った意味での真実が見えてくるのである。それは、言葉として言えば、「傲慢」と「虚栄」の心である。
この感情の強さのゆえにこそ、彼は、自分の現実を「不遇」と考え、屈辱と怒りを覚え、豊かな人々の豊かさはすべて理不尽に自分から奪われているもののように感じつつ、やがて、ある種の「野心」と「術策」を育てていったのである。
貧しさが、史郎の人生をゆがめたのではない。心の置き所の違いによって、貧しささえもが学ばせてくれる人間の深い情愛、形なきものの尊さというものを、彼は学ぶことなく生きてきた。
そして、これは本人の表現なのだが、「何が何でも、貧乏からは脱却し、世間を見返すことを人生の目標として生きてきた」のである。その必然の結果として、……史郎は、物欲と名誉欲、そして「世間(せけん)」というものが油断をすれば常に自分を貶(おとし)めようとするものであるという視点からくる、異様なまでの自己防衛反応とに従って、今日まで生きてきたのである。
私は、思う。父、史郎が、見返さなければならないような、どんなことを、父の言う「世間」が、父にしたと言うのか、と。
なるほど、門前払いを食らわせた代議士の秘書なるものに恨みを抱くというのなら、それなりの次元でわからぬでもない。しかし、それにしたところで、見方を変えれば、逆恨(さかうら)みのようなものである。
茄子(なす)を、桑を、きのこを、買ってくれた人々、握り飯や黒砂糖のかけらをめぐんでくれた人々もまた「世間」である。この人々に対して、何の恨む筋合いがあろう。その受ける優しさや恵みの場面ごとに、彼の自尊心が傷ついたとしても、その過剰な自尊心にこそ問題が含まれているのであって、長島町の人々に罪はないはずである。
母、兄、そして最後の一年は、女学校を出て下駄屋に奉公をしたという妹にまで援助をしてもらいながら行っていた上海の街で、中国人の子供たちの目の前に硬貨をころがして興じるようなことが、なぜできたのだろうか。……自らの「貧しさ」と「屈辱」を語りながら、同じように貧しい子供たちに対して彼の与えたものは、人間としての共感や思いやりではなく、異常な、加虐的な仕打ちであり、しかも彼はそれを間違いなく「楽しんだ」のである。何十年たっても、彼はそのことを「懐かしい」思い出として語った。
彼はまた、自分に「屈辱」を与えた貧困を憎み、その貧困を招いたのは自分の父親の遊びであったと言いながら、その父親のした遊びのすべてを自分自らしてきたし、タバコも吸わずに自分たちを養ってくれた兄、と言いながら、自分自らは、私たちの生まれたのちの貧しさの中でも、タバコも吸い続けた。
父、史郎の語っな言葉のすべてが空疎にしか聞こえず、「由緒ある家柄」も「悲しい生い立ち」も、すべてが幻、虚構の蜃気楼のようにしか見えない。
たったひとりの父の世界の真実が何も見えない。……それは、私が、父の生まれ育った故郷の山河をともに歩き、あるいは、父の先の妻子や母親と会い、そうやって父の世界を外在する世界としてではなく、私の内なる世界として取り込み直す作業をしてこなかったためもあるであろう。
しかし、父の生家は、もはや消滅して無く、父の母親は、昭和二十七年、私が小学校六年生の時にすでに亡くなっている。もうひとりの父の妻、そして、私にとっては異母姉にあたる、ひとりのきょうだいの、生死さえもがわからない。
私が、その地と、その人々とにめぐり会えるとしたら、それは、ただただ、父の心を通して、父の手に導かれてでしかなかったはずである。しかし父は、それをすることがなかった。
人は、現実に住み暮らした町よりも、想念の中で思い描く町や、そこに生きる人々を、生々しい実在感をもって感じることができる。その時、その感じる心の中では、その町、その人々は、たしかに生きるのだ。
自分の故郷を、そのようにして子供の心に認識させ、受容させ、そして生かさせるような導きを、父は何ひとつしてこなかった。のみならず、むしろ、問いかける子に対して、父の示してきたものは、なぜいまさらそんなことを問うのか、という何か後ろめたさを持つ者の身構えであり、更に問えば、自分の「不幸な」生い立ちなるものに奇妙に力点を置いた、しかし、本当の切ない情念がまったく見えてこないがゆえに、果てしなく作り話めいてしまう、そんな「物語」が返ってくるのみであった。
語られても語られても、いっそう遠ざかっていく心の情景というものがある。父、史郎の故郷の情景は、いつかしら、そういうものとなっていった。なぜ、そうなったのだろうか、と私は苦しみながら考える。そして、やはり、ただひとつの結論に行きつく。……父は、故郷を去ったのではない、故郷を「殺した」のだ、と。妻をも、子をも、母親をも、……そして、故郷のすべてを結局は抹殺してしまった父に残されたものは、不毛の荒涼たる廃墟の如きもの、荒れ野の如きものでしかないのだった。だから今、父、史郎の心の中に、いくら父の故郷への道を求めてみても、返ってくるものは、ただ吹き過ぎる荒涼たる風の音、そして、砂と化したものの無機質な軋みあう音でしかないのだった。
父が、失った故郷にかわる、新しい心の故郷を、母とともに生きた地のいずこになりと得ていてくれたらよいのだが……。自分の人生を振り返ってみた時に、たとえひと月でもいい、己れをも他人をも欺かず、真撃に澄んだ目をして生きていたと、思える時があってくれたらよいのだが……。
しかし、父、史郎は、母おりょうとめぐり会ってのちに重ねた流転の中で、いずこの地にも根をおろさず、むしろすべての地を汚し、遂には、母とともに五十年在った越後、新潟の地をも、母もろともに、捨て去ったのである。
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