かなる冬雷

 

第二章  流転

 

10

 

 

 

 おりょうの長子、佐々木修一郎は、新潟市の商業学校に入学した。

 富助の死を、その小さい心で受け止めきってから、修一郎は、急速に精神的に成長をした。それは、痛ましくもあったが、しかし、おりょうは、世情の不穏と、時折ふと見えるようになってきた、父、直蔵の衰えの如きものに怯(おび)えと不安を抱き、子供たちの成長が一日も早からんことを祈っていた。 

「まにあうだろうか」
と、おりょうは考えるのだった。何に対して、何がまにあうというのか、自分自身でもうまく説明がつかなかった。

「心の準備をせよ。それがやってくる」
と、おりょうの直感が、心の奥底で告げ、警告をしていた。 

 

 水原の町から新潟へ通学することは困難であったので、修一郎は、新潟市の学校町に下宿をした。まだ淋しかろうに、とおりょうは思ったが、自分も同じ歳に新潟女学校に入り、厳しい寄宿舎生活を送ったことを思い、少なくとも自分がいつでも訪れて身のまわりのことをしてやれるだけ、修一郎の方が淋しさは薄いかもしれない、と考えたりもした。

 学校町の下宿は、商業学校にも近かったが、また、おりょうの女学校にも近く、家の前を、女学校の生徒たちの通る姿を見ると、おりょうは、懐かしく昔を思い出した。

 袴姿(はかますがた)がまだどこか固苦しい一年生と見える少女たちを見ると、私もあんなに幼く見えたのだろうか、とあたたかい気持で思った。高等科とおぼしい娘たちを見ると、どこかしら少女っぽい危うさを残しながらも、大人の美しさを身につけ始めているあんな歳に、私は結婚をしたのだった、と少し切ない気持になった。

 

 修一郎の下宿生活も落ちついたリズムを持ち、学業も軌道に乗ってきて、会うたびごとにその成長が目に見えるように思えていたその年の秋、直蔵は、新潟市のある病院に入院をした。夏負けの時期が過ぎても食欲がいまひとつ回復してこず、妙に身体がだるいということで、おしむと新松が説き伏せて、やっと入院させたのだった。

 いろいろと検査もしたが、これという異常も見つけられず、長年続いた気苦労と、たいした量でもなかったのだが毎晩欠かすことのなかった晩酌が、少し肝臓にでも障ったのだろうということになり、安心はしたが、この際十分に養生をしてくれ、という家中の者の勧めもあって、直蔵は、結局、一ケ月ほどを入院して過ごした。

 自らを特別扱いしたり、されたりすることの嫌いだった直蔵は、大部屋でいいのだ、と言って、最後までそれで通した。

 気さくに心を開いて交わる直蔵の、言葉の端々ににじみ出る人柄と、親方の新松が来ては語る、今年の味噌の仕上がりがどうで、出荷の段取りがどうで、という小声の話の内容とから、やがて、直蔵が水原町の味噌醸造元の当主であり、見舞いに来るおりょうは、そこの跡取りの娘らしい、ということは自然に同室の人々に知れるところとなった。

 

 この時、同室に、松井史郎が入院していた。

 松井は、同室での二週間ばかりの時を通して、直蔵とおりょうの立場を知り、また、佐々木の長子、修一郎が、自分の勤める学校の生徒であることをも知った。

 タバコの吸い過ぎもあっての、持病の喘息で入院していた松井は、退院の日、直蔵の病床へわざわざ来て、お世話になりまして、と挨拶し、いや、こちらこそ、と言う直蔵に、自分は新潟商業の教師であると、さりげなく言って部屋を出た。そして、部屋の戸口まで見送りに出たおりょうの手の中に、自分の名刺を押し込むようにして去った。

 直蔵の見舞いにくれば同室の人々に目礼(もくれい)ぐらいはするし、松井とも、ひと言ふた言の言葉を交わすこともあったおりょうではあったが、名刺を、父の直蔵にではなく、自分に渡して去った、この自分よりかなり歳下に見える男の心をはかりかねて、しかしなぜか、それを直蔵に見られてはならないもののように一瞬に思って、帯の間に隠した。

 そして、数日後、おりょうは、自分にあてた松井史郎の手紙を、修一郎の下宿先で受けとった。

 どうして修一郎の下宿先がわかったのだろうと、おりょうは不思議に思ったが、松井は、退院するとすぐに、学校の生徒原簿を調べ、修一郎の下宿先は勿論のこと、おりょうが寡婦であり、自分より九歳の歳上ではあるが、まだ三十歳を少しまわったばかりであることなども、すべて知ったのだった。

 それは、和紙に毛筆で書かれた、長い美文調の手紙であった。――自分は貧しい生活の中で育ち、苦学したが、もともとは「由緒ある家柄」の出である。難関を突破して、県の特待生として、上海の「大学」に留学した。特に招かれて、今、御子息の在籍される学校で教鞭をとっている。偶々にして、御父君と病室をともにして、その人格、識見に触れ、感銘を受けた。この御縁の深さも何かの意志であろうと思い、今後とも御子息に対して御援助を惜しまないつもりである。ついては、御子息の今後について御相談申し上げたいこともあるゆえ、一度、御帰りの折に、小生の下宿にお立ち寄り願いたいと思う。…… 

 おりょうは、しきりに修一郎のことを引き合いに出すその手紙に、何かしら、修一郎を精神的に人質にとられたように感じて、少し不快にも思い、別にとりたてて「援助」などしてもらわなくても、修一郎はちゃんと学んでいける子だ、と反発も感じたが、その松井という男の苦学の道をは気の毒に思ったし、修一郎のことで話があると言うのであれば、一度は行かずばなるまいと思って、同じ学校町にあった松井の下宿先を訪うた。

 そして、……何もないがらんとした松井のその下宿の部屋の様子に、男の経済的労苦を思い、おりょうは胸が詰まった。そして、その何もない部屋で、高邁な理想を滔々(とうとう)と語る松井の目の光を、純粋な精神性の光だと思った。おりょうの胸に、母性愛的なものをまじえた好意が芽生えた。

 

 その後、父、直蔵の退院の日まで、おりょうは病院の帰りには松井の所へ寄り、買っていったもので夕食を整えてやったり、カーテンをとりつけたり、洗濯をしてやったりした。

 松井は、感激したふうに涙を見せ、次第に甘えるような態度を見せ始めていたが、おりょうは九歳も歳下の青年の甘えとして、心で許していた。そして、直蔵の退院が決まり、今日で見舞いにくるのも最後だ、と言った日、突如、松井は、襲うようにして、おりょうを抱いた。……

 おりょう。……私たちの母となったこの人が、その時、どんな気持で、どのようにそれを対したのかは、私にはわからない。ただ、母は、のちにこれを語る時、史郎との「関係」と言い、「あやまち」と表現しただけである。

 しかし、これ以後も「関係」を続け、「あやまち」を重ねていったことは、母、おりょうの選択であり、意志であったと言わなければならない。それが、ほどなく始まり、そして生涯にわたって続いた、史郎から与えられる裏切りと汚辱を伴った、長く果てしない流浪の旅の始まりであったとしても、それは、母自身も言ったように、自らの責任における選択だったのだ。

 松井史郎が、自分には岐阜に妻子がある、ということをどの時点で言ったのか、そして、おりょうがそれをどう受けとめたのかもわからない。母は、それを語らず、語らぬ人にそれを問うことは微妙にはばかられた。

 ただ、私は思う、史郎に妻子があろうと無かろうと、それはよいが、ただ史郎がその初めにおいて、母、おりょうを真実に愛してくれていたのだったらよいのだが、と。そして思う、たとえ分別を越えた道ならぬ結びつきであったとしても、母、おりょうが、その時、「幸せ」であってくれたのだったらよいのだが、と。

 なぜなら、分別をも越えて哀切な愛の思いの中で抱いたにしては、史郎の、おりょうへの「性」の裏切りは、ほとんど日を置かずして始まっているからである。そして、おりょうに母性愛的な思いを抱かせた松井史郎の殊勝げな態度は、その後、見る見るうちに豹変していったからである。

 

 おりょうは、直蔵の退院とともに水原へ帰った。

 直蔵が退院をしてみれば、おりょうが新潟市へ出かけていく理由は、修一郎の様子を見にいくということの他に立てようもなく、おりょうが松井を訪うことも自づから少なくなった。まして、修一郎が冬休みに入って帰宅してきてしまえば、もはや、おりょうには新潟に出る口実はなかったし、おりょう自身も、母親として、修一郎を裏切り汚している、という思いを持っていて、せめて二週間ばかりの冬休みの間は、松井のことは心の隅に片付けて、修一郎を愛していなければと思っていた。

 しかし、暮れもおしつまったある日、佐々木の家を、松井史郎が突然訪れて、おりょうを驚愕(きょうがく)させ、狼狽(ろうばい)させた。

 真意を図りかねてうろたえるおりょうの心をそっちのけにして、松井は磊落(らいらく)な風に、直蔵に、その節はいろいろと、その後お身体の具合は、と挨拶し、おしむもいくどかの見舞いを通して松井の顔は見知っていたので、心を許してもてなした。

 おりょうは、乱れる自分の胸を抑えようもなく、なるべくもてなしの席には出ぬようにしていたが、もう遅くなってしまったし、泊まっていかれたら、と勧めている母のおしむの声に、身の縮む思いがした。どうか断って帰ってくれますように、と祈るおりょうであったが、松井は、お言葉に甘えて、と言って泊まった。

 あくる日、松井は、少し迷惑そうな顔をしている修一郎をつかまえて、佐々木家の屋敷中を案内させてまわった。そして、人々の前で、わざと修一郎に自分を「先生」「先生」と呼ばせた。

 そして、その日も、松井は帰ろうとしなかった。まだしなければならないことが、残っていたのである。

 その夜、松井は、直蔵とおしむに、さりげなく言った、……修一郎を自分の下宿に引き取って、家庭教師というか、補習というか、そういうものをしてやりながら通学させたらと思うが、と。

 おりょうは、この時も、二人が断ってくれればよいと、襖の陰で祈るように思っていたが、直蔵やおしむには、「先生」の好意を断る理由もあえて見いだせず、意志を確かめるために呼ばれた修一郎も、松井の面前では、嫌だとは言いかねて、何となく、では年があけたら早々にでも、ということに決まってしまった。

 そうと決まった上で、松井は、ふと思いついたように、それにしては今の自分の下宿の部屋では狭すぎるかもしれない。どこか適当な所を探しておきましょう、と言った。おしむは、どうぞお願いします、下宿代は、こちらで持ちますから、と言った。

 次の日は、大晦日であった。

 ひとりきりの正月では淋しかろう、いっそ、ここで一緒に正月を迎えては、とおしむはあくまで好意を重ねて言ったが、いや、早速に部屋も探しますし、と言って松井は辞去しようとした。そして、家の玄関で松井は、世話になった礼を言いながら、見るからに寒そうに震えて見せた。おしむは、松井がオーバーを着ていないのに気がつき、着てこなかったのかと聞いた。松井は、急にしょんぼりとして見せて、実は、駅の待合室で、年末の賞与と一緒にオーバーを盗まれたのだ、と言った。おしむは驚いて、それは気の毒な、これからの寒さにオーバーなしでは、と言って再び家に入り、金を包んできて松井に渡した。松井はとんでもない、そんなつもりで言ったのではない、と一応は辞退したが、結局は受け取って帰った。

 こうして、松井史郎は、人を疑うことを知らぬ佐々木の家の人々を、網にからめとることに成功した。

 

 年が明けると、松井は、近くに良い部屋が見つかった、と言ってきた。新学期の始まる前に、それなりの所帯道具を揃え、修一郎を引っ越させなければならなかった。修一郎のそれにくらべて松井の布団があまりに粗末であったので、おしむはそれも新調してやったりした。

 おりょうは、修一郎も一緒の松井の部屋には決して泊まることはなかった。すると松井は、週末になると必ず、修一郎を「送って」きて、佐々木の家に泊まった。そして、夜半になると、おりょうのもとへ忍んできた。

 直蔵は、松井の真心のこもらぬ巧みな言辞と、それに隠されている厚顔無恥に次第に気が付いて、松井の訪問に不快を感じるようになってきていたが、おしむは、ある意味ではもっと鋭い女の直感によって、娘、おりょうが、すでにとうに、松井によってからめとられていることを感知していた。 

 自分たち親が強いた結婚が、与えた伴侶の自殺によって破局を迎えてからの、まだ若いおりょうの寂蓼の歳月を思うと、おりょうに憤りを感じるよりも、不憫(ふびん)に思う気持が強かった。それに対して責めきれない負い目ごときものを感じざるをえない親の自分たちでもあった。しかし、松井には岐阜に妻子があるとわかってみれば、添わせてやれる相手でもなく、また、松井という人間の本性に疑念を感じ始めてきてもいて、おりょうのために直蔵に対して盾になってやりながらも、おしむの心は千々に乱れるのだった。

 

このページのトップへ

 

次のページへ

文学館案内に戻る


広告

無料レンタルサーバー ブログ blog