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第二章 流転
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その年の冬をはさんで半年の余を、おりょうと史郎は、おしむの生家で保護してもらった。
柄沢家の人々は、おりょうのこの人生の選択を、けっして是(ぜ)とはしなかったが、幼い頃から可愛がって見守ってきた、このおりょうの人生を哀れと思っていた。
面と向かっては、おりょうを答めることもなく、ひたすらに優しくかくまってくれていたが、おりょう自身は、それだけになお胸が痛く、一日も早くこの家と町を出て、自活する道を切り開かなくてはならない、と思っていた。
おしむは、おりょうの着物をはじめ、身のまわりのものを、親方の新松に届けさせ、また、二人の食い扶持として、米や味噌をも運ばせた。
柄沢の家は、おりょうたちの一人や二人を養うのに困るような家ではなかったが、それで、おしむや、おりょうたちの気持が少しでも軽くなるならと思って受け取っていた。おりょうは、しかし、肩身がせまく、毎日早くに起きては、炊事、洗濯、掃除と働き通した。慣れぬ身体で畑仕事も手伝った。
史郎は、初めこそ様子を見るように小さくなっていたが、日をおかずして、天性の図々しさを見せはじめ、何の仕事を手伝うでもなく、柄沢の家の、同い歳の跡継ぎをとりこんで、魚釣り、碁、と遊び暮らしていた。生まれてれて初めての、安逸な生活、働かずにただ徒食するというこの生活に漬かりきっていた。
子供たちは、誰も訪ねてこなかった。修一郎は、自分の意志で来ようとしなかったし、修二郎と桂子の二人は、来たくても来れなかった。直蔵は、断じて行ってはならぬと固く言い渡し、学校の行き帰りにも人をつけて、決しておりょうには会わせようとしなかった。
それは、直蔵の冷酷さではなく、直蔵のいわば賭であった。直蔵は、おりょうの情の深さをよく知っていた。子供たちを厳しく引き離すことで、おりょうが分別をとり戻してくれることを願っていた。
しかし、おりようの分別は既に戻ってはいても、それによってだけでは史郎と別れて生家と三人の子供たちのもとへ戻ることをは許さない新しい小さな生命が、確実に、おりょうの身の内で育ってきていたのだった。
この頃の修一郎の心の中がどんなふうであったのかは、本人も語らず、私もあえて問うたことはない。しかし、実は、問う必要がなかったのだ。のちに、私は、佐々木家で育ててもらうことになるのだが、ある日、叱られて閉じ込められた土蔵の中で、この異父兄、修一郎の、当時の日記帳を見つけ、その一節を読んでしまったことがあるのだ。
見てはならぬものを見てしまったことを幼な心にも感じて、私はすぐにそれを閉じたが、かいま見たその一節を、今でも忘れない。そこには、こう書いてあった。……
「私は、今日よりのち、この世に母は無いものと思って生きる。父を失い、今また母を失ったが、私は決して泣かない。私以上に淋しいであろう幼い弟妹を守り、祖父、祖母を大切にして生きていくのが私のつとめである」
と。……
雪もまだ消えやらぬ、あくる昭和十一年の三月のある日、おりょうは、史郎とともに、柄沢家の叔父、叔母の前に呼ばれた。
「家の跡取りに、このたび、嫁をもらうことになってね、……」
と叔父は言った。鈍感な史郎は、それはどうも、めでたいことで、と言ったが、おりょうには、すぐにわかった。これは、出ていってもらいたいということだ、と。
おりょうは、その場で両手をついて、長い月日を、かくまって頂き、ありがとうございました、この御恩は生涯忘れません、と深く頭を下げた。叔母は、おりょうさん、これから大変だろうが、ようく考えてね、とだけ言った。部屋に戻ると史郎は、何であんなことを言うのだ、誰も出ていけとは言っていないではないかと、おりょうをなじった。
おりょうは憤った。あんたには、人間の心というものが、そんなにも見えないのか。私たちは、勿論、出ていけと言われたのだし、また、もう二度と舞い戻ってくれるなとも言われたのだ。今でも私たちを不憫(ふびん)には思うて下さっている。けれども、この家にとっては、私たちは、害ともなる存在なのだ。今日、この時から、私たちは、今度こそ、二人きりで生きなくてはならない、いや、もっと早くに、そうしていなくてはならなかったのだ。恩情によってさせて頂いた冬ごもりが、今、終わった。おなかの子も、まもなく生まれる。何が何でも、あんたに仕事を探してもらい、子供を生み育てる場所を見つけなければならないのだ、と、おりょうは厳しい、つきつめた表情で言った。
史郎は、数日うろうろしていたが、一通の手紙を取り出して、東亜同文書院の先輩が満州の新京にいて、鉄道の仕事をしている。こっちへ来れば仕事はいくらでもある、と言ってくれているが、と言った。
おりょうは、悩んだ。この一年余の、生活と精神の激変に苦しんできた上に、今度は、そんな異郷の地にまで流れていって、見知らぬ人々の中で子供を生むしかないのかと、淋しさに身の縮む思いだった。しかし、おりようは、その思いを閉じ、心の力を奮(ふる)い立たせて、私たちの生きる道がそこにしかない、というのであれば、満州へでもどこへでも一緒に行きましょう、と言った。
おしむにひそかに便りを出して、満州へ行くことになったと伝えると、おしむは駆けつけてきて、何で満州などへ、と言いながら、大きくなったおりょうの腹を見て涙を流した。
父様(ととさま)に、もう一度言うてみる、おりょうが大きな腹をかかえて満州へ流れていくしか生きる道がなくなったと言うてみる、と言うおしむを、おりょうはとどめた。
言えば、父様が苦しまれるのは目に見えているし、この勘当は、どんなに辛くとも、今はむしろ解いてもらってはいけない勘当なのだと、自分には松井の生き方を見てよくわかってきた、松井が自立心を持ち、結果として私が生きていけるようになるためには、今は、松井が自ら選んだ満州の地へ行ってみるしかない、すべて都合の悪いことを他人(ひと)のせいにして生きてきた人だが、今度の満州だけは、自分で決めたことだ、私と、もう生まれようとしているいのちと、ふたつのいのちを背負ってどう生きる覚悟なのか、今度こそわかるだろう、とおりょうは言った。
新京の高桑という先輩なる人の意向を、改めて確かめるひまもない慌(あわ)ただしい出立となった。おしむは、心を引き裂かれていたが、それ以上涙を見せれば、懸命に自分の決心に踏みこたえているおりょうの精神の張りつめを瓦解させることになると思って耐え、直蔵には秘したまま自分の着物を売ったりして金策し、旅費も含めて一ケ月位は何とか暮らせるかという金をやっと作って、おりょうに渡した。おりょうは、その金と、柄沢の家からの餞別(せんべつ)とを、押し頂いた。その金を、史郎はじっと見て、はかっていた。
おしむと新松の二人に見送られて、こうして、おりょうは、史郎とともに、新潟の港から出港した。二泊三日の長旅であった。港の町から更に内陸に入り、ようやくに新京の町に着いた時には、ちょうど月が変わって、四月になっていた。満鉄に勤める高桑という人を頼って行くと、電報だけは打ってあったので、まあしばらくこの家にいて、仕事を探せ、と言ってくれた。
その言葉に、史郎は文字通り甘えたが、おりょうは心迷っていた。また居候に慣れてはいけない、どんな仕事であろうとも早く見つけ、どんなボロ部屋を借りてでも自活しなくてはならない、と思っていた。
しかし、史郎は、本気で仕事を探す努力はせず、先輩たちのツテで、いい話のころがりこんでくるのを待っていた。高桑という人も、調子のいいことを言って呼び寄せることにはなってみたものの、自分自身が史郎をどこかの役所や学校に押し込むだけの力量も本当のところはなく、次第に、おりょうの、すがる目を避け、むしろ冷たくなっていった。
日をおかずして史郎は、仕事を探す代わりに自堕落な遊びを始めた。毎日、「仕事を探しに行く交通費」と言っておりょうから小遣いをせびりとり、新京市内の反対側の方にある、違う先輩の家に行き、夜半までマージャンにうつつをぬかしていた。そして、帰らぬ夜もあるようになっていた。ひどく、退嬰的な、先輩、後輩の関係だった。
史郎の出た、上海の東亜同文書院という学校は、いったいどういう性格の学校なのか、史郎の説明を聞いても、よくわからなかった。
史郎に言わせれば、全国からよりすぐりの英才が集められて、「日中友好のかけはし」となる人材を養成する「大学」だ、ということであったが、どう考えても、中学を出てすぐに入る四年制の学校が「大学」であるはずはなかった。結局のところ、日本の従来の学制からははみだした、何か特殊な目的のために作られた学校らしいということしかわからなかった。
松井が佐々木家に出入りしていた頃、史郎の学校のことを直蔵に尋ねると、直蔵は、国策に添って中国侵略の手先となって働く情報員を養成する学校だ、と吐き捨てるように言った。直蔵が、すでに史郎のことを快く思っていなくなっていたこともあっての、感情を交えた言い方であったのだろうが、たしかに、東亜同文書院の出身者のかなりが、史郎も含めて、直接間接に日本の大陸への侵略政策に加担し、関東軍の手先となって働き、そのために、戦後は、長く、戦犯に準ずるものとして公職追放の対象となった。
だが、まだこの時期には、満州では羽ぶりがよく、大きい顔をしていた。しかし、それにもかかわらず、史郎の仕事は見つからなかった。当面の滞在のつもりが、四十日という長逗留(ながとうりゅう)になった。 高桑という人も、その人の奥さんも、露骨に迷惑顔をし始め、おりょうに意地悪くあたった。
史郎には遂に働く気持がないのだとすれば、もはやこの地にとどまっていても何の意味もなかった。史郎は、すでに実質的に、おりょうをこの異郷の地で遺棄していた。おりょうのことを、自分が遊んだことにつけこんでヒモになって日本から付いてきたカフェの女だ、と言って回っていた。
遂におりょうは意を決し、日本に帰ることにした。しぶる史郎を引きずるようにして、残りの金のありたけをはたいて船の最下等の切符を買い、おしむに電報を打って、船に乗った。
帰路の海は荒れた。おりょうの心も身体も疲れ果てていた。夜半、おりょうはもはや考える力も失い、ふらふらと甲板に出て、荒れ狂う夜の海に身を投じようとしたが、異常に気づいた船長たちに間一髪のところであやうく助けられ、その恩情に保護されながら、ようやくに、新潟の港に帰りついた。
自立への意志も、わずかの希望も、見送ってくれた人々の心のこもったお金も、……そのすべてを失い尽くしての帰国だった。
史郎は、この時でさえ、何も考えてはいなかった。いよいよとなれば救いの手を差し伸べる、おりょうの生家の人々の心を利用して生きていけると、考えていた。
新潟の港に降り立ったおりょうは、目と鼻の先にある郷里の町へも、生家へも立ち寄ることさえできぬまま、再び、おしむに与えてもらった路銀を手に、次なる放浪の地へと旅立たなければならなかった。千葉県の北部、利根川のほとりにある小見川(おみがわ)の町、この地に住む、かつておりょうの子守りをしてくれた人を頼っての旅だった。
おりょうは、自らを悲しむ余裕ももはや無かった。時折襲う正常な胎動とは違う重く鈍い下腹部の痛みに、子供の抗議を、……自分をもろともに海に葬り去ろうとした母親への声なき抗議を、聞きとっていた。 おりょうには、この運命の子が、抗議をこめて、無残に流れ下って見せようとしているように思えた。おりょうは、心の中で、ひたすらに詫び続け、そして誓っていた。――何があろうとも、私は、お前を生み、育て、生きていく、と。――
かつて、十歳の時に、おりょうの子守りとなって佐々木の家に入り、暮らした人が、千葉県の小見川町(おみがわまち)に住んでいた。
新潟で、靴職人と結婚をしたのだが、子供の無かった小見川町の叔母の家へ、夫婦養子として入っていた。そこは「田村屋」という屋号の、芸子置き屋も兼ねた料理屋で、養子に入った時は事情もあって相当に左前になっていたが、夫婦で力を合わせて立て直しつつあった。
姉のような、また時には母親のような愛情で、おりょうを育ててくれたこの人を、おりょうたちは、「田村屋のおばさん」という意味で、「たむばっぱ」と呼んでいた。
たむばっぱは、おしむの打った「オリョウタチイクヨロシクタノム」の電報に驚いたが、直蔵の入院を機に始まったこの一、二年のおりょうの人生の激変の様子は、時折のおしむの便りで知って心を痛めていたし、こちらに来れば世話をしてやろうに、と思っていたので、驚きはしたが、すぐに、おりょうたちを住まわせる小さい家を探して、待っていてくれた。
それなりに自分自身の苦労も多くあり、いわばそれをねじふせて、気丈に生きてきたたむばっぱではあったが、小見川の小さな駅に降り立った。何年ぶりかに再会したおりょうのやつれて憔悴(しょうすい)した姿に、思わず涙をこぼした。
かつては、珠(たま)のように大切に育てられ、女の目から見ても楚々として美しかったおりょうが、自ら選んだ人生の道であるとは言え、こうまでやつれるような添い方しかできない松井史郎という男に対して、彼女はどうしても、冷たく厳しい感情しか持てなかった。
田村屋の近くの、裏が堀割の川に面した小さい二間の部屋が借りであった。すぐにでもその日から暮らせるようにと、鍋、釜や、食器類、寝具、そして当座の米や味噌まで揃えてくれていた。苦労人のたむばっぱの、このこまごまと行き届いた迎えと、今、初めて二人で生きられる場所を与えてもらったこととに、おりょうは胸がつまった。
小さな風呂、小さな台所もついていた。
当たり前のこの「生活」、自分で自分たちの良事を作り、風呂をたて、つつましく暮らせるこのことが、おりょうには限りなくうれしかった。つもる話は山ほどあった。訴えて泣きたいことも数多くあった。しかし、おりょうは、駅頭で、たむばっぱが見せた、史郎に対する厳しい視線に気がついており、史郎に対する批判や不満は口にせず、何かと、史郎が気に入ってもらえるようにと心をくばった。
追いかけるように、水原の佐々木の家から、米、味噌、醤油と、当座の費用の金が送られてきた。
そしてまもなく、おりょうは、無事に、女の子を生んだ。私たち四人きょうだいの長女、房子であった。……
小見川町は、水と緑の町である。
町のすぐ北側を、大河、利根川が流れており、そこにつながる川が町の中央を流れていて、更にその川から、いくつもの堀割が引いてあって、多くの家々が、台所から石段をおりればそこはもう水辺で、そこで色々の洗いものをしたり、そこにもやってある小舟に乗って堀割を往き来したり、利根の本流に出たりすることができた。町の南側には、緑濃い丘陵地帯が広がっていた。
これといって華々しい地場産業とて無かったが、それだけにまた、水原の町と同じく、農村地帯の中の小さな商業都市として、静かな時の流れの中にあった。
だが、こんな穏やかなたたずまいの田舎の町にも、景気の良し悪しの影響もあれば、貧富の差もあり、二・二六事件のあった年でもあって、政治の流れの緊迫は、やはり町の人々の心に、どことなく影を落としていた。
史郎は、ここでもすぐに、本来の自分の「生き方」をとり戻していた。つまり、徒食し、遊びまわっていた。おりょうの生家から送られてくるものを、当然の如くに食しながら、働かず、釣りや、碁打ちやらに明け暮れていた。
おりょうの哀願で、一応のところは、町の小学校に行って教師の口を求めたが、空席はなく、また、史郎の学歴上、小学校の正規教員の資格にも問題があって、断られた。
史郎は、それ以上職を探さなかった。農家の手伝いでも、人足仕事でも、やる気になれば、それなりに何がしかの金を得る道はあったであろう。また、そうやって額(ひたい)に汗して働くことを尊しとする「生い立ち」のはずであった。しかし、史郎は、中身のない自尊心だけが強く、「先生」と呼ばれて優越感を持って生きること以外の労働はまったく考えなかった。三十歳にもならない男が、日がな一日、のらりくらりと暮らしていた。
日々の生活のための、どうしても必要な、わずかの現金が無かった。おしむは、台所の賄(まかな)いの費用を節約したりして時々直蔵に内緒で送ってくれたが、房子が医者にかかったりすれば、すぐにそれは消えた。
おりょう自身には何の贅沢もする気はなかったが、タバコを買ってこい、飯のおかずが悪い、茶菓子が無い、などと史郎に言い立てられることが辛かった。おりょうは、裏の川べりに時折寄りついてくる川エビを取って、おかずにしたりして、糊口(ここう)をしのいでいた。
遂にどうにもならなくなって、おりょうは、たむばっぱとともに、町役場を直接に訪れ、改めて、どんな形ででも史郎を使ってもらえないものか、と町長に頼んだ。
おりょうの率直な訴えに同情もし、また町の一流料亭になっていた田村屋の女将(おかみ)の口添えであるということもあって、史郎は、代用教員として使ってもらえることになった。そのかわりに、足もとを見られたように給料は安く、正規の教員の半分の四十円、それも辞令の額面の上のことで、実際は、二十円しか支給されなかった。
それで暮らせるはずもなく、時に新潟からの米の仕送りも遅れて、母子で飢え倒れかかることもあったが、おりょうは自らに誓った如く耐え忍び、懸命に生き、房子を育てた。
房子は利発で芯の強い子だった。たむばっぱたちには子供が無かったので、二人は房子を我が子のように愛した。こうして、おりょうは生家の援助と、田村屋の庇護のもとで、二年あまりを、小見川の町で暮らした。
しかし、二年たっても、史郎の生活は変わらなかった。朝に夕に魚釣りで、そのあいまに学校へ行っているような生活で、学校の帰りにも、途中の地主の家に寄って日の暮れるまで碁を打っていたりした。
恩ある田村屋の手伝いは、薪割りひとつしなかった。「学歴のない」田村屋の夫婦のことを、見下していた。汗を流して働くことを、沽券(こけん)にかかわるとでも思っているような生き方を依然としてしていた。生活の困窮もさることながら、そんな史郎の考え方が、おりょうには辛く、心細く、田村屋に対して申しわけなかった。
この小さな町にも、戦争の影響は少なからずあり、多くの人々が出征していった。大陸の銃声と軍靴(ぐんか)の響きは、遠く海山(うみやま)をへだてたこの内陸の町でも、もはや聞きとれるようになっていた。さまざまの物資と人とが、国策の遂行のために徴用されていった。
国家総動員法の発令された昭和十三年の秋になって、水原町の長福寺の住職が、小見川のおりょうたちのもとへ訪ねてきた。
この吉川(きっかわ)和尚は、当時鶴見の総本山、総持寺の宗務の仕事もしていて、全国の曹洞宗の僧たちと交流があった。函館に住む、余内和尚という人から室蘭商業で中国語を教えられる教師を探している、と聞いて、史郎のためにその話を持ってきてくれたのだった。
吉川和尚は、直蔵とは兄弟同然に仲良く育ち、直蔵の父親が和尚の学費を援助したりしてきて、佐々木の家とは深い関係にあり、おりょうの身の上もよく知っていて、陰ながら案じていたのだった。
史郎は、室蘭へ行く、と言った。おりょうには、いろいろと迷いもあったが、小見川での生活は、気候も人の心もともに暖かくても、経済的に先の見通しは暗かったし、なまじっかの庇護(ひご)があるだけにむしろ、この地では史郎のだらけた生活態度が変わるとも思えず、また、この時すでに、二人目の子供が自分に宿っていることも知っていたので、北海道に渡ることを決意し、たむばっぱたちとの別れを惜しみながら、厳しい冬の目前に迫っている室蘭の地へと、津軽海峡を渡っていった。
東室蘭にある教員住宅に入ると、史郎はすぐに着任し、生活の準備に追われているうちに、じきに早い冬が来た。
本給七十五円、寒冷地手当十円という給料は、内地の教師より良かったが、厳しい冬の燃料代で給与の大半は消えた。燃料が無くなれば、まさに文字通り、凍死する他なかった。
食料と同様に、燃料もまた、生命を支える生活必需品であり、削ることのできないものだった。生活は、やはり苦しかった。
その最初の冬、……昭和十四年の、最も寒気の厳しい一月の末に、松井との間の二人目の子供、英夫(ひでお)が生まれた。英夫は、房子と違って、どこか病弱で、よく風邪をひいたり扁桃腺をはらしたりして高熱を出した。近くに医者は無く、隣りの輸西(わにし)の町まで、英夫を背負い房子の手を引いて、おりょうは、たびたびバスで通った。
無我夢中のうちに、ようやくに初めての冬を越し、短い北国の夏を迎えた。この夏、小見川の、たむばっぱの主人が突然に室蘭を訪れて、おりょうたちを驚かせた。房子のことが忘れられず、会いたい一心でやって来た、と言った。血も繋(つな)がらぬ仲なのに、そんなにも思ってくれる、たむばっぱたち二人の心がうれしくて、見知らぬ土地で懸命に生きているおりょうの心は、久しぶりになごんだ。
彼は、滞在中、おりょうと二人の子を、登別(のほりべつ)温泉に連れていってくれた。北海道へ来て、初めての楽しい数日であった。史郎は、自らはあちこちと出かけても、妻や子をどこぞに連れていってやるという心は持たなかった。
北海道の地での、ただ一度の心温まる思い出としてこの時のことを、おりょうは忘れられなかった。小見川のおじさんが連れていってくれた、子供たちが初めて熊を見て怯(おび)えて泣いた、と、晩年になっても、繰り返し笑顔で語っていた。
田村屋の人たちは、よほど房子を愛してくれていたのであろう。後に、房子を養子に貰いたいと言ってきた。幸か不幸か、この話はまとまらなかったが、田村屋の人たちと、おりょう、そして房子との、人間の情愛の絆は、のちに至るまでずっと暖かく保たれた。
この小さな幸せな思い出を作ってくれた夏は、まもなく終わり、秋をとび越えるように二度目の冬が来た。
この冬のある日、英夫が熱を出した。いつものかかりつけの輪西の医者へ行くと、医者は首をかしげた。どうも胸の音と咳の様子がただごとでない、レントゲンを撮ってみよう、と言った。診断は、小児結核であった。
昭和十四年の当時は、肺結核の薬などは無いに等しかった。英夫の病状は、見る見るうちに悪化した。
もしもこれが効けば、万にひとつだが助かる見込みがあるかもしれない、と言われた注射を受けに、一日おきに、吹雪の中を、おりょうは英夫を抱き、三歳の房子を裾(すそ)につかまらせながら、輸西へ通った。一本五円というこの注射代を、史郎の給料などで賄えるはずもなかった。この時も、母親のおしむが助けてくれた。おしむは、統制の厳しくなりつつあった中を、おりょうに大量の米や味噌を送り、おりょうはそれを、近所の人々に買ってもらって金にして、医療費を払った。
おしむは、直蔵の目を盗んで、親方の新松に裏門から米や味噌を送り出させていた。しかし、直蔵は、勿論、このことに気付いていた。小見川へ送っているのも、室蘭へ送っているのも、すべて知っていた。そして、この冬の、ただならぬ量の送り方に、おりょうたちの身に何ごとがが起こっていることを感じとって、心を痛めていた。
それでも直蔵は、おしむに、おりょうはどうしているのかと問わなかった。それは、悲しい意地であった。そしてまた、ひとたび問うて答えられれば、見逃し許してきた援助をその時改めて禁じ直さなければならず、また、許すとなれば、すべての張りつめたものが瓦解し、心ならずも傷つけ合ってきた父と娘とのこの歳月が、ただ空しいものとなり終わるのではないかという、弱い心の怯(おび)えであった。
このままではいけない、と思いつつ、直蔵白身も道が見出せなかった。ただ、自分の生命力が何かしら急速に衰えていくことを深い部分で感じとりながら、いつかは終わる、……どんな形であるにせよ、すべては、いつかは終わる。それは、許しの日でもあり、また永遠(とわ)の別れの日でもあるだろう、と予感していた。
英夫は、奇跡的に生命をとりとめた。母、おりょうの、姉、房子の、それぞれの愛、そして、その愛の努力を援助したおしむや新松、そして、黙認という形でやはり援助し続けた直蔵の愛、さらに、米や味噌を買ってくれた室蘭の人々と、ひとりの医師の、恩情と援助とによって、この小さい生命の火は守られたのだった。
やがて来た英夫の一歳の誕生日の夜、雪に深く埋め込まれながらも、おりょうの心は暖かく、幸せだった。史郎は、製鉄所の職員に中国語を教えなければならないと言って、ほとんど毎夜遅くまで不在であったが、おりょうは、子供の安らかな笑顔と安らかな寝息で幸せだった。
思い返してみれば、ほとんどニケ月の間、英夫は生死の間をさまよっていた。おりょうは、自分もまた、ともに生死の間をさまよっていたように思った。そして小さな姉、房子もまた、そうだったのかもしれないと思った。
涙を流さず、ただひたすらに口を引き結んで、淋しさにも寒さにも耐えながら、幼い弟の闘病への参加を、確かにこの子もしていたのだと、襲われる覚醒の思いにとらえられて、おりょうは、房子の小さい身体を抱きしめた。
だが運命は、一方で幼い生命を救いながら、一方で、その代償を求めるかの如くに、老いた生命を奪い去ろうとしていた。
直蔵が、突然に吐血をして新潟の医大に運ばれた。進行した胃癌であった。おしむの手紙は、狼狽と悲嘆を隠しきれないでいたが、それでも、父様(ととさま)はおりょうに言うてはならぬと言っていると書いていた。
おしむは、この少し前に、直蔵におりょうへのこれまでの援助のすべてを告白していた。それを見逃してくれたことで、今、英夫という小さい孫の生命を救いえたことを報告していた。
直蔵は、淋しそうな笑顔で答えた。勿論、とうに知っていた、と。そして言った、男は駄目だな、面子(めんつ)や意地で大切なものを砕いてしまう、女は、めげずに守り、新しい生命を生む、所詮(しょせん)、男は女にかなわない、おりょうたちのことは、よくこの歳月、守ってやってくれた、礼を言う、と。……
そんなおしむの手紙を握りしめながら、おりょうは声をあげて泣いた。めったに泣かない房子も、母のとともに泣き、英夫もまた、訳はわからぬままに、母と姉の泣くのが悲しくて泣いた。
おりょうは、お前たちはまだ会ったことがないが、お祖父ちゃまが御病気なのだよ、早く良くなるように、そして、早くみんなで会えるように、一緒にお祈りをしようね、と言い、遠く、海峡の彼方の越後の方角に向かって、手を合わせていた。幼い二人の子も、母にならって手を合わせていた。昭和十五年の五月のことであった。
やがて、おしむからまた手紙が来た。何とか吐血もおさまり、許可されて、食事も少しづつ摂(と)れるようになってきた。ひと安心しているし、何よりもうれしいのは、もはや何ひとつ隠すことなくお前たちのことを話せることだ。父様は、なお多くは語らないし、お前に帰って良いとも言わない。しかし、心の中では、とうに許しているのはわかっている。ただ、今はまだ、病み上がりの英夫を連れて長旅をさせてはならぬ、と言われるし、また一方で、しかしまもなく会える日が来よう、とも言われる。何かしら、自分の病気を知っていて、残された日を一日一日と心で計(はか)っているようで、胸が痛んでならない。医者は、手術をしても手遅れで、むしろ衰弱を早めるだけだ、と言い、あと少ししたら退院を許すと言っている。今は、医者の勧めで、高い漢方薬を求めて、煎じて飲ませている。苦(にが)い、まずい、と言って毎回私が叱られ、当たられるが、わがままを言う元気が出てきのだと思って、叱られながら喜んでいる。今は、神経をたかぶらせるのが一番いけないと医者が言うので、お前の帰郷のこともくどくは言わないでいるが、退院して少し落ちついたら、はっきりと願ってみるつもりだから、それまでは、心配だろうが、そちらで待つように。……
おりょうは、史郎の勤め先の、室蘭商業の校長の、渋谷という人に会いにいった。改めて自分と史郎との五年にわたる流浪の旅を語り、吉川(きっかわ)和尚、余内(よない)和尚という二人の僧の縁によってこの地で生きさせてもらったが、父の病いは不治のものであり、生あるうちに詫びもし、看病もしてやりたい、近いうちに新潟へ帰ることになろうが、わがままを許して欲しい、と言った。
渋谷校長は、おりょうが入籍していない、また、したくともできない立場の「妻」であることを当初から知っていたが、自分の裁断によって、事務的には、おりょうを事実上の妻と認め、何かにつけて陰でかばってくれていた。今、改めておりょう自身からの話を聞いて、言いにくいことをよくきちんと言ってくれた、何かあれば、子供たちを連れてすぐに身ひとつで水原へとんで帰りなさい、あとのことは、私が責任を持って見守ってもやり、また、万一にこの地で松井に召集がかかっても、私たちできっと送り出してもやるし、あとの片づけもしてやる、心おきなく看病してあげなさい、と言ってくれた。
史郎は、すぐに帰れとしきりに言ったが、そう言いはしても、そこには直蔵の身を案ずる真情も、このような形に父と娘を引き裂いた当事者が自分であるという心の痛みも、何も感じられなかった。むしろ口には出さぬある種の計算も感じられたし、史郎ひとりを単身赴任の形で残して、悪いことは多々ありえても、良いことはあるまいとも思えたが、それらすべてのことが、おりょうには今はもう、どうでもよいことに思えた。
おりょうは、三人目の子供をみごもっていた。九月が予定日だった。この子は、私の生まれたあの水原の家で生まれることになるのかもしれない、と思いながら、おりょうは、おしむの便りを待っていた。
七月の末に直蔵は退院し、水原の家に帰った。もともと強靱な精神力と体力の持主だった直蔵にして初めて可能な回復、しかし、つかのまの回復だった。
おしむは、ますますわがままが募(つの)って困る、と書いてよこした。新津(にいつ)駅の駅そばが食べたい、と言い出すともうきかない、何としてでも買うてこい、と言いなさる。仕方がないから新松が、ふところに飯盒湯はんごう)を忍ばせていって、わずかの列車の折り返しの時間に、立て続けに二杯注文して隠れて飯盒にあけ、持ち帰って食べさせた。のびてふやけているのに、うまいうまい、と言って食べなさる。そばなんぞ、いくらでもゆでてやると言うのに、いや新津の駅そぱでなくては駄目だと、まるで子供の駄々だ。それでも新松は何も言わず、ふところを、びしょびしょに濡らしながら、買うてきてくれる。 今日は、新潟のホテルのアイスクリームが食べたいと言いだし、若い衆が汽車で買いにいった。持ち帰った時には、溶けているにきまっているだろうに。それでも意地を張って、きっと、溶けたアイスクリームを、うまい、と言って食べなさるんだろう。……
おりょうには、父親の頑固ぶりが目に見えるようで、懐かしく、微笑ましかった。そして、そうやってみんなを困らせながら、みんなの愛情を子供のように確かめている父親の淋しさを思って、心が痛かった。 父様(ととさま)、どうして、このおりょうをだけは困らせてくれないのですか、どうして、この私の愛情だけは確かめてくれないのですか、と遠く呼びかけていた。
そして、……再び、電報が来た。直蔵がまたも家で吐血した、と言うのだった。
もはやおりょうは迷わず、二人の子を連れて、汽車に乗った。函館から連絡船で海峡を渡り、そして更に、ひたすらに日本海ぞいに南下して行く、長い旅だった。それは、地理的な距離の長さでもあり、また、埋めなければならない、しかし、埋めることはできない歳月の長さでもあった。
昭和十五年八月、こうして私たちの母、おりょうは、生まれ故郷の水原町に帰った。私たちにとっての祖父、直蔵の、わずかに残された生と死とを看(み)取るためだった。
「まにあった」と言うべきかどうかはわからない。まにあった、とも、あまりに遅すぎた、とも言える。「時」の長短、そしてその「時」に込められたものの過不足は、徹してその人々にとっての主観的なものであって、測り知ることはできない。ただ、その再会の時の様子を、母の回想として聞きながら、会えてよかったな、と私は思うだけである。
直蔵は、こうして、娘、おりょうに看取られながら、行く夏とともに、その八月の末近くに亡くなった。
それは、さまざまな意味で、ある時代の終わりの象徴のようであった。
そして、その祖父の生命とまた引きかえのように、その九月、私、利夫が、この母の生家、佐々木の家で生まれた。
「皇紀二千六百年」を呼号し、日独伊三国同盟を結んで、日本が、もはやとどめえぬ破局へと、まっしぐらに走り出していた年であった。……
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