かなる冬雷

 

第二章  流転

 

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 この年、直蔵の死、私の誕生と相前後して、父、史郎は召集され、室蘭からまっすぐに、本籍地、岐阜の連隊へ入隊した。

 修一郎は、翌々年の昭和十七年に、修二郎は、昭和十八年に、兵役に服しており、これ以後、働き盛りの男たちは、どこの家からも消えた。

 佐々木の家も、味噌の仕込みをしようにも、男手は無く、原料も、次第に逼迫してくる食料事情の中で、入手しがたくなってきていた。

 わずかに兵役からはずれている高齢の男や、女たちの手を借りて、新松はそれでも少しずつは味噌の仕込みを続けていたが、直蔵の死は、新松の心の底で深い虚脱感を生んでいた。それでも、おしむと、三人の幼な子をかかえたおりょうのために、今は直蔵になりかわって自分が支えるしかないのだと、最後の気力をふりしぼって、黙々と働いていた。

 史郎は、室蘭商業に在職したままの応召であったので、その給与はそのまま「妻」であるおりょうの方へ支給された。この頃には月給は百円ちょっとになっていたが、岐阜に入隊した史郎は、それだけの金があれば、岐阜の市内に家を借りて暮らせるはずだ、出てこい、としきりに言ってきていた。そこには、それは俺の金なのだ、という気持が見えたが、五年の歳月を経て生家に帰り、否応なく一気に多くのことに直面している妻の立場を思いやる気持は見えなかった。

 修二郎は、この年の春から、明治商事に入社し、九州戸畑の支社に勤務していた。直蔵の葬儀でおりょうと顔を合わせたが、しみじみと語りあうまもなく、慌ただしく戸畑に帰っていった。

 修一郎は、いつ召集がかかるかわからなかった。修一郎は、この過ぎた歳月とその端緒にあった母の心のありようを、許すとも許さないとも口にはしなかったが、心の中では、既に許していた。そして、母の歩まざるを得なかった道の分岐点において、自分の優柔不断や、中途半端な優しさからの沈黙があり、それは自分の責任であった、と考えていた。

 史郎に対しては、自分が一番かかわっただけに、複雑な思いが強かったが、しかし、母と、幼い弟妹とにとって、それはまぎれもない、ただひとりの父親であり、夫なのだ、それを認めてやらなくては、と自分に言い聞かせていた。

 戦時とは言え、年頃になりかかっている桂子に、女としての実学も身につけさせなければ、とも、おりょうは考えていた。

 さらに、おしむは、糖尿病を発していた。食べているのに、どんどん痩せていくおしむに、父親と同じように何か悪い病気でもあるのでは、と伝えたおりょうであったが、糖尿病だとわかって、ある意味では安心もしたが、もともと甘い物の好きなおしむの、食事を管理する仕事が加わっていた。

 そして、私を生んですぐに、おりょう自身が脚気にかかっていた。おりょうは、浮腫と動悸に苦しみ、生まれたばかりの私は、脚気の乳を飲むことで、やはり脚気になり、絶えまなく下痢をして、痩せ衰えていっていた。長年続いた貧しさの中で、自分自身の食べ物は極力節約しながら、つぎつぎに子供を生み、乳を与え続けてきた結果であった。脚気とわかって、おりょうは玄米食となり、私は乳を以後は与えられず、玄米の粥を飲んで育った。

 

 おりょうは、悩み、立ち往生していた。

 しかし、おしむは言った。――家のことは、何とかする、修一郎、修二郎、桂子ら三人の子についても、できるだけのことはしてやろう、今の時勢を考えれば、史郎もいつ最前線に送られるやも知れぬ、史郎も淋しいのであろう、夫婦は、離れて暮らしてはならない、どう生きても人は悔いを持つものかもしれぬが、今は、子供たちを連れて、岐阜へ行っておやり、と。

 おりょうは、母に励まされて、その年の暮れに岐阜に出て、岐阜市加納(かのう)町に小さな家を借りた。傘作りの多い町で、路地、路地には、天気の良い日には沢山の傘が広げられていた。おりょうは、私を背負い、房子と英夫の手を引いて、その傘の間を縫うようにして歩いた。

 史郎は、初めのうちは、外泊をもらっては、おりょうたちのもとへ帰ってきていたが、まもなく、その態度が変わってきた、外泊も忙しくてなかなかできない、面会にもなるべく来るな、そして自分の上官である准尉の所へまめに挨拶に行け、と言い出した。

「挨拶」とは、要するに、金を持って行け、ということだった。そしてそれは、つまるところ、自分が前線に送られぬように、金の力で計らってもらえ、ということだった。

 おりょうは、軍隊の中のことが金で動くのか、と疑問にも思い、また、もしそうだとしたら、金のない貧しい兵士たちは一身に泥をかぶるしかないのか、と割り切れぬ思いがして、思わずそのことを口にした。史郎は、おりょうを怒鳴りつけた、お前は俺を殺したいのか、と。

 そう言われれば、何も言えなかった。おりょうは帰省して、おしむに訳を話し、金包みをもらって、准尉の所へ「挨拶」に行った。またそろそろ行け、と言われては、そうした。そして准尉に、今、松井に死なれては、私はともかく、小さい子供らが父なしの私生児で終わってしまう、何とか助けてやってくれ、と願いを言った。

 どの兵士でも、死んでいい事情の兵士などはいない、みんなそれぞれに重荷を背負っているのだ、と言いながらも准尉は金を受け取り続け、そのことの当否はともかく、史郎はたしかに本部付きの仕事を続けることができた。しかし史郎は、そうやって、おりょうと佐々木の家の残りの資力を最大限に利用して、自分の生命を日々に購(あがな)わせながら、同時に、おりょうをまたも裏切り、汚していた。

 多忙で帰れぬ、面会もままならぬ、と言いながら、実は、外出も外泊もして、先妻と関係を続けていたのだった。

 ふとしたことでそれが明らかになった時、おりょうには勿論怒りがあったが、准尉もまた、思いもよらぬ激しい憤りを見せた。彼は、金を受け取ってはいたが、おりょうの人柄と心情にひかれて、本当に善意で努力していたのだった。

 准尉は、おりょうに勧めた、史郎の戸籍を水原に移しなさい、と。史郎はまもなく一旦は召集解除になるはずだ、そして、時をおかずして再び召集になる、その時、岐阜に戸籍があり、岐阜で暮らしていては駄目だ、すべてを水原に移しておけば、次ぎの召集では、岐阜ではなく、水原の隣りの新発田の連隊に配属されることになろう、と言ってくれた。

 おりょうは、史郎を説き伏せて、戸籍を移した。

 

 心で裏切っていながらの、たまさかの帰宅ではあっても、帰ってくれば夫婦としての関係もあり、おりょうは岐阜において四人目の子供をみごもり、昭和十七年の年の瀬も押しつまった日に、私の妹、祥子を生んだ。まだ小さい姉の房子が、買物に行ったり、炊事のまねごとをしたり、二人の弟の世話をしたりした。

 この昭和十七年の春には、おしむの計いで、桂子は、東京四ツ谷の勝興寺という寺に預けられ、そこから新宿の、文化服装学院という所へ通って、女としての実学的なことを学び始めていた。長福寺の吉川和尚が、この勝興寺の住職も兼ねていて、桂子を引き取り、教育してくれていたのだった。

 そしてまた、この同じ年の春に、修一郎は召集されて、仙台の連隊に入っていた。おりょうは、慌ただしく見送りに水原へ帰ったが、おしむが人々に縫ってもらった千人針に、自分の一針を心をこめて加えて持たすだけで、何ひとつ母親らしいことをしてやれなかった。 

 思えば、修一郎は、史郎を恨み憎むことなく、苦悩の歳月を越えて、おりょうたちを許し、迎え入れてくれた子だった。松井史郎の命乞いのために、大枚の佐々木の金を使いながら、今は佐々木家の当主たる修一郎の生命を守るためには、ただ祈ることしかできない自分の身勝手さを思って、おりょうは苦しんだ。

 そして更にこの同じ年、次男、修二郎は、朝鮮の平壌の支社へ転勤になった。明治製菓は、一般の菓子の他に、命じられて軍の糧食の乾パンや缶詰も作っており、それを扱う明治商事の支社が平壌にあった。

 修二郎は、平壌に向かう前に、わざわざ岐阜の母おりょうのもとへ、別れを言いにきてくれたが、前年の暮れには日本は真珠湾を空襲して、米、英に対して遂に交戦状態に入っており、緊迫の度を増す大陸の前線に近い朝鮮への勤務を命じられての挨拶にきた、徴兵検査もいつあるかわからず、自分は身体が良いので、まずは甲種合格となり、即時現役で入隊することになるだろう、その時は会えるかどうかもおぼつかない、と言う修二郎に対して、やはりおりょうは、何もしてやれず、守ってもやれない自分を思って、涙するしかなかった。

 しかし、すでに世は、ひとりひとりの母や、ひとりひとりの恋人の努力などは及びようも無い巨大な力によって、戦争への道をひた走らされていた。女たちにできることは、まさに祈ることだけだったのである。

 

 昭和十八年の春、史郎の召集はたしかに一旦解除され、おりょうは、四人の子を連れて水原の家に帰った。

 そして入れかわりのように、修二郎の入隊であった。それでも満蒙(まんもう)や中支ではなく、とりあえずは内地の会津若松への入隊であったので、おりょうは見送ってやることができた。何をしてやることはできなくとも、少なくとも、地続きの内地に修一郎も修二郎も今はいるということに、おりょうは、わずかな心の慰めを見出していた。

 だが、そんなおりょうの慰めや願いは、すぐに打ち砕かれていった。

 その年のうちに、史郎は再び召集がかかって新発田の連隊に入り、修一郎は輜重隊(しちょうたい)として軍馬を輸送しながら中支の内陸深く河を遡行(そこう)して行き、修二郎は、千葉県習志野の仕官学校で暗号将校としての訓練を受けさせられたあと、見習い士官として南方の前線へ派遣されるべく、途中の伊豆大島での待機となっていた。

 軍の移動は、最高機密であった。それ以後、修一郎や修二郎の便りが届くことはあっても、検閲のために、転任先や移動の予定などには一切ふれられていず、最後に仙台の修一郎に面会に行った折に、中支へ行ったあとは最終的には自分は千島列島の方へ配属になるようだ、と聞かされていたので、おりょうは、修一郎を北の極寒の前線で、修二郎を南の島の前線で失うことになるのかと絶望した。

 そして、その悲しさの反動のように、自分は水原の家にほど近い新発田の連隊にいて、相変わらず上官たちに佐々木の家から金品を運ばせて貢(みつ)がせて、自分一個の生命だけを利己的に守り続けている史郎に対して、激しい怒りのようなものを感じた。

 史郎が自らを購(あがな)う分だけ、その負債の均衡をとる如くに、修一郎や修二郎は遠く奪い去られていくように、おりょうには感じられたのだった。

 

 どんなに、国家統制下の報道が事実を粉飾(ふんしょく)して伝えようとも、「神国・日本」の軍が、多数の将兵の生命を失いながら、後退につぐ後退を続けていることは、覆(おお)い隠しようもなかった。

 ガダルカナルを放棄し、山本五十六を南の空に散らせ、アッツ島の数千の将兵を骨と化さしめ、キスカ島を放棄し、……と、日本は、急速に、この小さい島国に押し戻されつつあった。その後退してくる軍の最前線へ送られるということは、即ち、玉砕するということに他ならなかった。

 やれビルマとの同盟がなったの、フィリピンとの連盟がなったのと、傀儡(かいらい)政権との形式的結合の報道はあっても、現実に最後の手段としての学徒動員もなされ、徴兵される青少年の年齢はますます低年齢化し、やがて日本本土への米機による爆撃も始まってみれば、日常生活の窮乏の実感とあいまって、目隠しをされた国民にも、日本の歩んでいる道は、もはや破局への道であることは推測されていた。

 しかし、だれも、それを口にすることはなかった。口にすれば、ただちにその者は「非国民」であると攻撃された。そしてまた、人々自身が、それを口にすればそれはすなわち、なおこの時にも前線で銃弾もなく食料もなく、ただ精神力のみで戦っている己(おの)が肉親を見捨て、その死の意味を虚しくすることでもあると思っていた。
 人々は、自分をも他人をも、欺ききれぬことを承知しながら、甲斐ない希望を口にしあっていた。

 桂子は、何とか二年間の通学を終えたが、そのまま女子挺身(ていしん)勤労令によって徴用(ちょうよう)され、東京で生きていた。

 

 この間にも、米軍は怒涛(どとう)の如くに北進し、沖縄の空爆についで、遂に昭和十九年の十一月には、東京にも爆弾が降りそそいだ。連合艦隊を失い、制空権を失った日本は、もはや空からの攻撃に抗するすべが無かった。B29の大編隊は、以後、日本全土に爆弾と焼夷弾の雨を降らせ始めた。

 東京が初めて爆撃を受けたと聞いた、昭和十九年の初冬、そろそろ朝夕には凍てつきだしていた庭の土を、親方の新松は堀り始めた。防空壕を掘る、というのだった。もはや助ける人手は無かった。おしむは、無理なことだからやめろ、死ぬときは死ぬしかないのだと言ったが、いや、皆様がお帰りになるまで、この家の人々を守るのが自分の最後の努めだ、と言って黙々と掘り続ける、背中にもう老いの見える新松の姿に、おりょうは胸を打たれ、自分もモンペ姿でシャベルを手にし、新松と二人でモッコをかついだ。

 こうして二人は、雪の舞い始める頃までに、小さい防空壕を作り上げた。座敷の廊下の板をはがして床下にもぐり、そこから這い込むように入っていく小さな防空壕だった。

 この防空壕へ、親方の新松に背負われながらもぐりこんだのが、私のはっきりした記憶の始まりである。入口の上に横に渡した丸太の梁(はり)に、いやというほど強く頭をぶつけた。その痛みの衝撃が、四歳半だった私の脳を目覚めさせた。以後の日々の記憶は、鮮明に刻み込まれ、残っている。  

 ほどなく、灯火管制や空襲警報は日常茶飯事となり、防空ずきんをかぶりながら、ランプの火屋(ほや)をみがいて煤(すす)を取るのが、幼い私の日課となった。

 慣れというのはこわいもので、サイレンがけたたましく鳴り、「空襲警報発令!」と役場の職員がボール紙のメガホンで叫びながら、自転車で走り過ぎていっても、防空ズキンをかぶり直すぐらいで、そのたびには誰ももう、あわてて防空壕に這い込んだりはしなくなっていた。

 時折、遠い空を飛び過ぎていく爆撃機の音が、雷鳴のように響いてきた。そんな時でも親方の新松は、自分ひとり防空壕に入らず、庭石に腰を下ろして、キセルをくわえながら空を見上げていた。

「本当に爆弾が降ってくるようなら、こんな防空壕はひとたまりもない。入っているだけ生き埋めになるようなもんだ。わしは、ひと思いにふっとぶ方がいい」
と、自分で防空壕をほっておきながら、ヤケクソのように、ひとり言を言っていた。

「イキウメってなに?」
と私が聞くと、埋まって息ができなくなって死ぬことだ、と新松はあっさり答えた。そんなのいやだ、自分も入らない、と言うと、そうだな、とまたあっさり言った。まあ、こんな何もない田んぼの中の町にまで爆弾が落ちてくるようになった時には、この世もおしまいだ、日本なんて国はもう無くなっている、とも言った。

 

 ある日の夕暮れ、かつて聞いたことのない、腹に響きわたる、まさに轟々たる音が、私たちの頭上を通過しつつあった。その音は、雨戸やガラス窓をビリビリと震えさせ、大地を揺るがし、私たちの存在そのものを足元から揺るがせながら、通り過ぎようとしていた。

 何百機とも数え切れぬB29の大編隊であった。

 こんな時のために掘られたはずの防空壕には、誰ひとり入らず、ほとんど茫然と放心したようになって、初めて見るこの死の運び手の群れを見上げていた。 

 いったいどこにまだ隠されていたのだろう、どこからともなく、高射砲が撃ち始められた。

 暮れなずむ空に、花火のようにパッと閃光(せんこう)が炸裂(さくれつ)して煙の輪が広がり、ひと呼吸遅れて、ズズーン、ババーンという発射音と炸裂音が響き渡った。そして、機影を捕捉しようとして、深照灯の光が、交錯しながら、暮れなずむ空を切り裂いていた。しかし、編隊は、高射砲など届くはずもない高度を、悠々と西の方角へと飛び続けていた。

 だが、何が起こったのであろうか、……突然、一機が火を吹いたのだ。それは、初めは、黒い煙りを引きながら、そのまま僚機とともに飛び続けていた。しかしまもなくそれは、火の粉を吹き始め、ゆっくりと編隊から離脱して、ゆるやかに弧を描きだし、そしてやがて真っ赤な火の玉となって、西の森の方へ、一直線に墜落していった。森の向こうで巨大な火柱が上がり、大地が揺れた。人々は、快哉(かいさい)を叫びもせず、重い気持でそれを見守っていた。大編隊のB29が今にも機首を翻(ひるがえ)して報復のためにこちらへ戻ってくるような気がして、怯えて凍りついていた。そしてほどなく、編隊の飛んでいった西の方角から、遠い雷鳴のような音が轟きだした。

「空が燃えている!」

と誰かが表通りで叫んだ。私たちはみんな、表通りへ駆けだした。

 たしかに、空が燃えていた。遠い空が、燃え上がる夕焼けように赤く染まり、何かが爆発するのか、時折吹き上げる巨大な火柱を雲で照り返しながら、まさに燃えていた。長岡市が爆撃を受けて、炎上していたのだった。いや、長岡だけではない。東京は勿論、いまや、日本全土が炎上していたのだった。

 

 もはや、味噌造りどころではなくなっていた。原料も無く、人手も無く、精米機や攪拌機を回す電力も無かった。
 ただ、今は、何とかその日その日を生きるのが精一杯のことだった。わずかに残されていた米蔵の米や、大豆蔵の虫食いの大豆が、糊口(ここう)をしのぐ糧(かて)のすべてだった。それに、芋をまぜ、あるいは、裏庭の、踏みつけて歩いていた、よもぎやどじょう草を入れ、少なくとも毒ではないものを何でも入れた、うすい雑炊(ぞうすい)をすすって、私たちは生きていた。

 

 最後の力を、自ら言うように役にも立たない防空壕を掘ることで使い尽くし、今、自分たちが「鬼畜」と呼んで戦ってきた相手の、あまりにも巨大な力と物量を目にして、もはや虚脱に陥った新松の他には、女、子供しかいなかった。どこの家もそうだった。

 暗いランプの灯のもとで、本土決戦になるらしいとか、戦車が来るだろうとか、竹ヤリでも少しは戦えるだろうかとかいうことが、ボソボソと話されていた。私は、昼間、家の前の石橋に腰かけて、竹ヤブを見ながら、自分でも戦える小さい敵兵もいるのだろうか、と考えていた。

 

 広島に、そして長崎に、新型爆弾が投下され、多数の非戦闘員が犠牲になった、人の心を持たぬ鬼畜にしてはじめて為し得る残虐行為である、とラジオは告げていた。

 その新型爆弾なるものが何であるかもよくわからず、ただ、この自分たちの町も村もすべて平らな焼け野原になっていくのかと、人々は底知れぬ虚無感に陥っていた。

 

 八月十五日の昼、天皇陛下のお言葉がある、ということで、私たち子供もみんな揃って、ラジオの前に座らされた。

 布張りの箱から流れ出した声は、小さく、かすれ、とぎれがちで、何か遠くこの世ならぬ所から語られている何ものかの声のようだった。「チンは……」と、繰り返し聞こえたが、あとは何にも私には理解できなかった。「おそれおおくも」「おおみこころが」という、とアナウンスが続いていた。

 祖母にも、母にも、新松にも、結局はよくわからないようだった。しばらくはみんな、放心したように黙って座っていた。やがて、新松が、ぽつりと言った、これは、戦争に負けちまったっていうことかもしれねえ、と。

 戦争が終わった? 私たちが生きているままで?……

 それは、最大の嘘のようであった。また、仮に信じてみても、だから何がどうなっていくのか全くわからず、うれしいことなのか、悲しむべきことなのか、それさえもわからず、人々は放心していた。奇妙に静かな、奇妙に空気の白々とした、けだるい夏の日だった。

 やがて、誰かが言った。

「みんなが帰って来る……」
と。その言葉が、人々を打った。そうだ、みんなが帰って来るのだ、男衆たちが帰っで来るのだ、と人々はつぶやき、急に、何かをしなければならない、という思いに駆られて立ち上がった。

 

 そしてまもなく、進駐軍の戦車が、キイキイと耳ざわりな軋み音と、ガタガタというキャタピラーの音を轟かせ、家々を揺さぶりながら、通り始めた。

 私たちは、外へ出て見ることを禁じられていた。女たちは、目にとまれば連れていかれる、と言われていた。私たち子供は、軍歌を歌ってはならぬ、歌っているのを聞かれたら、捕まえられてしまうのだ、と言われていた。言われれば言われるほどに、頭の中では妙に軍歌のメロディーと詞が渦巻き、思わず口ずさみそうになった。私は、歌い出さぬように自分の口を手でしっかり押さえながら、戸のすきまから、戦車と、米兵たちを満載したトラックやジープが、もうもうと砂煙を立てて行き過ぎるのを、のぞき見ていた。

 

 まっ先に帰って来たのは、父、史郎だったはずである。しかし、奇妙なことに、その感慨の記憶がない。父の不在の淋しさも、除隊になって戻った喜びも、何もないのである。

 姉の桂子、そして修二郎、最後に修一郎が帰って来た。そのすべてが鮮明に私の記憶の中にある。それはおそらく、母と祖母の喜びの大きさに共鳴しつつ私の喜びとともに刻まれたものであろう。

 父、史郎は、新発田の連隊で最後まで本部付きていた。中国語ができるということで、そしてまた、佐々木の家から上官たちに送り続けたものに守られて、本部で、大陸から送られてくる戦死者に関する情報の確認や整理などをしていた。日帰りの休暇もあれば、外泊もあり、何かにつけて水原へ帰ってきては、修一郎たちの居ない佐々木の家で大きな顔をしていた。爆弾一個落ちることのない地で過ごし、終戦を迎えた。母にも、祖母にも、改めての感慨のあろうはずもなく、むしろ反対に、未だ帰らぬ三人の子供たち……生きているのかどうかさえ知れぬ三人の子供たちを案ずる心を、より募(つの)らせただけだった。

 桂子は、たび重なる空襲の火の海の中で、勤労奉仕をしながら生きのびて、モンペ姿で帰って来た。やせ細り、目だけが、きらきらと輝いていた。

 修二郎は、結局伊豆大島で終戦を迎えた。敗戦を聞いた夜、海岸で割腹しようとしているところを上官に見つけられ、生命をもう一度与えられて帰って来た。それも、もう師走の頃だった。あれはミカンだったろうか、枇杷(びわ)だったろうか、背嚢からころがり出たものの、鮮やかなオレンジ色が、修二郎の帰還の思い出を彩(いろど)っている。どこへ行っても、私たち子供に何かの土産を持ってきてくれる人だった。

 そして、修一郎は、最も遅く、大晦日の夜更け、というよりも、元日の未明に帰ってきた。玄関の暗い電球を背に、長身の兄は、何か幽鬼のように細く、はかなげに立っていた。幾たびもの死線をさまよっての、千島からの帰還であった。 

 その後、幾夜も幾夜も、それぞれの人々が死と生のはざまで生きてきた尽きぬ物語があった。私は、母のうしろに隠れるようにしていながら、夜ごと、それらの話のすべてを聞いていた。

 厳しく、辛い話ではあった。しかし、それゆえにこそ、それらすべてが、今、語り得る過去となり、奇跡の如くにみんな揃って生きのびてともにあるという喜びが、あふれるようにあった。子供心にも、この幸せがわかった。母や祖母の、限りない喜びがわかった。私もまたうれしく、いつまでもそこを離れたくなかった。

 

 しかし、父、史郎は、……この日々、どこにいたのだろうか。……どんなに私の記憶を探り直して見ても、父の姿は見えず、声も聞こえない。
 居ながらにして居ない、というこの奇妙な「不在」の意味は、いったい何だったのだろうか。父、史郎に対する私の感情を伴った記憶の始まりは、もっともっと、はるかに後のことからでしかないのであった。

 

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