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第三章 無明
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その年の大晦日(おおみそか)の夜、私の家では、鮭の切身が付いた。私は、それに箸を付けなかった。母は、どうしたの、お食べ、と言ったが、私は、うん、と言いながらも食べなかった。英夫は、お前が食わないのなら俺によこせ、と言ったが、私は怒って、卓袱台(ちゃぶだい)の下に隠した。
母は、何か考えるように、少し眉を曇らせて、じっと私を見ていたが、自分も鮭には箸を付けなかった。父、史郎は、何にも感じず、何も考えず、ガツガツと食べていた。
その日の夕方、母が台所で鮭を切りながら、母様(かかさま)たちは今年は鮭も食べられないんだろうねえ、と誰に言うともなくつぶやいていたのを、私は聞いていたのだった。
食事が終わると、私は、自分の鮭の切身を皿のまま紙に包んで、佐々木の家へ持っていった。祖母は、何で食べたのか、もう食事を終えていたが、私の鮭の皿を受け取ると、手探りしながら仏間に持っていき、仏壇に供えて手を合わせ、見えぬ目から涙をポロリと落とした。
追いかけるように母が来た。母もまた、自分の分の鮭の皿を持っていた。祖母から話を聞くと、母は、うるんだ目でじっと私を見つめ、何も言わなかったが、一緒に帰る時、寒いねえ、と言って、すっと手を伸ばして私の手を握ってくれた。
さすがの父も気がついたのか、次の年の晦日(みそか)には、鮭の四半身を切り、これを持っていけ、と言った。母は、その尊大な言い方に、むっとし、要らない、と言った。やると言うものを要らぬとは何だ、と父は言い、そんな施してやるようなものの言い方があるものか、と母は言った。父母の言い争いの下で、ほのかな思いやりの証(あかし)となりえたのかも知れない鮭の切身は、もはや目に見えず「腐って」いった。母はとうとう持っていかず、父が持っていった。そして父は、その後何年も、鮭をくれてやったと言う話をした。母は、きれ長の目に憤りを含ませて、そんな父を睨(にら)んでいた。
父、史郎は、言い争いが募ると、すぐに暴力をふるい、刃物を持ち出した。内心は、肉体的も精神的にもまさに小心翼々(しょうしんよくよく)たる性格だったが、弱いものに対してだけは居丈高(いたけだか)になった。
学校から家に帰ると、時々、家の近くの電柱の陰に母がぽつんと戯れるように立っていた。どうしたの、と聞くと、父ちゃんがまた包丁を持って、と言うのだった。私は、小さい身体に憤怒(ふんぬ)をみなぎらせて、止める母の手を振り払って、家に入っていった。刺すなら刺してみろ、ただでは死なない、お前も殺してやる、と私は殺意さえ抱いて。私の怒りに燃えた凝視に会うと、史郎は刃物を引っ込めた。兄、英夫は一度、警察に電話したことがあった。警官が来て、父を説諭した。教師としても、父親としても、子供に範を垂れるべき立場なのだから、と修一郎ぐらいの歳の警官に説かれる羽目になって、史郎の一番大事な面子(めんつ)は丸つぶれになった。それ以後は、私たちが本気で警察に電話をしようとすると、あわてて刃物をしまった。
私は、父を憎むようになっていた。私は母に、なぜ父と別れないのか、飢え死にしたっていい、こんな地獄の中ではもう生きたくない、と言った。
母は、言った、……あの男に何の未練も無いが、お前たちが一人前になるまでは父無し子にはできない、私がもっともっと我慢をすればすむことなのかもしれないが、あまりのことに我を忘れることがあり、つい言い争いになっては、お前たちにも悲しい思いをさせてしまう、お前たちがもっと大きくならなければわかってもらえない私の悲しさ、口惜しさがあって、それが私を我慢できなくしてしまうのだ、でもお前たちには罪は無い、もっともっと強い心になって耐えるから、どうか許しておくれ、と。……それ以上は何も言えなかった。
ザルに盛ってあったミカンの鮮やかな色、今でも見える気がするあの黄金色(こがねいろ)の輝きを希望のしるしとして始まったはずの、家族六人の「水いらず」の生活は、初めから、砂をかんでいるように軋(きし)み、ひび割れていた。
姉は、二年後には新潟の大学に入って家を出、急速に自立していった。兄、英夫とは、どうしても心のわかちあえぬところがあった。妹とは心がつながっていたが、妹なりの心の傷を癒してやる力は私には無く、妹は桂子の所へ救いを求め続けていた。私もまた、自分の心からあふれ出し、はみ出し続ける苦しみに、つぶれそうになりながら生きていた。子供らしくない子供、もはや人生を生ききってしまった者のように、人が信じられず、愛が信じられず、砕けていくその心を毎日寄せ集め、貼り合わせながら、私は生きていた。
そんな私の中学時代の三年間の中で、私の心の傷を癒し、素直にし、自棄に陥ることを防いでくれる人がいた。
その一人は、あの同級生の子、杉野道子だった。彼女の家もまた、水原町の旧家で、昔からの醤油醸造元だったが、やはり戦後はかなり経営は傾いていた。佐々木の家と、杉野の家は、兄、修一郎と杉野の上の娘たちとは歳も近く、多少の交際めいたものもあったようだが、それは、後に知ったことで、私と彼女との出会いは、町の二つの小学校――ひとつは、私の家の前に、もうひとつは、彼女の家のすぐ裏にあった――を出た者たちが、町の中央、岡山にあった中学校へ進んで一つの校舎で勉強するようになったところにあった。
同じクラスになった人たちの中で、ふと目が合うと、何かあたたかいものの流れる人がいた。小柄で、丸顔の笑顔が可愛い人だった。目が澄んで、行動も発言も控えめで、むしろできれば人の陰にかくれていたいようなふうに見えたが、そのきらきらした目は、その人の中に、決しておとなしくもなく、卑屈には決して忍従もしない、生き生きとした魂が生きていることを示していた。私たちは、三年間、同級だった。どちらから先に認めていたのかはわからない。私たちは、互いに互いを「見ている」ことを、ある時、知った。私の中には、不思議な感覚があった。この人を、ずっと前から見知っていた、と。しかし、兄の修一郎に連れられて、彼女の実家の醤油蔵の立つ家へ行った覚えはあっても、彼女にそこで出会って、心にとどめたという覚えは無かった。小学校の五、六年の頃に、いわば生徒会長とか何々委員とかの委員たちが集うて彼女の学校を訪い、交歓会をしたことはたしかにあった。その時、彼女がそこにいた、ということは淡く覚えている。しかし、そういうことではなくて、もっと遥かな以前から、この人を見知っていたという感覚、そして更に言えば、その目の輝きの奥に秘されている燃えるような魂に、かつて触れ、その魂を愛し、また愛されたことがある、という感覚は、決しでそのような近い過去の具体的なできごとの結果とは関係が無かった。
ずっと以前とは、今、互いに十三歳という小さい生の殻に閉じ込められて生きているこの生の、おそらくずっと以前ということであり、いわば先の世のことのように思われた。また会うべくして会った、という喜びと、しかし何をどうしていけばよいのか全くわからない不安とが、ないまぜになってあった。ただ、はっきりしていたのは、その人の姿を見れば心うれしく、いつでも視野の中で、その人を追い求めていたことだった。
この根拠のない既知盛、運命感こそが、幼くはあっても、その思いが「恋」であることを示していた。私は、毎日の現実の生活の中で、傷付き、汚れながら、心の中で、その人に激しく問い、語りかけ、誓い、祈りながら、その人から、声なき慰めと、いたわりと、励ましを得ていた。私が生きています、私が一緒に生きています、とその人はいつでも言ってくれていた。それによって、私は、目覚める毎日の朝を、洗われた朝として迎え、生きていくことができた。
しかし、現実には、一瞬の眼差(まなざ)しの交わりの中で何かを交わしあってはいても、具体的には何かをともに語り合うことも無く、静かな年賀状などの他に手紙を交わし合うことも無く、ただ互いの視野の内にいつも互いを探し求め合いながら、中学の三年間、そして高校の三年問を過ごした。無器用な、道を知らぬ、ただ思い合うだけの恋だった。
その後、二年間の浪人生活をして、二十歳で私は東京の大学へ入り、水原の町を去った。浪人生活の間も、大学へ入ってからも、全く抑えに抑えた内容の手紙の往復が何回かあった。しかし、私たちは、会うことを恐れているかのように会おうとせず、また、会うことを決した時は不思議に何かに妨げられて会えなかった。私はある時、彼女に、お別れの手紙を書いた。彼女は、静かに、わかったという返事をよこした。そしてなお、何十ケ月かを彼女はひとり過ごし、そして何かを決して嫁(とつ)いでいった。
何も交わし合うことの無かった恋、しかし、限りなく多くのものを交わし合い、与え合ったこの愛の中で、私は苦しかった青春の日々を生き、その後も生きてきた。今もなお、その人の手紙は箱に納められて私の机の中にある。
もう一人の人のことを語らなければならない。
坂本道文という人がいた。父、史郎と同じ水原高校の、歴史の教師であり、のちに私がこの高校に進んだ時には、この先生の講義も受けた。しかし、そのことには、特に意味はない。
道文は、当時二十代の後半だったろうか、まだ独身であった。戦時中、特攻隊員として出陣というところで終戦を迎え、生きながらえた。駒澤大学を出て、水原町の隣村、笹岡村(現在は、神山村と合併して、笹神村となっている)の寺、鑑山寺の僧である父親の手伝いをしながら、水原の高校の教師をしていた。 終戦になってから遅れて大学を出て教職についたので、歳はいっていたが、新任の教師であった。
この道文という人が、父、史郎に連れられて、私の家――家族六人で住み始めた家へ遊びにきた。この人、僧侶であり、かつ教師であるこの人との出会いが、私にとってもう一つの、その後、長く尾を引いた運命の出会いとなった。教師としての彼には、高校へ進学してから触れたが、くり返しになるが、そのことにはほとんど意味が無い。私にとって、この坂本道文という人は、ただひたすらに、あたたかい心を持った人であり、そして、僧侶であった。
水原高校にはなぜか、僧籍を持つ教師が多かったが、ただ一人、縁あって、この坂本道文という人が、私の前に立っていた。私は、歳の離れた兄のようにこの人を慕い、この人の心から学んだ。
道文は、体型も顔もいかつく、美男子の哲学人というよりは、豪放蕩落(ごうほうらいらく)な自然人という風貌の人であった。歳よりもずっと老けて見えた。しかし、一見磊落(らいらく)なその言動の背後には、極めて繊細な感受性が隠されていた。死を目前に見た、というだけでなく、その後の苦学と、家庭の中の地獄に耐えて生きてきて、静かな死生観(しせいかん)、あるいは諦念(ていねん)のようなものを持っていた。それは、解脱(げだつ)して悟りの境地に至った清朗な心であるというよりは、若くして既にある疲労を感じ、なお日々に担わなければならぬ悲しみ、どこまで続くかわからぬ悲しみに、ただ耐えていくのみ、と思い定めて初めてかろうじて得ている静かな死生観、即ち、諦念であった。僧衣を着、経は上げても、彼自身もまた迷妄の罠)わな)にとらわれながら、そして既にそこで疲労しきりながら、わずかになお「道」を求める心を捨てないでいる、求道(ぐどう)の人であった。私は、傷ついている心の直感で、この人の心を見てとっていた。
彼はよく、私たちの家を訪れた。ともに夕食をとり、泊まっていくこともしばしばあった。親しくはなっても、まさか麦飯と醤油の実だけでもてなすわけにもいかず、乏しい母の財布にとってある程度の負担ではあったであろう。しかし、母にも、私にも、彼の来訪はうれしかった。まず何よりも、外面(そとづら)のよい、面子(めんつ)を重んじる父、史郎が、道文のいる限りは、家族に親しげにふるまうことが救いだった。彼のいる限り、それは、ほっと心の安らぐことのできるひと時であった。
何をしなくとも、自分がここにいることが意味を持っているらしいということを、道文はすぐに察した。父母の雲行きのあやしい一夜、私が泊まっていって欲しいと思う一夜には、彼はじっと私を見て、「利夫ちゃん、今夜も一緒に寝るか」と言ってくれるのだった。
そうして、窓から射し込む月明かりの中で、彼は、いろいろのことを語ってくれた。私も、語った。互いに、自分を一番苦しめている者の名を挙げたり、具体的な事柄を述べたりはせずに、人生一般の問題の如くに語り合っていた。しかし、互いに、今、現実に苦しんでいることは、よくわかりあっていた。後年、彼は、より具体的に自分の苦しんだものについて語ったが、それは、想像のついていたことでもあり、見えていたことでもあった。
道文の寺、鑑山寺は、偶然、佐々木家の宗派と同じ曹洞宗の寺で、笹岡村のはずれ、山の麓近くの小高い丘のうえに立っていた。すぐ隣りに諏訪神社が接してあった。
神社と寺が、軒(のき)を接して並んでいる、というのも考えてみれば妙ではあったが、別段そんなことにはこだわらない村人たちの素朴な信仰心に立ってみれば違和感もなく、山裾(やますそ)の木々は、そんな人間の小さなこだわりなど意に介しもせず、ひっそりと、神社と寺とをごく自然に包み込んでいた。道文は独り身だった。住職の父親と、母親との三人暮らしだった。もう嫁をもらっていて不思議のない歳になってはいたが、もらう覚悟ができないできていた。
住職の父親は酒好きで、飲み始めれば際限なく飲み、飲めば飲むほどに分別を失って荒れた。要するに、酒乱であった。檀家へ経を上げにいき、ふる舞い酒に酔ってくだをまき、酔いつぶれた。閉口した檀家からの連絡を受けて、道文が迎えにいったり、母親が迎えにいったりした。母親はいつも、夫の不始末をあちこちと詫(わ)びて歩かなければならなかった。
「若(わか)の方が来てくれよ」と檀家に言われるまでもなく、道文は可能な限りは自分が法要にまわって歩くようにはしていたが、それがまた、父親の気にいらなかった。自分も僧衣を身に付けて駆け付け、仏壇の前で割り込むようなこともあった。道文は、耐えた。檀家を辞して、父親を引きずるようにして、人目を忍んで田の道を歩きながら、道文はうなだれていた。父親は声高(こわだか)に道文を罵(ののし)り、世の中を罵り、最後には自分自身を罵って、人問の屑(くず)た、坊主の風上にも置けない破戒の者だ、死んだ方が世のため人のためだ、と自虐的にくどいた。そのくせ、家に帰りつけば、また酒を求めて荒れた。母親は、いつもおろおろしながら、泥まみれの夫の僧衣を脱がせ、足を拭き、酒を飲み足してもいい、ただ一刻も早く寝入ってくれることだけを願っていた。
そんな母親を、父親が、いやというほど足蹴(あしげ)にした時、道文は思わず父親にとびかかって、殴り倒した。父親は、呻(うめ)きながら両手で頭をかかえて倒れた。母親を助け起こして別室に寝かせ、庫裏(くり)に戻ってみると、父親はもう呻いていなかった。かべに寄りかかって、両手両足を投げ出したまま、鼻血を出し、上目づかいに道文をじっと凝視していた。
その眼差しの中に、憤怒(ふんぬ)の炎を見れば、道文にも救いがあったかもしれない。しかし、そこには、暗い絶望、底無しの虚無しか見えなかった。道文は、泣きながら父親に詫び、鼻血を拭いてやり、抱いて布団へ連れて行った。その身体は、悲しいばかりに軽かった。
その夜、道文は、ただひとり、暗い本堂に座し続けた。経のありたけを読み、果ては、沈思(ちんし)に沈んだ。人は、こうまでして、なぜ生きなければならぬのか、と心に刺さった問いの刃に、血を流しながら彼は答えを探した。彼がその答えを見出したかどうかは知らない。
「業(ごう)」と言い、「因縁」と言い、生・老・病・死の「苦」の道、この「苦」が生む愛の渇きであるところの「苦集(くじゅう)」の道、そしてこの愛執の苦しみを残りなく捨てよという道を示す「苦滅(くめつ)」の道、更に、修め続けて心の眼を開く道があると説く「苦滅道」の道と、先達(せんだつ)の師たちによって説かれた法輪はあり、それはめぐっていても、道文も、道文の父も母も、その法輪に踏みしだかれながらなお見えぬ目であがく衆生の一人にすぎないのだった。
仏(ほとけ)ではもとよりなく、菩薩でも、観音でも、阿羅漢(あらかん)でもなく、「僧」であるのかさえおぼつかない自分、生死の海をさまよい続ける衆生(しゅじょう)の一人でしかない自分であることを認めたこと、これがすべてであったのかもしれない。
それはもとより、答えではなかった。答えを探す道の始まりでしかなかった。しかし、この日から道文は、たしかに、新しい歩みを始めた。自分の中にあった一瞬の人間的殺意の存在を認めた。父親の酒を認めた。自分が一緒に飲んでやろう、一緒に酔ってもやろうとした。父親をも、母親をも救う力の無い自分であるならば、自分もともにただ苦しんでやろうと思った。世間体(せけんてい)をつくろい、自分の体面を気にすることをやめた。裁く者、観察する者であることをやめた。彼は、父親とも、母親とも、ただ一緒に歩こうと思った。
そんな道文を理解してくれる人があって、道文は結婚をした。道文は、何ひとつ、自分の家のいわば恥部(ちぶ)を隠さなかった。それを承知で、その人は、道文に添うた。それで父親の酒乱はおさまりはしなかったが、道文自身の心のやわらぎが、目に見えず、父親をも包んだ。本堂の縁側の日たまりで、ますます小さくなった父親と並んで座り、とりとめのない穏やかな話をすることもあるようになった。ともに肩を並べて、墓地の草むしりをすることもあった。父親はすでに肝臓の働きを失っていた。まもなく急速に衰えが来て、日々に意識も薄れていき、灯明の燃え尽きるように、ふっと、しかし、穏やかな顔をして、道文の父親は死んだ。
私は、妹の祥子を自転車の後ろに乗せて、道文の寺へよく遊びにいった。隣りの神社の夏祭りにもかならず行った。昼間は神社前の広場で村人たちの相撲(すもう)大会があり、夜は花火が上がった。私は、具体的に改まって、道文に何かを教えられたということは無い。彼はもはや、上から何かを説くということをしない人になっていた。ただ、誠実に、正直に生きていた。喜びを喜びとし、苦しみを苦しみとして生きていた。貧しさをも隠さなかった。
語られることには、じっと耳を傾け、心を傾けるだけだった。しかし、道文を相手に語る時、語り終わってみれば、求める答えは、道文の言葉にではなく、語る自分自身の中にすでにあったことにいつも私は気付いた。ただその答えを正直に認められなくて、そのまわりを、逃れるように堂々めぐりをしているだけなのだった。
私が東京の大学へ出る日、彼は見送りに来てくれた。その後も時々、優しく静かな便りをくれた。しかし会う機会は乏しくなり、やがてほとんど音信もとだえた。私の不精と、精神的荒廃のためだった。
しかし、気がついてみると、私が迷妄の川を流されていく時、先達(せんだつ)としてではなく、ともに流れてくれる人として、彼はいつも私の心の深みに存在し続けていた。
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