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第三章 無明
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高校生活にも、浪人生活にも、大学生活の大半にも、ほとんど、懐かしさをもって振り返れる思い出は無い様な気がする。私は、最も多感なこの歳月を、むしろ心を閉ざし、感受性をあえて麻揮させて、傷つくことから自分を守りながら生きていたような気がする。それでもやはり、読み重ねた書物も、書いた手紙もあり、闘いもあり、また、人との出会いも別れもあった。
姉の房子は、新潟の大学を出て、教職の道へと進み、僻地(へきち)の小学校に赴任(ふにん)したりして働いていたが、早くに良い人にめぐり会って、結婚をし、自立した。頭の切れる人であり、また真摯(しんし)に職責を果たす人であったので、早くから取りたてられて、校長になったり、県の指導主事になったりした。現在はまた現場に復帰して、小学校の校長をしている。ただ不幸にして、早くに夫が急逝(きゅうせい)して、二人の男の子を、独力で育てた。その二人の子も、もう一人前になっていて、親としての役目は立派に果たしてきたことになるが、女として、人間としては、淋しい人生のうしろ半分であったことだろう。夫は、夜半におそらく心筋梗塞によると思われる突然死をした。朝まで誰も気がつかなかったという亡くなり方であった。姉に責任はなくとも、たぶん姉はおりょうに似た慙愧(ざんき)の思いを残して生きたのだろうと思う。
兄の英夫は、新潟の大学の医学部に進んだ。胸部外科の講師にまでなり、ある意味では順当なエリート・コースを歩んでいたとも言えるが、それに伴って、次第に、一種傲岸(ごうがん)な物の見方、考え方を強め、人の道を踏みはずすようなことを重ねた。しかもそのことを通して、彼は自分の生を根本から洗い直すことはせず、むしろ居直ったようにその傲岸さを強めていった。自ら犯した不祥事のゆえに、大学にはいづらくなって、一時、長岡市の大きな病院の外科系の部長となり、大学から幾人かのスタッフを連れていっていたが、まだ自分が新設した胸部外科の基礎も固まらないうちに、連れて行った人たちも置きざりにしたまま、自分ひとり、厚生省の役人になると言いだし、今度は、父、史郎を走りまわらせて地元の代議士の力を借りたりして、結局厚生省に入った。公的病院にいたのだが、監査などで訪れる厚生省の「若造の役人どもに偉そうなふりをされるのが不快」で、医者はやめて医者を使う側になることにしたと、私には言ったものだ。変わり身の早い兄であり、その変わり身に、迅速(じんそく)に「立派に理屈」をつける兄だった。
私は、のちに書くように、大切な人を、この兄によって汚された。その怒り、憎しみ、悲しみによって、私は、この兄の異常な世界から自分の世界を切り離し、故郷をも捨てることになった。
妹、祥子は、高校を出ると、新潟市内のデパートに勤めたが、一年たらずでやめ、東京へ働きに出てきた。下町の小さな楽器の製造、卸しの店に住み込みながら働いていたが、後に、主に共産圏貿易を手がけている商事会杜に移り、そこで知り合った少し年下の同僚と結ばれて結婚をした。
妹が、東京へ出てきて働いていた時期は、まさに私の大学生時代そのものであり、私が絶えず飢えていた時期でもあった。私は、この妹に幾度も、飢えをしのぐ金を貸してもらった。幼い頃から、そして成人してからも、この妹、祥子との絆は、多少の争いをは交えながらも、常に一番深かった。
私が二年間の浪人生活を送らざるをえなかった一番の理由は、もちろん、私の努力不足であろうが、また、私が生きる道を見出せず、従って社会的かかわり方としての「天職」を見出せず、ただ情緒的にさまよっていたことにもよるのだろう。
最初の年は工学部を受験した。建築家になろうか、と思った。――自分が死んでも、自分の建てたものの中で人々が、語らってくれればいいな、と思った。
あくる年には、工学部の、造船学科を受けた。――自分が死んでも、自分の作った船が人々の夢を運んでくれればいいな、と思った。
三回目には、文学部を受けた。自分が死んでも、自分の書いたものが人々に小さな慰めを与えてくれればいいな、と思った。……私はいつも、死を考えていた。死ぬために、今、生きているかのようだった。しかし、どの道の選び方も誤っていた。美しい死のための道などという甘ったれた道は、どこにも開けようがなかった。
文科には合格し、一年を学んだ。もともと好きな道ではあり、居心地は良かったが、しかし、居心地のよい分だけ、その道の先に、何かを書きうる自分があるとは思えなかった。居心地のよさの中で退嬰化(たいえいか)していく自分が予感されてならなかった。私はもっと生々しく「生きる」必要があった。自分が、生身の人間たちと「斬りあい」、「血を流すようにして」触れ合っていくことによってしか探し求める真実は見い出し得ないのだと、思うようになっていった。
青春の時期に読むべき書に一冊一冊とめぐり合い、哲学の書にも、仏教の書にも、聖書にもめぐり合いながら、私は、理念的な「生き方」ではなく、現実の「生きる形態」を求めていた。
そして、ある時、シュヴァイツァーの書に出会った。私は、彼の哲学の観念よりも、実賎の道としての「医師」という働き方に、社会や人間とのそういう「かかわり方」に惹(ひ)かれた。
文科を退学しての、四度目の受験となった。私は、医学部に入った。もとより、経済的には何の保証も無い、長い学生生活であった。それでなくとも、「大変」という言葉では尽くせぬ経済的苦労のうえに、さらに続く長い年月の負担である。いざのなれば、シュバイツァーと同じようにひとたびは労働の場に出て、少しは蓄えもし独学ででも進む覚悟であった私の決意を、父母は、認めてくれた。
*
それに先立つ高校を卒業してからの二年の浪人生活を、私は水原の家で送った。予備校は当時からすでにあったが、行く余裕などは全く無かった。私は独りでコツコツと学びながら、苦しく発酵してくる自分の内なるものを、困惑しながら見つめていた。そして、どこかで思っていた。苦しくとも、これは多分、きっととても大切な豊饒(ほうじょう)な時なのだ、と。この日々を、仮の時とは思わず、かけがえのない一日一日と思って生きよう、と。けれども、時には、吐け口を見出せぬままに荒れた。その自暴自棄の嵐を、耐え忍んで受け止め続けてくれたのは、結局、母であった。理屈も、裁きも越えて、受け止め続ける母の愛と忍耐が、私を「正気」につれ戻すのだった。時には、もはや戻りたくない、つらい「正気」に……。
浪人生活の日々、私は勉強に倦(う)むと、時折、ふらりと祖母のもとを訪れた。祖母は、更に腰が曲がり、目もほとんど失明していた。それでもやはり、私の訪れた空気だけは、不思議によく察知して、いざるようにして出てくるのだった。
「おや、利夫かえ」
という、ふっくらとした声は変わらなかった。しかし、……「針孔(みず)を通していってくれるかえ」
とは、もう言わなくなっていた。目も見えず、手も震えて、もう祖母は縫い物もできなくなっていた。
破れたまま引きずっている祖母の寝巻きの裾(すそ)をかがってやると、衣類と下半身の汚れから、便や尿の臭気が漂(ただよ)った。着がえさせてやりたくて、祖母の部屋をのぞいてみても、汚れものが隅にまるめてあるばかりで、まともなものは何も無かった。台所も流し場も土間を横切って行くところにしかなく、失明し足も弱った祖母は、もう何も洗うことはできなくなっていた。母、おりょうが、時々行って洗ってやったり、兄、修一郎が少しは、洗ってやったりしていたが、入浴はもうできず、たまに母が身体を拭いてやるぐらいのものだった。温和で気品のあった祖母だったが、今はもう、垢と汚れにまみれていた。
あい変わらず、何か私に与えるものが無いかと、手探りで茶箪笥(ちゃだんす)をかきまわしたが、何もあるはずがなかった。「何もなくてのう」と悲しげに言う祖母を縁側の座布団の上に座らせて、肉体の目の見えぬ祖母と、心の目の見えぬ私は、肩を並べて、一緒に庭に向かって座っていた。
「梅は、もう終わったかねえ」
と、庭の梅の老木を見るようにして祖母は言った。「うん、終わったよ」
と、私は答えた。私の幼時からすでに中が空洞になっていて、わずかに樹皮のすきまから水を吸い上げては、奇跡のように花や実をつけていた、この苔むした梅の古木は、遂に最後の生を尽きさせ、枯れ山水の木のように、ただ樹形だけをとどめていた。しかし私は、「枯れてしまった」とは言わなかった。祖母は、幼い頃に、私が朝早くに布団を抜け出しては、梅拾いをして、こんなにあった、とうれしそうに持ってきたこと、青い梅をかじって、おなかをこわしたこと、などを思い出して語った。
「つつじと、もみじの、若葉がきれいだねえ」
と、祖母は庭の奥を見やって言った。見えますか、と言うと、ああ、ぼんやりだが、優しげな緑が見える、と指さした。たしかに、そこには、つつじともみじの若葉があった。その向こうに、朽ちかけた土蔵が静かに立っていた。肉体の目はもう見えなくなっても、この家で往き続けてきた祖母には、何もかもが、なお「見えて」いたのだろう。「今年は、砂もたせはどうかねえ」
と、祖母は言った。土蔵の礎石をかこむように盛ってある砂地に、毎年、黄色い、楚々(そそ)とした風情(ふぜい)の丸い頭のきのこが出るのだった。祖母は、毎年それを食べるのを楽しみにしていた。雑草に埋もれて土も変わり、もう何年も前から、それは出なくなっていた。しかし、
「もう少ししたら、出るでしょう」
と、私は言った。
祖母にとっては、特に視力を失ってからは、時の流れは止まっていた。祖母は、くり返し昔を語り、私の幼い頃のことを昨日(きのう)のことのように語った。
祖母にまつわりついて生きていて、祖母が外出するとなると、必ずどこへでもついていき、やむをえぬことで私に隠れて出れば、私は玄関の軒下(のきした)にうずくまって何時問でも待ち続けていたこと、……長福寺のお講にこもれば、一緒に来ておこもりをして、わかるのか、わからないのか、一緒に並んでお坊さんの講話を聞いていたこと、……母や修一郎に叱られてお仕置きに土蔵に閉じこめられて泣いているのが可哀相で、頃合いを見回らっては助けにいったこと、……祖母が湯治(とうじ)にいった三里も離れた山の宿へ、下駄ばきでひとりで半日がかりで歩いて探してきて驚いたこと、……戦後の菓子のない時期に甘い物を食べさせてやりたくて、なけなしの砂糖でカラメルを焼いてやっていると、生つばを飲みこみながらじっと正座して待っていたこと、……そして、別れて暮らすようになってから、大晦日に鮭の一切れを食べずに持ってきてくれたこと、無花果(いちじく)を取ってきてむいてくれたり、柿を取ってきてむいてくれたりしたこと、知恵子がいなくなってからは、仏壇の掃除をしてもらっても小遣いをやることもできず悲しかったこと、……などをくり返し語った。
修一郎はどうしてかいつも不在で、甥や姪たちも学校へ行っていて姿はなく、いつも祖母がひとり置き去りにされたように、ひっそりと生き続けていた。
その静寂と薄明の世界の中で、祖母がどんな思いを心のうちに持って生きているのかは、誰にもわからなかった。祖母は、多くの思い出を私に語っても、直蔵の死後の佐々木の家の没落を、決して恨みがましく語ることが無かったし、その道筋で私たちの父、史郎に与えたり、奪われたりしたもののことも、父、史郎が加えた忘恩(ぼうおん)の仕打ちの数々のことも、決して言わなかった。そして、自分たちを捨てていった嫁、知恵子のことも、懐かしげに語ることはあっても、自分の現在の境遇を、修一郎や知恵子の責任として責めるようなことは、やはり言わなかった。
ただ、時折に、私に言った。……父様(ととさま)がのう、さっきそこに思なさるように見えたがのう、と。……今はただ、夫、直蔵のもとへ行ける日を、心静かに待っているように見えた。糞尿にまみれ、飢えながら、祖母は、すでにこの世を「わたって」いたのかも知れなかった。
祖母にむいて与えるべき無花果(いちじく)の木も、柿の木も、その敷地とともにもはや他人の手に渡って無くなっていた。私はただ、日だまりの縁側に、祖母と並んで座っているだけだった。
私が、東京の大学の文科に入ったその年の秋に、祖母、おしむは、ひっそりと息を引きとった。私は、知らせを受け取ったが、帰らなかった。ただ短い手紙を母に書き、今は帰らない、と言った。祖母の死は、勿論、現実のものとして信じられた。しかし、私の心の中では、やはり祖母は生き続けていた。
「おや、利夫かえ」
という、ふっくらとした祖母の声は、私の耳に残っていた。私は、ぬけがらでしかない祖母の遺体には会いたくなく、生き残った者たちの、共通ならざる思い出話にも加わりたくなかった。いつの日か帰り、ひとり訪れて、「祖母とともに」、庭の紅葉を見ようと思った。
覚悟の上での大学生活ではあったが、貧しく、飢える日々が続く年月であった。家庭教師は、二つも三つもかけもちで行い、障子貼り、チラシ配り、印刷物の配達、そして東京湾の埠頭での荷役作業と、何でもやって働いていた。それでも、寮で買う食券の金が無くなり、昼に大学の学生食堂で一杯二十五円のラーメンを食べ、夜は寮の残食を二十円で買って食べた。それもいつもあるわけではなく、食べそこねたある夜、あまりの空腹に耐えかねて、私は、寮の外側に広がる畑から、熟し切らないトマトを一個、盗んで食べた。そしてそのことは、長く私の心にトゲのように刺さり続けた。
本を買い、そしてまたそれを売った。「放浪記」のフミ子のように、飢えてさまよいながら、ただ、目だけを光らせて、私は生きていた。
母はいつも、十分な仕送りができなくてすまない、と手紙で書いてよこした。しかし、私には、母が、精一杯のことをしてくれていることがわかっていた。母の、こんなにも長く続いた経済的労苦を、軽くしてやれないでいる自分が申しわけない、と思うだけだった。
のちになってわかったことだが、母の毎月送ってくれる何千円かの金の中には、水原町のある医師の援助が含まれていた。利夫君には生涯決して言ってはならない、と言いながら、母に与えてくれていたのだった。ずっとあとになって、母は、そのことを語った。
道文も、時折、優しい言葉に添えて、金を同封してくれたりしていた。また、時折、差出人の名の無い現金書留が届いた。しかし、その差出人は、勿論、私にはよくわかっていた。それは、その人が嫁いだ後もなお何度か届いた。私は、自分ひとりで悲壮感をもって懸命に生きていると思っていた。しかし、思い返してみれば、多くの人々が、私を支え見守ってくれていたのだった。
医学部に入って三年目のある日、生化学の実習をしている時に、地震が来た。相当に強い地震だった。ガス・バーナーなどを消して余震の鎮まるのを待っている間に、級友の一人は、医学部図書館の地下食堂のテレビを見にいった。まもなく帰ってきて、
「おい、新潟で大地震だそうだ」
と言い、更に、お前、たしか新潟ではなかったか、と言った。私は、実習をやめ、急いで九段坂にあった寮の学生会館に帰った。寮のテレビは、新潟市内をつらぬいて流れる信濃川(しなのがわ)の落ちた橋や、倒れた県営アパート、そして、炎上して黒煙を吹き上げている港の石油とガスのタンク群を映し出していた。姉も、兄も、新潟にいた。しかし、母たちの安否が一番案じられた。水原町は、新潟市から二十キロばかりしか離れていない。電話をしても通じなかった。私は、帰ることに決めた。
旅費が無いので、まず神保町(じんぼうちょう)の古本屋へ行って、最後の私の宝物であったロマン・ロラン全集の「ジャン・クリストフ」と「魅せられたる魂」の七冊と、フランス語の辞書を売った。
買っては売り、売っては買いして、顔だけは見知っている店の主人だった。何を話したこととて無かったのだが、その時彼は、私の表情に何かを感じたのか、何か急に金が必要になったのか、と聞いた。私は、思わず、郷里の新潟が地震なので帰る、と言った。彼は、黙って、すでに支払ってくれた金の上に、もう五百円を加えてくれ、早く帰ってやんなよ、とポツリと言った。
上野駅からまだ列車が出ていたのが不思議なようなものだった。時刻表等はもう関係なく、ダイヤは乱れきっていた。やっと乗り込んだ急行は、デッキから人がころげ落ちそうだった。
列車は、不規則に走ったり停まったりしながら、日頃の倍もかかって、それも途中の新津(にいつ)駅止まりだった。そこから水原に行く羽越線(うえつせん)に乗り換えるにも、列車などいつ来るものかわからなかった。私は、そこから十五キロほどはなれたわが家に向かって歩き出した。歩く県道の両側に、梅雨に洗われた稲が波打っていた。見なれて育った、五頭(ごず)、菱ケ獄(ひしがたけ)の連峰も、変わらぬ姿で立っていた。ああ、これならきっと大丈夫だと、私は思った。
しかし、着いてみれば、あまり大丈夫でもなく、それでなくても古い二階建てのわが家は、何となく傾き、中に入れば、壁には何ケ所も亀裂が走っていた。
幸いに、私の家も、佐々木の家も、誰ひとりけがはなく無事だった。母は、私を見ると大喜びした。私が帰ってくるに違いない、その時にまた余震でもあって列車がひっくり返りでもしたらと案じて神棚に祈っていた、と言った。実際、この少し前に、地震によってではないが、事故によって、阿賀野川の鉄橋から列車が脱線・転落していた。その時も、私が帰省などするはずもない日なのに、母は、おろおろして、私が何事もないようにと神仏に祈っていた。母は、いつでも、私を案じ続けていた。何かしら私の生き方が、はかなさや、危(あや)うさを、母に感じ続けさせていたのかもしれなかった。
後日、家の傾きを直すために土台上げをしたが、それ以上の経済的余裕は無く、ひび割れた壁はその後何年もそのままだった。もともと古い家の骨組みの何かがさらにゆるんでしまったのだろうか、少し強い風が吹くと、家はギシギシときしみ、しきりに揺れた。
まもなく、新潟から会津、郡山を経て、太平洋岸の福島県平(たいら)市に至る、国道四十九号線の整備拡張工事が始まり、佐々木の家のどまんなかを道路が突き抜けた。土蔵と、かつて祖母の好きだった「砂もたせ」の生えたその脇の道、そして土蔵の裏の井戸小屋だったあたりのわずかの土地しか残らなかった。母も、修一郎も、そして私も、生まれ育った佐々木の家の、完全な消滅であった。祖母のいた母屋(おもや)も庭も、何ひとつ残らなかった。
土蔵のうしろに残った日のあたらない空き地に、修一郎は、補償によって得た金で小さい家を建てたが、それはもはや、私の心につながる何ものをも持たない家だった。修一郎の子供らももうみんな家を出てしまって、修一郎は一人暮らしになっていた。佐々木家のまったき消滅、……修一郎が、遂にしきれなかった決断を、国が代わってしてくれたのかもしれなかった。
佐々木の家が取り壊されるという日、私は、東京にいた。母から連絡はあったが、見おさめに帰る気は無かった。祖母の亡くなったあとに訪れて、祖母の魂とともに晩秋の庭を見ながら語り合った日に、もはやすべてに対する私の別れはすんでいた。私は、ただ遠く思っていた、祖母、おしむが、この日を見ないですんで良かった、と。そしてまた、思っていた、母、おりょうは、語り尽くせぬ思い出に満ちた生家を、巨大な機械たちが、情け容赦なく突き崩していくのを見ながら、どんな気持でこの一日を過ごしているのだろうか、と。
*
昭和四十三年一月。……
私たちの学年の卒業試験が始まってまもなく、医学部は、全学年が無期限ストライキに突入した。
インターン制度廃止後の、卒後研修のあり方をめぐる医学部自治会と教授会との対立、という医学部個別の問題の様相において闘争は始まった。
この時点では、他のどの学部も無関心だった。しかし、闘争に処分が加えられ、その処分にかかわるできごとのあった日に他県へ行っていて不在だった学生もがそこにいたとして処分されていたことが判明した時、必然的に闘争は処分撤回闘争に連結していった。だが、教授会は、あやまちを認めず、機動隊を導入して弾圧する一方で、スト破りの十人ばかりの卒業試験を隠れて都内のホテルで行うという姑息(こそく)な手段をとった。この「分断し、支配する」という権力者の常套的(じょうとうてき)対応に、怒りが爆発した。百年来続いた教授会権力と、それを支えてきた医局講座制の解体が叫ばれ始めた。そして、将来の特権的地歩を約束されることによって権力がわに懐柔(かいじゅう)され取り込まれていく部分への憤りも燃えた。
しかし、その憤りをつきつめていってみれば、憤らなければならない精神的腐朽(ふきゅう)、それに鈍感になれば約束されている特権的地歩というものは、己れ自身の中にもあった。自らの精神構造をまず解体しない限り、誰ひとり闘う主体たりえないということに学生たちや、若い医局員たちは気づいた。
そして、教授会権力というものが、大学の自治という見せかけの自由、実は、官学・産学共同体として国策に協力し迎合(げいごう)し続ける限りにおいてのみ認められてきた「下僕(げぼく)の自由」の上になり立つものであることを見抜くに至った時、闘いは、医学部個別の枠を越えた。いわゆる東大闘争の始まりであり、全国学園闘争の始まりであり、全共闘運動の始まりであった。
もはや問いは、外在的に存在する社会的「事象」としての闘争にお前は参加するのか、しないのか、ではなく、お前はどう生きようとしているのか、だった。否定しようとするものは、教授会権力であり、大学の自治であり、その背後にある巨大な国家権力であったと同時に、この現代の社会体制の中で、さまざまの既成の価値観を自明のものとして受容し、エリート的地歩を享受(きょうじゅ)しようとしているまさに己れ自身であった。
この一年ほど前、淡い、しかし主観的には真剣だった恋をして、つましい学生結婚をしていた私は、これから始まった五百余日の闘争の中で、この結婚生活を破綻(はたん)させた。垢(あか)まみれになりながら、私は、封鎖した建物の中で寝起きし、ビラのガリ板を切り続けた。それは、私のきわめて個人的な闘い、……ひたすら優等生的に生きてきた自分の人生を打ち砕くための闘いでもあった。ビラは、私自身の中に向かっても撒かれていた。
両親には、卒業できず、医者にもなれないかもしれない、と手紙を送っていた。父は、何も言ってこなかった。母は、ただ、身体にだけは気をつけておくれ、と言ってきた。
闘争は、全国に火の手を広げ、七十年安保闘争や、ベトナム反戦運動、成田・三里塚闘争などと連動しながら、野火の如く広がり、うねって巨大な流れとなっていった。
国家権力もまた、危機感を強めて反撃に転じ、昭和四十四年一月、まず東大に八千人の機動隊を導入して学生、大学院生らをめった打ちにして封鎖を解除し、更に続いて二月、もう一つの闘争の拠点であった日大の闘いをも機動隊によって弾圧した。連日、全国の大学や、高校に、機動隊がなだれこんだ。
こうして、個々の闘いの拠点は押しつぶされながら、闘いは多様な形態を生みだしつつ全体としては先鋭化し、その十月、国際反戦デーにおける、全国八十六万人の、学生や青年労働者の参加する闘争へと突き進んでいった。これに対して国家は、騒乱罪を適用し、ひたすらに力による弾圧を重ねていった。
この「圧殺」に抗して、「武闘」へと駆け抜けていった人々もあったが、多くの学生や労働者には、もはや、石を投ずることしかできなかった。
闘争は、物理的には「敗北」し、精神的には、問われ始めたばかりの重い「問い」を残し続けた。封鎖や投石で国家の暴力装置に勝てるはずは勿論無かった。また、そんな物理的な力で勝つつもりも始めから無かった。封鎖も、投石も、座り込みも、そして、新宿西口地下広場を自然発生的に埋め尽くした歌声運動も、……すべてが、「意味」を問う闘いであった。この「意味」の問いに対して、権力は、ただ暴力で答えたのみであった。
昭和四十四年の秋、私は、最後まで闘いに残ってきた五十余名の級友とともに、闘争の敗北の総括をして、卒業をした。そして、なおも続く学内の闘争を続ける中で、私は逮捕され、十日余を留置所で過ごした。逮捕されたり、負傷したりしていない級友の方が少なかった。拘置所には、すでに一年近く拘禁(こうきん)されている友もいた。
留置所を出た時、警察署の玄関には、妹の祥子と、闘争の中で知り合ったひとりの女性(ひと)が待っていてくれた。
それ以後、私は、医者をしながら生きてきた。大学の医局の中に、闘いの痕跡を残したつもりではあるが、それが今、どんな意味をそこで持ち続けているかはわからない。私は大学を去り、一時は郷里に近い新潟県内の病院にも勤めたりしながら、結局、出世や権力とは縁の無い生き方、生き方を選んで生きてきた。留置所から出た時に迎えにきてくれていた人と、二年あまりをともに暮らしたが、それも瓦解させた。愛に飢えながら、常に愛する者を傷つけてしまう屈折した情念の中で、私は生きてきてしまった。
兄、英夫も早くに結婚していた。兄嫁の佳代子は、北海道上川郡のある町の出身で、京都の大学を出て、英夫と結婚してからは、中学校の教員をしていた。
私の卒業を待ちかねて、父、史郎は高校の教職を辞した。当初は、英夫たち夫婦と父母は、あの地震でいたんだ家で暮らしていたが、父、史郎は、退職してからはいっそう些細(ささい)なことにまで口うるさくなり、何かにつけて、憎しみでもあるかのように、佳代子に意地の悪い当たり方をした。見ていると、何かしらそこには、奇妙に性的に屈折した心理のような、もやもやしたものが感じられた。
佳代子は、表立っては口答えもしなかったが、夫の英夫が帰宅すれば、いろいろとあったことを話した。すると英夫は、直情的に怒って、史郎を怒鳴(どな)りつけ、遂には、父親に対して手を上げるようになった。どちらにも言い分があった。英夫は、史郎が陰湿だと言い、史郎は佳代子こそ告げ口に明けくれて陰湿だと言った。
四年ばかりして、英夫は、狭い家の中で顔をつき合わせて生きているのが悪いのだ、物理的な空間が心のゆとりを生むだろうと言って、祖母、おしむの実家、かつて勘当されたおりょうたちがかくまってもらった、柄沢家の畑を譲ってもらって、そこに新しい家を建てることになった。お前の故郷にもなるのだからと言われて、三分の一の土地の代金を私が持ち、母は、二十年余住み守ってきた南町の家を手放すことを決めた。父は、その退職金の大半を出した、と言う。
こうして、父母の最後の財産のすべてを提供させ、私にも手伝わせて、新しい「家族の心の寄り所、みんなの故郷」を作ったはずの家は、しかし、結局は新たな悲しみの家、心を更に荒廃させ、腐朽させる、無明(むみょう)の家にしかならなかった。
英夫の精神的堕落は、年を追って加速していた。父、史郎と英夫との争いは続き、そこにはいつも、金銭の話がからんでいた。英夫は、父母に対して、食費を出せの、灯油代を出せの、と平気で言っていた。
私に対しては、俺は淋しく、お前ひとりが本当の心の寄り所だからと言い、東京から帰ってきてくれと言った。私は、郷里に近い県北の病院に入り、自分の訪れることが、一つの緩衝(かんしょう)になればと思いながら水原の家に行っていた。しかし、ある時、利夫はやたらに来るが、来れば食費などに金のかかることは考えないのだろうか、と言っている英夫の言葉、そして、俺は、釣った魚には餌をやらない主義なんだ、と、他の者に言っている言葉が耳に入った。私の心は、凍(こお)りついた。私は、父母にはすまないとは思いながら、それ以後、ピタリと訪れることをやめた。
私が訪れなくなっても、英夫は、別に何にも感じなかった。自らの傲慢な肉体的暴力によって、すべての人々の心を荒廃させていたのみならず、自分自身の人問性をも荒廃させていた。暴力というもののもたらす、それは必然的結果であった。
英夫は、自分を批判する者の存在を、許さなかった。それでも批判せざるを得ぬ思いを持つ人々は、黙って英夫の世界から立ち去った。英夫のまわりには、まるでハーレムのように、英夫に付き従う奇妙な若い女たち――看護婦たち――だけの集団ができ上がった。たまに、どうしても母に会いたくて行くと、いつでも二、三人の女性たちが英夫のまわりに侍っていた。時には、その一人の女性の膝まくらで寝ていたりする英夫の姿があった。奇異で、不快な光景だった。妻の佳代子が、こんな、ハーレムのような状況をどう考えているのかもわからなかったが、どういう理屈であるにせよ、そういうことの受容そのものが肌に汚物をぬられるように不快だった。
英夫は、新潟に仕事用と言って、マンションを買って持っていた。そのマンションにも、出入りして身のまわりの世話をする女性がいた。更に、早くに関係を持って子供を生ませた女性が、佳代子の他にもいた。人格の荒廃は、性的堕落と、暴力という形になって、英夫の生活を異様な、狂気じみたものにしていた。
修一郎の長女、麻子は、家出をして、英夫のマンションに隠れていた。英夫は、修一郎の娘への無理解とエゴが麻子の幸福を妨げている、その麻子を自分が保護し、導いてやっているのだ、という理屈を立てていた。しかし、結局のところは、こともあろうに姪である麻子と性的関係を持つにいたり、そのために麻子を死に追いやった。おそらく、この許されぬ関係に真に苦しんだのは、麻子の方だったのであろう。麻子は、英夫の家をとび出し、金沢、東尋坊と、死に場所を求めて一週間さまよい歩き、再び新潟へ向かおうとするかすかな思いがあったのだろうか、直江津の地まで戻り来ながら、そこですべての力が尽きたように、深夜の鉄路に身を投じて、二十六歳の生命を飛散させた。
義姉、知恵子の置き去ったあと、私も幼い叔父として可愛がった姪であった。どんなに切ない恋にでも、純な恋に生き、死んでくれたのだったら、いかに悲しくとも、残された者にも救いはあったかもしれない。だが、まさに守ってくれるべき人間との許されぬ性的関係に陥って死んでいった、ということには、救われぬものがあった。
英夫は、嘆いて、泣いた。しかし、その嘆きや涙がどういう意味のものであったのか、何を悲しんでのものであったのかは、今に至るまで遂にわからない。いや、その時は、自分の犯した罪、償いきれぬ罪の深さに泣いているのだ、と私は思っていた。しかし、何ケ月もたたぬうちに、再び、より多くの女たちにとりかこまれ、自分の正当性を傲然と論理化し始めた時、私には英夫の涙が何であったのかがわからなくなった。人を裁く資格など微塵(みじん)もないはずの人間が、平気で人のこと皮肉をまじえて酷評(こくひょう)していた。
そして、遂に、英夫は制的放恣の果てとして、私を偲(しの)んで訪うた、私の愛する人を、新潟のマンションに連れていき、義兄だった人と信じて宿ったその人を、犯した。……
すべてが終わりだった。
その人の辱(はずかしめ)めのことを知った時、私は、兄、英夫を殺そうと思って、新潟のマンションの下に、深夜立ち尽くした。しかし、長い苦悶(くもん)の後に、私は結局上がっていかず、自らこの地を去ることを選んだ。私は、兄を捨て、故郷を捨てた。更に、兄を是認し、かかわり続けるすべての人々をも捨てた。
それは、結果的に、父をも、母をも捨てることであった。母は、淋しげに手紙をよこし、また時には、妹の祥子たち夫婦に連れてきてもらって、東京の私の所へ訪ねてきた。一人暮らしの私のワンルーム・マンションの、ふたつ布団を敷く余裕も無い所に泊まった。私が仕事に出ていけば、その小さな部屋で母はひとりぼっちで夜まで私の帰りを待っていた。
何を考えながら、その長い時を過ごしていたのかはわからない。しかし、私が帰ると、きかぬ身体で味噌汁などを作っていて、笑顔で、お帰りと言った。
その母を水原に送っていっても、私は、英夫の家には一歩も入りたくなかった。玄関につながる橋の門灯のうす暗がりの下に、母と、母の荷物を降ろし、振り切るようにして私は車を発進させた。見えなくなるまで母は、立ち尽くして見送っていた。バックミラー中の、遠ざかりゆく母の細い姿を見ながら、私は涙を落とした。
一年後、私は、父に対する英夫のあまりの暴力の話に腹を立てて、埼玉県蕨(わらび)市に小さい家を借り、父と母を抜け出させるように呼んで住まわせた。
私との三人暮らしは、一年近く続いたが、私は、朝早くから夜遅くまでの病院勤務だった。父は、母を置いて、すぐにひょこひょこと出歩き始め、母を淋しがらせるような外での人間関係を重ねた。私自身は、夜、家に帰る頃には、人に対する情愛の力を毎日使い果たしていた。母は、淋しそうであり、私に甘えたかったのであろう、身体のあそこが痛い、ここがつらいと、訴えた。しかし、人間にも、病気にも、倦(う)み疲れて帰ってくる私には、それに対して優しく接する力がもう残っていなかった。無力で、ちっぽけな私の心だった。私は、自分自身の生の根源から愛を汲み直す力を持たず、結局、枯れた心のままに毎日、次の仕事に向かわなければならなかった。
それでも、母とふたりであれば、暮らし続け得た気がする。私も母に甘ええたであろううし、母も私に素直に甘ええたであろう。しかし、そこにはいつも、「聞き耳を立てている」父がいた。何を語るにしても、父の批判を交えないでは、過去のことも、現在のことも、真実を語ることはできなかった。日頃は、母をすっぼかして出歩いている父が、母が何かを語りそうな時ほど、何食わぬ顔をしながら、そばにいて離れなかった。母は、言いよどみ、そしてすべてを語らず飲み下した。私は、母の心を救うことができなかった。この時期の母に対して、私は、ただ身の縮むような申し訳なさを感じ続け、その後も長くこのことで自分を裁き続けることになった。
父母に去られた後は、英夫は何かと優しげなことを言ってよこした。それは、必ずしもポーズではなかったのであろう。人は、現実の生活において離れていれば、いくらでも優しくなれる。それでも母は、素直に喜び、今日はこんなことを言ってきてくれた、早く帰ってくるようにと優しく言ってくれた、と言うのだった。
私は、再び母たちを郷里に帰すことにした。英夫の所で暮らしている限りは、忍び会ってでも、また、行き来している祥子たちに連れてきてもらってでも私は会える、しかし、私のいる所にいる限り、英夫には勿論のこと、英夫の子供らにも、房子にも会えない。修一郎にも、桂子にも会えないのだった。
水原の孫たちがどうしているだろう、佳代子さんや英夫に叱られてばかりいなければよいが、と言い、また修一郎や桂子がどうしているだろうとつぶやく母の言葉を聞いていると、安らぎきれる「家庭」を与ええない自分の無力を思い、父母を庇護(ひご)しているようでいて、実は父母にとって大切なものたちとの縁を断ち切らせている自分の狭量(きょうりょう)を思わされた。しかし、私はやはり英夫を許すことはできず、英夫のいる世界に立ちまじることはできなかった。だとすれば、父母を水原に帰すしかなかった。
帰っこいと優しく英夫が言っている今が、もう一度帰ってみる潮時(しおどき)なのかもしれない、これを逃してこじれれば、英夫は、意地になって再びは帰ることを認めなくなるかもしれないね、と私は言い、母は、うん、そうだね、帰ってみるよ、と言った。私は父に、何とか我執(がしゅう)を捨てて母のために英夫と折り合って暮らしてくれ、と言い含めて、ふたりを水原の家に帰した。
母は、言葉の上では了解しつつも、妹たち夫婦の車に乗せられて帰っていく日、何とも言えない淋しい顔をしていた。また本当にこれようかねえ、また会えるかねえ、としきりに言った。
* よかれ、と思って帰したはずであった。しかし、結局は私の責任放棄であったのだろう。英夫の「優しさ」を信じさせたのも誤りであった。父の「我慢」に期待したのも間違いだった。時を置かずして、前にもましてひどい争いが父と英夫の間で続き、母は間に入って、心身ともにずたずたになっていった。佳代子は夫の暴力を止めようとはしなかった。父に対しては、すでに長年にわたって唾棄するような思いしか持たなくなっていた。英夫の視点でものを見、英夫の視点で暴力も黙認し、論理化していた。
やがて、ふとしたことで母は転倒し、腰椎の圧迫骨折をして、疼痛で這って歩くことも困難になった。医者は歳だから仕方が無いとしか言わず、父、史郎は、まともに介護もしなかった。俺の身体が先に参ってしまうわい! と、動けぬ母を罵(ののし)っていた。母は、自ら生命を断つことも考えた。……
しかし、母、おりようは、私たちには思いもよらぬ最後の生命の力を奮い起こし、信じがたい強靭(きょうじん)な精神力と、深い愛の力によって、いまひとたび生きようとした。
母は、苦痛の汗を流しながら、人目のあるときだけたてまえとして差し出される父の手を振り払って立ち、歩く苦闘を始めた。誰の助けも借り ようとしなかた。ただひとつの力、精神の力、そして、まだ死んではならない何かの役目が自分に残されている、という内なる信念の力によって、苦痛の一歩一歩に耐えた。そしてまた、更に日々に募(つの)りくる醜(みにく)い争いの暴風と、結局は母自身にも加えられた英夫たち夫婦からの冷酷な仕打ち、愛してきた孫たちからも加えられた「死ねばいい」という斬るような言葉にも耐えて、日々に心を洗い直し、奥深い魂の底から、懸命に愛の水を汲み上げて、人々に飲ませ与え続けた。
母は、考え続けた。……
泥のように濁って浅い、苦痛に満ちた眠りから目覚める朝、何ものかが、なお今日一日生きることを求めているのだと、……まだ、お前には今日生きてやるべき役目があると言っているのだと。……
人は、誰もが愛に飢えている、愛されたいと願うなら、まず自分が愛さなくてはならない、愛は、求心的に自分に吸い寄せることによってふくらむものではなく、外へ向かって与え続けることによって豊かになっていくものなのだ、と考えた。
荒れすさむ心の子供しか持ちえぬ自分を不幸と嘆く前に、そうして荒れすさまざるをえぬ子供の心の悲しみを、わかってやらなくてどうしようと、考えた。
自分に突っかかってくる者たちは、その貧しく粗暴な表現を通して、何かを訴えているのだと思って抱き止めてやらなくてはならないと、考えた。
家族、きょうだいが、こんな形で終わってはならない、自分の存在と愛だけが、みんなをもう一度ひとつの家族にすることができるのかもしれない、それこそが、お前の最後のつとめだと言われているのかもしれないと考えて、母、おりょうは、生き続けた。……母は、八十五歳になっていた。
その母を、父、史郎は、またも裏切っていた。
ある日、勤務先の学校に出勤しようと車で家を出た義姉の加代子は、田んぼにそった裏道で、ひとりの髪を振り乱した女に車を止められた。その女は、窓からこの手紙を読んでくれ、と一通の手紙を差し入れた。それは、その三十過ぎの女性からの直訴状(じきそじょう)だった。――もう長いこと、史郎につきまとわれ、性的関係を強要され続けている。そしてとうとう病気をうつされた。あなたたちの親なのだから、何とかこの始末を付けてくれ、というものだった。
英夫は、加代子から渡されたこの手紙を、史郎に突きつけて、問い質(ただ)した。史郎は、さすがにもはや言い逃れる道を見出すことができず、そういう関係を持ってきたことを認めた。
この歳になってなお母を汚(けが)すのか、許さない、出ていけ、と英夫は言った。
しかし、史郎は、居直った。出ていく必要は無い、この家を建てるについては、自分は自分の退職金を出した、その後も何かと金を出した、少なくとも六百万円は出している、と言った。
それでは、その六百万を返したら出ていくか、と英夫が言うと、史郎は、出ていく、と言った。母も、言った英夫自身も、耳を疑ったが、これこそが史郎の本音なのだった。史郎は、自分の不貞の話を、英夫の怒りに乗じて、まんまと金の話にすりかえ、息子に理不尽に追い出された哀れな父親という役まわりを演じ、あちらこちらに、「追い出された、追い出された」、と言いながら、心底では、いそいそとして、自分の荷物をまとめた。
かつて私とともに暮らしたことのある、埼玉県蕨市の、ある八百屋と史郎は奇妙に懇意にしていた。その八百屋の建てたマンションを、史郎は、すでに手ぎわよく借りて行く先の準備をしていた。
家を出るまぎわになって、史郎は、母、おりょうに言った。
「お前も、行かないか」
と。……まるで近所のどこかへふらりと遊びにでもいくような言い方だった。母は、答えた、行かない、と。
どんな目に会いながらも耐え抜いて、父、史郎に付き従って生きてきた母の、初めての拒絶であった。その拒絶に含まれたものの大きさにも、重さにも、気がつかない心にすでに史郎はなっていた。史郎は、母がついてくるとは、勿論、思っていなかった。彼は、「安心して」訊(たず)ねていた。もしも、行く、と言われたら、さぞ狼狽(ろうばい)し、困ったことだろうし、それでも結局は言い逃れをして、やはり母を捨てていったことだろう。
こうして、父、史郎は、息子には追い出され、妻には誘(さそ)ったのに断られ、という大義名分を立てて、顔見知るすべての人々にこの大義名分を言って歩き、餞別(せんべつ)をかき集めて、水原の家を出ていった。
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