かなる冬雷

 

第三章  無明

 

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 小学校は、家の玄関を出て、道路と川をはさんで斜め右前にあり、用務員が校門に立って予鈴をガランガランと振ってから駆け出していってもまにあう距離だった。姉も兄も、もう小学生だった。二人が出ていくと、私は、自分も出ていって、校門の前にたたずみ、やがて自分もこの校門の中に入っていき、そして、家族とは違う、新しい人間たちに出会うことになるのだと、しかつめらしい顔をしながら考えていた。それは希望でもあり、怯えでもあった。

 その校門の正面に向かい合って、寺の善照寺(ぜんしょうじ)があった。そこの娘は、姉の房子と同年だった。それほど親しい友という様子でもなかったが、私は姉についてこの寺の庫裏(くり)に上げてもらったことも二、三度あった。学校を見ているのに飽きると、私は、山門をくぐってこの寺の境内に入り、本堂をのぞき、墓の間をぬけて裏のあぜ道へおり、ぐるりとまわって、裏の木戸口から家へ帰ってくるのだった。

 私は、怖がりで、暗い所には化け物がいる気がしていたが、昼間、墓地を歩いていても別段に怖くはなく、むしろ墓地の静寂も、のぞき見る本堂の薄明(はくめい)も、心を安らがせるものであった。私は、墓石に寄りかかって、水田の稲の海と、点在する稲架(はさ)かけ並木の向こうに、くっきりと稜線を描く、五頭(ごず)、菱ケ獄(ひしがたけ)の山なみを見るのが好きだった。

 

 英夫は、腺病質でよく熱を出した。熱が出ると必ずのように頭をおかされた。熱があって学校を休まされ、布団に寝ている兄の横で、本を読んでいると、急に英夫は、もくりと起き上がり、すわった目で私をじっと睨(にら)む。私にはすぐにわかり、そっと後ずさりして敷居の所まで身を引き、ぱっと飛び上がって逃げ出すのだった。英夫は、何かわけのわからぬことを喚(わめ)きながら、執ように私を追いかけ続けた。時に逃げ方を誤って、追いつめられ、捕まれば、必ず殴られた。私は次第に考え、いつも玄関から外に飛び出した。はだしで逃げる私を、英夫もまた、はだしで追いかけてきた。私が何とか善照寺の山門に隠れると、きょろきょろ探したあげくに、英夫は校門をくぐり、教員室や校長室へ入っていった。そして「利夫はどこだ!」と喚(わめ)いた。教師がいつもなだめながら連れ帰った。私は、はだしのまま、墓地の中で時をかせぎ、頃あいを見はからって帰った。なぜか英夫は、私だけを追いかけまわし、憎んででもいるように、手加減せずに殴るのだった。

 

 秋、房子と英夫は遠足だった。私と、妹の祥子も遠足に行きたくて、姉たちと同じように、麦飯の握り飯を作ってもらった。私はそれを風呂敷に包んで背負い、一緒に行けるわけでもないのだが、学校の校門まで行って、校庭で子供たちのはしゃいでいる姿を見ていた。

 ふと見返ると、妹の祥子が、家の玄関から走り出てくるのが見えた。左手に握り飯を持ち、右手に箸(はし)を持って、妹は私を追って走ってきた。そして、つまづいて転んだ。握り飯は、手を離れて砂利道に転がり、妹は、うつぶせに倒れたまま、起き上がらなかった。私は、急に恐怖のようなものに襲われて、妹の所へ走っていった。

 近所の人が、妹を抱き起こしたところだった。妹は、固く目を閉じ、蒼白な顔をしていた。そののどに、白い角箸(つのばし)が深々と突き立っていた。
 妹は、家にかつぎこまれた。横たえられたまま、妹は、息もしていないように見えた。
 誰かが箸を抜き取ろうとすると、他の誰かが、やめろ、抜いたら死ぬぞ! と叫んだ。
 医者が呼ばれて駆けつけるまで、妹はそのまま横たわっていた。母は、妹の頭をなでながら慟哭(どうこく)していた。

 医者が来て、箸を抜くと、妹は、弱々しく泣いた。傷口からは、見る見る血が吹き出したが、その出方を見ながら医者は、大丈夫だ、急所ははずれている、と言った。

 首を包帯でぐるぐる巻きにされて、妹はそれでも目を開けるようになり、血色も戻ってきた。その日いち日、私は妹のそばを離れなかった。今日は何も飲み食いさせてはならない、と医者は言って帰ったが、昼頃、私の顔を見てニコリとした妹がいとおしくて、私は、大切なアメ玉をひとつ、口に入れてやった。 妹は、つばを飲み込む時の傷の痛さに顔をしかめながら、それをなめていた。祖母に見つかって叱られたが、私は、妹の笑顔がうれしかった。

 

 私が小学校に入ってまもなく、修一郎は、結婚することになった。

 母は、これ以上、佐々木の家に寄食していてはならないと思った。父、史郎は、教職以外の労働をする気はなかったが、母に、お前さまは奪ってきたものではまだ足りず、この家の米の最後の一粒までも食いつぶす気か、と本気になって怒られて、しぶしぶながら働くことになった。顔見知りの豆腐屋に頼んで、豆腐の作り方を習い、町の反対側、外城(とじょう)に近い町の一角に、古い家の前半分を借りて豆腐屋をすることになった。かまどを築き、鍋、釜、石臼、木型、水槽などを揃えた。祖母と母は、また何やかにや売って金を作った。こうして、南新町(みなみしんまち)という裏通りに、父と母は小さな店を開き、豆腐と油揚げを作る商いを始めて、佐々木の家を出た。

 この時、私と妹の二人だけが佐々木の家に残され、姉と兄は父母とともに暮らすことになった。四人の子を養う力が無いのだった。修一郎が、下の二人は自分が育てよう、と言い、私と妹は残されて、以後、五年余にわたって、父母との別居は続いた。老いた祖母と、修一郎、そして嫁いできた兄嫁の知恵子という人たちに、私と妹は育てられた。

 

 父母と姉たちが移り住んだ南新町(みなみしんまち)は、佐々木の家のあった下条(げじょう)とは町の反対側にあって、大人になってみればどうという距離ではなかったが、置いていかれた子供の心にとっては、その距離は遠く感じられた。

 私が生まれるとすぐに、母は脚気になり、私は結局、母の乳を飲まずに育った。まもなく妹が生まれたし、岐阜から帰ってからは、私はずっと祖母の胸に抱かれて育った。私は、祖母のしわくちゃの乳房につかまって眠った。母に抱いて寝てもらった記憶はほとんど無く、思い出すのは祖母の体温だった。私は、必然的に、お祖母(ばあ)ちゃまっ子になり、いつでも祖母の姿を追い求め、祖母が隠れて出かけでもすると、帰るまで玄関にしゃがみこんでいて動かなかった。まさに祖母が母がわりであり、祖母がいれば、母は要らぬかのようであった。

 しかし、母が去った時、私の心には、ぽっかりと深い穴があいた。祖母の慈(いつく)しみも、修一郎たち夫婦の優しさも、その穴を埋めることはできなかった。私は母を恋い、夜半に佐々木の家を抜け出して、母の住む町はずれの家までの「長い」道のりを歩いていった。

 修一郎は、一時の荒廃した精神状態からは脱して、父、史郎と顔を合わせなくなってからは、比較的平静な心を取り戻し、結婚した当初の幸福な空気の中で、私にも優しくはあったが、ただひとつ、私が父母のもとへ行く、ということに関してだけは、異常に厳しい態度を取った。何の用で行くのかを言って許しを得てから行かないと、必ず、こっぴどく叱られた。

 しかし、何の用で、と言われても、母恋しさだけしか無い小学校一年の私には、その都度に用なるものをでっち上げる才覚も無かった。私は、修一郎たちが二階へ上がるのを待って、そっと祖母のふところを抜け出し、裏口を出て、夜の町をひたむきに歩いた。

雨も降り、雪も降った。嵐が、木の枝を折り、雨戸を鳴らすような夜ほど、私の胸は苦しくなり、母を恋うて、歩いた。雁木(がんぎ)伝いに歩く夜道は遠く、人気(ひとけ)の絶えた暗い道は淋しく怖かった。何でこんなふうにして自分は歩いているのだろうと思うと、必ず涙が流れた。涙と鼻水を袖口でこすりながら、私はひたむきに歩いた。歩きながら、こんなに涙が出てしまったら、母の顔を見た時に出る涙はもう無くなってしまっていて、自分のこの切なさを表しようがないのではないか、と妙なことを案じていたりした。

 だが、母の顔を見れば、涙は、どこにまだそんなにあったのか、と思うほどに、限りなくあふれ出た。

 母の胸にとび込んでいく、というのでもなかった。母も、私を抱きしめる、というのでもなかった。母はただ、おや、来たのかえ、と言い、私はただうなずいて泣きながら、何かを口にいれてもらい、姉たちの布団の隅にもぐり込むだけだった。 

 しかし、母性の深い母は、私の淋しさ、母恋いしさを、自らが泣きたいほどによく理解していた。そして、私もまた、母が知っていてくれることを知っていた。だからこそ、私は、そうして夜の道を通いながらも、決して、一緒にここに住みたい、とは口にしなかった。それを口にされれば、母は、たとえ飢え死にしようとも、私と妹を引き取ったことであろう。口に出しては言わなくても、私の心を母は知っており、苦しんでおり、その母の心を私もまた知っていた。

 修一郎にしても、そんな私の心がまるでわからなかったわけではないのだろう、いや、自らも、幼い弟妹とともに母に置き捨てられて生きた者として、私の淋しさはよくわかっていたであろう。しかし、戦後の経済的転落を、修一郎の「無能」のせいだとしてあたかも「自分の」財産を損(そこ)なわれでもしたかのように罵(ののし)り続け、一時は、修一郎を「禁治産者(きんちさんしゃ)」扱いをした史郎への反発と、母に対する、かつての恋しさ、悲しさの裏返しの気持としての反発とをないまぜにしつつ、甘ったれるな、と言うように厳しく私を叱り続けた。

 時には、祖母とともにこれだけ愛情をかけて育てているのに、なお不満があるのか、と言葉に出しても言った。私には、何も言えなかった。祖母も、修一郎も、みんな好きだった。ただ、母も大好きなだけだった。修一郎に叱られ、責められることは、何重もの意味で私には悲しかった。

 

 私が小学校に入った年には、姉の房子は五年生となり、当時は五、六年生は、岡山にあった校舎に移っていくことになっていて、ともに同じ校舎で学ぶことは無かった。兄、英夫は、南新町の家から通って来ていたが、何か照れのようなものもあってか、学校では一緒に遊ぶこともまず無く、言葉を交わすことも無かった。南新町へ私が行っても、なぜか、姉や兄とはいつも心の距離があった。兄とは、たまに遊ぶことはあっても、すぐ喧嘩になり、必ず兄は手を上げて私を殴った。

 妹の祥子だけは、私になつき、妹なりに、私以上に淋しくもあったのであろう、いつでも私に付いて歩いた。自転車に乗れるようになると、私は、どこへでも妹をうしろに乗せていった。どんなでこぼこ道を走っても、時には雨に打たれてずぶぬれになっても、ころんで一緒に用水路にころげ落ちても、妹は私と一緒である限り、泣きべそはかいても決して泣かず、またどこまでも付いてきた。

 その妹も、ひとりでバスに乗れるようになると、隣り町へ嫁いだ異父姉の桂子の所へ行くようになった。桂子の子供の子守り、ということだった。そして少しばかりの小遣いをもらって帰ってくるのだった。

 しかし、妹が桂子に求め、桂子によって与えられていた本当のものは、母にかわる愛情だったのだ、と私は思う。妹は、愛の渇(かわ)きを、この異父姉、桂子によって癒(いや)そうとしていた。そして桂子もまた、この同じ年頃の自分の淋しさを思い起こしながら、祥子に愛情を与え続けた。

 

 こうして四人きょうだいは、互いにある心の懸隔(けんかく)を保ちながら育ち、生きてきた。その微妙な懸隔は、その後の生涯を通じて、今日まで埋め得ぬ心の「距離」として残ってしまった。近い「距離」のようで、遠い「距離」として。……その距離を、「近い」と思い続けたのは、房子であり、英夫であり、そしてもしかすると祥子もそうだったのかもしれないが、しかし、私は、その距離を、埋めたくて苦しみながら、その距離を常に「遠く」感じ続けた。

 ただ、母、おりょうだけが、どの子をも、差別なく、限りなく愛し続け、信じ続けてきた。母のこの愛だけを唯一の求心力として、私たちは「家族」であり続けた。そして、父、史郎は、危うくなり立っているこの家庭と家族を、絶えず破壊するような行状(ぎょうじょう)を重ね続けた。

 

父、史郎の岐阜の母親、私にとっては父方の祖母にあたる人は、戦後まもなくに一度、水原の佐々木の家を訪れたことがある。おしむと同じく小柄の人だった。何を言ってくれたのかは忘れたが、台所の隅(すみ)で、頭をなでてもらったことを覚えている。

史郎の母親が佐々木の家を訪ねてきて、心開いて逗留していったということは、私たちの母、おりょうを、史郎の伴侶として認知したことであった。史郎の先妻はその後、松井の家を出ており、あとは戸籍の問題が片付けば、母はようやくに「松井」の姓となり、私たちも私生児でなくなるわけであった。しかしその道は、その後も遠かった。

 そして、それを遠くし続けたのは、他ならぬ父、史郎であった。

 病気がちになった岐阜の母親を、史郎は見舞うと言って何回も出かけて行った。そのたびに、おしむは、切符を買ってやり、見舞い金を持たせ、自分の母親の形見の中から、絹の着物を選んで持たせてやったりしていた。しかし史郎は、岐阜に行けば、当の母親の看病などはろくにせず、近所の知り合いの家を遊び歩き、先の妻と関係を続けていた。「夫婦としての関係は切れていない、切れたことも無い、常に続いていた」……これが、先妻の、戸籍を放さない強い主張の根拠であった。そして、事実、史郎は、その主張の根拠を与え続けていた

 

 昭和二十七年、私が小学校六年の時、この岐阜の母親は亡くなった。危篤との連絡を受けて、この時は、母も岐阜に行った。父は、母を連れていくことに抵抗した。金だけくれればよい、というのだった。そして、母を置いたまま、勝手にひとりで行ってしまった。しかし母は、これが本当に最後かもしれぬとなれば、たとえ一日であっても、お義母さんのお世話をしなければ、私の人としての道が立たない、と思いながら、半日ほど遅れて岐阜へ行った。

 いないはずの先妻が、いつのまにかまた松井の家に戻って暮らしていた。史郎がこの事実を母に対して隠したくて岐阜に母がくることを拒んだのだとわかった。しかし母は、黙って看病し通し、この義母の死に水を取った。そして、金が無い、と言って遺体を放置し続ける岐阜の松井の一族の人々のあり様に耐えられず、修一郎たちに金を用立ててもらって、自分で史郎の母親の葬式を出し、法要を営んで、帰ってきた。 

 この時、母は、ようやくに岐阜の家屋敷を渡すのを交換条件として、離婚届に先妻の判を押してもらってきた。しかし父、史郎は更にその入籍を何年も行わなかった。 

 この少し前から、史郎は、水原高等学校の定時制夜間部の非常勤講師になっていた。まだ公職追放例は解除されていなかったが、佐々木の家と、おしむの実家、柄沢の家の筋からの懇望で、当時の校長の裁断で何とか取り立ててもらったのだった。勿論、定時制の、非常勤講師の給料などで生活できるはずもなく、母は豆腐屋をほとんど一人でやりながら生活を支えていた。父、史郎は、当直もしていたが、学校の女事務員と関係を持って、当直の夜になると彼女を引き込んでいた。そのことが露見すると、逆恨(さかうら)みに史郎はおりょうに対してひどい暴力をふるった。

 本来なら即座にまた免職にされても文句のない、父、史郎の行状だった。しかし、校長と事務長は、この事実を知ったあと、母、おりょうの窮状を救う方を選んだ。公職追放令廃止を待つようにして、父、史郎を正規の教諭とし、昼間部の勤務とし、その女事務員に学校を去らせた。そして、陰に陽に、母に、子供たちに希望をかけて生きよ、と説いて励まし、支えてくれた。

 

 私が中学一年になる年に、父はこうして、水原高等学校の正規の教員になった。それを機に、ようやくに私と妹も、父母のもとへ引き取られ、親子六人で暮らせるようになった。豆腐屋をしていた家をひき払い、佐々木家のすぐ近くの町内にある古い家で暮らすことになった。

 修一郎はこの家を、みんなで一緒に暮らせるようになった祝いにと、母の名義にしてくれた。この家こそ、……実は、あの富助が、死の直前に、修一郎に残した家であった。めぐりめぐる因縁の中で、私たちはこの家に住むことになり、その春、引っ越した。 

 三月だった。何をどう手伝ってよいのかもわからず、私はうろうろしていたが、母たちとともに暮らせる喜びに、叫び出したいほどにうれしかった。

 その部屋の片隅に、ミカンがザルに盛って置いてあった。その鮮やかな黄金色の輝きが、私の心の幸福の輝きのようであった。その色の輝きは、その後も、うれしいにつけ、悲しいにつけ、あの家で暮らした日々を思い出す時、胸を打つようにいつも思い出された。

 四十年後の今、もう人手(ひとで)に渡ってしまったこの家の前に立って見て、こんなに小さな家だったのだろうか、と不思議に思う。老いた家屋はすでに朽ちかけているように見える。

 しかし、この家の中で、たしかに、二十歳で東京の大学に出るまでの八年の歳月を、私は暮らしたのだった。そしてまた思う、私にとっては、万感迫る青春の八年であっただけかもしれないが、母にとっては、みんな巣立っていって帰ってくる故郷の家として、二十年余、耐え忍び、待ち続け、守り続けた家だったのだと。……

 

 昭和四十九年、兄、英夫は、おしむの実家、柄沢家のブドウ畑だった所を譲り受け、新しい家を建てて移り住んだ。この時、母は、この自分名義の家を売って英夫の家を建てる資金の一部にすることを許した。英夫は、あっさりと売り払った。私は、その家の中にあった私の人生、母の人生、富助の人生、富助を拾ってくれた老婆の人生を思いたどりながら、身を切られるように、淋しかった。

 

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