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第三章 無明
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ともあれ、こうして、修一郎が与えてくれた家で、家族六人が揃っての生活が始まった。輝くミカンの黄金色が、幸福を予感させたこの家での生活は、しかし、引き続く家計の窮乏と、両親の間の絶えまない争いによって、暗いものとなった。
正職員になったと言っても、父の給料で六人が暮らすということは苦しかった。母は、毎月、さまざまのものが天引きされた上に、父がタバコ代だ何だと言って更に引いた残りの金を眺めて、吐息をついていた。
父は、朝、登校前に釣りに行き、午後三時頃にはもう学校から帰ってきて、また釣りに行った。小見川の時代と同じく、釣りのあいまに学校の仕事をしているような具合だった。それでも俺は「ちゃんと」働いている、それでのやりくりは、お前の仕事だ、というわけだった。夫婦二人でともに悩み、ともに考え、痛みを分かちあっていこうという姿は、どこにも無かった。
私は、母にしばしば買物を頼まれた。米屋へ、八百屋へ、薬屋へ、……すべてが、現金が無く、「つけ」だった。姉は帰りが遅かった。兄は行くのを拒否した。母は、私に頼むしかなかった。私は、黙って、言われた買物に行った。「つけ」でお願いします、と言うのは恥ずかしかった。しかし、どこの店でも、何も言わず、快く売ってくれた。そして、請求書は、月末に、そっと郵便受けに入れであった。それは勿論、松井の家に対する好意ではなく、佐々木の家を知っている人々の、母、おりょうに対する同情を含んだ優しさであった。二、三ケ月分はすぐにたまった。しかし、催促する店は一軒も無かった。どこの家の人々も、松井史郎をは信じなくとも、佐々木りょうをは信じていた。そして事実、遅れ遅れになりながらも、母は必ず支払っていた。
父が、自分の小遣い分とか、立て替え分とか言って、毎月天引きする額が段々に多くなっていった。先月引く分を今月まで待ってやったのだ、というようなことを、よく父は言っていた。母が父に借金をしている、というわけだった。給料日はいつも悲しい日だった。
夜半、暗い電灯の下で、ちびた鉛筆をなめながら、母は、どうやっても足りるはずのない金を、あっちへ分けたり、こっちへ戻したりしながら、最後には頬杖をついて、途方にくれて動かなくなるのだった。二月が二十八日しか無いのがうれしい、三十一日ある月は悲しい、と母は私に言った。食べなければならない日が、一日多いか少ないかが、母には大きな問題だったのだ。
節約するとすれば食費しかなかった。すでに衣類は、つぎ当てだらけの物しか着ていなかった。麦飯の、麦の方が段々に増えた。それさえも十分な量は無く、母は、みんなのお代わりがすむまで、自分の茶碗にはほんの少しよそっただけで、箸を進めないでいた。父や兄は、平気で二杯、三杯と食べていたが、私は、母の表情の暗さに、ああ、もう無いのだな、と思って箸を置いた。
「おや、もう終わりかえ」
と母はいつも言った。そこには、お代わり、と茶碗を出されて、もう無いんだよ、と言わなくてすんだ安堵と、ただひとり自分の心を見ぬいている子への、すまなさがにじみ出ていた。
みんなが立ったあと、流しでお鉢を洗いながら、水に浮く飯粒をすくって食べている母の細いうしろ姿を、私はいくたびも見ていた。姉も足も、年頃だったから、麦飯の弁当が恥ずかしく、さっさと麦の少ない所をよりわけて詰め、更に弁当の表面の麦を拾って除いた。母は、何も言わなかったが、悲しげな顔をしてそれを見ていた。せめて母に見えぬ所でそうする心を、誰も持っていなかった。母はいつも、残った麦しか食べていなかった。
靴など勿論買う余裕も無く、私は高校卒業まで下駄ばきで通した。そういう子らは多かったから、それで別段悲しくもなかった。傘にしても、人数分は無かった。上の者たちが持って出てしまえば、もう一本も無かった。そして、父にしろ、誰にしろ、迎えに行くとか、待っていてひとつ傘で帰るという気持は全く持っていなかった。土砂降りの中を濡れねずみになって帰った私は、一度、居間でタバコをふかしていた父に、迎えにきてくれたら、とつぶやいたことがあった。父は、何を! 自分を何さまだと思っている! と怒鳴った。私の心は凍りついた。私は、寒さとは違う何かに、しばらくわなわなと震え続けていた。
いよいよ給料日前になり、おかずを買う金も無くなると、母は、私に「醤油の実」を買ってきておくれ、とよく言った。大豆を発酵させて醤油を作ったいわば残り大豆カスである。それはいつも、どんな買い物よりも私にはつらかった。十円分だけ、と言われて、十円と小鍋を持って、町の上(かみ)にある杉野醤油店という、醤油の醸造元へ買いにいくのだったが、そこには杉野道子という同級生の女の子がいた。丸顔の、笑顔の可愛い子で、私は、幼い恋心のようなものをその子に抱いていた。そしてその子も、幼い好意を持ってくれていた。何を話すということもなかったが、ふと目が合えば、心の通じているのが感じられていた。その人が、どうぞ出てきませんようにと、祈る気持で行くのだが、そう祈れば祈るほどに、その人が出てくるのだった。私は、赤くなりながら、醤油の実を十円分下さい、と言い、その人も顔を赤らめながら、ハイと言って、いつも鍋一杯に入れてくれた。何十円分もの量だった。
帰る道々、恥ずかしさとその人に会えたうれしさとの入りまじった何とも言えない気持にいつも私は困惑していた。母は、鍋を受け取ると、あれこんなに沢山に、また道子さんだったのかい、と言うのだった。母は、私の「初恋」を知っていた。
佐々木の家は、修一郎と兄嫁の知恵子との問にすでに三人の子があり、四人目がまもなく生まれようとしていたが、経済的には、ますます困窮を極めていた。庭も、土蔵も、廃墟のように荒れ果て、塀も朽ちつつあった。土蔵の中にも、もはや売って生活の資にできるようなものは、何ひとつ残っていなかった。
修一郎は、役場に勤めてみたり、菓子工場の事務に勤めてみたりしていたが、どれも長続きせず、定職のない月日の方が多かった。修一郎は、倹約を通り越して、吝嗇(りんしょく)に近くなりつつあった。
知恵子は、表立っては争わなかったが、苦悩しているのは私にもよく見えた。甥、姪、というよりも、幼い弟妹のような修一郎の子供たちが淋しそうに見え、私は可愛いがり、愛情に飢えていた彼らもまた、何の力もない小さな叔父の私を慕ってくれていた。
祖母、おしむは、糖尿病からの白内障が進んで、視力をほとんど失っていた。耳も遠くなっていたが、私が行くと、不思議と気配を感じ取って、腰を曲げて、奥の部屋から、手探りするようにして出て来るのだった。
「おや、利夫かえ」
と、うれしそうに言い、何か食べさせるものは無いかと、茶箪笥(ちゃだんす)の中をかきまわした。いつも何も無かった。祖母にとって、私は孫ではあるが、どこか子供のようでもあった。自分のしわくちゃの乳房をまさぐらせながら抱いて育てた子、自分の後をいつも追い求め、自分の帰りをいつまでも待ち続けた子であった。私にとっても、祖母は、母のような存在であった。そして、佐々木の家は、つい昨日まで、私が生まれ育った家であった。父母の争いの尽きぬ家、兄や姉とどこか交わりきれぬ無明(むみょう)の家を出て、この朽ちかけた家に来ると、私の心はなごんだ。
祖母はいつも、今日も針孔(みず)を通していってくれるかえ、と言った。この頃、まだ祖母は、見えぬ目で、手探りで、ほころびた自分の着物の裾(すそ)をかがったりしていた。私はいつも、あるだけの針に、黒や白の糸を通してやった。祖母は、それを一本一本引き出しては使っていた。それが無くなると、私を待っていた。他の者にはなぜかあまり頼まず、私を待っていた。
時には、私が代わりに縫ってやったりした。私はいつも祖母にまつわりついていて、祖母の縫い物を見て育った。見よう見まねで多少の縫い物ぐらいはできた。坊主刈りの頭の毛に針をこすり付けてすべりをよくし、縫って、きちんと玉を作り、歯の端でプツンと切ると、出来上がりだった。お前は、何でもできるねえ、何でもよく見てたんだねえ、と祖母は喜んで言ってくれた。
祖母が縁側の日たまりで縫い物を始めると、私は庭に出て、枯死寸前の梅の老木に触れ、ターザンのまねをして樹上に小屋を作ってここで寝ると言って叱られたもみじの木を見、屋根に上ってその甘酸(ず)っぱい種を頬張ったザクロの木を眺め、裏へ行って、ガランとしてただ風だけが吹き抜ける味噌の仕込み場や、蔵の中の湿った暗がりの中にたたずんだりした。
目を閉じれば、人々に語り聞かされもし、またその最後の凋落(ちょうらく)の時期をかすかに覚えてもいるような、仕込みの光景が見えるのだった。人々の汗に濡れて光る身体が見え、親方の掛け声が聞こえる気がするのだった。しかし、……再び目を開けば、クモの巣は風に揺れ、すべてのものの上に、白く厚く埃(ほこり)は積もっていた。井戸の中をのぞけば、朽ちて落ちた釣瓶(つるべ)の竹と、水面に浮かぶ病葉(わくらば)が見えるだけだった。
時には裏木戸を出て、あぜ道を抜け、善照寺の墓石の間を歩いた。兄に追いかけられて帰れず、はだしのまま腰を降ろして山の峰を眺めた石に腰を降ろしてみたりした。
前を、明日を見て生きているべき十三歳の私は、見えぬ明日に背を向け、ただ過去を振り返り、その廃墟の中に立ち戻ることで、心の何かを癒しながら生きていた。子供らしくない、老いた心のようであった。
帰りには、裏庭の片隅の無花果(いちじく)の実を取ったり、柿の実を取ったりして、祖母に持っていき、むいて食べさせ、仏壇にも供えた。
薄明(はくめい)の中にあるこの仏間が、私は好きだった。私もまた、幼い頃から、習わぬ経を読み、座禅の真似ごとをした。この頃、私は、誰にも言わなかったが、心の奥底で、中学を終えたら、あるいは高校を終えたら、あるいはもっと遠いいつの日かであるかもしれないが、永平寺に入り、ひたすらに勤行(ごんぎょう)のうちに生き、静かに座して考えることだけをしたい、と思っていた。
春、秋の彼岸や、八月のお盆の前には、誰に頼まれもしないが、私は仏壇の埃(ほこり)を払い、真鋳(しんちゅう)の仏具を心を込めて磨いた。祖母はいつもそれを喜んでくれた。そして、わずかに修一郎にもらった金の中から、二十円とか三十円とかを私にくれた。時には、読経している私のうしろにいざり寄ってきて、ともに手を合わせていた。
父、史郎は、あいかわらず、何かにつけて、修一郎を「無能」呼ばわりしていた。零落の責任は、すべて修一郎にあり、自分、史郎に佐々木家の経営をまかせていればこんなことにはならなかった、自分をないがしろにしたからこうなったのだ、と言っていた。今、こうなった家屋敷の半分でも売って整理すれば、金も入り、生活も楽になろうに、好んで税金ばかり払って、好んで貧乏をしているのだ、と母に向かっていつも言うのだった。自分が奪った数限りないもののことは何も言わなかった。また、そのひとしずくたりと、返す気持ちも無かった。
母は、悲しく無念そうにしていた。あまりに悪口が続けば、時折は、母は憤った。
お前さんに、佐々木の家のことをどうこう言う資格なんか、これっぽっちも無いのだ、今住まわせてもらっているこの家だって、修一郎が売っても、貸しても、金になっただろう、しかし、修一郎は、親子揃って暮らせるようになった祝いだよ、と言って、貧乏のさなかに、この家を私たちに提供してくれた、その家で今、雨露をしのいで生きている私たちだ、……あの子は、なるほど無器用な生き方しかできない子だ、しかし、あの子にはあの子の切ない心がある、何と言われようと捨て切れぬ思い出があり、父様(ととさま)に対して申し訳ないと思う葛藤がある、……お前さんのように、何もかも金に換算してみる心、金で量(はか)る心とは、別の心というものを、あの子も、私も、持って生きてきてしまっているのだ、……なるほど、あの子はあの佐々木の家とともに滅んでいくことになるのかもしれない、しかし、だからどうだと言うのか、それがこの水原の佐々木家の最後の当主の選択だったとしても、それはお前さんには関係のないことだ。その時は、私も心においてともに滅んでやるつもりだ、……お前さんは何があっても、生き残るだろう、他人の生命(いのち)を食い散らかしてでも自分は生きようとする人だ、お前さんにあの子の心など何もわかってもらえるとは思わないが、しかし、馬鹿にすることは許さない。……
母は、激すれば涙した。私には、母の心も、修一郎の心も、よくわかった。この廃墟と化し、朽ちていくものへの痛切な思いは、私にもあった。修一郎には、その何十倍、何百倍も、あったであろう。そして母には、自分こそが、佐々木の家をつぶしたのだ、という呵責(かしゃく)があった。父、史郎には、何も無かった。負い目も、呵責も、何も無かった。あったのはただ「自分のものとなったはずの財産」を、むざむざ失った、という筋の狂った怨念の残渣(ざんさ)だけであった。
義姉(あね)、知恵子の実家は、昔は同じ水原町にあったが、嫁いできた頃には、新潟県加茂市で大きな機織(はたおり)工場を経営していた。しかし、知恵子が嫁いできてまもなくに、詐欺のような保証人の罠(わな)にひっかかってすべてを失い、かつての工場の裏手の畑の一角に小さな掘っ立て小屋のような家を建てて、細々と暮らしていた。嫁に来た当初は、修一郎と二人で、せまい水原の町中を乗馬して歩くような活発な義姉であったが、嫁いできた佐々木の家の窮乏と、実家の陥った窮乏との間で苦しみ、その明るさは徐々に失われていった。持参した嫁入り道具の着物や衣類など、多少とも換金できる物は、一枚、一枚と再び知恵子の実家に持ち帰られて消えていった。そして、もはや持ち帰るべき物の何ひとつも無くなった日、……彼女は、生まれたばかりの末子だけを連れて、修一郎のもとを去り、失踪(しっそう)した。
男、女、男という三人の幼子(おさなご)が残された。祖母、おしむは、見えぬ目と効かぬ身体で、三人のこの曾孫(ひまご)の面倒を何とか見ようとしたが、できるはずもなく、修一郎が、すべての職をやめて子供を育てざるを得なかった。妻に捨てられ、そして乏しい収入の道も失った修一郎が、また心を荒(すさ)ませていくのが私にも見えた。もはや売るものとて無い土蔵の中から、更に古い箪笥(たんす)が消え、布団が消え、私が幼い頃に叱られて閉じ込められて読んだ古い書籍もすべて二束三文(にそくさんもん)で売られていった。仕込み場に残っていた大きな鍋、釜も、いつかしら消えていった。そして遂に、蔵もろともに敷地が切り売りされ始めた。しかし、祖母の見える世界は小さかったから、祖母は、家屋敷が外郭(がいかく)から失われていっていることに気が付かなかった。私は勿論、何も言わなかった。
甥、姪たちは淋しそうだった。淋しさをまぎらす所、かすかな温かみを与えてくれる所を求めて、彼らは、「おじいちゃま、おばあちゃま」と言って南町の私の家へ歩いてきた。
母は、おう来たか、来たかと言って、何かと食べさせたり、乏しい中から十円、二十円と小遣いをやったりしたが、「おじいちゃま」である父、史郎は、冷たかった。子供たちの前で、修一郎の悪口を平気で言った。私も、妹も、かつて自ら味わった以上の淋しさを味わっているのであろうこの子たちに対して、ただ幼い愛情を与えてやることしかできなかった。それでも彼らは、そんな小さな愛情でさえも、むさぽるように飲み込んでいた。
母を恋う気持を隠しながら、いたわりあい、寄り添いあって生きている、この三人の幼い姿を見ながら、私は、去っていった義姉(あね)に憤りを感じないではいられなかった。義姉が、いろいろのものにもはや耐えられなくなっていたことは、私にでもよくわかっていた。彼女が出ていったことを責める気持は無かった。ただ私は、出ていく時に、子供たち「すべてを連れて」いって欲しかった。四人の子をかかえては、義姉の生きる道はおそらくは無かったであろう。それでも、私は、連れていって欲しかった。母とともに暮らせるならば、一日一杯の雑炊(ぞうすい)しかすすれなくとも悲しくはなかったかもしれない私自身のかつての日々を思い起こし、彼らの心に重ね合わせながら、義姉(ねえ)さま、なぜですか、なぜですか、と問うていた。
彼女は、私と妹とを育ててくれた人でもあった。彼女が自分の三人の子を置いていった時、私自身も、もう一度「母性」から置き去られた気持がした。私は、義姉に対して憤りを抱いた。しかしまた……同時に思ってもいた。母、おりょうが誰よりもつらかったように、義姉(あね)、知恵子も誰よりもつらかったのであり、今、この時にも、どこかの地で、この子たちに詫(わ)びながら泣いているのかもしれない、と。……
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