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第六章 法輪
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道文先生。
お懐(なつ)かしゅうございます。
母の葬儀の折に、わずかの時をともにいたしましたが、あの折は、私の悲しみが、私の心を閉ざし、目を暗く、耳を遠くしておりました。精一杯のところでこらえているものが、わずかな何かの一撃で、ガラス細工のように砕け、崩れ去ってしまうようで、ただただ、再びこの地へ戻りくるまでの二日間を、人々から離れて耐えることだけを考えておりました。
先生のお姿を、僧衆の中に認めた時、ああ、道文先生も母さんのために来て下さっている、母さん、よかったね、と胸に迫りましたが、その感懐(かんかい)も一瞬のことで、すぐにまたた私の頭は垂れ、自分一人の思いの中に沈んでLまいました。
しかし、皆様方の読経の唱和は、私の胸に届き、いまだに谺(こだま)し続けています。玄妙な響きの余韻を引きながら続く読経を胸に聞き、そして、めぐり歩き、座して礼し、と、……くり返される皆様の動きに揺れる法衣の裾(すそ)を、伏せた目の視野の中で見続けながら、ああ、いいものだな、としみじみと思っておりました。残された私になお母を恋う愛執(あいしゅう)の嘆きはあろうとも、これはいわば、全(まっと)うされた一つの生に対する「祝い」の舞いなのだと、なぜか思うことができました。先生は、今、私の母の生と死のために、こうして歌い、舞って下さっているのだ、と。……本当に、ありがとうございました。
あの日、わずかな語らいの時の中で、私が思わず漏らした、母の最後の日までの父の変わらぬあり様への嘆きに対して、先生は黙って聞き、最後にこうおっしゃいました。
「老躯(ろうく)衰(おとろ)えたりと雖(いえど)も、迷いて悟らず、しかも多情なるが故に憂いも多し。……利夫ちゃん、慈悲だよ、やわらかい心だよ、それをなくさないで」と。
そしてもうひとつ、こうおっしゃいました。
「髪白しとて長老(としより)ならず、真実(まこと)あり、正義(すじみち)あり、節制(おさえ)と調節(ととのえ)あり、心の垢(あか)を吐き出せる人をこそ長老(としより)と呼ぶ。……おっ母様(おっかさま)は、本当に、いい長老(としより)になって逝(ゆ)かれた」
と。
それを、飢え、渇く、私の心に対する施物(せもつ)として、私は受け取り、食させて頂きました。
しかし、慈悲も、やわらかい心も、何もかもが泥にまみれた足で踏みにじられ続ける時、私は憤(いきどお)り、拒絶の声を上げるしかありませんでした。
幾度、先生に向かってペンをとろうと座したことでしょう。けれども、書くこと、書くことがすぺて、先生の言われた慈悲からも、やわらかい心からも遠いことぱかりであることに、私の指は力なく萎(な)え、結局、ペンを置くしかありませんでした。
苦しい、苦しい、と思っている時は、何人((なんびと)にも語ってはならぬ、心楽しい時にのみ語れ、と自分に言い聞かせてきました。
特に心楽しいわけではないけれど、でも、何かがしきりにペンをとることを今日は促します。ですから、今日はただ、いわばむ私の「安居(あんご)」として、先生のふところでひと時、くつろがせて下さい。
あの苦しみ、この苦しみ、と言ってきたけれど、謙虚に思いみれば、私自身の底の浅い分別(ふんべつ)による裁き、そして過剰な愛の渇きによって、自ら集め、招いた苦しみであったのかとも思います。私が裁くのではない「法」が裁くのだと言うとしても、この「法」と「非法」に対する執着を生じ、悲哀に陥っていたのだとも思います。
人々とともに生き、人々に学ぶつもりでいて、いつのまにか、ともに学ぶ者ではなく、与うる者、施(ほどこ)す者、救う者であるかの如き、奢(おご)りに陥っていました。
自分の罪を知り、慚愧(ざんき)の念の内に生きているつもりでいて、いつのまにか、私は自分をこれだけ裁きながら厳しく生きている、あなたはそう生きていないではないか、という思い上がり、「我のみ正し」の思い上がりに堕していました。
私が幸福でなくして、どうして他者に幸福を与えられようか、という思いは、たしかに、母を含めて多くの人々を包んで上げられる、やわらかい心になりたいという思いではありました。しかし、いつのまにかそれは、「何ゆえに私の幸福を侵すのか」転倒(てんとう)した妄執(もうしゅう)となり、他者へのとがめ、謗(そし)り、そしてさらには憎しみにとなり変わっていきました。
人は、たしかに、不快なことに出会わず、不快な言葉を聞かない限りは、親切でもありうるし、謙虚でも、穏やかでもありえます。それが真実のものであるかどうかは、不快なものに直面した時に、明らかになります。
人は、満たされ、平穏である時に柔和であることはたやすい。しかし、満たされず、取られ、心乱された時に、なお柔和であり続けられるかどうか、が問われているのです。
人は、汚された、損(そこ)なわれた、奪われた、と怒りを含んで言う時、そういう資格を持つ「我(われ)」があり、「我(わ)がもの」がある、と自明の如くに思っています。しかし、この、自明のものとして私たちが措定(そてい)する「我(われ)」と「我(わ)がもの」の根拠をとことん問うてみることが求められています。
そしてまた人は、「愛」が裏切られた、と言う。しかし、人は、ひとたび、この「愛」をさえも捨て、越えることが必要なのかもしれません。多くの「愛」と呼ぶものが、遂には「愛執」であり、「愛の渇(かわ)き」であって、それは生の無常の予感から来る怯(おび)えと同根のものであるのかもしれません。
そうして思いいたってみれば、似て非なるものが、何と多いことでしょう。「信念」と、己れのみ良しとする思い上がり、「愛」と執着や嫉妬や所有欲、「慈悲」と優越の感覚をにじませた庇護(ひご)や施(ほど)し、「熱意」と、むさぼり、……そして、私たちが心の真実、人間の真理と思うことの多くさえもが、自己を是とし、他者を否とする「選別」のための論理を越えていないことが、何としばしぱでありましょう。
一切を許さぬという主義も、すべてを許すという主義も、それが主義であって、その背後にそれを立てる、吟味されていない「我(われ)」のある限り、やはりそれは独断の壇上での専横(せんおう)の叫びに過ぎないし、ある時は許し、ある時はあるものを許さないとする心もまた、裁決者たる「我(われ)」を問うこと無く前提として認める限り、やはり独善の呪縛(じゅばく)からは逃れえていないのです。
しかしながら、私はやはり、私を私と思い、母を母と思い、父を父と思い、人々を人々と思うところから出発せざるをえず、「彼我(ひが)」を峻別(しゅんべつ)しつつまた「彼我(ひが)」の境界を越えていく道を求め続けていくしかありません。
「彼我(ひが)」の峻別(しゅんべつ)とは、人間の認識の「進化」によって持ってしまった「真・善・美」という価値判断の基準によって個々の人間の存在の様態に対する受認と拒絶をする、ということであり、また同時に、その価値判断の基準を絶えず打ち破って立ち現れてくる限りない個性の突出を新たなる進化の芽として新鮮な驚きをもって見ていく、ということでもあります。
いかなる措定(そてい)も、措定(そてい)された瞬間からすでに打ち破られる定めにあります。にもかかわらず、人は常に、一瞬一瞬に何かを、価値として、罪として、そして希望として定立(ていりつ)していかざるをえず、そして、一瞬一瞬にそれを砕き、また砕かれていかざるをえないのです。
それを「無常」と呼ぶか、「弁証法的展開」と呼ぶかは、おそらく、なお生きんとする心の、前傾の度合いによるような気がいたします。 微視的に見極めていけば、私も他者も無く、私という生命を構成している原子も他者を構成している原子も差異は無く、それは一瞬一瞬に構成を変え、入れかわりながら、そのダイナミズムの中で、暫時(ざんじ)の幻影の如くに「彼」を立て「我」を立てているに過ぎないように思われます。
そしてまた、巨視的に観想を拡げていけば、限りなく果てしない宇宙の生成と消滅の事象の中で、「彼我(ひが)」の対立どころか、生命そのものの意味が無に近いというほとんど虚脱せざるをえない認識に、私たちは導かれていきます。
しかもなお、その時においてさえ、私たちは、この生命と呼ぶものが、無機質なるものの運動のほんの一瞬に、偶然の奇跡の如くに立ち現れた「あるもの」に過ぎないことを「知っている」のです。
「己れの存在のはかなさを”知っている”、この極微の認識主体」、これが生命です。
ある人は、言います。
《 宇宙は異質性から均質性に向かって、秩序から無秩序へと変化がおこらない方向に進み、エントロピー増大の法則に従う。この中での生命の意味は、情け容赦ない大きな流れに対する、小さな抵抗そのものである。人間の生命がつくりだしてきた秩序――-確かに小さな、だが精巧な秩序――は奇跡とLかいいようがない。恐らく広大な宇宙の幾億万年の中で、生命の活動により、局所的にエント□ピーが減少しても全体としての流れに殆ど影響はないであろう。「宇宙の沈黙の恐ろしさ」は、今にも生命を握りつぶしてしまいそうである。》
(塚本明子――現代哲学事典)
そして、ブッダは、くり返し、くり返し言います。
《つねによく気をつけ、自己に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観せよ。……物質的形態を捨てて再び生存状態にもどらないようにせよ》と。
そして昔、十代の青春の日々を時々襲ってきた虚無的、自棄的な発作の中で、私の生きたい思いが叫んでいました。
《生命とは、あたたかみ、ということだ。人間は、あたたかい存在だ。いや、一匹の魚、一本の草でさえも、この宇宙の絶対的な寒さに対Lては、限りなくあたたかい存在だ。そして、生命の連鎖とは、このあたたかさを連綿と引き継ぎ、また、拡げていく営みに他ならない。それは小さな、かすかな、ほとんど絶望に等しい営みだ。私の生命もいつの日にか消えるだろう。形は残らず、名も残らないだろう。しかL、私は思う、懸命に生きた時の中で、私はこの宇宙を、あたため続けたのだ、と》
私にはわかりません。これもまた、生への執着、空なるものを空なりと観じえぬ迷妄であるのかどうかは。ただ、生は無常なりと観ぜよ、ということは、もう幼い頃から知ってはいた、と思います。そして、「無明」が私たちの苦しみの源である、ということも。
しかし、
「子あらば子によりて喜び、牛もたば牛によりて喜び、また、子あらば子によりて悲しみ、牛もたば牛によりて悲しむ」この人間の愛執の心……、そして、
「過ぎたる日を悲しみ、来らぬ日にあこがれ、現在あるものに安らがぬ」この人間の迷妄の心にこそ、私はやはり「考える縁(えにし)」を与えられ続けたと思うのです。そして己れひとり「悟りすまし」、この俗世との「縁を切って」生きているように見える人に出会う時、私は、そのあなたの「悟り」によって、この世の何が変わったか、今、この時でも、この世界のどこかで銃弾を浴びせ合っている人々の心の地獄に、どのような覚醒をもたらしたか、と問わないではいられなくなるのです。すべての人々が「わたらない」限り、私がわたることはない、私の名を呼ぶ者が私に出会い救われないのであれば、私が悟りに入ることはない、私は常に人々の一歩前、一方うしろにあり、遂に「ともに」あるのだ、私はすなわち、人々そのものである、……この菩薩の誓願、如来の本願こそが、私たちの心に響きます。
ブッダは、言います。
「弟子らよ、世間を憐み、すべての人々の幸福のために世を巡れ」
と。そして、「探(たず)ねられる者も、探ねる者も、ともに道に入ることが必要だ」
と。
ある菩薩は、言います。
「量(はか)りなき時にわたりて、我、施しの主となり、貧しく苦しむ人々を、なべて救うにあらざれば、誓いて覚りは得ざらまじ」
と。衆生救われざれば、我また救われじ、の営々たる仏弟子たちの発願(ほつがん)が、煩悩に足を取られ、濁流に沈まんとする私たちを支え続けています。
彼らに会うことは難(かた)いけれども、その説く声は、心の耳を澄ませぱ、いつも聞こえているのです。
生死(しょうじ)に固執(こしつ)する気はありません。しかし、
「生を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁」と言い、
「生死(しょうじ)の外(ほか)に涅槃(ねはん)なく、涅槃の外に生死なし」
と言われる時、ここで言われる「生」の意味が「死」に対決して屹立(きつりつ)する「絶対的生」ではなく、つねに「死」を内包した「生」、「生」にして「死」であり、「死」にして「生」であるという、親鸞が突き詰めんとしたという「生死的生」……まさに自己存在の矛盾と懊悩(おうのう)を抱き続ける「生」なのだろう、と、おぼろげながらも思うのです。そして、この「生」に対する思索を離れではいけないのだ、と言われている気がするのです。
道文先生。
懐かしい道文先生。
御自分を「迷僧」とお呼びになる道文先生。
私は、先生を、決して「迷僧」だとは思わないけれども、御自身をそう呼ばれる先生の自恣(じし)の心を縁として、私はもう一度、先生とともに歩みたい。
そして、敬愛する先達(せんだつ)にお願いしたい。もっと、もっと、教えを説いて下さい、と。
文字により、言葉により教えを説くことは、まことに難(かた)い、と申します。すべての法は、「義(ぎ)」によらなければ説くことはできない、と。「不立文字(ふりゅうもんじ)」は禅の根幹と言います。
しかし、彼、ブッダは、こうも言っています。難いけれども、説かなくてはならない、と。もし説かなければ教えは絶える、教えが絶えれば、道を修めるものも、仏も、なくなるであろう。もしすぺてがないならば、誰が誰のために説こうか、と。
私は、長い間、親を置き去りにして生きてきました。先生とお会いすることも、東京へ出てからは、ほとんど無くなっておりました。しかし、先生は、私の父母をじっと見守り、いつも寄り添って生きてきて下さいました。
その母も、今は、去りました。その母の死に至る道が、生死を滅した涅槃に至る道であったと私は信じたい。
「私の骨など、川に流しても、海にまいてもいいのだ。それは、生き残るお前たちの、私を思う心の縁(よすが)ではあっても、私そのものでは、もはやないのだから」 と言って死んだ母は、たしかにもはや、もろもろのものを、わたり終えていたと思うのです。
今、父は残る者となり、なお愛執(あいしゅう)に渇(かわ)き、老いと病いと死に怯(おび)えながら、更に暗く重い業(ごう)を積み重ねています。小さな「我(が)」に固執(こしつ)し、虚言(きょげん)を重ね、守るべくもないものを守ろうとし、なお蓄えることに必死です。自らの誤りや虚妄(きょもう)が露呈すれば、それを恥じるよりも、むしろ誤りや虚妄を指摘した者に怒りを含み、恨みを抱きます。
たしかに、言葉には時に適(かの)うた言葉と、適(かな)わぬ言葉とがあり、また聞く者の心のあり様に適(かの)うた言葉と適(かな)わぬ言葉とがあります。しかし、真実に添った言葉を、憎しみや怒りや裁きを含まずに、ただその人のためと思う一念によって語りうるならば、やはり人の心には届くのだ、と信じなければ……。そしてそうでありうるためには、何よりもこの私自身が、自分の高ぶりや思い込みを捨てて、「あなたとともに私も歩もう」と心の中で言えなければならないのでありましょう。かつて、先生が、先生の苦しみの中でそうしたように……。どうぞ、私の歩みを、支えて下さいますように。
しかし、今、父という具体的な一人の人間の心の世界を考える時に、私には、どうしても解けぬ疑問があります。それについて、ひとたびは触れなければならない気がいたします。
父は、心の貧しい人生を送ってきました。その貧しさの原因は、勿論、彼の心に多くの人々が蒔(ま)いてくれていた種を彼が拒み、育(はぐく)もうとしなかったことにはありますけれども、また一方で、多くの人々が、父に与えるべきものを与えないできたことにもある、と、私は残念に思うのです。
先生は、父との長い交わりの中で、父にとっての「苦(にが)いこと」は決して言わないできた、と申されました。それが、先生の深い優しさによるものであることはよくわかります。しかし、あまりにも言い過ぎてきた私たちが、父を損(そこ)ねたように、あまりにも言わないできた人々もまた、同じように、結果としては、父を損(そこ)ねてきたのではないか、と私は思うのです。
転心(てんしん)の機(き)にあらざる者を、いくら追い詰めてみても、いっそう自己防御の殻を固くさせるだけで、心を開かせることはできないことは知りながら、私にしろ、兄にしろ、父を逃(のが)すまいとして、退路を断ちながら追い詰めることをくり返してきました。それは悲しい努力であったと言えば、あまりにきれいごとに過ぎましょう。やはりそこには、傷ついた私たち自身の感情的な怒りもあれば、恨みも、思い上がりもあったのだ、と思います。しかし、なおそこからも、限りなく逃れていく父の「退路」に添って立ち、結果として、父の自己の良心からの逃亡を助け、「なおこれらの人々が私をよしとしてくれている」というはかない自己慰謝(いしゃ)に手を貸してきた人々のことを、父のために私は悲しみとせざるをえません。
道文先生。
私には、あなたをとがめる気など毛頭ありません。ただ、先生の優しさが、父を導く真の慈悲の綱(つな)となりえていただろうか、と思う時、私はある疑問を感じるのです。
自らを「迷僧」と言われる時、そこに私は、自嘲(じちょう)も自虐(じぎゃく)も見はしません。そこに見えるのは、まぎれもない先生のある「淋しさ」です。説きたくとも、説くこと能(あた)わぬ自己、にもかかわらず、この末法(まっぽう)の世に、仏弟子の末裔(まつえい)として生きている自己、への淋しさ、辛さのようなものを。
しかし先生、私たちは、みなともに歩めばよいのではありませんか。
深々(しんしん)と煩悩降り積もる道を、かきわけて歩く先達(せんだつ)が疲れれば、後ろの者が代わればいいではありませんか。
先生の淋しさの中に、もし「我に力なし」の思いがあまりに強いとすれば、それは、裏返せば、よりましな自分があるはず、という思いがあっての、その落差からくる淋しさでもある、と言うことになりましょう。だとすれば、それもまた、ひとつの、高ぶりの形ではあるのかもしれません。
道文先生。
医者は、医者である自分を日々に弁証法的に「否定」していかない限り、遂に、単なる医者に堕(だ)していくものです。僧もまた、僧である自分を日々に、否定しなおし、日々に「新たに」僧になっていくべきものではないでしょうか。
責任の感覚が、高ぶりと紙一重であるように、謙虚もまた、放棄と紙一重ではあります。しかもこの時、放棄されるものは、自己ではなく、まさに「人々」なのかもしれません。過剰な責務の意識も無用なら、過剰な自責(じせき)の念も無用なのではないでしょうか。
迷妄(めいもう)の泥に足をとられて歩んでいる数多(あまた)の衆生もまた、法を支えているのだ、と思ってはいけないでしょうか。
かすんで見えぬほど、はるか遠くを歩む人もいます。百歩先を歩む人もいます。一歩先を歩む人もいます。そして、……道文先生、この「一歩の人」が、大切なのではないでしょうか。
振り返れば、わずか一歩後ろに、私も、父も、いるのです。降りしきる煩悩に足をとられているのです。先生もまた、足をとられているとも言える。しかし、それでいいのではありませんか。一歩を、手を差し伸べ合うことでいいのです。
探(たず)ねられる者も探(たず)ねる者もともに道に入ることが必要だ、と「彼」は言っています。負(お)うていると思っている者に実は負われていることも人にはあり、そして、引いているつもりが、実は引かれていることもあるのでしょう。負(お)いつ、負われつ、引きつ、引かれつ、……これでいい、これが人間の面白いところだ、と味わう心で人と交わっていきたいと思うのですが。
苦(にが)い言葉は、どんなに苦くても、毒ではありません。母親が、苦い蘂をまず自ら飲んでみせてから子供に与えるように、慈悲の心を持って与えれば、苦い薬でも子供は飲んでくれるかもしれません。
それを、さぞ苦(にが)かろう、辛(つら)かろうと思い、それを与えて子供に嫌われたくないと思う母親は、その惑(まど)いによって、助かるべき子供を、結局は死なせてしまう母親であるかもしれません。
今、父にとっての苦(にが)い薬は、私にとっても苦いでありましょう。その苦さを、私自らも味わい、ともに、飲む心になりたいと思っています。
母は、一緒になってはならない人と一緒になった罪、と言いました。
父は、生きて重ねた自分の業(ごう)、生きてきた修羅の道、と言いました。
私は、この父と母から生まれました。罪から生まれ、業の中で育てられました。
私もまた、今、母と同じに言わなければなりません。精一杯生きてきた、と言っても、それだけで人は許されはしない、と。
父という人と、この歳月をともに過ごしてきながら、なおこんなおぞましい心でしかいられないようなものしか与えられなかった私の罪、子である私の罪を思わなくてはならない、と。母の罪と、父の業とを、私はともに担って生きていくつもりだし、この荷をおろしてくれるのは、私自身ではない何か、であることも今は知っています。
今、私の前にある「是非善悪(ぜひぜんあく)」と「許し」という課題は、甘い感傷や道学者の戒律めいたレベルのものとしてではなく、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親驚の述懐(じゅっかい)、――仏の光明、如来(にょらい)の本願力(ほんがんりき)に遇(お)うた者のみの知る真の自覚としての、根源的な「是非善悪」、そして「許しと救済」――として、深く思考されていかなければならないのです。
道文先生。
今日は、不思議なものを見ました。
父の住むこの家に、夕方来たのです。
それは、父にただ一つのことを言うためでした。
《父さん。父さんが何をしようと、どこへ行こうと、もう何も言わない。父さんの人生なのだから、父さんの好きに生きていい。好きな人に会い、好きなことをし、それを幸せと思えるなら、私もまた一緒に、それを喜んで上げたいと思う。だから、父さん、これからはもう、嘘をつかないでいいんだよ。一つの嘘をつけぱ、限りなく嘘を重ねていかなくてはならなくなるでしょう。この自縄自縛(じじょうじばく)の苦しみを逃れる道は、たった一つだと思うんだよ。「初めの小さな嘘を、決してつかない」ということだと思うんだよ。……叱られてもいい、軽蔑されてもいい、これが自分だ。これを見てもらうしかないのだ、と思い定めれば、できるでし上う。どんなに恐くても、それはひとつの跳び越えだと思う。跳んでごらん、父さん。跳べるよ、きっと跳べるよ 》
父は、答えませんでした。
私もまた、あえて、言葉としての答えを求めてはいませんでした。父は、黙って自分の部屋に帰り、私は、暮れなずむ初秋の夕暮れの中で、ぼんやりと西の空を見ておりました。
その時でした。私の視野の中を、赤い小さな影が、すすっとよぎりました。数匹の赤とんぼでした。そして、「それ」は始まったのです。
何千、何万、いや何百万という無数の赤とんぼが、手を伸ばせば届く高さから、はるか上空の高みまで、すきまなく、びっしりと埋め尽くして飛んでいくのです。すべてが何か一つのひたむきな意志を持つかのように、あるいは、遠い西の空の彼方(かなた)からの何かの呼び声に呼び寄せられているかのように、それらは、頭上をおおい、あとからあとから湧(わ)き上がってきて、ひたむきに西へ西へと、飛んでいくのでした。その群翔(ぐんしょう)は、夕焼けの残照(ざんしょう)が一瞬最後の光芒(こうぼう)を大空一杯に放って消えていく瞬間まで続きました。
私は、この小さな生命たちの一途(いちず)な飛翔(ひしょう)に、目も心も奪われて、ただただ声もなく見守っておりました。
道文先生。
赤とんぼの飛んだこの空は、先生の住む、あの懐(なつ)かしい山麓(さんろく)の寺の空につながっています。そして、すべての懐(なつ)かしい人々の空につながっています。
法輪(ほうりん)は転(めぐ)れども……その転輪(てんりん)に踏みしだかれながらも、なお私たちの覚醒は遠い。しかし、この道を歩んでいくしかありません。
明日、先生の寺の空をよぎりゆく赤とんぼの群れがあったら、それは、私の心の空から先生の空へと、そして、愛する懐かしいすべての人々の空へと飛んでいった、私の生命の連帯のメッセージなのです。
(了)
あとがき
「女性は、自己を破砕し、自己を失いながら、この世界に自己を浸透させていく」
(拙著『雨の夜』)
「おりょう」という一人の女性がこの世の生の海を渡り切って滅してから五年あまり、私の情念は、薄暗がりの中で重くよどんでいた。いや、静かに醗酵していたと言うぺきなのだろうか。それは、ある早春の夜に、突然に堰(せき)を切ったようにあふれだしたのである。
私は、その日、思いつめた心で机に向かい、ペンをとった。……そして、それから六ヶ月、私はほとんど自分の身を削るようにして、これを書き続けた。しかし、この墓碑銘の最後の一文を刻(きざ)もうとして私の手は止まり、動かなくなった。もう書けなかった。
「貪欲(どんよく)を滅ぼすこと、怒りを滅ぼすこと、憎しみを滅ぼすこと、これらを不死と名づける。これが八聖道(はっしうどう)である」
(中村元監修『薪・仏教辞典』)
この言葉が、私を裁いていた。しかし、……私の愛憎は、なお濁流となって流れ、煩悩もまた、しんしんと降り続けていた。「眠れぬ夜はひとつの恩寵(おんちょう)だ」と言い聞かせながらも、私の眠りはもはや安らかではなく、流れる汗は冷たく、噛(か)む唇は血をにじませていた。
しかしある日、途方に暮れて、夕焼けの空を見ていた私の視野を突然に横切って、無数の赤とんぼの群翔(ぐんしょう)が始まった。そのひたむきな飛翔(ひしょう)を見ているうちに、私の中に、「生命(いのち)たち」という思いが、ひたひたと満ちてきた。母なる人も生命、父なる人も生命、そして私もまた生命、……かけがいのない一回きりの、しかし、幾世紀、幾十世紀を奇跡のように紡(つむ)がれ続けてきた生命の連鎖の一つの環としての生命、という思いだった。
赤とんぼたちの群翔が、夕闇の中に消えていったのを見届けたあと、私は、一気に最後の一節を書いた。私にはその時、この一人の女性の物語が、同じ時代を生きた多くの女性の物語となり、これから生きる多くの「母」なる人々の物語となったのだと、なぜか信じられた。
私は、この書を、「母」であった人々、「母」にならんとしている人々、そして、その人々ととも生き、生きようとしているすべての人々――男たちに、捧げたいと思う。
この書に、善(よ)いものがあるのなら、それは「おりょう」に、そして「女性」の資質に由来するものであり、そうでないものがあるのなら、それは、私に由来するのである。
――松澤俊郎――
著者略歴 松澤俊郎(まつざわとしお) 昭和15年新潟県水原町に生まれる、 昭和43年から44年にかけ東大全共闘運動。 共同執筆『果てしなき進撃」(東大全共闘編、三一書房刊)。 昭和44年東大医学部卒業。 昭和63年某山村にて開業す。
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