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第六章 法輪
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母さん。
心の歩みは停滞し、時には逆行し、遅々として進まないのに、自然は、そんな私たち人間の惑(まど)いなど置き去りにして、冬の凍結と、春の芽吹き、そして夏の豊穣を形成してめぐり、……今、あれから一年という時をへて、再び冬の厳しいたたずまいを見せ始めています。
往診の道すがら、ふと自を上げれば、冬枯れた田畑の向こうに、男体山(なんたいさん)から北へ、西へと続く山並みが、真っ白に冠雪しているのが見え、その山の向こうには、越後の平野や山麓(さんろく)に、雪を降らせているのであろう重い雪雲が見えています。
母さんの死をめぐって、やは何か私の生命に傷を負う所があったのでしょうか、この春も、この夏も、私の中で何かが開き損(そこ)ね、何かが熟し損ねて、息苦しく出口を見失っているような混迷を感じながら、月日を送ってきました。
でも、やっと今、すべての生命がその主張や叫びをとだえさせ、枯れた樹皮の下に、そして凍った大地の下に眠っているこの冬の静寂の中で、私は少しずつ自分を取り戻し、母さんにも、人々にも、また向かい合うことができるようになって来ています。
母さんを思わなかったのではなく、むしろ思い過ぎて、心が麻痺してしまったのでしょう。人々のことを、考えすぎて、心が破れてしまったのでしょう。
思い返してみれば、母さんを亡くしてこの一年、たしかに私は、あまりに多くのことを考え、心にとどめようとして、結局はむしろ、思考の弛緩(しかん)、感覚の鈍麻に陥っていたのだ、という気がします。
「思い出と悲しみの中だけで生きていると、人は、結局、その思い出と悲しみさえも失ってしまう」ものなのでしょう。自分の心情に「誠実」であるように見えても、それもまた「執着」のひとつではあって、この執着をも越えない限り、新しい視界は開けてこないのでしよう。
数日前、土曜日の午後、ほとんど発作的に車を走らせ始め、東北縦貫道を北へ向かいました。盛岡で高速道を降りた時は、もう日は暮れていましたが、さらに私は、八戸市をへて、下北半島に向かいました。
半島、とは言っても、その根元から北の岬までは百キロもあります。三沢を過ぎた頃は、もう夜半近くでした。
道沿いの家の集落がとだえれぱ、あとは所々に冠雪した縹渺(びょうびょう)たる枯れ野で、立ち枯れたすすきの群生が、ヘッドライトの先に、灰色の波となって、うねり、渦巻いていました。
これまた灰色がかった冬枯れの潅木(かんぼく)が、まるで冥府(めいふ)から差し伸べられる無数の死者の腕のように、うねうねと複雑に絡(から)み合いながら、道の両側から迫ってくるのでした。
それは、この世とも、あの世とも定かならぬ、怪しげな世界でした。それでも、私の心に恐怖は無く、自分を誘う内なるものに駆られて、その灰色の闇の中をなおも走り続けました。そうです、私は、あの日、この世とあの世の境に立って、母さんのことをもう一度考え、人の生死のことを考えてみたかったのです。
恐山(おそれざん)の山地に入った時は、もう午前二時になっていました。
車を止め、ライトを消せば、そこは漆黒(しっこく)の闇でした。人の姿はもとより無く、怪(あや)しのものの気配も無く、鬼火も、行きかねて迷う霊のつぶやきも無く、ただ、骨まで凍らせる風が吹きわたり、風花(かざばな)の舞う、北の大地があるだけでした。
寒さに歯の根の合わぬほど震えながらも、私はその闇の中に立っていました。
私は、母さんの言葉が聞きたくて来たのでした。でも、聞こえるものは、立ち枯れた木々の枝を震わせて吹き過ぎる風の音だけでした。私は、車の中に戻りました。私の中には、この時、失望とは違う、静かなものが生まれていました。それは、空しい旅ではありませんでした。それは、拡散し、見定めがたくなっていた自分の内奥に向かっての旅であり、生の意味とその無常とを、あらためて考えるための旅でした。
恐山の霊地とは、死者の迷い出る場所ではありません。そこは、「淋しい生者(せいじゃ)が死者に会いに来る」場所であり、そしてそれは結局のところ、「生者が己れ自身に会いに来る」場所でありました。
母さんが、生を終えた時、それは、母さんが力の限りを尽くし、為(な)しうるすぺてを為し終えて、自らの生を「滅(めっ)した」ということでありました。
そして、生を滅するとは、ただ単に生を終えるということではなく、
《生は尽きた、清らかな行は成し遂げた、なすべきことは成し終わった、これが最後の生であり、この後、再び迷いの生をうけることがない》
(新訳仏教聖典)
という、もっと積極的な「のりこえ」であり、「わたり」でありました。母さんは、存在の輪廻(りんね)から離れ去ったのでした。そのようにして「わたった」からこそ、母さんはまさに、どこにもいず、ただ思う人の心の中に「あり」続けているのでした。そのいつも何かを育む優しい「慈愛」と、ふっくらした言葉で言っていかれた「戒律」、というかたちにおいて……。
私は、恐山を離れ、さらに北上しました。そして遂に、大間岬(おおまみさき)に立ちました。
この頃には、風は雪を本格的にはらんで横なぐりとなり、津軽海峡は、激しく波立っていました。
晴れた日なら、函館の灯(あか)りが見えたでしょう。しかし、海の音と風の音のまじりあった轟々たる地鳴りのような音だけが、私を包んでいました。
それでも私は、闇の中に、生きる場所を求めて幼い房子の手を引いて室蘭へと渡って行った母さんの姿、そして、父様(ととさま)に今一度会わねばならぬという思いに駆られながら、房子と英夫の手を引き、私をおなかに宿しながら、この海峡を渡り戻ってきた母さんの姿を見ようと、目を凝(こ)らしていました。
海は、大勢の人々の叫びと思いを内に溶かし込みながら、黒々と流れていました。
私は、この海峡を、潜水艦に追われながら渡って行った、兄、修一郎のことも考えました。そして、あの戦争の中で消えていった、数知れぬ生命のことも考えました。海神(わたつみ)は、それらすべての生命と声、そして声にしえなかった無量の思いを、その滔々(とうとう)たる流れの内に包み込んで、今も目の前にうねっていました。
遂に故郷と肉親のもとに帰りえずして、大陸で、南方の島々で、そして南の海で斃(たお)れた人々、遺骨さえも回収されなかった人々の身体も心も、土と化し、雨に流され、海に溶け込んで、めぐる潮流とともに、この母国に帰りきたったことを、私は信じたいと思いました。
そして私はまた、昭和二十九年の、あの洞爺丸(とうやまる)の海難事故のことも思い出していました。
無謀な船出、不運な船出でありました。荒れ狂う海の中に、多くの生命が沈んで行きました。
そのどの生命、どの人の思いが重かった、軽かった、ということはないでしょう。幾世紀、幾十世紀にもわたり紡(つむ)ぎ継(つ)がれてきたあまたの生命が、私たちにはまさに理不尽としか思えない形で失われていきました。しかしあの時、泳ぎ抜いて、生き残った人々もおりました。子を背負って、海岸まで泳ぎついた母親もおりました。何という生命力であり、何という意志の力でありましょう。
背すじの寒くなるような驚嘆の思いでその報道を聞きながら、しかしなぜか私は考えておりました。……背中の子という「重荷」があればこそ、彼女は泳ぎ続けることができたのだろう、と。
人はさまざまのものを負うて生きています。それを重くも思い、時にはこれを投げ捨てたらどんなに自分は軽やかに生きることができるだろう、とと思うこともありましょう。
しかし、負うているつもりの者が実は負われているのであり、負われている者が実は負うている、ということもあるのです。
母は、泳ぎ続けて子を救いました。しかし、子もまた、声にならない声で母を励ましながら、「ともに」泳いでいたのだと、私は思うのです。
たしかに生は無常です。しかし、この無常の生に固執(こしつ)して、それを虚飾で飾り、持ちゆくことのできぬものを蓄えようとすることは愚かではあっても、生を生として、その懸命のありようを不思議と見、いとおし、と見る心は、済度(さいど)の始まりでありましょう。
それが「衆生(しゅじょう)、憐れむべし」の心であり、「生死(しょうじ)すなわち涅槃(ねはん)」の義(いわれ)なのでありましょう。
北の果ての、冬の海に向かいながら私は、なお生あるあいだ、生命あるものをいとおしみ、その小さい役割が――それが何であるかは、私にはわからないけれども――すべてのものにおいて成就(じょうじゅ)されることを祈りながら生きていきたいと、思っていました。
その、いとおしむべき生命のひとつ、「まも」がいなくなりました。どこへ行ったのでしょう。
今年の母さんの命日には、たしかにいて、ベランダの母さんのソファーの上で、読経(どきょう)の続くあいだ丸くなって座っていたのです。そして、そのあと、ふっと、かき消すようにいなくなってしまったのです。
二、三日帰らぬことはこれまでもあり、案じながらも、いつものことと思っていました。けれども、それが一週間になった時、私と阿貴子は、暗い夜道を、まも、まも、と呼びながら探しまわりました。あの子は、呼べば、何をしていても必ず駆けて来る子でした。でも、どこからも、現れませんでした。もう涙ぐんでいる阿貴子を置いて、私は、さらに自転車に乗って、遠くまで探しに走りまわりました。次の日も、次の日も。……
けれども、どこにもいませんでした。「まも」は、母さんの一周忌、十一月十日という日を最後に、私たちの世界から、ふっと消えてしまったのです。
思えば、この小さな生命は、七年余を私とともに暮らしてきました。その小さな目で、孤独だった私の日々、そして母さんと再会してからの日々、そして、母さんの現身(うつしみ)が去っていく日を見てきました。さらに、母さん亡きあとの私の一年の心の過ごしようを見届けて、……ふっと消えたのでした。誰よりも長く、ともに暮らした家族でした。
あの雨の夕べ、私の車のエンジン・ルームの中に必死にしがみついて、私の腕に助けを求めた小さい生命、マンモスの如くたくましい力を、と祈って名付けた「まも」は、その後の歳月の中で、私に絶えず小さな慰謝(いしゃ)を与え続けてくれました。
そして、母さんのひとり言めいた語りかけの、静かな聞き手であり、母さんの守(も)り役であり、また、小さな喧嘩相手でありました。
母さんの亡きあとも、何かといえば母さんの部屋に上がっていき、母さんの残り香(が)のするベッドやソファーの上で眠っていました。
あの子にとっても、母さんの匂いだけがあって、その現身(うつしみ)の見えないことは淋しいことであったに違いありません。
阿貴子は、「まも」の墓を庭の隅に建てようとした私に、激しく反発しました。「まも」は、生きている! と。
私は、阿貴子の心に従いました。石を拾い集めて卒塔婆(そとうば)めいた石塚を作ってやろうとした私の心も、それに抗(あらが)った阿貴子の心も、別に食い違っているわけではないのですから。
「まも」もまた、何ケ月たっても、何年たっても、母さんと同じように、私たちの心の中で生き続けていくことでしょう。
あの子もまたきっと、それなりに、あの小さな生を「わたって」いったのに違いありません。
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