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第六章 法輪
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母さん。
あなたが、すべての人々に別れを告げるために水原の町に帰り、そして再びこの部屋へ、私の腕に抱かれて帰ってきてから、半月がたちました。
仏壇の写真のあなたの笑顔は、優しく柔和(にゅうわ)で、いつも見る私を包み込んでくれます。美しく、深い表情をしておられます。
岸のこちらがわにとり残された私は、向こうへわたったあなたを思い、しのびます。思うことしかできません。
去った者も、残った者も、そんなに遠く離れているわけではない。……たしかにそうですが、しかし、あなたの現身(うつしみ)の姿をつい探し求め、現身(うつしみ)の声を聞こうと、つい耳をそばだててしまう愛執(あいしゅう)のうちに、なお私はあります。その愛執が、いつもあなたを探し求めさせながら、また、あなたの岸との「距離」をつらく感じさせてしまうのです。
いつの日か、私もまた、この愛執(あいしゅう)の流れをわたり終え、あなたの胸にとびこんで、母さん!と甘えられますように。……
しかし、その日まで、私はどう生きていけばいいのでしょう。あなたの蒔(ま)いていったこの心の種子を、どう育てていけばいいのでしょう。それを育て、私もまた一人の「種蒔く者」となってから、この生を滅(めっ)することができるでしょうか。
あの日からずっと、私は「ブッダ」の旅をたどり、彼の言葉を聞き直し、考え直してきています。そして、道元や親鸞(しんらん)の書をひもとき、その遠い遠い弟子の一人である、道文さんのことを考えています。
「ブッダは偉大な人間だった。その遥か東方の弟子、空海も、最澄も、法然も、日蓮も、そして道元も、親鸞も、みんな偉大な人間だった。だから私は、彼らを愛することができ、その愛を通して学ぶことができる」
と、かつて鑑山寺の本堂の縁先に腰を降ろしながら、道文さんは言いました。
「ブッダも人なり」
と言うことが、冒涜(ぼうとく)になるのかどうかは、私にはわかりません。しかし私は、彼の言った意味が、「この衆生世間(しゅじょうせけん)の存続する住劫(じゅうごう)の世に、ブッダが人の姿において現れて下さったことが、うれしく、ありがたく思われる」と言う意味だと思っています。
敬(うやま)うだけではいけない、愛し、慕って、「ともに生きる」心にならなければ、その存在の真髄に近づくことがむずかしい、とも言いたかったのかもしれません。
ブッダは、その人としての生存の尽きる瞬間まで、人々を思い、いたわり、励ましています。
「生あるものは滅ぶ、滅ばないでどうしようか」
しかし、そう言われ、その理(ことわり)は「わかって」も、なお嘆き、悲しみ、うろたえる弟子たちの、二千五百年前の姿は、今の私たちの姿でもあります。たしかに、人は、愛を通して、直感的に深く洞察することもできるが、また同時に、その愛(愛執)によって幾たびも迷妄(めいもう)の海に溺(おぼ)れるものでもあります。
《やめよ。アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこ のように説いたではないか、――すべての愛するもの、好むものからも別れ、異なるに到るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるぺきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころの行為によって、向上し来れる人に仕えてくれた。アーナンダよ。お前は善いことをしてくれた。努(つと)めはげんで修行せよ。速やかに汚(けが)れのないものとなるだろう》
《アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかし、そのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律(かいりつ)とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである》
《こころの安住せるかくのごとき人にはすでに呼吸がなかった。欲を離れた聖者は、やすらいに達して亡くなられたのである。ひるまぬ心をもって苦しみを耐え忍ばれた。あたかも灯火の消えうせるように、心が解脱(げだつ)したのである》
(大パリニッバーナ経 中村元 訳)
死ぬ時に精神錯乱することがない、これを「臨終正念(りんじゅうしょうねん)」という、とあります。母さん、あなたもまたたしかに、正念のうちに臨終を迎えられました。
そして、残された私は、なおもこの生死(しょうじ)の海をわたっていかなければなりません。
真理は、酷にすぎるほど厳しくも思え、しかしまた、本当は、簡明で、限りなく明るいもののようにも思えます。
「人を生存にしばりつける愛執(あいしゅう)を捨て、この世に還(かえ)りくる縁となる煩悩を捨て、この世とかの世とをともに捨てよ」
と言われて、ああ、しかし今は何も捨てられない、と思う私にも、それらを捨て切った時に、そこにあるのは、虚無ではなく、不思議な、からりとした世界なのであろう、と予感されます。その予感だけをせめて大切にしつつ、なお今はこの地点にあって、自分と人々の、愛執と煩悩の起縁を見つめ、人々とともに漂(ただよ)い、流れて、生きていくしかありません。
父さんは、結局やはり、ここで暮らすことになりました。
それは予想していたことでもあり、理由の如何(いかん)を問わず、それでいいと私は思っていたのです。いやむしろ、下手(へた)な理由など、言ってくれない方がよかったのです。言うのであれば、ただひと言、母さんが最後に生きたこの地で自分も生きていきたい、とそれだけでよかった。そのひと言のうちに、私は、あの人の悔恨(かいこん)も繊悔(ざんげ)も、発心(ほっしん)も発願(ほつがん)も、すべて見ようとし、あの人の寂蓼(せきりょう)を慰める道をもう一度探そうとしたことでしょう。
しかし、今は、二つの懸念(けねん)が私の心にかかっています。ひとつは、水原の町に帰る時、私が今後のことはどうすると英夫に言うつもりか、と問うたのに対して、「母さんの供養(くよう)をするために自分としては水原に帰りたい」と言うつもりだと言ったことでした。「母さんの供養をするため」と言えば、極めて自然に聞こえます。しかし、私は、そうなの、とは言ったけれど、あの人にとっての「母さんの供養」とは何のことなのか、それを「するために」水原に帰らなければならない、とはどういうことなのか、とそれがわからなかった。
母さんの臨終(りんじゅう)の地は、ここです。
母さんは、自分の死に場所はどこであろうとも、そこでたまたま自分の生命が燃え尽きたということであって、その場所が自分の選択だったということではない、と不思議な言い方を残していったけれど、その意は、どの子をも差別なく最後の瞬間まで遇しなければならない、自分の死と死に方一つでさえも子供らの新たな対立の種になってはならない、という遠く遠く見透(みとお)しての言葉だったのだと私は思ってきました。ああ、この人は、そこまでも考える人なのか、と胸を打たれていました。
しかしまた、母さんの臨終の地が、結局、この地になったことも事実であり、母さんが、ここをかりそめの地と思い、水原へ帰りたい、帰らねばならぬ、と思いつめながら耐えて生きてきたわけではないことも事実です。母さんの生命は、まさに「燃え尽きて」ここで終わったのではあるけれども、母さんは、「どこにももはやいない、しかし、どこにでもいる」存在になったのであって、母さんの願いは、みんなが、それぞれの場で、それぞれに、自分の生を全(まっと)うしていってくれることだった、と私は思うのです。
父さんが、供養のために水原に帰る、と言う時、それは裏返せば、水原でなくては供養ができない、ということでもあります。その考え方が、私には誤りに思えたのです。水原の地で、父さんが英夫たちと仲良く、心穏やかに暮らせるのであれば、それはまさに、母さんの供養となりましょう。母さんは、にこにこして、それを見て喜んでくれるでしょう。しかし、本当にそれが可能だと、父さんが思っているのか、言い変えれば、それが可能になるだけの自分の側の深い発心(ほっしん)は少なくとも既になされたと、自分で思っているのか、それが疑問だった。
父さんは、水原から帰ってきて、私に言いました。やはりここで暮らす、と。
それはそれでよかった。最初からそれでよかったのです。しかし、父さんが、ここで暮らすとした理由の二つともに私を驚かせたのでした。
彼は、自分が水原に帰ることを英夫に拒否された、と言いました。そしてさらに、拒否はされたが、自分の方でも英夫の不当なもの言いに対して腹が立ったから、水原で暮らすことを止(や)めたのだ、と言いました。
父さんの話は、こうでした。北海道の、佳代子さんの親御さんたちが、母さんの葬儀に出席されるために来られたのに対して、英夫がこう言ったというのです。「いやあ、加代子も、おふくろには随分と意地悪されて、泣いたことも多かったが……」と。
私は、彼のこの言葉にショックを受けました。一つには、英夫が本当にそう言ったのだとすれば、これは狂気だ、ということ。
母さんは、佳代子さんに何の意地悪をしましたか。そもそも母さんは、人に意地悪をする、というような人でしたか。意地悪云々という言い方をあえてするというのであれば、意地悪をしたのはまさに英夫であり、佳代子さんであったはずです。そして、悔(くや)しいからではない、こんなことではいけないのに、と悲しみの涙を流した人がいたとすれば、それは母さんであったはずです。そして、佳代子さんを泣かせてきた者を言うのであれば、それは誰でもない、英夫本人であったはずです。
その認識の欠落、そして英夫自身の中にあり続けているある卑劣さ、傲岸さ、さらに佳代子さんを裏切り続けてきたことへの潜在する良心の苛責(かしゃく)、……それがそのようなねじ曲がったものの言い方をさせたのだと、私は思うのです。
しかし、そう思いやっては見ても、私はやはり端的(たんてき)に、彼は「病んでいる」と思います。多くの人々が、「慈悲」の心によって、彼を裁かず、その生存を許し、自らの身を引くことで彼との確執(かくしつ)を解消――解決ではなく――してきました。それを、己れの正当性の証(あか)しであるかのように思いなしている限り、彼の覚醒(かくせい)はありません。彼は、徹して孤独になり、己れ自身と正視し合って座す必要があります。雄弁な彼が、すべての言葉を失って立ち尽くす、そういう日のこない限り、彼は多くの女性を自分のまわりに侍(はべ)らせながら、己れ自身からは限りなく逃れ続けていくことになるのです。
佳代子さんの、英夫への愛が、どういうものであるのかは、勿論、私にはわかりません。ただ、なぜ、なぜ? と心の中で彼女に問い続けてきました。あなたの我慢、あなたの許しとは何ですか、それは、英夫という人間の真の覚醒(かくせい)を妨げ、自己からの限りない逃亡を助けるものになり終わっていませんか、と。
今、私が彼を「許す」ことは、彼のためにも、私のためにもなりません。私は崩壊し、彼も崩壊するでしょう。いつの日にか、許す、許さないではなく、「もういいんだよ」と言える日の来ることを祈りながら、そう自然に言える心にめぐり会うための旅を、私は、一人続けていかなければなりません。そして彼にも彼の、己れ自身と出会うための、厳しい旅が求められています。
房子にしても、祥子(しょうこ)にしても、私が一人故郷を去ってからも、変わらず英夫と交わり続けてきました。それのみならず、房子は私に、彼をなぜ許す気になれないのかと、私の「狭量(きょうりょう)」をとがめるような手紙をよこしました。ことの善し悪しを判断することを苦しんで超越しての調停ではなく、判断に背を向けての奇妙に「中立的」なもの言いでした。 それに彼を許す、とはあの時、どういう意味を持っていたのでしょう。傷つき、苦しんでいるのが私の愛したあの人である時に、なぜ私が「許し」ていいのでしょう。そして、彼自身が自分を裁かず、あの時でさえも、まずまっ先に自分で自分を許し、のみならず私に対して「お前のためを思ってしたことだ」とさえも言い放っていたことに対して、なぜ、許すべきだったのでしょう。
何があっても結局は、兄を敬愛し、彼にある日、皮肉たっぷりに、
「お前は、何だかんだと言いながら、俺のあと追いをしながら生きてきたんだ」
と言われたように、私は彼についてきたのです。修一郎兄さんの娘、あの、鉄路に若い生命を散らせた麻子の死に際しても、その死に対する英夫の隠微(いんび)な責任を直感しながらも、お前だけが俺の心をわかってくれる、他のきょうだいはいても、最後に俺が頼るのはお前だけだ、助けてくれ、と言う彼のために、東京を去って新潟に帰り、彼の近くで暮らし、彼のために盾(たて)となって生きもしました。そんな私が、なぜ、愛する人までを汚されなければならなかったのでしょう。それを許さぬのが悪いとは、どういうことだったのでしょう。あの時、私が許す、許さないでもなく、そして、あの人が許す、許さないでもなく、もっと大きな何かが、彼の生き方を、否、と言っていたのではないでしょうか。その大きなものによって、この私自身も、そして、あの人自身もが、やはり、否、とされていたのではないのでしょうか。
今、父さんの言葉によって、彼の心はなお病み続けていることを知りました。……
この恩讐を越えて、その彼を彼の病いもろともに、そしてあの人を、あの人の旅立ちもろともに、包んでやれる、広い、からりとした世界というものを私はまだ見つけられないけれども、それがきっとあるのだ、とは感じています。ですから、母さん、もう少しのあいだ、母さんの願いであった「仲直り」は果たせないけれども、許して下さいね。
それにしても、父さんは何のために、聞かれもしないのに、私の神経を逆(さか)なでにするような英夫の言動を、私にあえて告げたのでしょう。これがもう一つの私のショックでした。
人はたしかに、いつでも何のために、と意識して語っているわけではないけれども、ここではやはり私は問わないではいられません、何のために、と。
母さんは、父さんが水原を出る時に言ったはずです。
「この上、お前さんの言葉で、きょうだいの仲を裂くようなことを言ったら、私は死んでも許さんからね」
と。
今、父さんは、自分の「義憤(ぎふん)」を説明し、自分の、「選択」の根拠を説明するためであるかのように、「母さんを汚(けが)した者」としての英夫への怒りを表明して見せました。なるほど、もの言わぬ母さんの身体のある家で、英夫が本当にそう言ったのだとすれば、父さん」が怒っても当然ではあります。
しかし、母さんをその生涯にわたって最も汚(けが)し続けて来たのは、他ならぬ父さん自身です。自分のふるって来た暴力に対する自省なしの、英夫の暴力に対する非難と同様に、この時点での父さんの「義憤」もまた、屈折なく簡単に□にされることに、私は驚くのです。さらに、それを私に向かって口にすることが、母さんの最後まで持ち続けていた願いに背(そむ)くことだとは考えてもみないことにも、驚くのです。
思えば、父さんは、父さんとして、一人の「種蒔(たねま)く人」であり続けました。その蒔く種は、しかし常に、人と人とを離反させ、反目させ合う、毒の種でありました。父さんの蒔いたものが育ち、生(お)い茂る時、人と人との間は、無数のトゲだらけのものによって遮(さえぎ)られることになりました。そうやって、人と人を結びつける者としてではなく、人と人を憎み合わせる者として、毒の種を蒔きながら、彼は、ここ、あそこ、とその時その時での寄り所を作って来ました。新しい寄り所においては、前の寄り所は、とことん悪(あ)しざまに批判されました。彼は、そうすることが、今、自分が寄りかかろうとするものを立てることになるという考えを持って生きてきたのでしょう。
そうした考え方は、勿論、哲学でもなければ、人生観、人間観でもなく、単なる世渡りの術策(じゅつさく)にすぎません。あの人は、その長い人生で、浅薄(せんぱく)な術策以上のものを、遂に持ち得なかったのでしょうか。……
父さんは、「母さんの供養をするため」に水原に帰って暮らしたい、そう英夫に言うと言って行ったのです。本当にそれを拒否されたのでしょうか。父さんがどう言い、英夫がどう拒んだのかは、私にはわからない。両方から聞かなければ、判断できません。
ただ、思うのです、父さんの「回心(かいしん)」、父さんの「発心(ほっしん)」が、家に入るための方便であると思えても、母さんの名を口にされたのなら、それを黙ってひと度(たび)は受け入れてやって欲しかった、と。
子が回心し、発心すれば、親は幾たびたりとも信じ直し、それが成就(じょうじゅ)するようにと支えるものでありましょう。同様に、今、親が回心し、発心しようとしているというのであれば、それを幾たびなりと信じ直してやる子供でありたい。
父さんは、別に、回心とも、発心とも口にせず、ただ、母さんの「供養」をするのだと言って水原に帰った。そして、拒まれた、と言い、ここで暮らすと言って帰ってきた。
ではいったい英夫は、「何を」拒んだのでしょうか。そして父さんは「何を」拒まれたと思っているのでしょうか。父さんの話を聞いていると、まるで「供養」を拒まれたように聞こえます。どこの世界に、親の供養を拒むものがありましょう。おそらく英夫が見たものは、供養の名のもとに、再び母さんを盾にして水原へもぐりこもうとする父さんの姿勢だけだったのだろうし、母さんの死をも利用するのか、という憤りがあったのでしょう。それでも……母さんを、と口にする限りは、目をつむって許してやって欲しかった、と私は思うけれども。
それにしても、父さんの「供養」とは、いったい何なのでしょう。それは、所詮(しょせん)は、墓参りであり、仏壇に灯(あか)りをともし、線香を立てることであり、節季ごとに慣習に従っての法要を営むことであって、どこまで行っても、行動の様式や行事以上のものではないのだ、という気が私にもしてなりません。
だからこそ、私が自分の心の慰めのために求めた小さい仏壇を見て、「いい仏壇を買ったね、紫檀(したん)だね、高かっただろう」などと言い、あちらこちらに電話して、自分は栃木で暮らすことになった、という報告と合わせて、利夫が立派な仏壇を買った、となどと言うことになるのです。
母さん。
母さんの魂は、この地にあります。この部屋にも、あの部屋にもあります。
そして勿論、水原の地にもあります。母さんの名の刻(きざ)まれた位牌(いはい)の中にも、腰を痛めて苦しんだあの母さんの居室にもあります。
修一郎兄さんの家にも、修二郎兄さんの家にも、桂子姉さんの家にも、房子や祥子の家にもあります。
長福寺の、私が自ら母さんの遺骨を納めたあのお墓の中にもあり、そして、見上げる空にも、流れ行く雲にも、揺れる木々の枝、吹き渡る風の中にもあります。
母さんは、こうして、この世の生を滅(めっ)し、それと同時に、求める心に対しては、どこにでも偏在(へんざい)するものとなったのです。
仏壇も、墓も、位牌も、そして節目ごとの法要も、すべてが本当は向こう岸へわたった人のためのものではなく、こちらの岸に残されて、なお生きていかなければならない私たちの、心の慰謝のためであり、心を洗うための契機であって、その内なる心を欠く限り、何も意味がないのだと、私は思うのです。
だからこそ、仏壇の自慢はしても、そこに自分の手で野の花一輪を供えることさえしない父さんを見る時、父さんにとって、母さんは、どこにいるのだろうと、考えます。そして、思ってしまうのです。どこにもいないのかもしれない、と。……
グラシェラ・スサーナという人の歌う「風花(かざばな)」という歌の中に、こんな歌詞があります。
《人は愛されないとき風花になる》
…………
《人は殺されなくとも死人になれる》
そう、母さんは、父さんにやはり生涯「愛」を求め続けたのだと思う。
そして、絶えず「風花」にされ続け、「死人」にされ続けたのだと思う。でも、今はもう母さんは、すべてを越えていった。是非も、善悪も、美醜も、高低も、名称も、比較も、所有も喪失も、……すべてをわたり尽くして、母さんはもはや何ものでもなく、また、何ものでもありうるものとなった。
疑い、迷い、なお悲しんだり裁いたりしているのは、生き残っている私たちに過ぎません。どんなに、母さんのために、と言い、母さんの名によって、と言おうとも、母さんは、もはやそれらすぺてを越えており、すべての者たちが母さんの名を口にしつつ、「自分の」生を生きていくしかないのです。私自身もそうです。
ただ、それでも、私は願う。母さんの死の衝撃によって、父さんの心と目の梁(はり)が落ち、空が空として見え、雲が雲として見え、緑が緑として、愛が愛として、母さんが母さんとして見え、生命が生命として見えるようになってくれたら、と。
阿貴子は、多くは語りませんし、また語る言葉にも乏しい人ですが、私の心を大切にすることを通して、母さんを大切にし続けようとしているように思えます。
どうしようもなく淋しい日は、私は阿貴子に尋ねます。
「母さん、何をしているかなあ」
彼女は、答えます、
「お二階でテレビを見ていますよ」
あるいは、
「お二階で、眠っていますよ」
と。
お風呂をどうぞ、と阿貴子に言われると、私は、つい言ってしまいます、母さんは?と。すると彼女は答えます、もう入ってお二階へ行きましたよ、と。
時には「まも」に聞きます。おばあちゃん、何をしていた?と。「まも」は、ニャア、と丸い顔いっぱいに口を開けて答えます。そうか、眠っていたか、だめだぞ、おなかの上に乗ったら、と言うと、また、ニャア、と答えます。いつも二人は、私の問いにさりげなく答えてくれます、母さんは、いつも、そこに、いる、と。
出かける時、玄関を出て振り返って見ると、二階のベランダで、行っておいで、と手を振っている母さんの笑顔が見えることがあります。でも、時々、何も見えない時もあります。そんな時は、ふと私は言います。
「母さん、いないね」
阿貴子は、答えます、
「眠っているのよ」
と。
何でも眠っていることにすれぱいいものではないと、ちょっぴり腹を立てながらも、私は、やはりうれしいのでした。
阿貴子がやわらかい心になれたのは、母さんのお蔭です。母さんの蒔(ま)いていった種が、彼女の中で芽生え、母さんの下さった心のご褒美(ほうび)を潤(うるお)いとして、育ってきているのでしょう。
それから、もう一つ、母さんに御報告をしておかなけれぱならないことがあります。
母さんの貯金、あれは私の考えで、きょうだい全部、私を除いて六人に、全く均等に分けて送らせて頂きました。私は取らず、その点でも、母さんのご遺志に背(そむ)いたことになります。
けれども、私も阿貴子も、あなたと暮らした思い出、と言う何ものにも替えがたい形見を頂きました。それだけで、十分なのです。
着物や何かは、すべて、祥子が運んでいきました。母さんの使っていたタンスの中には、母さんの着古した肌着や、色あせたハンカチなどしか残りませんでした。祥子は、私たちに、これをあなたたちに残していきますね、とのひと言の言葉さえも無く、何かしら嵐のようにやってきて、勝手にかきまわし、嵐のように去っていきました。
母さんのタンスの中に、何が入っていたかということも私たちにはわかりません。何が欲しかったということでもありません。ただ、私と母さんとともに暮らした心というものを何もわかってくれない、きょうだいたち、というものに対して、改めて私は、悲しかった。
母さんのお金を送る時も、私は、ひとりひとりに心を込めて、母さんのお金であることを書いて送りました。受け取って手紙をくれたきょうだいもありますが、何ひとつ言ってこなかったきょうだいもあります。
それももう、すべて、私にはどうでもいいことではあります。ただ私には、改めて、しみじみとわかりました。母さんの最後にいる所は、やはり、私の所以外には無かったのかもしれない、と。
どの子の所で死んでもいいのだ、と言った母さん。でも母さんは、どの子の所へ行っても、所詮はやはり「客」であり「旅人」でありました。でも、私の所では、母さんは、「ともに生きて」くれました。いろいろと言う者もありました。母を診にくる気も無いのか、阿貴子とはうまくいっていなかったんではないか、私が結構、父さんもろともに母さんにも意地悪っぽいことをしていたんではないか、……などなどと。
でも、私は知っているし、母さんも知っている。どんな心を交わし合いながら私たちが生きてきたかということを。誰が知らなくてもいい、母さんだけは知っている、と思って私は黙って、心を濁らせないで過ごしてきました。
母さんという求心力を失ってみれば、きょうだいたちは、みんなそれぞれに、勝手に自分中心の論理の中で生き始めています。
そして、それはもう、仕方のないことです。みんなもう、独立した生活を営んでいるのですから。私は、私なりに、この地で、母さんとの心の生活を続けていくだけです。
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