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第六章 法輪
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父さんは、とうとうこの家を出ていきました。…… いえ、私が、出ていってもらったのです。
初めは、隣りの市のあるアパートに住んでもらいました。今は、その同じ市のはずれに私が買い求めた家に住んでいます。
私がその家を求めたのは、私がこの地に終(つい)の住処(すみか)を持たなければ、と切迫して思ったからです。
母さんの亡くなったあと、母さんとの最後の日々を過ごしたこの診療所の家で、老いても母さんの思い出とともに住み続けていきたいと思ったのですが、持ち主にはそんな私の感情は通じず、とすればいずれはここを明け渡す日も来るわけで、かと言って、私には他に帰るところとて無く、母さんの臨終の地を離れられもしない私は、ほど近いところに、いつの日か住むことになる家をと思って、ローンを組んでひとつの家を買いました。あまり便利のいい所とは言えないけれども、小高い丘の中腹にあり、下見(したみ)に行った時に、窓を開けたら、故郷の方の西の空が、沈む陽(ひ)で茜色(あかね)に燃え上がるのが見えました。そのことが迷わずその家を選ばせました。
父さんには、言わないでいました。言いたくないものがあったのです。……
母さんを亡くして、水原の家へ入ること拒(こば)まれて、第二選択としてここで暮らし始めたあの人の「発心(ほっしん)」を、信じてやりたいと思っていました。しかし、水原から戻ってものの十日もたたないうちに、もう母さんの仏壇の前でだらしなく寝そべって中国語の本を声を出して読んでいるのを見た時に、ああ、この人はなお何もわからない、この人は何も変わっていない、と思いました。
どこへ行くのか、ふらふらと出歩き、さらに東京へ行くと言って泊りがけで出かけていったりと、虚脱に陥(おちい)るほどなお考えつめている私とは対照的に、母さんのいない生活に、父さんはすぐに順応して行きました。いいえ、それは順応というより、解放と言うべきだったかもしれません。
母さんの仏壇の前でだらしなく寝そべっていた日、私は、今後は母さんにお参りする時以外は、母さんの部屋に入らないようにと言い、母さんの部屋の清浄を守ろうとしました。
彼は、今回もまた、別段そう言われて精神的な打撃を受けたわけでもなく、むしろ「供養(くよう)」の義務から解放されたかのように、母さんの部屋から離れ、屈託(くったく)のない顔で暮らし、出かけまわっていました。
しかし、母さんの一周忌も来ないうちに、あることが起きました。
ご近所の家の御主人が急死されました。私が駆けつけた時には、もう呼吸も心臓も停止していて、蘇生術も無効でした。以前から心臓は悪かったのですが、だからと言ってこうしたことに対し奥さんに心の準備ができていたというものでも勿論なく、子供たちはみんなとうに独立して去っていて、夫婦二人の仲むつまじい暮らしだっただけに、奥さんの悲しみは深いものがありました。
それでも、葬儀の間は、気丈(きじょう)に頑張って弔問(ちょうもん)客のお相手をしておられました。しかし、遠方にお住まいの子供たちが、みんな一旦引き上げられたため、すぐに一人住まいとなりました。
その家へ、父さんが毎日のように行っていました。世間の目がどう見るだろう、……寡婦(かふ)となられて一人でおられる所へ、足しげく行くのは感心しないな、と思っではいたのですが、亡くなられた御主人とは父さんが親しくしていたようなので、そんな共通の思い出でもしみじみと語っているのであればと、良いように考えていました。
しかし、まもなくある日、その奥さんが、血相を変えて、という様子で訪ねてこられました。
私はたまたま部屋の中にいて出ていかなかったのですが、阿貴子を相手に、奥さんが、玄関で、泣き泣き激しい口調で父さんに対しての憤りをぶつけているのが聞こえました。
……亡き人を心静かにしのびつつ暮らしたいのに、こちらのあの方は、人の心も考えず、やたらに大きい顔をして私の家に入ってくる。亡き人の友だと思い、また、お世話になっている先生のお父様だと思って我慢してきたが、もう我慢できない。……今日は、四十九日の法要の段取りを私が手配していたら、いきなりやってきて、俺に相談もしないで勝手なことをするなっ、とひどい剣幕で私に言った。何で私がそんなことを言われなければならないのか、私は口惜しく我慢がならないから、何と思われてもいい、言うだけのことは言わせてもらおうと思って出てきた、……と、三十分ばかりにわたって、綿々(めんめん)と、このところの不快だったことどもを言っていかれました。
信じられないような話ですけれども、この方は、本当に礼儀正しく物静かで、勿論、嘘を言う人でもなく、この方の言う通り、父さんはまたも得体(えたい)の知れぬ不快な意識を持って、ひとり身となったこの方の家に出入りしていたのだな、と私にはすぐにわかりました。
私は怒りを胸に秘め、何も言わず、翌日すぐに隣りの市へ行って、ひとつのアパートを借りてきました。
そして、その上で、父さんに言いました。あの方に何を言ったのか、と。彼は、相変わらず、別に何も、と、とぼけました。
私は、奥さんが昨日来て、これだけのことを泣き泣き言って帰っていった。それでなくとも傷心(しょうしん)のうちにある人に対して、それ以上、心を傷つけるようなことをなぜするのか、亡くなられた御主人は愛妻家の方だった、心を残して亡くなられたはずだ、今、あんたの言動に対して、ご主人は歯ぎしりして一緒に口惜しがり、泣いているだろう、と言いました。
父さんは、なおも、何も身に覚えのないことだと、とぼけ続けました。
でも、私には、もう彼の返事などどうでもよかった。
あの奥さんだって、どんな顔をして明日からまた私の診察を受けにこられるだろう、どんな人間だって、自分の親のことを批判されて気持がいいはずはなかろう、怒りにまかせて言ってはしまったが、私はどんな顔をしてまた診察を受けにいけばよいのだろうと考えて悩んでおられることは、手に取るように私にはわかる、私は、そういう患者さんたちを選びはしても、あんたのような人間を選びはしない、もうこれ以上、私の生き方を妨げることは許さない、アパートを借りておいた、そこへ行って暮らすように、と私は言いました。
あの人は、どうしたと思いますか。私が悪かった、どうか、母さんのそぱに置いてくれ、とでも言ったと思いますか。いいえ。……あの人は、早速に荷造りを始め、さっさと運送業者に手配をして、数日後、あっさりとここを出ていきました。
涙ひとつこぼすでもなく、また、怒るでもなく、自分の銀行口座の番号のメモを置いて、じゃあ、よろしく、と言って出ていったのですよ。よろしく、とは何のことかわかりますか。勿論、家賃の送金の方をよろしく、ということです。
私は、父さんの出ていくのを見送りもしませんでした。それは、憤りでも、悲しみでもなく、呆気(ほうけ)たような虚脱に陥(おちい)っていたからです。
追い出された者は、晴ればれとした顔で出ていき、追い出した者は虚脱に陥っていました。
あの人にとっては、私の家で暮らしたのは、英夫に拒否されたための、やむなき選択でした。本当はやはり、一人で好き放題に、誰の掣肘(せいちゅう)を受けることもなく、暮らしたかったのです。母さんの供養(くよう)云々(うんぬん)など、結局、口実でしかありませんでした。
英夫は今、本省勤務で東京暮らしで、週末にしか水原へは帰りません。水原の家には、佳代子さんしかいず、その佳代子さんも、昼間は学校勤めです。子供らはみんな大学へ行っていて、家にはいません。週末の英夫との否応(いやおう)ないわずかの接触に耐えさえすれば、あとは、徒食(としょく)しつつ、好き勝手なことをして水原で暮らせると思ったのでしょう。その目算(もくさん)がはずれて、かと言って再びどこかで一人で暮らすには、それを言い出す口実もなく、また、家賃を払うのも惜しく、仕方なく私の所で暮らしていたに過ぎないのでしょう。
私に出ていけ、と言われて再び、非害者、非抑圧者のような世間体で出ていく口実が得られ、そして今度は、家賃も私が払ってくれるとなれば、こんな願ってもないことはなく、まさに鼻歌まじりで出ていったような感じだったのです。何という人だろう、何ということなのだろう、と考えれば考えるほど、私はやるせなく、やりきれなくなるのでした。
私からは、誰にも何も言いませんでしたが、彼は、すばやく、事実経過はまた抜きに、房子や祥子に、憐みを乞うように、私に追い出された、そして、仕方なく、自分でアパートを借りた、と思わせるな言い方で、言ったのでしょう。
まもなく、房子からも、祥子からも電話が来ました。
房子は、明らかに私をとがめる口調であり、あんたも親を見捨てる、というのなら私が離れを作ってでも引き取るしかない、というもの言いでした。私は、よほど言ってやりたかった、そうしてみたら、と。でも、私はそれを飲みくだして、言いました。――私は別に親を見捨てたわけではないし、不幸にしたとも思っていない。私は自分の責任とお金で部屋も借りてやり、何かあれば近くにいるのだし、すぐにとんでくる、ご迷惑は決しておかけしない、と大家さんにも言ってある。父さんは、悲しそうな顔をして出ていったのではない、せいせいした顔で出ていったのだ、会ってみれぱわかるだろうが、今度は金の心配もなく一人暮らしができて、のびのびと暮らしているよ。――
房子は、なおも信じられないふうに、あんたにまで見捨てられたのかと思ってと、くり返していましたが、祥子は、ふうん、それならいいけど、と言いました。
かつて母さんを捨てて水原を出ていった時も、房子は、父さんをかばい、まるで母さんが引き止めないのが悪い、と言うような言い方をし、家を出る時は、わざわざ新潟まで自分で車に乗せて連れて行き、駅前のホテルで泊まらせてやったりしています。そして今回のもの言いです。かつての、私が英夫とのことで故郷から去ったことへの非難もありました。すべてが何か自分一人が優しく、みんなのことを思っているよう言動でした。愚かな思い上がりです。浅薄な建前(たてまえ)の「愛情」、人間を、ぎりぎりの所では駄目にする「愛情」です。父さんを堕落させ続けた一因が、彼女自身にもあることを自覚しないで、いつでも、奇妙なバランス感覚の中で、当事者ではなく、調停者のような言動をし続けているのです。
さらに父さんは、房子や祥子には、自分がここを出された真実の理由を言わなかっただけでなく、他の人にも、全く信じがたいような嘘をでっち上げて言っていました。
安田の桂子姉さんの所へ行って、こう言っていました。――自分が家を出されたのは、修一郎たちがここに来ては近所の患者さんの所へ行って迷惑をかけている、そのことに対して利夫が腹を立てたので、自分はその「とばっちり」を食ったのだ、と。
桂子姉さんは、それを信じて(あの人は、どこまで行っても人を疑わない人です)、修一郎兄さんに何を余計なことをしているのか、と怒りました。修一郎兄さんにしてみれぱ、何が何だかわからない、怒られっぱなしでいたのです。
のちに、私と会った折、私が事情を説明すると、彼は、何だ、自分のしていたことを俺たちのしたことにしたわけか、と憮然(ぶぜん)としていました。狂っているとしか思えないこんな嘘、……内容も狂気なら、すぐにもばれて自分がいっそう立ち往生することの目に見えている嘘を、平気でつける父さんという人に、今さらながら、幾十度も驚き、寒々(さむざむ)とした気持になるのです。
水原へ行っても、桂子姉さんには、昨日来た、と言い、修一郎兄さんには、今日、今、来たばかりだ、と嘘をつくのです。どこへ行くのも嘘、誰のところへ行くのも嘘、すべてが嘘、嘘、嘘なのです。
この果てしない嘘は、いったい何ごとなのでしょう。嘘をつく必要など何もないようなことにまで、限りなく嘘が重なっていくのを聞く時、この人の精神の荒廃は、もはや荒廃を越えて、狂気に近いとさえ思ってしまうのです。
それでもある日、私は不意に衝動的に、父さんを、哀(あわ)れ、と思ってしまった。
父さんあてに来る郵便物もあり、アパートに届けにいってみれぱ、夜なのに、いないこともありました。どこへ行っているのかと詮索(せんさく)する気は私にはもう無く、その暗い明かりのついていない部屋を見て、自由ではあろうが、やはり淋しくもあろうな、と思ったのでした。
ある日、私は、父さんを迎えにいき、車に乗せて、父さんには言わなかったあの家へ連れていったのです。
これは、私が老いた時に暮らすために求めた家だ、こに来て暮らしなさい。私と阿貴子は週末くらいにしか来れないが、それでもわずかでも、ともに過ごす時を持てるだろう、生涯、もうどこへも行かず、ここで暮らしなさい、と私は言ったのでした。
母さん。……
その時、父さんには、喜びの表情はありませんでした。奇妙に、しぷるような表情しかありませんでした。ありがとう、の言葉など勿論ありませんでした。
その時は、私は、すこしひっかかりを感じながらも、何か家に気に入らぬ所でもあるのかな、と深くは考えませんでした。のちになって、すべてを思い返して見て、ああ、本当は結局あの人は、部分的にであれ、再び私の見守る中で暮らすことになる、「不自由」が、親子のよりが戻るよりもいやなことだったんだな、そういう「事情」というものがあったんだな、とわかりました。
しかし、当初、私には、それが見えなかった。私は、自分だけの感傷的な愛情において、一人では淋しかろう父さんのために、母さんの位牌(いはい)をもうひとつ作り、母さんの遺骨の一片(いっぺん)を、小さな壷に納めて、それを父さんの住む家へ持っていき、言ったのでした。
父さん、淋しいでしょうから、母さんを連れてきてあげたよ。この母さんの位牌に、朝は、お早よう、と言い、夜は、お休み、と言い、出かける時は、行ってくるよ、と言って暮らしなさい、それだけでいいんだよ、と。
本当に、私は、それだけでいい、と思ったのでした。それだけでよく、それがすべてでもある、と。それだけを守って暮らしてくれさえすれば、もう、父さんの残った人生に大きい過(あやま)ちはないだろう、と。
しかし、時折行ってみれば、母さんの位牌のまわりには、埃(ほこり)が積もり、花は枯れ、水は腐っているのでした。私は黙って枯れた花を捨て、腐った水を捨て、母さんの位牌と写真に積もる埃を拭いていました。
私の中には淋しさがありました。……母さん、私のしたことは、本当に良かったのでしようか、母さんをここに連れてきて、またあの日々のように母さんにあたらしい悲しみを与えているのではありませんか、と。
私は、遂にある日、言いました。この埃は何ですか、この腐った水は何ですか、と。……母さんは、花の好きな人だった、けれども、何もわざわざ花を「高い」と思う心で花を買ってきて活(い)けてもらわなくとも、その辺(あた)りに咲いている一輪の野の花、一本の若葉の枝で、十分に心のなごむ人だった。あなたは、いったい、どんな心で、朝夕に手を合わせているのか、と。……
その日から、彼はなるほど、埃(ほこり)を払い、花の水をかえるようになりました。しかし、それはやはりどこまでも、心の改めではなく、私に言われないためのただの技術的改善でしかありませんでした。
「言われなければわからない人間は、言われてもわからないのだ」
と私はこの頃よく思うのです。父さんこそ、その典型の人でした。言われたことの底にある「心」は、決して見ることがない、ただ言われたことを技術的に「改善」して、言われる「隙(すき)」を無くせばいい、そういう考えで終わっているのです。だからこそ、言われた当座の緊張が過ぎれば、そして私の訪れが遠のけば、再び花は枯れ、水は朽ち、埃は積もっていくのでした。
昨夜は平日でしたが、ふと何の気もなく、向こうの家に行きました。家の明かりはついていず、父さんは不在でした。いつも東京などへ出かける時には、あらかじめ予定の葉書をよこしたり、玄関にメモを置いていったりするのに、それも無く、何か妙な気持になって、そのまま下の居間で、テレビを見ながら待っていました。
三十分ぐらいして、玄関の鍵のカチャリと開く音がして、ああ、帰ってきたようだな、と思いました。
そのまま私の所に来て、おお、来ていたか、と言えぱそれで何にも起きなかったのです。しかし、違いました。もちろん灯りもついていれば、私の靴もある、私が来ていることはわかります。しかし、足音を忍ばせて、そっと自分の部屋へそのまま入っていったのです。 私は、何か変な気分になって、何をしているのか、と廊下まで見にいきました。すると、部屋の電気もつけず、うす暗がりの中で正装の礼服を脱いでいるのが見えました。そして、しばらくすると、階段を下りてきて、それでも私の所へ来るでもなく、声をかけるでもなく、そのまま味噌汁を作ったりして、遅い食事を食べていました。
食べ終えて、食器洗いをして、今度は来るかな、と思っていたら、そのまま、私を避けるようにして、また二階の自分の部屋に上がっていきました。
私には、もうさすがにわかりました。私には言えない場所へ、隠れて行ってきたのだ、と。そしてきっと今は、どうごまかせるかと、悩んでいるのだ、と。
私の中では、次第に怒りがつのってきていました。
それからさらに二、三十分して、彼はまた下りてきて、私がテレビを見ている部屋に入ってきました。そして何も言わず、テレビを一緒に見るようなふりをしました。空気が異様によどんでいきました。
この時でも彼は迷っていたはずです。私の来ているのがわからなかった、と言えるかと。
五分くらいも黙っていました。私はある覚悟を決めて、向き直り、はっきりと言いました、
「どこへ行ってきたの?」
と。彼は、明らかにギクリとし、うろたえました。「え?」と、とぽけて、言いました。書い訳を考える時のいつもの時間かせぎの「え?」でした。
「え?ではないでしよう。時間かせぎなんかしないで、答えなさい、どこへ行ってきたの?」
一瞬の間を置いて、彼は答えました。
「日中友好協会、東京」と。……その口調に嘘がありました。私はたたみかけて言いました。
「日中友好協会? 何の用で? 何の集まりで?日中友好協会と言えば、いつでも通ると思っているかもしれないが、 私は日中友好協会がどこにあるかも知っているし、今、月に一度のセミナーに私は東京へ行き、今週末も行く、会場は日中友好協会の斜め前の会館だ、協会に立ち寄って聞いてみればすぐにわかることだ、腹をすえて答えなさい、日中友好協会で何の集まりがあって行ったのか、それとも、本当の所は、どこへ行ってきたのか」この時でさえまだ私は、彼が日中友好協会でこれこれのことが、と言い通せば、結局は信じたと思うし、別にわざわざ確かめに行くようなことなど、するはずもなかったのです。けれども、調べれぱわかる、と言った私の口調の厳しさに、彼は腰砕けになってしまいました。
「浦和だ!」
と怒り声で言いました。浦和?……浦和というのは、私の知る限りでは、彼の人生の中でこれまで全く縁なく□にされたことのない地名でした。浦和?……私の頭は、めまぐるしく回転したけれど、結局わかりませんでした。
「浦和?……蕨(わらび)じゃなくて、浦和?」
と私は聞き返しました。蕨ならわかる、蕨の八百屋、と言うのならまだわかる、しかし、浦和とは? ……私は、秘匿(ひとく)され続けてきた無気味な、「向こうの世界」にまたも触れなければならなくなるのかと、怯(おび)えてさえいました。「蕨じゃない、浦和だ!」
と彼は、いっそう力を入れて言いました。それは奇妙な力(りき)みでした。蕨なら何で悪いのか、何で蕨じゃない! と強調しなくてはならないのか、それは奇妙な感じでした。わかるとすれば、彼自身の中に、蕨という地名にかかわる何かの疾(やま)しさがあっての身構え、ということでした。そしてそれは、実際何かあるようだな、と私はずっと前から直感はしていました。しかし、浦和とは?……私は、さらに聞きました。「浦和、というのは、あなたには縁のなかった土地のはずだが、その浦和へ何をしに行ってきたの?」
すると、また彼は黙り込み、そのあとこう言ったのです、
「浦和じゃない、上尾(あげお)だ、上尾へ行ってきたんだ、浦和じゃない!」……これはいったい何ごとか。ものの五分もしないうちに、彼の行った場所は、東京の日中友好協会から、浦和に変わり、そして今度は、上尾に変わっていったのです。
瞬時のうちに、恥知らずにも重ねていくこの嘘の連鎖、そしてその嘘のうしろにどろどろとうごめいている暗い何か……。
私は、怒りを爆発させ、血相を変えて、激しく問い詰めました。ああ言い、こう言い、と彼はさらに嘘を重ねましたが、重ねれば重ねるほど、嘘は自壊していきました。そして意に反してボロとして出てくる小さい白状(はくじょう)の重なりの中から、彼が、この数年、隠れながら続けていた、ある女性との隠微(いんび)な関係が露呈されてきました。
彼は、母さんを置き捨てて水原を出て、蕨で暮らしているわずかのうちに、隣室の若い女性と「懇意」になりました。「中国語」を教えて欲しいと言って、彼の部屋に来ていたのだそうです。彼が中国語が少し出来るなどということは、彼が言わない限り誰にもわかりようがありません。「来た」のではなく、彼が「招いた」のです。
それこそが、今にして思えば、修二郎兄さんに連れられて母さんが蕨に行ったあの日、そこで母さんが直感した「嫌なもの」であり、その時、玄関へ訪ねてきて、修二郎兄さんとのやりとりのあった、あの女性なのでした。
栃木へ、つまり、再び母さんのもとへ来てからも、その関係は切れることなく続いていて、その女性が浦和に移ってからは、浦和へ通っていっていたのです。日中友好協会だ、中国映画を見る会だ、とさまざまな口実で東京へ行っては、行き帰りに浦和へまわっていたのです。このうろんくさい「師弟」の関係は、母さんの亡くなったあとも続き、私の所を出て一人で暮らすようになってからは、ますます足しげく、この女性と会っていたようです。
今、思えば、彼のアパートに行ってみて、留守のことが多かったこと、また東京へ行くと断って行っていた時にさえも見られた、こちらを出てから祥子の所に着くまでの時間差、祥子の所を出てからこちらへ帰り着くまでの時間差の存在の訳が、ようやくにわかりました。
「中国語を教えていただけの関係だ」
と彼は、聞きもしないのに、くり返し強調しました。私は、思い出していました。あの豆腐屋をしていた頃、関係のあった高校の女事務員にも、「俺は夜の勉強を教えていただけだ」と私に強弁(きょうべん)したことがあったことを。夜の夜中に、当直室の窓から忍び込ませて、明かりを消して教えてやる「夜の勉強」とはいったい何なのか。そして、こんどの女性に教えてやった「中国語」とは何なのか。……私の中には、この人にとっての中国、中国語とはいったい何なのだろう、という、何とも索漠(さくばく)たる思いがありました。
中国の人々を辱(はずかし)め、満州における行為で母さんを辱め、東亜同文書院の名と人々を辱め、今また、口実として利用し続けてきたことによって日中友好協会の名と人々を汚(けが)し続けてきていたのです。この男の中では、中国も、中国語も、ただただ人格の腐朽(ふきゅう)を生み続けるものでしかなかったのだと、私は怒りを通り越し、悲哀を感じていました。……
実は、この少し前のある日の夕方、私は、西の空に沈む夕日を見ているうちに、ずっと前から考えていたことを、今日は言ってみよう、と思いました。
「父さんは、中国に行きたいかい?」
「ああ、行きたい」
「行きたければ、行っていいんだよ」と、私は言いました。
彼は答えませんでした。その訳はもちろんわかっていました。彼は私が言うのを待っていたのです、「お金は出してやるから」、のひと言を。いつものことです。……でも、そんなことは枝葉(えだは)のことであり、私にはどうでもいいことでした。
私は言いました。……観光旅行としては、先年、中国へ行かせてあげた。観光旅行なんか何度行っても、意味はない。今度は、向こうへ行って一年でも、五年でも、暮らしてみたらいい。そして、ホテル暮らしなどでなく、民家を借りて住み、中国の人々と、同じ平面に立って生き、暮らしてみるべきだ。そうやって、中国の心、中国の人々の心というものを、目で見、耳で聞き、生活の交わりの中で、魂で感じとってくるぺきだ。父さんにとっての中国、というものが結局何であったのかということを、とことん考えてくるべきだ。上海での奢(おご)った学生生活、満州での母さんのこと、あの戦争の中で中国の人々に加えた残虐な仕打ち、中国残留孤児や残留婦人、離散家族の悲劇、そしてその人たちを、敵国人でありながらも許し、飢えや病いから救い、同胞の敵意や復讐心からも盾になって守り、育て、ともに暮らしてきてくれたあの大地の人々の心を、真剣に考え直して、自分にとっての中国、という総括をしてくるべきだ、それがとりもなおさず、父さん自身の人生の総括にもなるのだろう、と。
そしてさらに、その時、□に出しては言わなかったけれど、私は心の中でつぶやいていました。そしてその生活の中で、もし本当に愛する人、愛してくれる人ができたら、一緒に生きていいんだよ、母さんには私からも願ってあげるし、本当の愛でありさえすれば、母さんはきっと、もういいんだよ、と言ってくれるよ、と。……
その私に、昨夜返された答えがこれでした。私の怒りも絶望も、二重でした。彼は、私がもう問うこともやめているのに、今回はその女性が結婚することになって披露宴(ひろうえん)に呼ばれて行ってきたんだから、これでもう終わったたんだ、すっかり終わったんだと、くどくどと言っていましたが、傷ついた私の心は、血を流し続けていました。
そして、追いかけるように、今夜、祥子の電話の話で、私はまたさらにとどめのように傷を負いました。
たまたま、祥子との電話の中で、父さんの浦和の女性なるものの話をしました。祥子は、短い絶句のあとに、言いました、
「これで、すぺてがわかった。私の疑問が、すべて解けた」と。……何のことか、何の疑問が解けたというのか、と私は問いました。祥子の話はこうでした。
「父さんは、水原を出る前の、例の女性との関係があって、誰もまだそれを知らないでいた頃、しきりと佳代子さんに、あんたは着古していらなくなった着物は無いか、と聞いていた。佳代子さんにその話を聞いた時は、着物なんかどうしようというのだろう、と疑問には思ったけれど、深くは考えなかった。そして、あの女性のことが明るみに出た時に、ははあ、この女性にやろうと思っていたのだな、と納得がいった。そして今度は、蕨へ一人で出てきて暮らし始め、しばらくしてから、私に、お前はいらなくなった着物を持っていないか、古いのでいいが、と聞いてきた。そんなもの無い、と答えたのだが、なぜかそれ以上深く考えず、水原の着物の話にもつながらず、忘れてしまっていた。そして、母さんが亡くなって、水原での葬式を終えてすぐに、私はあなたの所へ母さんの形見の整理に行った。私の心の中にひっかかって気になる品がいくつかあったので急いで行ったのだ。
その時、どうしても見つからなかった品物が一つあった。それは、母さんの黒いオーバー・コートだ。母さんは、今回あなたの所へ来るについては、あまり良い着物は持ってこなかった。しかし、何かの時のことを考えたのだろう、着物の上に着る、黒いオーバー・コートだけは一枚、品の良い、立派なものを持ってきた。それは私が水原から連れてくる時に入れるのを見ていたのだし、相模原でも見たのだから、間違いなく持ってきている。
そして母さんは、結局、それっきり水原へ帰ることなくあなたの所で亡くなった。母さんが持ってきたものはすぺて、そこにあるはずだった。また実際、私が行った時に、父さんが既に自分で取ってしまっていたものも含めれば、すべて、そこにあった。ただ一つ、あの黒いオーバー・コートだけが無かった。
私は父さんに、知らないか、と聞いたが、知らないと言われた。すっきりしないので、念のため、水原の佳代子さんに確かめてもらったが、勿論、水原には無かった。こちらへ持ってきたのだから、あるはずもない。 それが今日までずっと私の心の中で疑問として残っていた。疑いは持っていた。しかしそうとだけは考えたくない気持があって、私は自分の疑いに蓋(ふた)をしてきていた。
それがこの頃、虫の知らせというのか、それが気になってどうにもならならなくなっていた。
やはり、あのオーバー・コートは母さんが亡くなるとすぐに父さんが盗(と)って隠し、私には、知らぬと言い、それをあの八百屋のおかみにやったのだ、と。だから私は実は、あなたにその八百屋の名前と場所を聞いて、返してもらいに談判にいく覚悟をしていたところだった。
しかし今、あなたの話を聞いて、すぺてがわかった、やはり盗ったのは父さんだ。そして、与えた相手は、八百屋ではなく、その浦和の女性だったのだ。……
あんまりだ、あんまり、ひどすぎる。私は、物が惜(お)しいのではない。母さんが、腕を通して着た物・母さんの残り香(が)のする物が、そんな女の手に渡っていることが耐えられない。私は、悔(くや)しい」……ああ、母さん。
これは、何なのでしょう。これはいったい何なのでしょう。
母さんの遺体のまだそこにある、その前で、あるいは、まだ木の香も新しい母さんの位牌(いはい)の前で、隠れてごそごそと母さんの遺品を盗み出している人間の姿を想像するだけで、あまりにもおぞましく、背すじの凍る思いがします。これは、狂気以上のものであり、どにも、ひとかけらも、救いがありません。
彼は、それを、どんな心でその女に与えることができたのでしょうか。そして、その女もまた、どんな気持で受け取ったのでしょうか。
善意に解すれば、その女は、そんないわくのある物とは知らずに、受け取ったのでしょう。そして、もう着てみたかも知れないし、これから着るかも知れない。その時、彼女に何が起きるでしょう。恐ろしい、「汚(けが)れ」です。それは、死してなお侮辱された母さんの恨みなどによってではない、母さんは、とうにそんな執着はわたってしまっている、死者から剥(は)ぎ取って与えたという父さんの心によっての「汚れ」です。
これは、本当に、いったい何ごとなのでしょう。
この女も、あの女も、哀れです。なぜ彼女たちは、あんな人に躓(つまづ)かなけれぱならなかったのでしょう。水原の女も、井関という女も、昔あの人に身をひさいだ女も、女学生も、しま子さんも、……みんな、みんな、哀れです。あんまりです。
母さん。
夜は深々と更けていきます。
私の心は、なお、血を流し続けています。
私は、もう疲れました。もう、何にもできません。何にも……。
それでも、母さんの仏前に座し、うなだれている私の胸に、かすかに聞こえてくる、母さんの声があります。《利夫、ごめんね、許しておくれ》……と。
母さん。
母さんは、言いました。《私は、楕一杯生きてきた。けれども、精一杯に生きた、ということで人はすべてを許されるわけではないんだね。私が、一緒になってはならない人と一緒になった罪、そのくせ、この心をもってしても、物や金や何をもってしても、あの人の心をつなぎとめられなかった罪、そのためにいろいろの人を苦しめた罪は、私が、どんなに精一杯生きたんだと言っても許されないんだね。それを許すのは私ではない。お前たち子供であり、しま子さんであり、しま子さんの子供であり、そしてあの人が関係を持ったすべての人たちだ。その人たちみんなに許されて、初めて私の生きてきたことが許されるんだ》
と。
母さんは、そう言って詫(わ)び、すべての人のために祈りながら死んでいった。
あの人は、何ひとつ、、誰ひとりに対しても詫びていず、また祈っていず、今なお人を躓(つまづ)かせ、汚(けが)し続けているのです。そして母さんは、きっと今、この浦和の女(ひと)のためにも詫び、祈っているのでしょう。
《私の罪です。許Lて下さいね》
と。
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