・適応の一助としての萌え
――リアル恋愛障害者として生きるなら――
以前私は、“萌え”の自己愛的・自慰的営みとしての側面について書いた。しかし
自己愛的だとか自慰的と書くと、現代語の修辞上、なにかろくでもないことのように読めてしまいそうだが、この修辞通り“萌え”はいけないものとして捉えるべきだろうか?例えばリアル恋愛を強制したりする事によって“正しく”矯正される
べきなのかについて、このテキストでは私見を述べる。また、萌えに突き進むにあたって要求されそうなものについても考えてみたい。これらを踏まえて、最終的には、脱オタだけが適応を促進するわけではなく、“萌え”が適応を促進させる
(それも中〜長期的に)可能性を検討してみたい。
・そもそも、萌えは罰せられるべき存在なのか。危険な営みなのか。
自己愛的営み・自慰的営みという表現は、ちょっと誤解・誤読を招きそうな表現だが、そうでなくても、 “萌え”というのは後ろ暗い事と捉える風潮はまだ強い。
(関連:不当なオタク趣味叩きのはびこりやすい近況と、甘んじなければならない状況)電車男やメイド喫茶が流行したとて、
室井佑月の発言をみても分かる通り、
萌え文化・萌えオタ達への偏見を発する人間と、それを無批判に受け止める世の中一般の風潮はあまり変わっていない。批判が今なお健在な原因は脳内補完の内容やエロ同人誌のスゴさのせいかもしれないし、それらが“オタク文化”と表現するにはあまりにもストレートに性欲と結びついているのがいけないのかもしれない。何より、“萌え”ているオタク達のコミュニケーションスキル/スペックの平均が、一般同年代に比べて低いという事が響いているのかもしれない。“非生産的で非コミュニケーション的、進歩無き独りよがり、性犯罪の温床、恋愛ダッチワイフ、根暗で不健康”など、萌えに耽溺するオタク達を非難する言葉はいくらでもある
※1。そして非難を補強する材料として、萌えオタ達のコミュニケーションスペックの低さ
(服飾面の不備も含む)が槍玉にあがりやすい。
しかし、萌えオタが性犯罪を起こす確率が実際には低い(
ただしマスコミの好餌になる確率率は高い)ことからも分かる通り、
萌えが性犯罪数と相関しているというのは偏見に過ぎない。宮崎某事件以来の社会的なスティグマと考えて構わないだろう。“萌え”、特に“美少女キャラ萌え”は、オタク自身の欲望がそのまま脳内補完に反映されるため、脳内や同人で描かれる内容は極端なものになりがちには違いない。しかし
出来損ないのオタクでもない限り、脳内補完とリアルとの区別は可能で、自慰的・自己愛的という誹りこそ免れないものの、リアルで性犯罪に至る事は無い。萌えは性犯罪の温床だという萌え批判は、現実のオタク達を知らないor/and知りたく無い者のスティグマとして、まずこれを退けることが出来る。
次に、萌えオタ個人の将来を慮る人達
(知人や家族)が“萌え”を批判する時の諸根拠はどうか。親切な人達
(自分の家族や友人)が、非オタクや異性との交際が乏しくなっていく萌えオタ達に対して、“そんな目の大きな女の子の人形ばっかり集めてないで、外で遊んできなさいよ”と忠告してくれる場合は、正当な指摘として受け止めなければならないのか?萌えオタ当人の受け止め方はともかく、
彼ら/彼女らは、萌えオタ達のことを本気で心配してくれて“萌え”に警告を発することがある。実際、萌えへの耽溺はコミュニケーションスペック向上の機会や意欲を奪いがちだし、萌えによって性欲が補償されてしまえば生身の異性に接近するインセンティブが低下するかもしれない。よって
親身な人達のお節介な心配には、一定の説得力があると考えざるを得ない。
とはいえ“18歳以降の成人男性においては、どのような生き方を選ぶのかは個人の裁量次第”という立場をとる当サイトでは、お節介な親御さん達の心配に全面的肯定を与える事は出来ない
(ただし、全否定も出来ないけど)。親御さんが指摘する通り、萌え萌えな童貞オタ達の、“俺達はモテない容姿だからどうせ女に縁がない”という主張は
誇張の入った(防衛機制で言う)合理化に該当する可能性が高い。実際は、先天的な審美性が問題になる事は比較的稀で、
劣等感を核とした心理的葛藤やノウハウの欠如がクリティカルなケースが多いと思われる。よって、女性や他者との交際可能性を増加させ、トライアンドエラーを繰り返して自信をつけて貰ったりするほうが、最終的には適応をより大きく促進させると思われる。たといそれが長く険しい旅路だとしても。
だが、親御さんの長期プランが全ての萌えオタに当てはまるかというとこれも極論で、一部の萌えオタのなかには
容姿・性格・ルサンチマン・年齢制限などの面で挽回が不可能なレベルに達している者が存在している。こうした“最早手遅れ”な一部萌えオタ達に対しては、今更脱オタを推薦するのは彼の適応と精神的均衡を乱すだけに終わってしまいかねない。“萌え”にはオタクの性的欲求を代償する機能もある為、追いつめられた彼ら
※2の精神的安定を保つうえで役に立っているふしもある。「直視しなきゃ現実を」と言ったところで今更辛いだけの末期的萌えオタさん達に対しては、親御さんのお節介的な主張は
“伸びない身長を伸ばすために無駄な努力を繰り返す中年”に似た悲劇を生み出しかねない。
※3このように、親御さんの心配は尤もながら、既にい手遅れの御仁に外科手術を施すような場合には、避けたほうがよいと思われる。
・“萌え”が長期に渡って適応的意義を獲得する可能性
“萌え”に長時間を費やす事は、
社会的スティグマへの不必要な暴露を招く可能性があったり、
リアルの適応(特に異性関連の適応)向上を停止→衰退させてしまう危険性があったりと、それなりのリスクを抱えた選択ではある。だが、例外的には、むしろ萌えが適応促進的な意味しか持たないケースもあると思われる、というか実際にある。ここでは“萌え”がオタクの適応を阻害しない条件を検討しておこう。条件をクリアする人は、何の迷いもなく萌えていたって大丈夫に違いない。
1.そのオタクのコミュニケーションスペックなり、リアル恋愛の能力なりが最早向上の可能性を全く持たない事
萌えに漬かりきった生活というのは、当たり前の事ながらコミュニケーションスペックを成長させる機会を奪いがちである。これはネトゲや2chにも言える事だが、パソコンの前でカタカタやったり(;´Д`)ハアハアやったりしている時間は、本人の成長・将来への蓄積という観点からみれば
(時間に関する)費用対効果が良くない。しかも、“萌え”における
キャラクター⇔オタクの一方向的関係は、リアル女性に対するオタクの願望にもじわりじわりと影響を与えている可能性すら
(現時点では)否定しきれない。これらを鑑みると、“萌え”に溺れてばかりいる人は、コミュニケーションスペック全般やリアル恋愛の能力の成長が遅延してしまうリスクが高いと言わざるを得ず、実際この副作用によって多くの
(本来前途有望であるべき)萌えオタ達が、自分達の適応の可能性や将来性を限定してしまっている。
(参考:恋愛ゲームが男を駄目にする from恋愛ゲームZEROさま)
特に二十代前半よりも若いオタク達の場合、彼らが萌えにあまりにもハマり過ぎる事は、将来の幅広い適応の可能性を摘んでしまうリスクファクターとして警鐘を発しなければならないだろう。
だが逆に言えば、前途絶望な萌えオタの場合はこの限りではないとも言えるわけである。将来性が無い、高齢で段違いの低スペックオタクの場合、彼自身が恋愛だの結婚だのを期待しても不可能に等しいケースも存在しているかもしれない。かもしれないではなく、三十代を回った萌えオタの数%程度は、既にこの条件を満たしていると私は推定する。
こうした人達には、萌えは欲求の代償行為やエンターテイメント性などの正の効果をもたらす事はあっても、負の効果をもたらす事があまり無い。リアル女性達から蛇蝎のように嫌われてしまっている
ごく限られた高齢オタクにおいては、萌えは殆ど適応を妨げないと言える。彼らは種々の防衛機制や萌えグッズを利用する事によって自主的に
心の鎧を身に纏い、“葛藤の源たる女性”と距離をとることによって適応をただ促進させるのみである
※5。
もう一つ、萌えによって適応を阻害されないグループとして忘れがちなのは、
リアル恋愛の可能性やコミュニケーションスペックの過剰がむしろ忌避される男性達である。例えば既婚男性で奥さんの理解
(束縛?)が十分な場合、夫が“牙を抜かれた虎”になってもらった方がありがたいとされるケースがあるかもしれない。このような場合、旦那さんが萌え漬けになってしまう事は
(社会的スティグマさえ回避出来るなら)奥さんにとって有益な場合があるし、旦那さん自身の人生設計を助けることすらあるかもしれない。既に妻子ある身の男性で、新たに
リアル恋愛をやらかす事が困る人は、むしろ萌えによって家庭円満というふざけた事態が発生するかもしれない。実は、比較的高齢のオタクカップルにおいて、これに類する実話を目撃したことすらある。今後、
団塊ジュニア世代以降のオタクがどしどし結婚していく事を考えると、こういった萌えの使い方は一層クローズアップされて然るべきだろう。萌えは風俗より安価で、安全で、豊かなバリエーションを誇る。脳内補完の上手なオタクの場合、既婚後の生活安定の為の有効な一手法になりはしないだろうか。
2.本人も周囲も、リアル恋愛や結婚を積極的に望んでいない事
リアル恋愛に対する未練が残っているようでは、きっちり萌えに耽溺出来ないし、ルサンチマンや防衛機制によっても十分に情動や葛藤を処理しきれない可能性が高い。それだけではなく、周囲のご両親やお友達が萌えオタ本人に恋愛や男女交際を奨めているようでは、色々ギスギスするのは避けられない。
現実には、オタク自身のご親族やお友達が一致してリアル恋愛・結婚への未練を諦めている例はまだまだ少ないし、本人が“覚悟完了”に至っているケースも実は少ない。もし、
本人または家族が諦めている度合いが不十分な場合、リアル恋愛に関連した人間関係上のしがらみを残してしまうかもしれない。本人が未練を残していればしがらみは本人の気持ちの中に、家族が未練を残していればしがらみは本人の家族関係の中にたゆたってしまう。これらの未練が十分にクリアされていない人は、余計なしがらみや葛藤に悩まされて安んじて萌えを楽しむことができない。部屋に貼ってあるkoolなポスターを両親にみられるたびに心が痛むような状況は、出来る限り避けたいところだ。
3.周囲からのスティグマや批判に曝されない事
残念ながら、萌えにまつわるコンテンツや活動の多くは、現在も根強い偏見のもとに曝されている。一部のアニメや漫画・オタク「的」文化
(2chやメイド喫茶等)は非オタクの世界に喧伝されているものの、
ぱんつ丸出しのフィギュアやHRエロゲー(孕ませエロゲー)などといったストイックな分野を筆頭に、萌え関連コンテンツの過半はまだまだ批判的に評価される事が多い。また、萌え関連コンテンツの消費者は性犯罪者予備軍であるという偏見や、キモオタばかりという偏見も殆ど消えていない。これまでの歴史を振り返ってみると、コミケで湧きたての凄いコンテンツやニッチな作品に関しては殆ど世間に受け入れられない
(参考:→)とみたほうがいいだろう。また、その消費者たるオタク集団に対するスティグマも、改善には相当の時間がかかることだろう
(いつまでも残る?)。
このような厳しい情勢故に、
社会的スティグマがある程度回避出来ない限りは、萌えオタ達は非オタク界との間で様々なコンフリクトを経験することになる。後顧の憂い無く萌える為には、こうした社会的スティグマがある程度改善しているか、萌えオタ当人がスティグマに巻き込まれないようにしておく必要がある。社会的スティグマが世間からすぐ消えない以上、世間との接触を最小限にするとか、擬態・隠蔽を完璧なものにするとかといった方策が求められるだろう。勿論
(こちらのように)脱オタしてしまうのもひとつの手だ。
以上の
1.2.3の条件を満たしている場合は、余計な心理的葛藤を回避し、なおかつ長期的適応の阻害すら回避したまま萌えのメリットを享受する事が可能だろう。上記の条件を満たすのは
決して簡単な事ではないかもしれないが、もしも十分に満たしているなら、萌える事によって短期的〜長期的なデメリットを被ることなく、安んじて快適な萌えライフを満喫する事が出来る、筈である。
・願望・葛藤と折り合いをつけるに際しての萌えの有効性。心理的要請を考慮して
逆に今度は、萌えが適応上、どのようなメリットをオタクにもたらし得るかを考えていこう。まず、萌えは基本的には脳内現象なので、
誰かに迷惑をかけるでもなければ、誰かの都合に従わなければならないものでもない。物理的・社会的限界や異性側からの要請も、キャラクター⇔オタク関係では全て無視できるため、破廉恥な関係・王侯貴族のようなハーレム・
(押しつけがましい)純愛ストーリーも思うがままで、物理的に不可能な事すら妄想出来る。一方向的関係故に、キャラの都合も人権もお構いなしに、望むがままの夢をみることができるというわけである。
萌えは、脳内できっちり発生しているほど
(つまり心の棚or多重見当識のなかで真に迫って本気で(;´Д`)ハアハアしていればしているほど)、葛藤の無い悦びを味わうことが出来る。キャラとの一方向的関係・自己愛の鏡としての萌えに伴う寂しい側面はあるものの、
逆に自分のいかなる願望をもモノに出来るというメリットもあるので、成熟した萌えは、理想的な双方向的交際と甲乙つけ難い悦びを生起する可能性すらある。そして
萌えには理論上は限界が存在しない。どれだけデータベースをかき集めきれるか&それらをどんな風に組み合わせる事が出来るかによっては、無限の広がりと深さを堪能出来る可能性がある。実際には個人の想像力や集積データベースによって限界が規定されてしまうものの、これは大きな魅力と言えよう。
さらに萌えメディアが持つ機能として『異性にまつわる劣等感や不全感を刺激せず、むしろ補償してくれるという防衛機制促進的な機能』にも着目したい。
(こちらも参照→オタクにみられる防衛機制)萌えメディアそのものが持つこの代償機能は、学童期後期〜思春期に深い傷を負った敗者達にはちょっとした福音になる可能性を秘めている。一時的とはいえ世間の冷たい風から心を守り、劣等感を和らげ、退屈を紛らわしてくれる効果は、酷い現実だけを見続けていれば
(つまり何の防衛機制も無しでいれば)おかしくなりかねないオタクの心を、ささやかではあっても支えるお手伝いをしてくれる。この点に関する限り、
二次元のメイドさんや妹や姉はまさに“癒しキャラ”と呼ぶに相応しい働きをしている。世間の人の見る目は冷たいものの、剃毛フィギュアや陵辱エロゲーすら、一部の
萌えオタ達の心のバランスを維持する対ストレスバッファとして機能していると考えられる。彼女達は危うくなりそうなオタクのメンタルヘルスを改善する為に、懸命にご奉仕してくれている。
このような“劣等感・不全感補償機能”は、最近ではネトゲがかなりの役割を担いつつあるものの、性欲に関する補償をネトゲで得るのは若干難しく、しかも生身の人間同士がやりとりする事に伴う問題がつきまとう。世の中にはネトゲすら敷居が高い&面倒という御仁も存在するし、ネカマに騙される恐怖がつきまとう
(ネカマ達は、心の隙間が丸見えの獲物を虎視眈々と狙っている!)。安全確実に性欲補償機能を提供してくれるのはやはり“萌え”のほうだし、だからこそネトゲにハマりながらも萌えから完全離脱はしていないオタクは数多い。今後、オタク趣味に占める萌えの対ストレスバッファとしての役割は他のオタク趣味分野に幾らかとってかわられるかもしれないが、それでも萌えは一定の地位を保ち続けることだろう。
・敢えて萌えオタとなる道――リアル恋愛障害者として生きるなら
ここまで、萌えという営みが社会的に容認され難い悪行ではない事や、限定的な個人・局面に限って適応を向上させる可能性を指摘してみた。短期的ではなく中・長期的観点から考えると、萌えが本人の適応を向上させる局面は比較的限られており、しかも社会的スティグマの悪影響からフリーでなければしんどいという条件がついてまわる。だが、言葉にすればこそ厳しい条件になるものの、
秋葉原やコミケ三日目をご覧になれば、この条件を自然に満たしている萌えオタが案外存在していそうな事に気づく。非モテ系blogをやっている人や既婚者のなかにも、萌えの損失を回避して恩恵だけを享受できる一群が存在するかもしれない。
萌えは世間様にバレると余計な偏見を被るリスクがあるので秘匿する必要があるものの、そこさえクリア出来ていれば様々な恩恵にありつける。
1.限界の無い描写
2.幼女ロリメイドなどのキャラとの一方向的関係
3.
(同人市場を含めて)ジャンルやニッチに際限が無い
4.男優・女優に対するコンプレックスがAVなどに比べて沸きにくい
5.金額的には比較的低コスト
といった諸特徴は、異性に関するコンプレックスや劣等感の強い人には十分魅力的なものと考えられる。風俗やAVなどと比較して目立つのは、やはり、
リアルの対異性・対人コンプレックスや劣等感を刺激しないで性欲(やその他の欲望)を補償出来る点と、理論上想像に限界が無い点だろうか。データベース消費の考え方に即したシュミラークル組み合わせの妙と、同人界という魔法のランプの存在も忘れてはならない。オタクのコンプレックスを刺激せず
妄想想像の翼を大きく広げるには、風俗やAVよりも、メディアの持つ特性として萌えメディアのほうがオタク達には向いている。
さらにネトゲやスパロボ
(に登場するような作品)や軍事などのその他オタク趣味を併せれば、劣等感やコンプレックスからさらに距離を置けるし、実際多くのオタク達は既にこれをやっている。オタク界隈奥深くの住人になって、リアル女性との接触をなるべく避けて生きるなら、
萌える事によって劣等感やコンプレックスに関連した苦しみを最小化して生きていけるのではないだろうか。確かに“俺だって女の子と沢山遊びたい”“侮蔑されず、前向きで、屈託無い人付き合いをしたい”といった心底からの情動や欲求が決して叶えられない鬼の道かもしれない。だが、
それらの情動を防衛機制を通して間接的に対処するなら、萌えを含めたオタク趣味世界はかなり向いているのではないか?そして向いているからこそ、劣等感や自己不全感を抱えた人達がこんなにも萌えオタ界隈に流入しているのではないだろうか
※6。
ここで私はさらに提案したい。“萌え”を知らないまま
(対異性の)自己不全感や劣等感に苦しみ続けている人達は、もっと積極的に“萌え”の世界を選択していいんではないだろうか、と。アニメ絵が嫌いな人も沢山いるだろうから受け付けない人ははとことん受け付けないだろうけど、
アニメ絵への免疫さえあれば、際限を知らない悦楽の世界に埋没できる――
振り返るな!振り返る必要なんて無い。
リアル男女交際をスッパリ放棄して迷うところが無いなら、萌えコンテンツはコンプレックスを刺激することなく性的な情動をコントロールする助けとなる。萌え文化がどうとか世間体がどうとか、そんな社会的視点はともかくとして、自分自身の
最大限の補償を最小限のダメージで享受して、何がいけないのか?後ろ向きだという批判は、リヤル男女交際の可能性が絶無の人が萌えにまっしぐらに進んでいく場合にはあたらない。むしろ、変な未練を残して自己嫌悪と二人三脚でウロウロしているほうがよっぽど後ろ向きと私には思える。
よって、リヤル女性との交際可能性を考慮しなくて良い人達には私はむしろ萌えを推奨していこうと思う。異性との断絶は、好みの属性の変質をもたらすかもしれない
(参考:こちら)が、
後ろを振り返らなくても構わないならどうというものではない。リヤル男女交際に関する願望を捨てられない人や、捨てるには早いような前途有望な人ならいざ知らず、年齢や能力やその他の問題で放棄するしかないと
覚悟した人には萌えは適応促進的にのみ作用する。男女交際や繁殖に関する情動は本当に枯れるまで消えないだろうが、それでもリアルの男女交際を放棄するに足る条件が整っているなら、“あっちの世界”に積極的に旅だってしまうのは合理的選択と言える。そうすれば、あなたは今よりは葛藤に苦しむことの少ない生を選択出来るのではないだろうか。
どうせ恋愛障害者として生きるとしても、出来るだけ葛藤の少ない、心安良かな境地に生きたいではないか。その為に必要なのは、覚悟だけだ。
☆でも、葛藤や未練を振り切るのが難しいんですよね。だからこそ、本テキストが該当する人がしっかり該当する人が少ないのも事実です。
【※1非難する言葉は幾らでもある。】
皆さんならよくよくご存じの事だろうとは思うが、一応付け加えておこう。こういう辻説法が大好きな非オタクの皆様方や一部の脱オタ者が、萌えオタ達を前にして(頼まれてもいないのに)辻説法を始める場合、得意満面の表情を浮かべているのを認めることがある。おそらく、心中には正義感が漲っているに違いない。
自分達の価値観や文化が正しく、オタクの価値観や文化は歪んでいる。
自分達の価値観や文化をオタクは受け入れるべきで、反論などもってのほか。
自分達が適切な指導を行い、説教相手のオタクを救い出す方法を授けよう。
自分達の価値観や文化においては、彼は劣っており、私は優れている。
彼を救い出せる方法は、私達の価値観や文化のもとにしか存在しない。
正義感、ヒロイズム、優越感、(異なる価値観のオタクへの)軽蔑。萌えオタ達に『お前間違ってるよ』と説教をする際には、これらの甘い蜜を吸おうと思えばいくらでも吸える点に注目。
親兄弟や親友でもないのに非オタや脱オタがご丁寧にも辻説法を行ってきた時、彼らがこれらの甘いシロップをペロペロやってないかチェックしてみよう。もしも彼らが自己陶酔しながらやってる事が判明したら…。
【※2ただでさえ追いつめられた彼ら】
萌えオタで
偽性二次元コンプレックスに該当し、コミュニケーションスペックや恋愛能力・経験に関して決定的に乏しい者ほど、性的衝動・性的不満に伴う葛藤は強い傾向にあると推測され、異性やイケメンに対するコンプレックスも強い傾向にあると考えられる。実地において、女性やイケメンを相手にした
劣等感を味わう強さと頻度が高いほど、彼らは沢山の葛藤を抱えやすくなり、その処理に防衛機制やバッファとなり得る諸要素をますます必要とする事になる。
(→関連:オタクにみられる防衛機制。こういうのを沢山発動しないとやってられなくなるということです)
【※3悲劇を生み出しかねない。】
尤も、どれぐらいまでの容姿・性格・年齢・ルサンチマンの萌えオタが“手遅れ”と判断すべきなのか、その線引きは難しい。具体例としては、電波男の本田氏ぐらい条件が揃っていれば本当に“手遅れ”と言って良いのだろうか?はたまた
恋愛障害者テストで三級以上ぐらいなら手遅れだろうか?それはともかく、末期的様相を呈した萌えオタさん達の場合に限っては、親御さんの主張も既に手遅れである可能性がある点は、何度強調してもしすぎることは無い。
理想論としては、「全ての人を何とかする方策を探すべき」なんだろうけど、それは所詮机上の空論であり、
絶望を一時的に回避するカンフル剤としてしか機能しない場合がある事を私は警告したい。また、諦める事がいけないわけではない点も強調したい。
現生人類が現生人類としての遺伝的傾向を持つ限り、どうにもならない恋愛敗者が(ことに男性側において)一定の確率で発生してしまうのを防ぐ事は出来ないものと思われる。だったら萌えたっていいじゃないか。時間やお金や体力気力といったリソースを、あまりにも勝率の低いルーレットにチップとして置くのは利口なことではない。人生を豊かにする方法は、リアル男女交際や結婚だけでもなかろうに。
【※5適応をただ促進させるのみである】
だが。
だがね。
『電波男』の本田氏ですら、防衛機制とルサンチマンを通しての護身完成を提唱してはいるにしても、彼の切々とした文章からは“本当は菩薩のようなリアル女性に理想を叶えて貰いたい”“勿論それは自分の願望を一方向的に叶えてくれるような女性で、若くてかわいい娘がいい”“ついでに処女ry”という葛藤が透けて見える。エロ同人のぱんつの中ぐらいスケスケだ。はっきり言って、防衛機制やルサンチマンによって鎧を纏ってみたところで、透けて見えるものは透けて見えるし、防衛を通したやり方では、十分に欲求が満たされる事もまた無い。『電波男』を読んで鬼の首でも取ったような気持ちになっているレビュアーもまた然り。彼がああするしかないという事と、“真に護身完成”出来ているか否かはまた別問題で、本田氏はさらなる精進を重ねなければエロゲー仙人として解脱できないものと思われる。彼は、まだまだカルマが足りない。
本田氏がリアル女性を捨てて萌えに走る生き方を提案したのは良かった。実際、提案通りの解脱(または真性後天性二次元コンプレックス)になっている剛の者はいる。だがしかし、本田氏自身も含め、実際にはリアル女性に後ろ髪をひかれまくっている“不完全すぎる護身完成”が多い事実を私は憂慮する。彼のように先頭に立っている男が、ルサンチマンと防衛機制丸出しで“酸っぱい葡萄に手が届かない狐”バレバレでは興ざめである。これでは萌えによる真の補完など望むべくもないし、読者への説得力にも自ずと限界がこよう。この事は、リアル女性への敵対や離脱を表明している“一部のblog論者”達についてもあてはまる事で、彼らに足りないのは容姿でも知能でもコミュニケーションスペックでもなく、“覚悟”や“悟りの境地”と私は感じている。老年にさしかかって身動きとれない萌えオタの為に、積極的な論者達のさらなる精進を期待する。どういう分野で活躍する人であれ、本田氏のような旗手たる者には、率いていく凡百の者達に道を示す存在であって欲しいと願っている。
がんばれ、本田さん。
(ちなみにシロクマはそういう適応戦略を採らないで、『右手にリアル、左手に萌え、膝の上に猫』という極めて邪悪な適応ドクトリンを採っている。いつかリアル交際とオタク趣味とのハイブリッドという適応形態をまとめてみようと思うが、それはまた後日。)
【※6流入してきているのではないだろうか。】
そうした消極的なオタク達を叩くような内ゲバ的な意見を見たこともあるが、特にここ最近のオタク文化は、そうした多くの人達の心的傾向の影響を受けながら発展してきたきらいがある。それが(消極的なオタク達と、彼らを対象とした一連の萌えコンテンツなどに批判的な人からみて)オタク界の文化的地位を貶めたり、堕落させたりという指摘はなかなか痛い所を突いてきているとは思うが、それもひっくるめてのオタク界隈と私は認識する。良くも悪くもそれがオタク界隈ということだし、それぐらいの懐の深さがあってもいいんじゃないかと思う。