|TopPage| ルーツを探検しましょう| 家系図作成のノウハウ| 姓氏と苗字| 家紋の由来と歴史| 五大家紋| 四十七士の家紋| 日本の五大姓の発祥について Page1・ Page2・ Page3・ Page4・ Page5・ Page6・ Page7| 服部(服織)姓の発祥について| ルーツ探検掲示板|
日本の五大姓の発祥について
|
(Page3) |
日本の古代においては物部氏が栄え、その後藤原氏・橘氏が天皇家より新しく氏を賜り多くの氏族集団が栄えてきました。 中世時代になりますと天皇家皇子が源氏や平氏として民に臣下されますが、平氏の台頭は著しく平氏にあらざれば人にあらずとまで言われた時代もありました。 やがて武家政治も終わり明治時代になりますと、氏は廃止され新しい姓・苗字を公式的にも一般的にも使用する時代になりました。 然し、日本民族の姓の発祥を見ますと源氏・平氏・藤原氏・橘氏及び菅原氏の家系を基に多くの新しい血縁関係が芽生え、現代の姓・苗字の繁栄を見る事ができます。 従って源氏・平氏・藤原氏・橘氏及び菅原氏の五大家系を、五大姓の発祥として以下に集約いたします。 注)以下の説明文は各種古文書を基にして作成したものです。 |
大和 伊勢
上野 下野
磐城 岩代
陸中 豊後などに
この地名あり。 最も有名なるは、大和国高市郡藤原(今の鴨公村高殿の地)にして平城京に遷都し給うまで、十六年の帝都(藤原京)たり。 中臣鎌足が賜いし藤原の氏も、この地名によるにて、多武峰縁起に「大織冠鎌足、推古天皇二十二年八月十五日、大和国高市郡大原の藤原第に生まる」と伝えられる。 鎌足は中大兄皇子(後の天智天皇)を助けて、蘇我蝦夷・入鹿 父子を誅し、血縁社会から律と令による社会、即ち大化改新の大業を翼賛す。 その功莫大なれば、天智天皇は、先にも後にも無いと云う大織冠と言う官位と、この氏とを与え給えり。 これ藤原氏の起源にして、その子 不比等も亦 不出生の英雄、大宝・養老の律令撰定などに功多かりしのみならず、その娘 宮子は文武天皇の妃となりて、聖武天皇(東大寺を建立)を生み奉り、又 その妹 安宿姫は長き間の例を破りて、臣下より皇后に上り、孝謙天皇を生み奉る、光明皇后これなり。 斯くの如き功労と外戚関係より、藤原氏は大いに栄えて、不比等の子四人は、四つの家を創立して 子孫朝野に渡る。 即ち長男 武智麿は南に住みて南家と言い、二男 房前は北に家して北家と言い、三男 宇合は 式部卿を兼ねたるより式家と称し、四男 麻呂は左京大夫を兼ねて京家と称す。 これ藤原四家の起源なり。 凡そ臣下にして藤原氏程 長く一国の政権を掌握せしは、我が国は勿論、世界にもその例なし、奈良朝の終わりより明治の始めまで、千有余年の間、朝廷の高位高官は殆ど全部、この氏の占めるところとなる。 従って支族の多き事も他に例を見ず。 *藤原の地名は100ヶ所以上、それらの地名を氏とする人もあり。 * 特に明治になって「苗字必称令」により藤原を名乗る人甚だ多く現在全国で約10万人おられる。 分派) 非常に多い。 |
天智紀八年條に「天皇・東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣わし給いて、大織冠と大臣の位とを授け給い、よって姓を賜いて藤原氏と為す。 |
┌武智麿(南家) ┌定恵 ├房前(北家) 鎌足┼不比等――――――――┼宇合(式家) ├氷上娘(天武女御) ├麿(京家) └五百重娘(天智女御) ├宮子(文武妃・聖武母) ├光明子(聖武妃・孝謙母) └多比能(橘諸兄室) |
武智麿の後にして、長男 豊成は
有名なる中将姫の父にて、右大臣に上る。 |
房前の後にして、その子に永手、真楯、清河、魚名などありしも、その勢力到底南家、式家に及ばざりき。真楯の子に内麿、ついで、その子に冬嗣の如き俊才現われしにより、この家始めて起こる。 |
宇合の後にして、藤原四家中、初め最も栄えし流にして、宇合の四男 広嗣
先ず現われしも、僧 玄坊と争いて敗死す。 |
不比等の四男麻呂・左京大夫を兼ぬるにより京家と言う。 |
参議兵部卿麻呂┬綱執(参議) ├濱成(刑部卿)−豊彦(豊後守)−冬緒(大納言)−灌木(大学助) └百能(桓武御宇尚侍) |
昇殿をゆるされた藤原氏は以下の如し。 |
鎌足−不比等┬武智麿 |
鎌足、大和国高市郡藤原第(大原)に在り。 興福寺は藤原氏の氏寺、春日神社は氏神なり。 又、多武峰談山神社は 鎌足の廟所なり。 |
大和国添上郡東市村の藤原城によりし豪族にして、広瀬郡箸尾氏の族類なり。 筒井諸記に「広瀬郡箸尾の族、箸尾氏藤原道順(添上郡藤原村)」とあり。 この氏は、この地名を負いしにて、いわゆる藤原氏とは別ならん。 |
僧卜半斎了入は、俗姓藤原氏にして、日野権大納言内光の次子なり。 幼名幸丸と云うと伝えられる。天文十九年、願泉寺の住職となり、同寺を中興す。 |
豊島郡八幡城(細河村伏尾)は、東野山にあり。 |
幽討餘録に「上総介藤原忠清の弟を飛騨守景家と為す。 |
山香郡小股京丸村は、京人
藤原氏左衛門佐なる者、臣僕を従いて、蟄居せし地にて、慶長五年、検地、村となす。 |
桂宮院柱銘に「清心名誉顕末期、大治三年三月、信濃国住、丹波大掾藤原長重」と見ゆ。 |
極楽寺建久七年鐘銘に「大住郡の辺に一伽藍あり、極楽寺と名づく。 |
新編風土記、比企郡玉川壘(玉川郷)條に「ここは龍福寺を開基せし藤原盛吉の居蹟なりと云う。 |
利根郡に藤原村あり。阿倍貞任の裔
阿倍三太郎秀貞この地に在りたりと云う。 |
(平)
将門記に「下野押領使 藤原秀郷」とあり。 |
北陸の大族にして、子孫
越前、加賀、能登、越中などに充満す。 |
「房前−魚名(左大臣)−鷲取−藤嗣−高房−時長(常陸介・鎮守府将軍)−利仁(鎮守府将軍・ 武蔵守・上野下総介・母は越前国人 秦豊国の娘。海路を飛ぶ、羽ある人の如く、以って神化の人となす。延喜十一年、上野介に任ぜられ、同十二年上総に廷し、同十五年、将軍の宣旨を蒙る)」とあり。 |
陸奥国亘理郡に在りて、亘理氏と称す。或は本姓亘理氏か。 |
朝野群載、ェ平二年に「藤原菅根・上総の藻原荘を以って興福寺に寄す」と。 |
貞和五年十一月の宝福寺鐘銘に「大工藤原末政」あり。 |
天慶二年、藤原惟幾、当国の介となる。将門記に「長官藤原惟幾朝臣」、「常陸介藤原惟幾朝臣息男為憲」と。工藤、伊東、二階堂の祖なり。 |
庄内物語に「昔
源義家、後三年の合戦に武衡家衡誅伐の時、大泉に陣し、利を得給う。地の利宜しきより、藤原光広にここを賜う。 |
当国藤原とあるは
多く上杉氏なり。上杉は武士に成りし藤原氏の典型なり。 |
天田郡の名族にありて、丹波誌に「藤原藤太秀郷、子孫観音寺村、古え
丹後国尾藤村より来る」と。 |
東作志、吉野郡西栗倉庄影石村條に「この村
影清に因める事多し。 |
建仁の頃 藤原国兼
守護に補せられ、子孫 御神本(ミカミモト)、益田、三隅、福屋などとして当国に栄える。 |
天平宝字七年の頃、藤原貞国なる人あり。異賊を追伐すと、峰相記、寺社旧記抄などにあり。又、神崎郡香呂村中須賀院出土の天養元年銘、瓦経願文に「この寺は即ち我が朝賢王前一條院の御願寺、鎮護国家の大伽藍なり。 |
江戸初期の儒者に惺窩あり。朱子学派の祖、播磨の人。 |