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日本の五大姓の発祥について
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笠庭寺記に「英田郡樽原郷(茄子十籠)藤原貞次」見え、後世英田郡川合庄王子権現鍵取に藤原伝十郎あり。
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これも美作の名族にして、広戸矢櫃城主、菅原正実の孫広戸善兵衛安英、ェ永元年、勝田郡小吉野庄に来たり出雲井氏に頼り、氏を藤原と改むと。子孫現に藤原氏と云う。
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海東諸国記に「貞吉。丁亥年、使を遣わし来りて観音現像を賀し、書して備前州友津代官藤原朝臣貞吉と称す」とあり。 |
海東諸国記に「光吉。戊子年、使を遣わして来朝し、書して備後州友津代官藤原朝臣光吉と称す。宗貞国を以って接待を請う」と。
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伝え云う、藤原伊尹の男
義懐、花山法皇に従いて西国を巡り当国呉の鹿田の里に来る。時に正暦五年春の頃なり。法皇に別れ奉り、この地に住す。その二十七代の孫に塩津城主藤原好清あり、大永の頃、大内氏に仕え氏を賜いて、中塩勘右衛門藤原好清と称すとぞ。 その男は、中塩治部左衛門清栄にして、以来、勘右衛門を通称とし、時に治部左衛門、勘助などと称す。家紋はもと下り藤を使用せしが、後にその中に唐団扇を入れ、時に丸に唐団扇を用う。 また、平原神社を祖霊社とす。 又、承久の頃、周防前司藤原親実、厳島社の祠官となる。 |
海東諸国記に「正満。戊子年、使を遣わして来朝し、書して長門州乾珠満珠島代官宮内頭藤原正満と称す。宗貞国を以って接待を請う」と。正満、当国二宮忌宮神社の神主かと云う。 |
続風土記、那賀郡池田荘領主條に「東鑑を按ずるにこの地は藤原秀郷朝臣の領となり、子孫世々この地を領す」と。 又、宮村の中氏、ェ喜三年の文書に「毛原郷総追補使藤原為俊」を載せ、又、中世右馬允 藤原実家 和佐庄を領し、嘉禄中、大納言坊門定能の室冷泉の局に譲り、局、また之をその娘 大宮局に譲る時、下村南村を歓喜寺に寄せ、和佐又次郎実村を以って地頭となす。 同寺延文五年文書に見えたり。 又、保安年中、隅田党の中、藤原忠村をして伊都郡隅田八幡宮別当職に補す。 子孫連綿たりと。 又、在田郡箕島村祇園社は、天文四年、宮崎城主藤原定茲、同雲秀、改めて造営すと云う。 |
一條院永祚中、藤原兼家の族
藤原成家、当国国司代となり、安覚寺を創立す。 又、文明中、藤原親秀あり、子孫 船越氏に滅ぼされる。 |
阿波志に「海部城は一に鞆城と称す。藤原友光ここに拠る。 鞆浦山下に在る者、恐らくはこれならん。天正五年秋、秦元親、甲浦埜根二壘及び宍倉壘を抜き、遂に来たりてここを抜き、田中長政を守たらしむ」と |
全讃史に「長尾金丸城は、昔、伊予掾藤原純友この城にかくれる。 藤原千常これを討つ。純友の墓 猶在り。 又、大野城は大野村にあり、大野大炊居る。 大炊助は中御門中納言藤原家成の四世の胤、大野大夫有高の末葉なり。 元暦の時、屋島の役に勲有り、因りて食邑を大野に受け、故に大野を以って氏となす」と。 |
伊予国の伝説に伊予親王の王子為世、嵯峨天皇の時、勅して皇子に准ぜられ、藤原姓を賜い、無冠にして五位に叙し、浮穴四郎藤原為世と称すとぞ。
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忽那島開基の祖、藤原親賢朝臣は右大臣正二位、長治元年薨ずと云う。 又、伊予郡谷上山宝珠山(上吾川村字谷上山)は、大洲旧記に「当寺は村上天皇御宇、天暦七年、筑紫領主太宰大貮藤原朝臣国光公、この表にて海上難風に依りて願望す、たちまち波鎮まる、依って再興す」と。 |
高良社祭神は、藤原大臣保連(連保)と伝えられ、諸社根元記に「高良神は藤原大臣連保なり」とあり。 |
河上社天永三年(1,112)文書に藤原朝臣宗明、保安元年(1,120)に藤原朝臣為実など早くからこの氏出現す。 又、下って応仁文明に藤原讃岐守胤明とあるは、大村氏にて、藤原政資とあるのは、少貮氏なり。 又、山城の人藤原重則あり、大村彼杵大黒丸に来住す、又、彼杵郡、天正五年、菅牟田砦に藤原吉茂戦死と。 |
菊池氏の人は古くより藤原姓と載せ、又、相良文書球磨郡田数領主目録に「人吉庄下司藤原友永、政所藤原高家、地頭藤原季高、(藤原茂綱、藤原真宗)、藤原真家、藤原家基」等を載す。 |
文永の役に当国守護代
藤原兼隆(平内左衛門経高)あり。 |
建久八年の圖田帳に「権掾藤原朝臣在判」とあり、在廳家弘の事なり。 又、「目代右馬允藤原在判」と。 在廳道友の事にて、同帳に「高城郡公領時吉十八町、名主在廳道友。薩摩郡公領時吉六十九町、名主在廳道友。 甑島上村二十町、本地頭在廳道友。薩摩郡公領是枝九町、名主家弘」等あり。 又、楫宿郡楫宿郷東方村間水神社は、応仁二年 藤原安次 造立すと棟札に見ゆ。 |
建久九年御家人交名に「税所撿校
藤原篤」とあり。 下って国府郷小浜村、早鈴神社の棟札に「嘉吉二年二月、藤原次平造立」と載せ、又、肝付郡百引郷百引村右牟礼神社文明十七年十一月の棟札に藤原美作守忠常、菱刈郡田中村諏訪神社 延徳三年四月棟札に「藤原朝臣佐兵衛尉重時 再興」などあり。 |
宮崎縣主藤原忠泰、舎弟
忠成 などあり。 |
海東諸国記に「彦山座主黒川院藤原朝臣俊幸」とあり。 |
当氏にして太宰の権帥、大貮
少貮となりし人は、国史に多く見え、挙げて数え難し。 ェ平元年、十二月文書に「従四位上行大貮藤原朝臣保則」とある如く、記録文書にも多し。 殊に平安末期には、中関白(道隆)家の人、数々帥、貮となり、これより鎮西の豪族その家人となりて、その一族と称するもの多し。 |
五島天文十五年の古碑に「源朝臣藤原安実(或は直か)」とぞ。 |
海東諸国記に「五島日島太守藤原朝臣盛」あり、その一字名なるより見れば、これも松浦党の人にて嵯峨源氏か。 而して前項の如く藤原氏にして、源姓と称する人のあるより見れば、この藤原氏は、地名等より起こりたる苗字かと考えられる。その他 伝説に昔、花山院家忠の五男玄城房尋覚、外族藤原是包の譲りを受け、青方の地を領すと云い、又藤原先生義春など云う人もありたりと。 又、武鑑、五島藩用人にこの氏を載せ、今もこの氏の人甚だ多く、また、二方領荒川村山王権現社々人に藤原氏あり、初代藤原源兵衛正道、二代同源太夫応行、三代同 源之亟正春、四代同源之進正晴にして、家紋、丸に五三の桐、丸に藤。 初代は鏡形位牌に阿南源兵衛正道とも載せ、摂津兵庫川尻より移住せりと伝えらる。 最初代々源の文字を通称の一部に用いるを見れば、源姓藤原氏の一族にて、その伝説を事実とすれば、中興の人(恐らく阿南氏)、兵庫より移り、この氏をまねしものならん。 その後の文書に藤原朝臣とある如きは、同名なれば、同姓と思いまねたに過ぎず。 |
肥後の豪族にして、海東諸国記に「源藤為房、乙亥年、使いを遣わして来朝し、書して肥後州藤原為房と称し、歳に一船を遣わす」と見えたり。 日向国に源藤と云う地名あり。 |
貞信公忠平の四男師尹は、小一条に住して小一条を称号とする。 この家系は小一条家流とも呼ばれ、実方の子孫は熊野別当族として大いに栄え、大名九鬼家は別当湛増の後 裔と伝える。 また傍系は、済時12世孫家綱の代より飛騨国司家を世襲して姉小路を称する。 |
[少一条] |
┌師任──行任──行兼 |
[熊野別当] |
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