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服部(服織)姓の発祥について


 日本の古代においては物部氏が栄え、その後藤原氏・橘氏が天皇家より新しく氏を賜り多くの氏族集団が栄えてきました。
 中世時代になりますと天皇家皇子が源氏や平氏として民に臣下されますが、平氏の台頭は著しく平氏にあらざれば人にあらずとまで言われた時代もありました。
 やがて武家政治も終わり明治時代になりますと、氏は廃止され新しい姓・苗字を公式的にも一般的にも使用する時代になりました。
 然し、日本民族の姓の発祥を見ますと源氏・平氏・藤原氏・橘氏及び菅原氏の家系を基に多くの新しい血縁関係が芽生え、現代の姓・苗字の繁栄を見る事ができます。
 従って源氏・平氏・藤原氏・橘氏及び菅原氏の五大家系を、五大姓の発祥として以下に集約いたします。
 注)以下の説明文は各種古文書を基にして作成したものです。

 古代職業部の機織り部門を担った機織部の服部(hatoribe)に由来する姓氏。
時代の経過と共に「ハタオリ」「ハトリベ」から「ハトリ」そして「ハットリ」と呼ぶようになった。
 衣食住の「衣服」に関係する職能部族には「綾部」「錦織部」や「衣縫部」「赤染部」などがあり、それぞれ姓氏として名残をとどめているが、その中でも服部氏が一番多い。その居住地が服部の地名になった。
 服部は、文明が高く人口の多い畿内から、全国の主要地に配置されていった。それらを中央で統轄する伴造が服部連であった。
 この系統の有力な服部氏は、山城・大和・摂津・河内・伊賀・伊勢・三河・武蔵など、当時の文化地域に進出していった。
 代表家紋は「矢筈」と「矢車」。



■ 各地の服部氏の由来

■大和の服部
和名抄 当国山辺郡に服部郷を収め、波止利と註し、東大寺要録に服部の荘を載せたり。又、延喜式 城上郡に服部神社あり、皆 この部の在りし地なり。又、後世 高市郡の医師に服部時寿(子篤)あり、宗賢と号す。高取藩に仕う。名医なり。


■摂津の服部
和名抄 当国 島上郡に服部郷を収む。又、延喜式に服部神社、荘園目録に服部御領を載せたり。又、服部城あり、松永久秀築く。当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。


■山城の服部
当国にもこの部民多かりしならん。又、後世 伊賀服部氏の後の服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉服明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)−貞富、家紋 車輪竪二本矢、七本矢、矢の字桔梗」と。
又、京都の人に服部元喬あり、もと伊賀の服部より出づと云う。荻生徂徠門の俊才にして、南郭と号し、服 南郭と称す。宝暦卒。その長男 惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世す。よりて門人 西村元雄を季女に配して家を継がしむ。又、国学者服部中庸は、元居門にして、水月と号す。
又、服部敏夏あり、これも本居門にして、通称を中川屋五郎右衛門と称せり。又、剣客に服部藤次兵衛あり、神後伊豆守の門(新陰流)、皆 京都の人なり。


■遠江の服部
延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、共に古代服部の奉齋せし、神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。


■駿河の服部
当国安倍郡に服職庄あり。而して、後世 服部氏多く、又、府中浅間社家に服部氏見ゆ。


■武蔵の服部
和名抄 当国都筑郡に高幡郷、幡屋郷、また、男衾郡に幡々郷、また、久良郡に服田郷を収む。服部の部民の多かりしを知る。後世、久良岐郡の名族にこの氏あり。新編風土記に「服部氏(弘明寺村)。先祖を玄庵道甫と云う。村内 寶林寺の開基なり。相伝う、元は伊賀国名張の城主なりしと云えど、正しき伝えはなし。後、故ありて跡をくらまし、当所に来て隠棲し遂に農民となれり。されど系図は無し、先祖より持ち伝えし物とて、甲冑二領、刀、短刀五振、文書四通を蔵せり」と。又、足立郡服部氏は、二本矢を家紋とす。


■両総の服部
和名抄、下総国埴生郡に酢取郷を収む。後世、羽鳥村の残るを見れば、羽鳥の誤りにて、この部のありし地ならん。後世、豊田郡下石毛村の人 服部謙蔵・波山は、書家として名あり。


■常陸の服部
真壁郡に羽鳥郷あり、この地より起りしもあらん。


■近江の服部
和名抄、野洲郡に服部郷を収め、八土利と註し、高山寺本には、波止利と訓ず。後に服部村あり。この地名を名乗りしもあらん。


■美濃の服部
和名抄、当国安八郡に服織郷あり。


■奥州の服部
磐城国標葉郡、岩代国会津郡などに羽鳥の地名あり。この部民のありし地か。この地名を名乗りしもあらん。田村家臣に服部氏あり。又、新編会津風土記に「耶麻郡猪苗代 進功霊社。社司服部安休尚由の社なり。安休は初め春庵とて、林道春の弟子にて、後、保科正之に仕え、侍臣となる。天和五年没す」と。


■越前加賀の服部
天平神護二年の越前国司解に「余戸郷戸主 服部子虫、鹿蒜郷戸主 服部否持」など見え、又、和名抄、今立郡に服部郷を収め、波止利と註す。又、神名式に「江沼郡服部神社」見ゆ。


■因幡の服部
和名抄、法美郡に服部郷を収め波止利と註す。又、神名式、法美郡に服部神社を載せたり。後世、服部庄起こる。この地より起りしもあらん。


■伊賀の服部氏
当国阿拝郡に服部郷あり。延喜式、阿拝郡に小宮神社あり。伊賀考に「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、三国地誌に「昔は服部の輩、阿拝郡を領地せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ。土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは、非なり」と。この氏族滋蔓して、伊賀一洲に散在す。平内左衛門尉家長が源平盛衰記に現われ、その名最も高ければ、この族を桓武平氏となすもの多し。
又、東鑑 文治二年六月二十八日條に「左馬頭能保の飛脚参着す。去る十六日、平{仗 時定(平家物語には、服部六郎時定)、大和国宇陀郡に於いて、伊豆右衛門尉源有綱(義経の婿)と合戦す。而して有綱、敗北し、右金吾相具し、深山に入りて自殺し、郎従三人傷死し了んぬ。残党五人を搦めとり、右金吾の首を相具し、同二十日、京都に伝う云々。これ伊豆守仲綱の男なり」と。又、円覚律師、これは服部広元の子にして、京都 法金剛院、及び清涼寺の僧侶たりしが、慶長元年卒すと。


■三河の服部氏
服部系譜に「将軍義晴 臣 服部半三保長(石見守・三河に来たり松平清康に仕う)−石見守正成(半三・遠江国八千石)−石見守正就、弟 伊豆守政重(半蔵・三千石・後 松平定綱家臣)」と。
編年集成に「服部半蔵正成、伊賀組 二百人にて、谷村城を守る」と。寛政系譜に「家紋、八桁車の内竪矢筈二、十六桁矢筈車、十六葉菊、むかい蝶矢車」と。


■伊勢の服部氏
和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしもあらん。永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す。


服部一族の家紋



「矢尻付三本重ね矢」  「中輪に剣三つ矢」       「細輪に五つ矢」          「六つ矢尻」           「三つ並び矢筈」