というわけで、永沢壱朗さんの「人型サイボーグの整備室」にリンクしてみました。永沢さんは元M2のマスターさんだったそうですが、僕はM2のゲームに参加したことはありませんし、従って永沢さんがどのようなマスタリングをされるのかを知らないのです。でも「メイルゲーム雑記帖」はキャラメイクを含めたアクションの作成法について、マスターの観点から解説されていてなかなか面白く、一読の価値があります。
特に興味深いのが次に挙げる二本のテキストです。これぞ、というところを引用してみようかとも思いましたが、全編これぞ、なので本テキストは各自で読んでいただくとして。
●その3、共同アクションのすすめ
大衆に埋没されないためには、つまりは「マスターに個別認識される」のがまず第一段階というか。マスターがアクションの束(テキストファイルとかかも知れないけど)を受け取ったときに、「あいつは今回何をしているのかな」と思ってもらえるようになれば、それは個別認識されていることになるんだろうけれど、マスターならぬ身ではそれは推量するほかないのでさておくとして。
マスターに個別認識されるには、たとえば私信を送ってみるというのもあるけれど、アクションで勝負をするのなら、個性的な行動をするか、あるいは「集団を作ってみる」が一つの方法。個性的な、というのは、勿論優れたアクションもそうだし、突飛なアクションも含まれる。ただ、誰もやらないような弾けた行動をしてトリックスターを気取るつもりが、同案多数の当て馬に成り下がることもままあるわけで。
で、ようやく本題というかなんというか、「集団アクション(共同アクション、とは微妙に違う)」が、マスターの印象に残りやすい、というのはあると思う。でも、それが個別認識に繋がるというと、また別問題というか。「あのグループの人たち」という十把一絡げな認識になるおそれもまたあるわけで。
「共同アクション」と「集団アクション」の違いは、そのグループ内のキャラクターたちが、それぞれの個性を発揮し、またグループ内での対比ができているかというところにあると思うのだけれど。
●その4、理解できないPCは書けない
プレイヤーが理解できないPCを扱いきれないのと同様に、マスターも理解できないPCを書くことが難しいのです、という話。
これを逆説的に考えれば、リアクションで描写されているPCは、「そのPCに対するマスターの認識」であるわけで。つまりはそういうキャラクターならマスターが書ける(書きやすい)のだと。
そんなわけで、たとえリアクションにおける描写が自分のイメージと多少違っていても、致命的な誤差でなければそれを許容していくことで、プレイヤー、マスターともPCへの理解が深まるのではないかと。
ちなみに永沢さんは、今はゲームライターなどをされているようです。電撃姫の新作リストにも名前がありました。
もう一つちなみに、その新作リストの中には武藤礼恵さんの名前もありました。お仕事頑張って下さい。
秋葉の書泉で新紀元社の本をもりもり立ち読みしていたのですが、そのなかで「レヴィアタン」が「リヴァイアサン」であることが判明。判明というか、ちゃんと調べとけよ、という感じですね。
まあFFっ子である僕としては、やはりリヴァイアサンといってくれた方がイメージ湧きやすいわけでして。でも「レヴィアたん」と「リヴァイアさん」のどっちが可愛いかっていうとやっぱり前者だと思うし、だからレヴィアたんでいいんだと思います。
昨日の覚え書きに付記。
「共同アクション」は「集団アクション」の一形態だと思います。数人で示し合わせた(一人で複数キャラ動かしてもいいけど)アクションがただの集団止まりか、それとも共同になれるかの分かれ目が、個性の出し方なんじゃないかなあ、と。
個性に関して、面白い本を読んだので、明日にでも触れようと思います。DS2のリアが来てなければ。
DS2のリアが来なかった(代わりに未着受付日が一日遅れるよ、というハガキが来た)ので、予告通り読書会です。耳コピー番外編、ということで。
鯨晴久。「おーぷん☆ハート〜ロケットライダーがいた日」。角川スニーカー文庫。(「☆」は本当はハートマークなのですが、Webでは表示しにくいので代替品で)
この小説は、「ザ・スニーカー」という雑誌に連載されていたエッセイ「キャラクター小説の作り方」の宿題編から生まれたものだそうです。
小説本文も面白いのですが、大塚英志さんの解説がとても興味深いです。この解説では、「おーぷん☆ハート」が生まれた発端について、こう説明しています。
そもそも発端は「スニーカー大賞」のある回の応募作へのコメントに「左右の目の色が違う、というアイデアが多数見られて、それが応募者のオリジナリティの欠如の表れである」といったニュアンスのコメントがあったからです。だったら一つ「左右の目の色が違うキャラクター」で小説を一本、作ってみようといういささか天の邪鬼な思いつきから始まりました。PBMにおいても、オッドアイ以外に「異性によく間違えられる」、「○○流××剣の継承者」なんていうのがいわゆる「よくある設定(本当によくあるのかどうかは知らないけれど、僕の印象として)」ですが、これらの設定があるキャラクターの全てが「イケてない」というわけではないのです。大塚さんの解説には、こうもあります。
さて、第一ステップに応募してきた作品には、やはりキャラクター作りに共通の傾向がありました。それはキャラクターがシリアスで暗め、ということです。ただし、暗いキャラクターだからだめだ、と言っているのではありません。むしろ、そうなるのはある意味では「正解」なのです。一方の目の色が違う、というキャラクターの特徴を難しい言葉を使うと「スティグマ」といいます。身体のどこかに変異があったり、ある特徴があることを言います。「異性によく間違えられる」、「○○流××剣の継承者」となるにはそれなりの経緯があったはずですし、そういう人物にはそれなりの傾向があります。
(中略)
つまり「スティグマ」があるが故に主人公は否応なく作中の物語に引きずり込まれるわけです。しかも身体上の変異はやや差別的な言い方になってしまいますがしばしば主人公のコンプレックスと結びつき、その結果「暗い」という性格が導き出されます。ただしそれは身体に障害のある人が暗い、ということを全く意味しません。
わざわざ月並みなアイデアを出発点としたのは少なくとも「スニーカー文庫のような小説」では、アイデアは別にいつかどこかで見たことであって構わないからです。独創的なアイデアとかオリジナリティが必要といわれて身動きが全くとれなくなっている小説家志願者が思いの外多いので、オリジナリティという呪縛からまずあなたたちを解放しようと思ったわけです。この表現を借りれば、PBMプレイヤーに、全くの独創性などなくてもいいのです。勿論あるならばそれはそれで素晴らしいことですが、それを全てのプレイヤーに強要するようでは、今以上にプレイヤー数の減少が免れないでしょう。というか、より多くの人が(あえて「誰でも」とは表現しませんが)「物語を作る愉しみ」を味わえるのがPBMである、と、僕は思っています。交流や駆け引き、謎解き等も確かに魅力ですが、それはあくまで副次的なものです。
……というところで、今日の読書会はここまで。
さあ昨日買ってきたソウルブレイダーやろう。まずはカニ歩きをマスターだ。
なんだかんだでまだソウルブレイダーやってません。メガテン2もトーナメントを優勝したところで止まってます。早く仲魔が欲しいー。
それはさておき、DS2のリアが来ました。まあ、こんなもんかな、と。確かに切なくはありますが、いろいろ教えてもらえた気がするので頑張ります。頑張れます。
次回のアクションのコンセプトは「ジブリがいっぱい」です。本当かよ。
黄金竜シャインへの絆アクション(番号がないのでとりあえず属性はクリオンの番号で)。
シャロンは、子供の頃にこっそり迷いの子ドラゴンを飼っていたことがある。
「これがドラゴン……暖かい」
近所の野原にある木のうろの中に隠し、自分の食事を少しずつ運んだ。
最初は慣れなかった子ドラゴンも、やがて少しずつ懐いてきた。が、そんな矢先、大人たちに見つかってしまう。
「シャロン、それは大変危険なものだ」
「こっちへ渡しなさい」
「みんな、この子のことわかってないよ!」
大人たちは子ドラゴンを危険視し、シャロンから取り上げてしまう。その後子ドラゴンがどうなったかは知らない。
……というわけで、「ジブリがいっぱい」というのはこういう事です。あまり正確ではありませんが。
とりあえずこの絆アクションは思いついただけで出してません。出したのはもう少し遠回しなパロディです。
ちなみに次回の行動は
「物置と違う」
「やっぱ舐めるのかよ」
「バルス!」
の三本です。