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PBM覚え書き

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2005年7月9日(土)

 恥ずかしながら戻ってまいりました。実に七ヶ月と半ぶりですね。
 その間に何かがあったかというと、ええと、天狗をちょっとだけ更新しましたか。もう一本、と書いておきながら、なかなか手がつけられないでいます。話はおぼろげにできていますので、気長にお待ち下さいませませ。

 さて、メイルゲームに関して、ちょっと思い出したことがあるので書いておきます。
 以前に「メイルゲームには様々なプレイスタイルがあり、それらが混在できることがメイルゲームの魅力の一つである」なんてことを書きまして、その考えは今も変わっていません。
 異文化コミュニケーションとでもいいましょうか。あるいは組み合わせの妙とでもいいましょうか。どちらでもいいですけど、異なる考え方のプレイヤー同士が同じゲームに同時に参加することで新しい発見(面白さ)があって、そういう偶然との出会いがメイルゲームの魅力の一つなのだと、僕は常々考えています。
 要素が全部わかっていて、自分の想定の範囲内だけで話が進むようじゃ、それは昔にクリアしたコンピュータ・ゲームをやり直しているのと同じですね。まあ僕はそういうのも好きで、今更ドラクエ3とかやってたりもするんですけど、それこそそんな楽しみ方はドラクエ3とかで十分で、メイルゲームに求むるべきではないような気がするのです。
 そういう意味で極端な「住み分け論」には賛同できません。自称「ゲーム性重視」も、自称「描写重視」も、一緒くたのシナリオで楽しめる方法があるんじゃないかと。

 そこで問題になるのはプレイヤーの意識です。組み合わせの妙を発揮させようとすると、PC同士が直接接触する機会が増えます。ここでこのPC同士、つまりはプレイヤー同士の確執が存在しちゃったりすると、色々と面倒くさい話になるようです。で、プレイヤー同士のいざこざを避けようとすればするほどつなぎ役としてのNPCは増えていき、「マスターのマスターベーション」とかいう中途半端な駄洒落みたいな揶揄が出てくるわけで(マスターの技量や嗜好によるところもあるでしょうけれど)。
 もちろん「次回も確実にそのシナリオに登場するNPC」に絡む場合に比べて、空振りやトラブルなどのリスクは格段に高まります。でも、「物語の主人公」であろうとするならば、PC自身が物語の核、あるいは人間関係の要になっていこうとする姿勢が欲しいのです。それをNPCに任せているようではプレイヤーとしてちょっと悲しい──だって自分の存在が周りに影響しないなんて面白くないじゃない!──し、マスターとしてもそれはプレイヤーを信じることができていない、信頼関係がなくちゃ思い切ったアクションだってかけられない、そんな悪循環に陥る要因になりそうな気がします。
 その辺に関しても、「アクションのリンクフリー」とかいう概念を考えたこともあって、もっと積極的に他PCに絡んでいこうよ、そして絡まれようよ、とも思います。
 事前に示し合わせてアクションを練っているならともかく、そうでないプレイヤーの方がほとんどで、そういうお互いの出方もよくわからないままリアクションの描写だけから推測する、軍人将棋みたいな状況においては個々のアクションが噛み合わないことはままあることで、そこでトランプでいえばジョーカーみたいな誰にでも合わせられる便利なNPCに頼らず、なんとかPC同士の行動を組み合わせて物語を作るのもいいんじゃないか、と。
 そこでは必ずしもサクサイワマンみたくカミソリの刃一枚通さない完全性なんか求めていなくて、ラフであっても、「自分たちで作った」っていう満足感があったら面白いんじゃないか。
 で、その満足感は、ゲーム性重視だろうと、描写重視だろうと、あんまし関係なく楽しめるんじゃないかなあ、と。文章としての体をほとんど成していない「電車男」が多くの人に支持されたのも、このあたりの理由なんじゃないでしょうか。

 様々なプレイスタイルが混在する一方で様々なマスタリングスタイルが混在するのも魅力だと思っていますけど、とにかく頭に浮かんだので、覚え書きらしく書き留めておきます。



2005年7月21日(木)

 NPCを減らす方法。を、考えてみる。いつもの思考実験です。
 どうしても増えがちなNPC。どうにか減らす方法はないだろうか。
 敵も、上司も、恋人も、全部、とはいわずとも、ほとんどをPCでカバーできれば、その分PCを描写する量が増えるし、その方がプレイヤーにとっても喜ばしいことなのかしら、なんて。
 ちょっと考えてみた。

  1. NPC同士の対立構造にPCを巻き込む(PCが第三勢力として分け入る場合も含む)
  2. NPCの計画に協力/あるいは妨害する
  3. 問題を抱えているNPCを助ける
 ……初期情報を見ると、NPCの物語的役割というのはだいたいこのあたりでしょうか。
 これらを意図的に避けて、PCの(ひいてはプレイヤーの)目的を引き出して物語の動機に置くことができれば、NPC依存体質から少しは脱却できるかも知れません。
 難しいのは、初期情報からではそのことがプレイヤーにイマイチ伝わらず、求心力に欠けるという点でしょうか。
 もちろんプロットが事前に作りにくいというのは言わずもがなですけど。

 集団、たとえば教室一つとか、軍隊一つとか、そういう個のない集団にNPCとしての役割を振ることで、特定のNPCに依存する体質を回避する、なんてこと。
 そもそもNPCでなく、PCにその役割を与える。プレイヤーが知らない情報をもPCに喋らせるとか。

 プレイヤーは、PCが意のままに動かない──想定外の行動を取ることに対してどれ程抵抗を持っているのかとか、一般的な傾向があんましわからんので手探りで行くしかない状況なんですけど。



2005年7月28日(木)

 積み重ね、が、楽しいのです。
 経験であれ、人間関係であれ、ターンを経ていくごとに増えていくしがらみが、僕の好物なのです。
 色々過去の記述をほじくり返してますが2003年1月の覚え書きから。

 どうせやるんだったら、物語の中で唯一無二の存在になりたいと、そう思っているわけですよ。
 「名前と口調を他のキャラのものに置き換えても違和感がない描写」ではなしに、他の誰でもなく自分のPCしかできないことをやりたいと。
 無闇に突飛なことをやろうということじゃなくて、行動とキャラクターとをうまく合致させることができれば、「自分にしかできないこと」はきっと見えてくるはずで。

 PBMは、回を経るに連れて自由度は下がっていきます。「自分にしかできないこと」が見えてくると、他の行動を起こしにくくなるからです。
 逆に、終盤にさしかかってもなんでもできそうな気がする場合は、それまでの自分の行動をよく見直すべきです。

 PCが死亡することのデメリットは、ここで述べるような積み重ね、しがらみが失われてしまうことです。
 ゲームによっては所持金や経験値を再登録キャラに引き継げることもありますが、死亡したPCの人間関係まで引き継ぐことはできません。親族ということにしてある程度継続できたとしても、全てではありません。
 たとえばあるキャラと恋仲にあったとしても、再登録キャラのことも好きになってくれるとは限りません。それこそ「タッチ」のような紆余曲折を経ることができるのならその死も糧にできますが、一般的にメイルゲームにおける死亡はデメリットの方が大きいような気がします。
 そのためにプレイヤーは「死」を恐れ、アクションに制約──言い換えれば「葛藤」が生まれます。
「思い切った行動に出たいけど、無理をすると死の危険性がある。死の危険性を回避しつつ本懐を遂げるにはどうしたらいいか」という、その葛藤がアクションの醍醐味の一つではないかと。
 リスクレスでやりたいことだけやれるというのは、デバッグ・モードで最強データを作ったコンピュータ・ゲームと同じですね。まあ僕はそういうのも好きで、FF6では頭にドリル装備してたんですけど、それこそそんな楽しみ方はFF6とかで十分で、メイルゲームに求むるべきではないような気がするのです。

 葛藤を構成する要素の中でも、「死」はずいぶんと重い気がします。刑法の中でも死刑が極刑ですから、まあ当たり前なのかも知れませんが。
 大怪我にせよ、地位の剥奪にせよ、挽回の余地はありますけど、死亡は取り返しがつきません。……というのは、PCを唯一無二と考える、いわゆる「キャラ重視」の思考法なのかしら。
 PCを駒と考えるのなら、死亡も左遷もあまり変わらないのかしら。
 この思考の差の正誤はともかく、心の隅に止めておきます。

 ところで、DS2は「死んでも生き返る」という設定だったのでここでいう「死亡」とは意味が異なりますけど、それでも死をあまり軽んじたくないので、「不死者だけど死ぬようなアクションは避ける」という縛りがありました。
 オフィシャルのルールはどうあれ、「葛藤」を生み出す縛りはプレイヤー次第なので、システム的な話は比較的どうでもよいです。
 問題なのは、こうした「葛藤」を持たないプレイヤーのアクションは他者(マスターにせよ他プレイヤーにせよ)にとって今後の動きが読みづらく、「アクションのリンクフリー」を考える上でも絡みづらいところはあります。
 死亡判定の是非はさておき、アクションリンクの辺りの方法論を探ってみたいところです。



2005年8月31日(水)

 フラグと情報収集。です。
 メイルゲームにもフラグがあるわけです。コンピュータ・ゲームのように。
 コンピュータゲームのフラグは、大きく「必須フラグ」と「自由フラグ」とに分類できるでしょう。
 「必須フラグ」というのは、その名の通り、シナリオを展開するにあたり必要なフラグで、このフラグを立てないことには話が先に進みません(=エンディングに辿り着くことができません)。
 「自由フラグ」というのは、必ずしも立てる必要はありませんが、このフラグを立てることにより強力なアイテムが手に入ったり、近道ができたり、あるいは魅力的なキャラクターと親密になれたりします。
 フラグが存在することにより、プレイヤーは物語を比較的効率よく辿ることができます──言い換えれば、ゲームの作り手はフラグによってプレイヤーをコントロールできるのです。

 「必須フラグ」が絡むイベントは、全てのプレイヤーが体験します。ですから、「必須フラグ」をまたいだ先のシナリオにおいては、その「必須フラグ」の中で提示された情報を既知のものとして扱ったり、仲間との合流あるいは別離を強制的に行うことができます。
 これがどういう意味を持つかというと、シナリオの分岐に関わってくるわけです。
 コンピュータゲームでシナリオを分岐させる場合、分岐したそれぞれのシナリオを別個に用意しなければなりません。プレイヤーはある程度の自由度を楽しむことができますが、その自由度が高まれば高まるほど、より多くの分岐パターンを用意しなければなりません。それはメディアの容量も圧迫しますし、シナリオライター等への負担も増します。
 それらを抑制するために、「必須フラグ」を用意して、そこで分岐をいったんリセットし、そこからまた新たな分岐を用意していくわけです。

 スーパーファミコンに「ロマンシング・サガ」というゲームがあります。
 これは「自由度の高さ」を売りにしたRPGで、近年PSでリメイクされました。
 「自由度が高い」というのは、今回の覚え書きの流れで言えば「必須フラグが少なく、自由フラグが多い」となりましょうか。
 確かにこのゲームでは「○○しなければならない」というイベントはとても少ないです。八人いる主人公キャラは、それぞれペアとなるキャラがいて、序盤にそのキャラと出会うまでのイベントを除けば、あとは最終ボス「サルーイン」を倒すだけで、そこに至るルートはどうでもよいのです。
 「ペアとなるキャラ」とは書きましたが、そのキャラでさえ、いったん仲間になったあとは、好きなときにパーティーから外すことができます。
 ロマサガでは、個々のイベントは基本的に互いに独立しており、どのイベントをこなそうとそれは時間的な経過を意味するのみで、それらの内容が次のイベントに影響することはありません。たとえば、人さらいの事件に首を突っ込んで、途中で放り出して別の事件に乗り換えることもできます。
 あるイベントで二人いる女性キャラのうちいずれかに好意的な選択肢を選んだとして、のちのイベントで選んだ方の女性と親密になれる、という一般的な──あえて限定してみればFF7の観覧車イベント的な──連続性がロマサガにはありません。
 何でもできるがゆえに不親切な印象も受けますが、慣れればかなり面白く、なんだかんだで全キャラクリアした覚えがあります。

 一気に時代を遡りますが、ファミコンに「ポートピア連続殺人事件」というゲームがありました。こちらは殺人事件を追いかける推理アドベンチャーゲームです。
 推理ゲームでは、関係者の証言を集めていき、犯人を捜したり、アリバイを崩したりという展開になるため、必然的に「必須フラグ」が多くなります。というか、ほぼ全てが「必須フラグ」と言っても過言ではないでしょう。
 しかし、「ポートピア連続殺人事件」は違います。以下大いなるネタバレなので一応伏せときます。(スタイルシートが無効になっている環境では伏せられません)
 犯人はゲームスタート時から主人公を補佐する「ヤス」という青年です。
 主人公は「ヤス」と共に犯人を追いますが、紆余曲折の末、実はその「ヤス」こそが真犯人だった、というストーリーです。
 そして、「ポートピア連続殺人事件」では、「必須フラグ」なんてものはなく、ゲーム開始直後だろうと、ヤスと二人の場面で「なにか とれ・ふく」を三回繰り返すことで、「ヤス」が突然自供を始めます。

 ゲーミアンというサイトに、「扉を開け。道を拓け。」という文章があります。
 コンピュータ・ゲームにおける「フラグ」の役割について、丁寧に分析されているので、大変興味深いです。

 ちょっと長くなったので「メイルゲームにおけるフラグ」についてはまた後日ということで。



2005年9月5日(月)

 PBMとフラグ、続きです。
 フラグの定義は、今回は「マスターが事前に想定していたイベントを起こす為の条件」とでもしておきます。PBMでマスターが想定していなかったイベントを起こすアクションは「(条件を組み合わせて成立する)フラグ」とはちょっと意味合いが違うような気がするので、とりあえず議論の対象外とします(ここで言う想定内と想定外の違いは2003年2月18日の覚え書き参照)。
 言い換えてみると、フラグイベントは(必須フラグであれ自由フラグであれ)、「マスターあるいはシナリオライターが来てほしい(あるいは来るだろう)と想定していたアクションが来たときに、それに対して返されるリアクション」という話になります。
 コンピュータゲームの場合、フラグが立たない(=シナリオライターの想定していない行動を取っている)ときに、「何もイベントを返さない」という方法が取れます。「○○はあしもとをしらべた/しかしなにもみつからなかった」というドラクエのメッセージがその象徴ともいえます。
 一方でPBMの場合、フラグを立てるようなアクションが一つも来なかったときに、じゃあ何もイベントを起こさないでよいのかという問題があります。杓子定規に判定すればプレイヤーは何も起こらずに面白くないと感じるでしょうし、だからといって温情裁定ではマスタリングの基準がぶれ、今度はプレイヤーを混乱させかねません。
 逆に想定よりも早く的確なアクションをかけられてしまい、にも関わらず時期尚早としてフラグを立てず、その後のターンに同様のアクションによってフラグを立てればこれも判定はぶれています。これは「時限イベント」、「強制イベント」などと揶揄されもするでしょう。
 判定のぶれは、「公平感」を損ないます。真に公平であるかどうかはともかく、公平感が損なわれたとき、プレイヤーの判断基準はリアクションよりも自身の考えに重きが置かれるようになります。なぜなら、リアクションが公平でないと感じたプレイヤーにとって、リアクションの記述は「アテにならない」のです。そしてアテにならない長文をいちいち読むよりは、自分の都合のいいように解釈してしまった方が楽なのですから。
 プレイヤーは「自分のPCと関係のあるシーン」だけを抜き出して読む、などと言われることもありますが、リアクションに判定基準(ルール)が示され、その通りにマスタリングが行われたと感じれば、リアクション全体を精読し、そこから判定基準を探ろうとするプレイヤーも増えていくでしょう。
 そのようにして全員とは言わずとも、より多くのプレイヤーがある程度似通った判断基準を持つに至れば、他のPCの行動の予測が立ちやすくなり、そこでまた「アクションのリンクフリー」という概念が生きてくる可能性も出てきます。

 前提条件抜きで情報が明示されたとき、それは純粋な競争となります。つまり「○○というNPCが助けを求めている」という情報が明示されたとき、次のターンは「○○を助ける」という類のアクションが殺到しがちです。そうなれば、描写されるPCはそれらの中から優れたもの、的を射たものが選ばれ、それ以外のPCは「不採用」となります。
 これは徒競走に似ていますね。マスターはスターター。リアクションの中で号砲を放ち、プレイヤーはよーいドンで猛ダッシュ。こうなれば、熟練したプレイヤー、グループを形成しているプレイヤーが有利になりがちです。小学生のサッカーじゃあるまいし、ボールが転がった方向に全員が群がるという状況ではちょっと切ない。
 以前に「極端な「住み分け論」には賛同できません」と書きましたが、上級者、初心者、積極的交流派、のんびり一人旅派、それぞれがそれぞれのスタンスで遊べないようでは、住み分けを図っているのと同じです。
 上級者ないし多人数プレイヤーが圧倒的に有利だと知れば、初心者やアクションに自信のない人、単独行動をしている人はフラグに対して無関心になります。なにせめぼしい手柄は全て他のプレイヤーに持って行かれてしまうのですから。
 どうせまともに勝負しても勝てないのだから、誰もやらないようなことをやってみよう、という思考になっていくのは自然な流れでしょう。僕もどちらかというとスキマ産業を狙う方です。スキマ産業ならまだしも、破壊的なアクションに走るとなかなか厄介です。なにより、ゲームに関心を失って退会してしまえば、それは商業的に失敗です。
 スキマ産業的なアクションについて、一人一人、とはいかないまでも、ある程度個別に対応していく、という方法もあります。しかしこれは「何をやっても拾ってくれる」という認識を与え、アクションの暴走や拡散を招きかねません。
 そこでスキマ産業を採用するにしても、その基準が必要になってくるのです。「面白い」とかいう主観的なものでもなく、「全体の流れに影響する」とかいう初心者や一人旅プレイヤーにとっては過大な情報収集を要求するものでもない、なおかつ公平な基準であって欲しいわけです。

 ここでメイルゲームにおけるフラグというものが顔を出してきます。
 前回紹介した「扉を開け。道を拓け。」に、こんな一節があります。

『ゼルダ』をやりなれている方ならご存じだろう。
『ゼルダ』には「今はまだ行けない場所」が数多くあることを。そして、アイテムを集めていくうちに、それがどんどん「行ける場所」に変わっていくということを。

足場のないところを越えるためのフックショット。離れた場所にあるスイッチを押して道を拓くためのブーメラン。
壁に穴を開けるためのバクダン。行く手を塞ぐ岩をどけるためのグローブ……。

これらは、やはり「それがなくては行けない場所に行くためのアイテム」だ。
すべて道を拓くためのアイテム、「次の部屋」に行くためのアイテムなのだ。

 『ゼルダ』では、全てのアイテムを一人のプレイヤーが手にします(だってプレイヤーは一人しかいないのですから)。
 けれどもメイルゲームではそうもいきません。でも考え方は同じで、それまでに手に入れた「アイテム」を元に、新たな「アイテム」を手に入れる、この繰り返しでシナリオが展開していきます。
 この「アイテム」──これは「フラグ」を便宜的に言い換えたものなので、必ずしもゲーム内において「アイテム」としてキャラクターシート等に出力される類のものとは限りません──を効果的に配置し、プレイヤーに「どの『アイテム』が自分の好みに合うか」といった選択をさせ、手に入れた「アイテム」ごとに「その『アイテム』を持っているキャラにできること」を振り分ける。
 こうして個々のPCがそれぞれに機能し、全体として扉を開き、道を拓いていく。単純な競争を減らし、勝ち目の薄い競争に挑まざるを得ない状況を取り除き、「不採用」となるPCを減らしていくことで、プレイヤーの全体的な満足度を高めていく。
 ……ごくごく単純にモデル化してみましたが、かようにメイルゲームにおけるフラグの役割は、PCの集団を一つに統合することにあると言えます。
 統合されることで連帯感が生まれ、他のPCに関心を持ち、そのPCが関わっている「フラグ」にも関心を持ち、リアクション全体への関心が高まっていきます。そうして生まれた関心について次回以降にアクションを起こし関わっていくことの垣根を下げることが、「アクションのリンクフリー」という概念の意義です。
 『ゼルダ』の例で言えば、まず「あなたはフックショットが欲しいですか? それともブーメランが欲しいですか?」という選択をさせる。そしてその後のターンに、「Aへ行くにフックショットが必要です。Bをするにはブーメランが必要です」という情報を提示する。この時、あるプレイヤーがフックショットを取ったにもかかわらずBをしたい(あるいはBが重要である)と感じたとしても、その時点ですでにフラグは立ってしまっているので、自分はBに手出しできない。Bについてはブーメランを持つPCに期待するしかできない。
 それ故にBという関心事を通じて、ブーメランを持つPCの動向に意識が向けられる、という案配です。ブーメランを持つPCの行動を推測したり、あるいはそのプレイヤーに交流を願い出たりすることもあるでしょう。

 話があっちこっちに行ったり戻ったりで申し訳ないのですが、覚え書きということで、まずは要旨を形にすることを優先しています。読み返すと、色々と要素が抜けていますし、論理が飛躍しているところもあります。やれやれです。
 また、「〜と思います」「〜かも知れません」とかばっかりだと論調が弱くなるので、あえて断定系を多用しています。あとで考え直して変更するかも知れません。

 ここまで書いて、なんか前にも似たようなことを書いたことがあるなあと思って探したら、ありました。
 2002年6月12日とか30日とかです。もう3年も前のことでしたか。



2005年12月02日(金)

 久しぶりの耳コピー、今日は共同行動について考えます。
 田口千年堂「コッペとBB団(その1)」(ファミ通文庫)から。



《事前情報》
 ひょんなことから悪の結社「BB団」で預かることになった不思議な少女、コッペ。
 コッペはとあるオーバーテクノロジーで作られた人造人間で、その力を戦闘に使えば、大量殺戮兵器となってしまう。
 そんなコッペが部下の2号とともに正義の味方にさらわれた。それを知ったBB団生活課の課長、Q三郎はコッペを救い出すため、BB団の戦闘兵を動員しようとするが、戦闘員たちは皆他の作戦(正義の味方が開発した超強力兵器の奪取または破壊)に駆り出されてしまっている。
 作戦担当のQ子をコッペの危機だと説得するが、断られる。
「それでも……だめですっ!」
 P子は叫び、Q三郎を突き飛ばす。一歩下がったQ三郎は唾を吐き捨てると、P子をにらみつける。P子は目に涙を浮かべていた。
「……忘れないでください、Q三郎さん。コッペちゃんはブラック・ブリッツの同胞として承認されてはいるけど、その立場はないに等しいんですよ。考えてもみてくださいよ。コッペちゃんがいなくなって、誰が困るっていうんですか?」
「おまえ……!」
 P子の本心ではなく、一般論だというのはわかる。
 それでもQ三郎は自然とP子の襟首を掴んでいた。
「それにデイライト・カノンは下手をすれば人類を滅ぼす悪魔の兵器となるかもしれないのよ! 考えてみてよ! 先輩が首領の立場だったら、人類とコッペちゃん、どちらを優先するっていうんですか!?」

《アクション》
・Q三郎
 戦闘員は作戦に参加してしまうので、非戦闘員から協力してくれる人を集める。P子のバカも本心ではわかっているはずだ。
 1号、3号と手分けして口コミや、基地内の放送を使って呼びかける。コッペはあちこちで可愛がられていたから、協力を願い出るロリコン野郎どもは結構多いはずだ。
 そいつらを引き連れて、キタダニ第二デイストーン研究所へ向かう。護衛ロボットがうじゃうじゃ出てくるはずだが、それらは連中に任せる。
 最深部に黒幕のK次郎がいるはずなので、自分は3号と一緒にそこに向かう。K次郎は変身リングを使って変身してくるだろうから、自分も変身リングを装備して戦う。K次郎は研究者として、悪魔に魂を売ってしまっている。コッペを連れて帰るには、奴を倒すしか方法がない。
 追記:囚われのコッペには、お土産としてアイスを持っていく。眠らされたり洗脳されたりしていても、こいつがあれば目を覚ますはずだ。

・1号
 Q三郎課長に協力して、コッペちゃんの救出に向かうだ。護衛ロボットはあんまし賢くないはずなので、おらみたいな腕っ節しか脳のない奴でも十分戦える。協力してくれる人も探して、一緒にコッペちゃんを助けるだよ。

・3号(クモ怪人)
 僕みたいな落ちこぼれでも、コッペちゃんは優しく接してくれた。だから僕は頑張れた。そんなコッペちゃんを、今度は僕が助ける番です。課長に頼まれた通り、一緒に戦ってくれる人を集めて、研究所に突入するときには、課長を護衛します。

・P子
 首領とともに、デイライト・カノン奪取あるいは破壊作戦の陣頭指揮を執ります。
 (この陣頭指揮に関するアクションは省略)
 追記:コッペちゃんのことも助けてあげたいので、Q三郎先輩が非戦闘員を動員することと、戦闘員ですけど1号さんが課長についていくことについてはおとがめなしにしてあげます。

《リアクション》

「──勝手にしてください。ただし戦闘員は使わせませんからね! 全て明日の作戦に組み込まれています。Q三郎さんに与えられる兵力は【二人もいません】!」(【】内は圏点)
「勝手にするさ。こっちはこっちでなんとか人を集めてやる」
「そんな酔狂な人達が基地内にいれば、の話ですけどねー」
 広場を去るQ三郎に、P子は小さくうなずいた。
 整列する戦闘員たちにまぎれて立っていた1号を見ると、くわえタバコのQ三郎は顎で、ついてこい、と命令する。
「か、課長! いいんスか?」
「おう、許可は取れた」
「はい?」
 今の会話のどこをどう取れば許可が下りたことになるのかわからない1号。そんな1号をよそに、全BB団員の視線を受けながらQ三郎は中央広場から悠々と出ていく。
(中略)
『こちらは生活課のQ三郎だ。戦闘員の野郎どもは明日の作戦の準備に忙しいだろうから、ヒマなやつだけ聞いてくれ。うちの生活課のバカ娘が、ライトドライバーの研究所にいる。俺達は明日の朝一にそいつを奪還する作戦を考えてる。もしもヒマでパワーの有り余っている奴がいたら、協力してくれ。頼む』  マイクのスイッチを切り、Q三郎は一息ついた。
(中略)
「……バカ娘って、ひょっとしてコッペちゃんのことですか?」
「おまえら、知ってるのか?」
 すると放送室の二人は揃って小さく笑い、
「今じゃ基地内ではちょっとした有名人ですよ。生活課の人と一緒に、基地内を散歩しては色んなところで珍しそうにしてるから……ホラ、基地内って子供いないじゃないですか。だから目立つんです」
(中略)
「Q三郎課長。何か我々にできることはありませんか?」
 放送室の二人は、揃って敬礼した。
 ……そんな風にして協力者は無闇にたくさん集まり、翌朝、研究所に向かう。
 協力者たちと1号とで研究所の護衛ロボットを蹴散らし、Q三郎と3号はなんとかK次郎の居場所へ辿り着く。
 コッペは怪しげな機械の中で眠っていたが、アイスを持ってきたぞと呼びかけたら目を覚ました。
 すると案の定K次郎は変身してきたので、Q三郎も変身し、激しい戦闘の末、K次郎を倒した。
 かなり端折っているので状況がよくわからないかも知れないですけど、気になる方は小説を買っていただくとして。

 他のプレイヤーと示し合わせ、PC同士で関連した行動を取る、いわゆる「共同行動」というものがあります。
 交流の一環として、みんなで何かひとつのことを成し遂げるのが楽しいということはさておいて、ここでは共同行動の実効性について考えることにします。
 今回の耳コピーのテーマは共同行動なので、アクションも複数に分解しました。
 この中でPCはQ三郎、1号、3号、あとはP子です。コッペ、首領とその他の有象無象はみなNPCということにしています。
 また、Q三郎の研究所侵攻のくだりが非常に自己中心的になっていまして、アクション単品として考えるといかがなものかと思わなくもないですが、その辺もさっくり無視します。
 「デイライトカノン奪取/破壊作戦」がシナリオの大きな事件で、この作戦に参加するPCは相当数いるとします。一方の「コッペ救出作戦」は、本筋とは少し離れた話で、参加PCはさほど多くないとします。まあ、目的がコッペというNPC少女の救出であるという時点で、こちらに無闇に人が集まるのは想像に難くないのですが。

 とまあ前提条件が色々とややこしいですが、ここで考えるのは、「効果的な共同行動」です。
 とりあえずQ三郎は「コッペ救出作戦」の中心人物ですから、いなければ話になりません。
 で、Q三郎についていく1号と3号も、もちろんQ三郎単身で乗り込むわけにはいかないし、協力者を全てNPCでまかなうというのもちょっと不自然なので、この手の協力するPCは不可欠です。ただ、その重要度は当たり前ですがQ三郎には劣ります。「1号と3号的PC」に求められるのは、質も高いに越したことはないですがどちらかといえば量的なもので、引用した中の「放送室の二人」のように、実際に戦うシーンでは描写されず、その前段階で顔を出すに留まってしまう可能性は十分にあります。
 自分のPCがちょい役でも、一緒に行動したPCが大活躍すればそれで満足、なんていう広い心の持ち主ならば、「一山いくら」として貢献するのもいいでしょう。

 では「共同行動はしたい(共同行動のメリットは享受したい)が、大衆に埋没するのは御免こうむりたい」という人は、どうすればいいのでしょう?
 その回までの積み重ねで「世界でも有数の熟練剣士」として名を馳せていれば、戦闘シーンで切ったはったの活躍を見せることもできるでしょう。1号と3号はその方向性で成功したといっていいです。……が、僕はあまりそういうキャラは作らないので、力でのし上がるよりは、スキマ産業を狙うのです。
 そこで誰が出てくるかといえば、P子です。
 P子は、「コッペ救出作戦」には、直接は参加しません。他にやらなければならないことがある(これは居場所を確立しているということで、この時点ですでにかなり成功しているともいえます)ので、行きたくても行けないし、戦闘員をQ三郎に割り当てることもできないのです。
 だから直接協力するのではなくて、「戦闘員以外を動員することをおとがめ無しにする」という搦め手で「コッペ救出作戦」に関わろう、という次第です。これはP子がその回までに得た立場(首領の側近)を使って、つまりP子しかできないことで、「コッペ救出作戦」に貢献する、ということです。
 しつこいようですがP子にしかできないということは、他のPCには真似できないアクションで、大衆に埋没することはまずないのです(ここでP子のアクションはダブルアクション気味ですが、ダブルアクションについては後日改めて触れます)。

 共同行動の時に大切なのは、協力してくれるPCを何人集めるかではなく、集まったPCたちがいかに有機的に(十把一絡げでなく)行動できるか、ということです。
 で、そのためには「そのキャラならでは」と言えるようなことがある、言い換えれば「キャラが立っている」くらいでないと、他のPCに飲まれ、「放送室の二人」的な扱いになってしまう可能性もあります。
 終盤になってもキャラが立たず、立ち位置もはっきりしない、そういう状況では流れに乗りたくもなりますが、そういうときこそ共同アクションに安易に参加してはいけない、なぜならいよいよドツボにはまり埋没していく危険性を孕んでいるからだということを、ちょっと考えてみたいのです。
 P子のように「首領の側近」という立場がなくてもないなりに、単に1ピースとして収まるのでなく、独自の関わり方がどこかに隠れているから、それを探すんだという気持ちを持ちたいです。



2005年12月05日(月)

 「集団行動」について、ちょいと追記です。
 たとえばそのシナリオに三十人のPCがいれば、アクションは三十通りになります。なるはずです。
 でもその内の五人が共同行動、つまり五人で一つのアクションと見なせてしまったら、アクションは二十六通りにしかなりません。
 ここでアクションの数だけ物語の未来が広がっていくとすれば、三十通りだった未来が四つも減っているわけです。
 今年の7月9日には、「異なる考え方のプレイヤー同士が同じゲームに同時に参加することで新しい発見(面白さ)があって、そういう偶然との出会いがメイルゲームの魅力の一つなのだと、僕は常々考えています」ということを書きましたが、アクションの種類が減ってしまえば、それだけ「偶然の出会い」が減っていく。それは僕にとってメイルゲームの魅力が損なわれているのと同義です。
 もちろん共同行動アクションの全てが独自性を失っているわけではありません。ただ、傾向としてそういうものがあるのです。

 もともと自分にやりたいことがあって、その目的を果たすのに役立つ、あるいは障害にならないから、せっかくだからみんなと一緒に行動してみよう、というのなら問題ないです。
 怖いのは、シナリオの中でやりたいことを見失っていて、何も思いつかないから、とりあえず尻馬に乗ってみよう、という考え方です。
 終盤ならまだしも、序盤や中盤では、立ち位置の定まっていないPCの方が多いはずです。また、あまりプレイヤーたちが気付いていない、あるいは気に留めていない伏線も相当数存在するはずです。
 共同行動というのは、その時点である程度確定している物事について計画されることが多いです。前回の耳コピーの例で言えば、「デイライトカノン奪取/破壊作戦」であり、「コッペ救出作戦」です。他のプレイヤーにも「重要そう」と思わせるような内容であればあるほど、共同行動にはそれなりの人数が集まるでしょう。
 二年前に書いた通り、「誰にでもわかる形で公開されている情報というものは、つまりは誰でも知っていることでありまして、そういう情報に依存している状況では、どうしたってイニシアチブを取れず、結局は大衆に埋没してしまうんですね。これは何より私が忌避する状況というわけであります。」という風に、僕は今も思っています。
 「みんなが重要と思っている」上に、共同行動の中心人物というのは、得てしてその「重要(そう)な情報」について、何らかのイニシアチブを持っていることが多いのです。
 そこにやりたいことを見失っているような、前回までにあまり立ち位置を見出せていないようなPCが入り込んで、一体何ができるのかと、枯れ木が山を賑やかす以上のことができるのかと、ちょっと考えてみたいのです。

 話がグルグル円環ですけど、共同行動全てを否定しているわけではありません。僕も共同行動はやったことありますし、それなりに成果を挙げたり、楽しかったりしました。でもこの「楽しい」というのが厄介で、アクションとしてはほとんど成果を挙げていなくても、何故か成功した気分になってしまうのです。
 僕は「共同アクションに参加してはいけない」と言いたいのではなく、「共同アクションに『安易に』参加してはいけない」と言いたいのです。
 いわゆる「確定事項」に関わる共同アクションに参加することで、「誰も気付いていなかった/気に留めていなかった物語の真相」を発見できない、あるいは他の誰かにその成果を持って行かれるというリスクを背負うことになるのだということを、きちんと認識した上で、覚悟して共同アクションに挑んで欲しいのです。
 もちろん共同行動に参加しつつ、「誰も気付いていなかった/気に留めていなかった物語の真相」に迫ることもできるでしょう。ただ、それは安易に作戦の尻馬に乗っかるだけでは絶対に不可能で、リアクションの読解と自PCの置かれている状況の把握に加え、さらに共同行動の動向を踏まえなければならず、単独で行動するよりもずっと大変になるのです。
 でも大変な分、一人一人が有機的に動き回って、相乗効果で大きな成果を挙げられたら、その楽しさは単独行動では得難いものでしょう。

 逆に共同行動を企画する場合は、参加してくれるPCが安易に駒に成り下がらないような、それぞれの個性を生かしやすいような共同行動にしたいものですが、これはこれでまた難しそうですね。



2005年12月16日(金)

 先日ちょっと触れた「ダブルアクション」について書いて、今年は締めます。
 「ダブルアクション」という言葉自体、別にどこかで定義されているわけじゃないのでまず厄介なんですけど、「一回のアクションの中に複数の行為を書く」とでもしておきます。
 で、「Aをして、成功したらB、失敗したらC」というように条件などをつけて順序立てて書き連ねるものを「直列アクション」、「ある場所でAをして、また別の場所でBをして、一方で誰それに対してCをする」というようにそれぞれの行為がある程度独立しているものを「並列アクション」とでも呼んでおきます。
 直列アクションは、書き方次第でダブルアクションにはならなくなる場合もあります。前提条件が簡単なものであれば、成功するものとしてさらりと触れて、その後のことを本題にしてしまうのです。
 この前の例ならば、Q三郎は「コッペはあちこちで可愛がられていたから、協力を願い出るロリコン野郎どもは結構多いはずだ」という根拠を挙げて、「コッペ奪還作戦に参加してくれる仲間を集める」という行為をアクションの前提条件としてしまうのです。
 簡単でなければ、あるいはその前提条件が間違っていれば、当然アクションの失敗する確率は高くなります。それでも手順を飛ばしたり、一人で準備をこなすことができ、共同行動するプレイヤーが少ない、あるいはいなくてもなんとかなるかも知れない、というメリットがあります。また、前提条件のところで多少失敗していても、目的がはっきりしていれば、マスターが上手く拾ってくれるかも知れません。
 一方で並列アクションは、同じく前回の例で言えばP子です。「追記:コッペちゃんのことも助けてあげたいので、Q三郎先輩が非戦闘員を動員することと、戦闘員ですけど1号さんが課長についていくことについてはおとがめなしにしてあげます」という行為は、本題であるデイライトカノン奪取/破壊作戦とは別の作戦です。
 いちいちメリットなんて呼ぶほどでもないですが、並列アクションが上手く行けば、リアクションのあちこちに顔を出すことになり、なんだか活躍しているような気分になります。あるいは複数書くことで、どれか一つでもシナリオの真相に触れることができれば、そこから活躍が望めるのかも知れません。反面、おまけで書いたどうでもいい行動だけが軽く描写されてそれでおしまい、となる危険性を孕んでいます。失敗してても本題に触れてくれれば次回以降につなげられるかも知れませんが、全然別のことで描写されてしまったら、再チャレンジはまたゼロからのスタートです。

 そんなわけで、一貫したプレイスタイルで通したいのなら、並列アクションはあまり好ましくないでしょう。
 とはいえ、P子的な並列アクションは、むしろ歓迎すべきとも思います。シナリオの中にある複数の要素を関連付けるつなぎ役を務めるのは、なにもNPCの専売特許ではなく、PCがそれをやったってよいはずです。
 冒頭で触れた通り、「ダブルアクション」という言葉の定義がはっきりしていないので一概に「ダブルアクションは良くない」と言い切ることが出来ず、それがもどかしくもあるわけです。ここで「並列アクション」なんて言葉をでっち上げてみても、「主となる行動と従となる行動がはっきりしている」場合も、「一つ一つの行動が同列で、どれか一つでも引っかかればいいと思っている」場合も、どっちも並列アクションです。そして主従をはっきりさせたとしても、従としたどうでもよい行動だけを拾われ、しかも数行で片付けられてしまうことだってあります。

 直接でも並列でも共通して言えることは、アクションを考える時間も書く紙面も限られている以上、あれもこれもと欲張ることは、それだけ一つ一つの要素にあてる時間も紙面も少なくなり、マスターに対して考えていることを伝えにくくなる、というデメリットが存在するということです。ちなみにその傾向は、並列アクションの方がより強くなります。
 欲張ったってどうせ失敗するだけなのだから、それだったら失敗覚悟で一点集中してみた方が、活路も開けるものではないかと思うのですけれども。でもあれこれ書いておくと勝手に選んで拾ってくれちゃう場合があったりするからやっぱり一概に言えないんですけれどもね。

 そんなこんなで、今年の覚え書きはこの辺で。
 来年もダラダラ続けそうな気がしますが、その時はその時でよろしくお付き合いください。
 よいお年を。


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文責:並丼