伊東静雄

『反 響』 (人文書院:「伊東靜雄全集」 1966年8月5日発行)
QTView版    ※QTViewのダウンロード
 
(辞)

小さい手帖から
野の森
夕映
雲雀
訪問者
詩作の後
中心に燃える
夏の終り
歸路
路上
都會の慰め

わがひとに與ふる哀歌
四月の風
曠野の歌
私は強ひられる
歸郷者 同反歌















眞晝の休息
冷たい場所で
海水浴
わがひとに與ふる哀歌
即興
詠唱
秧鷄は飛ばずに
全路を歩いて來る
有明海の思ひ出
かの微笑の人を呼ばむ
病院の患者の歌
寧ろその日が私の
けふの日を歌ふ
河邊の歌
行つて お前のその
憂愁の深さのほどに

凝視と陶醉
いかなれば















夢からさめて
夕の海
水中花
蜻蛉

朝顏
八月の石にすがりて
自然に、充分自然に
夜の葦
燈臺の光を見つつ
野分に寄す
若死
沫雪
笑む稚兒よ
孔雀の悲しみ
夏の嘆き
早春
金星
そんなに擬視めるな















早春

わが家はいよいよ小さし
疾驅
かの旅
なれとわれ
春の雪
羨望
菊を想ふ
淀の河邊
七月二日・初蝉
九月七日・月明
なかぞらのいづこより
春淺き
百千の
わが家はいよいよ小さし
小曲
誕生日の即興歌
夏の終り

*注:一部ルビがふってありますが、ブラウザのフォント設定によっては、ルビがずれて表示されることがあります。ルビがずれている場合は、お使いのブラウザの「表示」→「フォント」から、フォント設定を調節してご覧下さい。


ひとりごと
 大学生の頃、はじめて『わがひとに與ふる哀歌』を読んだとき、ひどく息苦しい感じを持ったのを覚えています。伊東静雄は、1941年(昭和16)に《四季》の同人となり、堀辰雄や立原道造、中原中也などの四季派の叙情詩人のひとりに数えられますが、同じ叙情詩とは言っても、伊東静雄のそれには中也のような甘さはありません。あくまでも硬質で鋭利な印象があり、自己の純粋な感動や情緒を主観的に述べる事と、感情の垂れ流しは別物であることを、私は伊東静雄の詩によって学んだように思います。
 ただ、40代になった現在では、『反響』の「小さな手帖から」に収められた10篇の詩の方に、より親しみを感じるのも確かです。枯れたような平明さの中に、無駄なものの一切がそぎ落とされたあとの、確固としたとした芯が穏やかに光るような、そんな穏やかさと揺るぎなさを感じずにいられません。
 ところで、反響』には伊東静雄の自選集的な側面もあり、「わがひとに與ふる哀歌」以下の詩は、以前の3詩集から採録されたものです。ただし、作者自身の校訂が入り、順番なども変わっていますので、『わがひとに与ふる哀歌』『夏花』『春のいそぎ』も、ぜひ読んでみて欲しいと思います。作者の意志を尊重するならば、最終形だけでも良いと思われるかも知れませんが、最初の勢いというのは、形を抜きにして心を打つものがあると思います。


伊東静雄(いとう しずお)[1906-1953]について
  • 長崎県諫早町(現、諫早市)に生まれる。京都帝国大学国文科卒業後、大阪府立住吉中学に就職。以後、生涯にわたって教員生活を続けた。「古今和歌集」など日本の古典文学に精通し、同時にリルケやヘルダーリンに傾倒した。
  • 教員になってから詩作をはじめ、1933年(昭和8)保田与重郎によって文芸雑誌《コトギ》にまねかれ、「帰郷者」「曠野の歌」などを発表。萩原朔太郎らに激賞された。
  • 第1詩集『わがひとに与ふる哀歌』(1935)で文芸汎論詩集賞、1941年、第2詩集『夏花』(1940)で第5回北村透谷文学賞を受賞。その後、日本的叙情への回帰が認められる、1943年の第3詩集『春のいそぎ』を経て、戦後に第4詩集『反響』(1946)を発表。しかし、1949年、肺結核を発病し、3年余の入院闘病生活ののち46歳で没した。


『反響』について
  • 1946(昭和22)年11月、著者41歳の時に創元社から出版された第4詩集。「小さい手帖から」「わがひとに与ふる哀歌」「凝視と陶酔」「わが家はいよいよ小さい」の4部からなる。
  • そのうち、「わがひとに与ふる哀歌」は、第1詩集『わがひとに与ふる哀歌』からの抄出部分。「凝視と陶酔」は第2詩集『夏花』の抄出部分に、「早春」「金星」「そんなに擬視めるな」の3篇を新たに加えたもの。「わが家はいよいよ小さい」は『夏花』中の「疾駆」と、第3詩集『春のいそぎ』の抄出部分からなる。

[文車目次]