伊東静雄
『反 響』 (人文書院:「伊東靜雄全集」 1966年8月5日発行)
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ひとりごと
大学生の頃、はじめて『わがひとに與ふる哀歌』を読んだとき、ひどく息苦しい感じを持ったのを覚えています。伊東静雄は、1941年(昭和16)に《四季》の同人となり、堀辰雄や立原道造、中原中也などの四季派の叙情詩人のひとりに数えられますが、同じ叙情詩とは言っても、伊東静雄のそれには中也のような甘さはありません。あくまでも硬質で鋭利な印象があり、自己の純粋な感動や情緒を主観的に述べる事と、感情の垂れ流しは別物であることを、私は伊東静雄の詩によって学んだように思います。
ただ、40代になった現在では、『反響』の「小さな手帖から」に収められた10篇の詩の方に、より親しみを感じるのも確かです。枯れたような平明さの中に、無駄なものの一切がそぎ落とされたあとの、確固としたとした芯が穏やかに光るような、そんな穏やかさと揺るぎなさを感じずにいられません。
ところで、反響』には伊東静雄の自選集的な側面もあり、「わがひとに與ふる哀歌」以下の詩は、以前の3詩集から採録されたものです。ただし、作者自身の校訂が入り、順番なども変わっていますので、『わがひとに与ふる哀歌』『夏花』『春のいそぎ』も、ぜひ読んでみて欲しいと思います。作者の意志を尊重するならば、最終形だけでも良いと思われるかも知れませんが、最初の勢いというのは、形を抜きにして心を打つものがあると思います。
伊東静雄(いとう しずお)[1906-1953]について
- 長崎県諫早町(現、諫早市)に生まれる。京都帝国大学国文科卒業後、大阪府立住吉中学に就職。以後、生涯にわたって教員生活を続けた。「古今和歌集」など日本の古典文学に精通し、同時にリルケやヘルダーリンに傾倒した。
- 教員になってから詩作をはじめ、1933年(昭和8)保田与重郎によって文芸雑誌《コトギ》にまねかれ、「帰郷者」「曠野の歌」などを発表。萩原朔太郎らに激賞された。
- 第1詩集『わがひとに与ふる哀歌』(1935)で文芸汎論詩集賞、1941年、第2詩集『夏花』(1940)で第5回北村透谷文学賞を受賞。その後、日本的叙情への回帰が認められる、1943年の第3詩集『春のいそぎ』を経て、戦後に第4詩集『反響』(1946)を発表。しかし、1949年、肺結核を発病し、3年余の入院闘病生活ののち46歳で没した。
『反響』について
- 1946(昭和22)年11月、著者41歳の時に創元社から出版された第4詩集。「小さい手帖から」「わがひとに与ふる哀歌」「凝視と陶酔」「わが家はいよいよ小さい」の4部からなる。
- そのうち、「わがひとに与ふる哀歌」は、第1詩集『わがひとに与ふる哀歌』からの抄出部分。「凝視と陶酔」は第2詩集『夏花』の抄出部分に、「早春」「金星」「そんなに擬視めるな」の3篇を新たに加えたもの。「わが家はいよいよ小さい」は『夏花』中の「疾駆」と、第3詩集『春のいそぎ』の抄出部分からなる。
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